うさぎのつぶやき
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11年前の今日、未明の事。 その時間、私はまだ爆睡中だった。
急にドーンと言う音がしてその音に驚いて目が覚めるのと同時に部屋が 大きく揺れ始めた。 「きゃあァ」とも「うわァ〜」ともつかないような声を出した瞬間、隣に 寝ていた夫が「こっちに来いッ!!」と布団を開けてくれた。
私は、何とも言いがたい恐怖感の中「いやや〜〜ぁ!なにぃこれ!?」 そう言いながら布団の中に頭からもぐって、すくんでいた。
「だいぶ大きいなぁ…」そう呟いた夫の声に 「うん…」と答える声はブルブル震えていたのを覚えている。
少しおさまったので起き出してすぐにこわごわ下に降りてみた。 下には息子の部屋があったので、行って見たら割と落ち着いていて “何をワーワー騒いでるんや”とでも言わんばかりの顔で、「大丈夫や!」 と一言。
それから義父のところへ電話を入れた。 義父は同居していたのだが、毎朝信心しているお寺にお参りしていたので その時もお寺にいたのだ。 ところが電話しても呼び出し音ばかりでなかなか出ない。もしかしたら・・・ と不安がよぎる。 信者さん達が来る時間にはまだ少し早かったので、誰もいない所で何か の下敷きになっていたりしたら発見が遅れるし、まだ余震で揺れている事 も心配だった。しばらくしてやっと義父が電話口に。 「おじいちゃん、大丈夫?怪我とかしてへん?なかなか電話に出ぇへんか ら心配したよ。」 「ああ〜!凄かったなぁ。でも大丈夫やで〜、本堂の掃除をしていたから 電話の音に気がつかなんだ。」 広い本堂の掃除を毎朝欠かさず一人で続けている義父、神様のご利益が あったのだろう、全く無事だった。
(住んでいる家そのものも古いからだろうが) 余震は相変らず続いていて、しかもかなりの大きさだった。
義父に電話をした直後から電話が繋がらなくなったので、私はテレフォン カードを何枚か持って近くの公衆電話へ走った。
まず、娘のところに電話を。 当時、企業スポーツクラブに所属していて合宿所生活をしていた彼女は、 息子同様“何を騒いでるン?”といった調子で、「大丈夫!心配ないよ」 というのでまずは一安心。
次に、きっと心配しているだろうと思い田舎の両親にも電話をした。 「もしもしお母さん?私達大丈夫だからね。心配いらないよ。家の電話 も繋がらなくなってるから、きっと心配していると思って・・・。」 矢継ぎ早にそう言うと 「???どうしたん?、何かあったん?」と母。 「えッ!知らんの?さっきから凄い地震がしてるねん。神戸なんか酷い よ!」 「へェ〜、朝はテレビをつけないから・・・。そら知らんかった〜。」 「取りあえずこっちは心配ないからね。」と、呑気に答える母にそういう と受話器を置いた。
三番目は弟。 同じ大阪市内に住んでいたので、やはり気になったからだ。 長いコールの後にやっと出てきた弟は「大丈夫やった?」と心配する 私に 「う〜ん、何か揺れてたみたいやけど、明け方まで仕事してて終わって お風呂に入ってた。眠たいから寝るわ。」と、これ又呑気な事を言って 向こうから電話を切ってしまった。
その後、京都の従兄弟、同じ大阪に住む叔母二人にそれぞれ様子を聞き 合わせて無事を確認した後、友人達にも声を掛けたかったのだが、電話 ボックスの外にはもう何人もの人が並んでいたので、取りあえず受話器 を置いて家へ戻ることに。
家の周りはどの家も軒並み屋根瓦が落ちてきて、騒動になっている。 ご近所の人たちが出てきて「凄かったね〜、まだ揺れてるよ!」口々に そういいながら、お互いの無事やら被害を確認していた。
その前日、我が家ではちょっとした行事があったので何人もの方から大 きな花束を贈って頂き、あらゆるところに花瓶を置いて頂いたお花を飾 ったばかりだった。 その花瓶が皆ひっくり返って家中水浸し、仏壇の前は花瓶の水とこれ又 ひっくり返ってしまった線香立ての灰が混ざって悲惨な状態。
お陰で箪笥が倒れるとか水屋が倒れるなどの被害がなかったので、家の 中は取りあえず雑巾がけをするだけで済んだけれど、ずいぶん後になって ニャンコの姿が見えないことに気がついた。 どこにいったか分からず、呼んでも返事をしないし、もしかしたら家の 外に逃げ出したのかとも思ったけれど二匹とも外に出たことがないので それは考えにくく、暫く様子を見ることにした。
(結局2匹が出てきたのは夜になってから。みーちゃんは洗濯機の下に もぐりこんでひそんでいて、ヒロ君は息子の部屋の天袋の一番奥で同じ ようにひそんでいた。)
テレビでは時間が経つごとに被害が拡大していってる様で、その様子を 映し出していたし、私の住んでいる所では大した事はなかったが神戸は もうめちゃくちゃな状態の上に火災が広がり手の付けようがない、そん な感じだった。
お昼を回ってもまだ余震で揺れていたけれど、だんだん落ち着きを取り 戻すことができた。 テレビは相変らず悲惨な様子を映し出していたし、時間が立つにつれ 被害も拡大していくのが分かり、改めて地震の規模の大きさを認識した。
「私ね、何が怖いって地震ほど怖いものはないよ。」 それは阪神淡路大震災よりもずっと以前から言っていた事。 何というか地に足が着いていない感覚が襲ってくる。 逃げようの無い、とてつもない大きな物(自然)が覆いかぶさって来て 襲われるような・・・。 地震の時にいつも感じる自然の力、地球の大きさ。
こうやってキーボードを叩いている時でも、そのことを思うと背筋が 縮まる気配がする。
被害の大きかった神戸の方達の恐怖は計り知れないものがあるし、家族 を、大事な人を、友人をなくされた方達の悲しみは、どれほどの時間が 経っても消えるものではないだろう。
ただ、たくさんのものを失い傷ついたけれどそれによって生まれたもの。 それは自然発生的に起こった「ボランティア精神」。 それまで私たち日本人は隣組的な身近な人に対する助け合いの心は 持っていただろうけれど、見ず知らずの困っている人に対して手を 差し伸べる事はあまり無かったように思う。
でもあの震災のときはまるで違っていた。 何か私にできることは無いだろうか・・・、多くの人がそう思ったはず。 誰に言われたわけでもなく、“何かしなけりゃ”と言う気持ちが神戸に 向けられていたような気がする。
私たちの心に、はっきりと本当の意味での「ボランティア精神」が目覚 めたときだったのではないだろうか。
以来各地で災害が発生すると、その現場で働くボランティアの方達を しばしば目にする。
私にできることは何だろう。
昨日の日曜日、ちょっと暖かかったので久しぶりに土いじりをした。
例年になく寒い冬の為か、宿根の花達もなかなか顔を出してくれないし、
年末に忙しかったので、鉢の中は土が固くなってしまい、殺伐としていた。
根っこを壊さないように周りを少しほぐしたり、一年草の枯れたものを
処分したり・・・。
数年前にご近所のおばさんから
「あんたんとこ、いつも綺麗にしてるなァ、ここの前を通るのが楽しみ
やわ。毎日手入れをしてるけど、ヒマやなかったらここまででけへんわ
なァ。それに金持ちやなかったらこんなに次々にこうてこられへんし・・・」
と嫌味ともとれる言い方をされて以来、ちょっと買い控えるように
なったが、それでも季節ごとにフラワーショップの前を通ると、つい
何か欲しくなってしまう。
(決してお金持ちでも、ヒマをもてあましているわけでもない!。)
結局昨日買ったのは、
パコバ2鉢、ビオラ2鉢、ミニシクラメン1鉢、桜草(ピンク・白)2鉢
もっと欲しいところだけど、寒さがぶり返してくるとお花もかわいそう
だし痛んでしまうから、少なめにして計1500円のお買い物。
パコバとビオラ&ミニシクラメンをぺったん
2006年01月13日(金) |
◆今日の夕飯は・・・ |
久しぶりの「今夜の夕飯」といっても昨夜なんだけれども・・・。
出来立ての湯気がわかるかな〜?
先日母から大きな“日向かぼちゃ”が送られてきた。
立派だったので、切ってしまうのがもったいなくて射込み南京を作った。
くり貫いた中に詰めるのは
** 鶏ミンチ、玉葱、生椎茸、しめじ **
ハンバーグの手順と同じように、細かく刻んで混ぜ合わせ、つなぎで卵を
一個割り落とし後は塩コショウで味を調整する。
くり貫いたかぼちゃの内側に片栗粉を軽くふって詰めていく。
これをレンジでチン!
うちのレンジは献立によって分けられているので、ゆで野菜の“芋類”
にすると自動的に時間設定されるので手間が要らない。
その項目が無い場合は大体10分くらいかな?
適当な時間に竹串で真ん中辺りを突いてみてすんなり通ればもう大丈夫。
出来立てをマヨネーズをつけて召し上がれ〜。
それから豚汁を作ったので、ミンチの残りをボールにして一緒に入れて
食べたけど、とても美味しかった!
ヘアカラーリング、ヘアダイ、毛染め、白髪染め
色々呼び名はあるけれど、最近は女性に限らず男性も髪の毛を染めている
人がとても多い。
見た目にはわからないくらいの色に染めている人もたくさんいるようだ。
私は・・・。
アレルギー体質という事もあり、皮膚に何らかの影響がありそうなことは
極力やめている。
(パーマは必要に迫られて、というケースで年に数回行ってはいるが。)
生まれたときのまま、一度も染めた事が無い。
最近、随分白髪が増えてきた私は、同い年の友人から
「もっと自分を構ったらいいのに。白髪が増えると老けて見えるし」
そう言って事あるごとに毛染めを薦められて久しい。
顔を見るたびに「染めたら?」を繰り返す。
先日も「まだ染めてない!」と叱られた。
でも私は老けて見えようが、これで少しも不満ではないのだ。
生まれ持ったものを変えてまで見た目を良くしたいとは思わない、ただ
それだけの事・・・。
だからといってそれを批判するわけでは決して無い。
私自身の生き方として拘っているだけなのだから。
ただ、そういう言い方をすると頑なで冷たい感じの答えになるから
「アレルギー」を言い訳にしているようなものだ。
大事なのは外見より中身なんだよ!
この冬、暖冬との予報を翻し、厳冬となってしまった。
普段はさ程にも積雪を記録しない地方の方達も驚かれているだろう。
大阪では殆ど雪が降らず、年に1度積もるか積もらないかという状況
なので、やはり雪が降るとなるととても嬉しい思いがする。
小学6年の時、殆どの子供が雪を見たことが無いという事で、トラック
に何杯かの雪をどこからか運んできて校庭に撒かれた事があった。
誰がそうしてくれたのか、わからないけれども、とにかく雪を見たのは
そのときが初めてだった。
突然の雪に皆、校庭に積み上げられた雪の山に走り寄って嬌声を発し
雪遊びを楽しんだ。
私は両手いっぱいの雪で大きな雪玉を作り、ハンカチに包んで担任の
先生のところへ走っていった。
「先生ッ!ちょっと家に帰ってきてもいいですか?」
「雪を・・・雪をお母さんにも見せたいから・・・。お母さんも多分雪を
見た事がないんです!!。」
今と違ってのんびりとした時代、
例えば忘れ物をしても許可をもらって取りに帰るなどという事は日常的
な事だった気がする。
給食が終わったあとなら良いというお許しをもらった私は慌てて給食を
食べ、改めて雪玉を作り大急ぎで家まで走り帰った。
「おかあさんッ!!ハァハァ!!」
勢い込んで走ってきた私を見て母は驚いた様子だった。
「どうしたのみどりちゃん?!」
「おかあさん、雪!雪!」
母にも見せたかったことを話すと、
「ありがとうッ!お母さんも初めて見たよ!すごいねッ」
そう言って両手を広げると大事そうにとても嬉しそうに、もうすでに解け
始めた雪をのせ眺めていた。
「もう帰るねッ」
そう言って再び学校に戻った私は、母にいい事をしてあげたという満足感
でいっぱいだった事を覚えている。
先日、実家に電話をしたのだが、用件が済み雑談も終えそれじゃァと電話
を切ろうとしたら
「みどりちゃん待って!まだ話したいことがあるの。」
と母。
「何〜?」と聞いていると
「この間ねッ雪が降ったの!すごかったよ〜♪積もったんやから〜」
声もうきうきしている。
「お父さんが明け方、指先が痛くて眠れなくてね、もう起きてしまおう
と、5時頃に新聞を取りに外へ出たんだって、そしたらもう一面雪で
覆われていて、慌てて私を起こしにきたんよ。おいおい!!雪や雪や
ってね。2センチ位は積もっていたよッ!!。凄いやろ」
「まァあんなに積もったの初めてやわ〜!!そっちは降らんかった?」
大阪は年末に一度吹雪いたけど今年に入ってからは全く降る気配がない
事を告げると
「そうね〜。宮崎もあの日だけやったけど、でもなんか嬉しかったァ〜」
「そのことを言いたかったの。」
「それじゃァ、風邪ひかないようにね。」
そういって電話は切れた。
ふと
遠い昔、ハンカチに包んで持ち帰った雪玉のことを思い出してしまった。
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