ずいずいずっころばし
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2005年02月13日(日) 好文木に想う

愛犬の散歩にでかけるいつもの公園には早くも紅梅が咲き始めた。
梅は桜のようにはなやかでそしてはかない風情はない。
けれど白梅などはその気品に満ちた風情と馥郁とした香りがあたりを静謐にする。
去年美術館で観た「和漢朗詠集」の本物には冷泉家の当主の水茎も鮮やかな文字が印象に残った。
そこにはこうあった:

池のこおりの東風(とんとう)は 風渡って解く  窓の梅の北面は 雪 封(ほう)じて寒し
(藤原 篤茂 )

(立春のひ)東風が吹き渡って、池の氷も東の岸から解けはじめる。 だが、まだ冬の景色は残っていて、窓の外の梅は北側の枝など、 雪がかたく封じこめてなお寒い

寒さが残るなか、昔の人はこうもうたっている。
「梅一輪 一輪ほどのあたたかさ」

芭蕉の句、
「梅が香に 追ひもどさるる 寒さかな」
こうして春は三寒四温をくりかえしながら花に暦を教えるようにやってくる。

そう言えば梅の異名を知っている人は少ないのではなかろうか。
梅の異名を「好文木」と言う。
 この言葉はその昔、中国の皇帝が『文を好めば梅開き、学を廃すれば 梅閉づる』と云ったことからつけられた。
茶の道ではこの季節、梅の透かし模様のある棚を出してお茶を点てる。
好文棚
その名も「好文棚」と言う。そしてまた、特別の釜をだす。それは「吊り釜」。
天井から鎖をたらし、小振りの釜を吊って茶を点てる。
ゆらゆらわずかに揺れる小さな吊り釜を囲んで客と亭主(茶を点てる人のこと)が一期一会の一時を楽しむ。
釜からしゅんしゅんと湯がたぎる音(松風と呼ばれる)を聞きながら一服の茶を嗜むとき、俗世界をすっかり忘れ、自分さえも忘れる瞬間だ。
茶室にわずかに差し込む日の光が梅の透かし模様に陰をつくり、赤のすり漆が鈍い光沢を放つ。

つくばいの根方に植えてある我が家の紅梅はまだ咲いていない。
枯れ枝につがいのめじろが止まって「チチチ」と鳴いた。
春はまだだろうか・・・

日溜まりにたゆたう午後が静かに過ぎようとしている・・・


2004年12月30日(木) れんこんと柚子と鶴見和子

れんこんをお隣にお裾分けしたら、律儀にもすぐ「ゆず」やら何やらお返しにみえた。
お隣の奥様は年の頃は60代。珍しいものをいただいたときお裾分けをしたりする程度のおつきあい。
花友達でもある。塀際に植えた花やプランターの花に水やりをしているとき、花談義をする。
まちがっても近所のうわさ話などしない。本談義やら音楽談義もできるなかなかの人。

昨日は門の前で頂いたばかりの「ゆず」の袋をさげて小一時間も立ち話をしてしまった。
上野千鶴子さんの話をしたついでに鶴見和子さんの著書について水を向けてみると鶴見俊輔から水俣問題にいたるまで話題が広がってけんけん諤々。
打てば響く手応えに嬉しくなった。年の瀬だっていうのに女二人、寒風の吹きさらす中、鶴見和子の話で熱くなれるのだから嬉しいじゃないか!それも年代がかけ離れた母のような人と。

「おおさむっ!」と震えながら家に入って袋の中身を見ると、柚子の他に手指のクリームが入っていた。
「ピアノを弾く指をお大事に」と別れ際に言った言葉の意味がやっと分かった。
やさしい母のような心づかいに胸が熱くなった。

もしかしたらこのハンドクリームを渡したくて「ゆず」をくださったのかもしれない。
なぜなら「ゆず」はたったの3個しか入っていなかったもの・・・。


2004年12月16日(木) 「五衰の人」

水仙の花が高貴な香りを放って楚々として咲いている。

水仙の花というと三島由紀夫の「唯識説」を思い出す。それはこうだ:
世の中のあらゆる存在は、識すなわち心のはたらきによって表された仮の存在にすぎない。しかし、、それだけなら、単なる虚無になってしまう。一茎の水仙は、目で見、手で触れることによって存在する。だが眠っている間、人は枕もとの花瓶に活けた水仙の花を、夜もすがら一刹那一刹那に、その存在を確証しつづけることができるだろうか?人間の意識がことごとく眠っても、一茎の水仙とそれをめぐる世界は存在するのだろうか?

『暁の寺』では三島由紀夫は「世界は存在しなければならない」と何度も書いている。世界がすべての現象としての影にすぎず、認識の投影に他ならなかったら、世界は無であり存在しない。「しかし、世界は存在しなければならないのだ!」と繰り返す。

難しい陽明学をもとにした考え方なのだろうか?こんなことを考えながら日々を過ごしていた三島由紀夫という人物は早くから五衰の人となってしまっていたに違いない。

不可解。
水仙の花をみながらふとこんな小難しい文章を思い出した今日一日だった。

明日も今日も、あさっても単純に生きていくであろう私には虚無も実存もない。

三島由紀夫が「五衰の人」であるなら私は「午睡の人」である。


2004年06月15日(火) お願い

父親が不在がちだった私にとって父親という人物は謎だ。
今もって謎の人物。

父がアメリカから帰国した頃は、知らないおじさんが家にいるようで馴染めずむしろ嫌いな存在だった。
それは大好きな母を父親にとられてしまうようなきがして疎ましく嫌いになっていった。

それなのに父親の心を欲しがる私だった。
父を嫌悪し、心の奥ではその影を慕って、理解しようともがいた。

読書家だった父は常に本を読み、著述をした。
溢れかえる本と新聞の山を、古本屋のオヤジが3ヶ月に一度、トラックを乗りつけて山をさらって行った。

父を知りたくて、
席をはずしたときに父の読みさしのページをこっそりと読み、何を読んでいるのか、何を考えているのか知ろうとした。

きっと空白の時間とその心を私の心の中にとり込みたかったのだろう。

そして父も同じだった。
宿題をやりながら寝てしまった私のノートの間違い個所が、父の字で訂正されていたりした。

不器用な父と娘。

そんな父親が病気になって入院した。
父の体を熱いタオルで拭きながら少し痩せた背中を見たとき、私の中の「見知らぬ父」が消えた。
あんなに偉大で近寄りがたかった父はもうそこにはいなかった。

私のつっぱった気もちが瓦解してしまった。
世の中に突っ張って、父親に突っ張って、露悪的なまでに自暴自棄になった気持ちがすっかり失せてしまった。

父親なんかに頼るものか、今に見ておれ、超えてやる・・・・

謎の多い父親に理想の父を、理想の男像を描いてその影を追っていた私。

男友達をいつしか父と比較している私。

完全な父親コンプレックスだった。

そんな呪縛から解き放たれてみれば、良かったかと言うと、そうでもない。
むしろさみしく虚しい。

偶像なんて奴は心が勝手に生み出した蜃気楼。

男も女も、強く逞しく見えても、弱く女々しい部分をみな持っている。
また、弱く折れそうな柳も実はしなやかで安々とは折れたりはしないものだ。

亡くなってからのほうが日々父と心の中で対話することが多くなってきた。
あの沈黙は何だったのか?
あの時の苦悩の様子はこうだったのだろうかとか・・・
あの栄光の陰には人知れぬ努力があったのだろうかとか・・
こんな時はどうすべきだろうか?
などと自問自答する。

自分の中にいつのまにか父親が根付いている。
亡くなってから子供に与え残すことが多い父からの遺産。
死は悲しいことばかりではない。生前与えられなかった対話。心の中でいつもいつも父と対話する私。
死は人の心に死者を不老不死の者として生かすことなのかもしれない。
自らの心に静かに端座して深く思索を与えるもの。それが死者が残されたものに与える心の遺産なのだろう。

私が父にお願いしたかったたった一つのこと。


それはね、お父さん
よそんちの子みたいにね
お父さんと手をつないでね
その辺をぶらっとね
お散歩したかった
たったそれだけなの

たったそれだけをどうして生涯言えなかったのだろう・・・・・・・


2004年05月12日(水) 人間賛歌

人との会話の中でふとみせるその人の優しさや温かさに触れるとその日一日がほっこりとする。

それは犬の散歩で出逢う人との会話であったり、花に水やりしているときに話しかけてくる見ず知らずの人だったり、仕事のスタッフが人知れず見せる気遣いの優しさだったり、家族の何気ない言葉の中にひそむ愛情だったりする。

そんな言葉をそっと心の中で温めて転がすように味わうとき、「人間って本当に素敵だなあ」と思う。

九死に一生を得る大病をして退院してきた日。

隣の家の奥さんが車の中の私をみつけて駈けてきた。

やっと立ち上がる事が出来る程度だった私も車からでた。

奥さんは涙をいっぱい湛えた目をしばたかせて「退院出来て良かったわねえ」と抱きついた。

父も母も亡くなってしまった私は、赤の他人の隣人が涙してくれたことに胸が熱くなった。

隣近所、友人知人にも知らせていなかった入院だったのに、隣家の夫人だけは異常を聞き知って見舞いに駆けつけてくれた。

うるさいしがらみが嫌いな私だけれど、病室でそっと安堵の涙を流してくれたこの夫人の優しさだけは忘れがたい。

こころに何の邪さもなく語り合えることは私の人間賛歌に繋がる。

すべてをさらけだすのが良いとは思わないけれど、懐に飛び込んで虚心坦懐でいられる関係は素晴らしい。

一人の人間には悪も善もあるけれど、ほほえみの中に見える優しさを私は信じたい。

弱さも人間の魅力である。

はかなげに見えて万力のような強さを秘めている人もいる。

ふと見せる心のほころびに、その人の弱さや意気地なさや、もろさをみるとき、それは何の欠点でもありえない。

そっと抱きしめていつまでもそうしていたくなる。それは同情や寛容などでない。自分が抱きしめてもらいたいように、人も抱きしめたくなるものだ。

人はひとりでは生きられない。

信じあい、心より愛し合える人がいたなら、人はどこまでも強く空たかく飛べるものだ。


2004年05月11日(火) 「メソポタミアの姫君」

画廊にふらりと入ることが好き。

そんな私は数年前にふらりと入った画廊で今まで見たこともない品に眼と心がくぎづけになった。

それは光りを受けて虹色に輝いていた。

虹色と呼ぶ他に持ち合せる語彙がないのが悔しいくらいの色。

言葉で例えようのない神秘な色。

虹に金と銀のベールをかぶせたような色。

そのものの正体は「涙壷」

「ローマングラス」と呼ばれるものだった。

ローマン・グラス(RomanGlass)とは、

はるか遠く□一マ帝国時代に作られたガラスの総称。

古代メソポタミアではB.C.18世紀にはガラスの製作がおこなわれていた。

今日、我々が手にするローマン・グラスは、二干年の眠りから覚め、稀には芙しい虹色を帯びている。この虹色は銀化(iridescence)と呼ばれ、ローマン・グラスの魅力の一つとなっている。

この美しいローマングラスを何と売るという。

私は「涙壷」が欲しくなった。

色も形もそしてその名前「涙壷」に惹かれた。

その昔、戦場に出かけた夫を待つ妻が涙を貯めたという涙壷。

どんな歴史を秘めているのか涙壷!

値段を見て仰天!

私のお小遣いでは買えない!

それこそ私の悔し涙をこの壷に入れたいくらいだ!

泣く泣く断念。

その代わりその隣に展示してあったローマングラスの「かけら」を買う事にした。

そのうち、折りをみて、これをブローチに加工して胸に「古代ローマ」、はたまた「メソポタミア文明」を身にまとってみようという考え。

なんだか果てしもない時空をまとうようでメソポタミアの姫君になった気分になれそうだ。

土の中で長い時代という時を過ごしたローマングラスはいつのまにか土の成分と同化作用を起し、湿度気温などの影響を受けて、紫、緑,赤黄、金色、ピンクなどさまざまな色をまといその上に金と銀のベールをかけて姿をあらわした。

私の古代の宝物。

二干年の眠りから覚めた古代ローマの「かけら」。

私は買ったその破片に名前をつけた。

「メソポタミアの姫君」と。

さて、現実に戻るとして、

この混迷の地にいまだに深くねむっているであろうローマングラスもこのアメリカの爆撃で粉々に散ってしまったかもしれない。

その昔、戦場に出かけた夫を待つ妻が涙を貯めたという涙壷も。

今イラクの女達がかつての妻達のようにこの「涙壷」に涙を貯めたなら、幾つあってもたりない涙壷の山となることであろう。

そしてアメリカにいる妻達もしかり。

ふと思うに、

この小さな「涙壷」の存在は本当に涙を入れるものを意味しているのだろうか?

例え涙を入れたとしてもわずかな雫は渇いてしまって貯めることなどできえない。

これは女達の声なき声の象徴だったのではなかろうか?

即ちあの与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」、やシェイクスピアの「コリオレイラス」の妻ヴァージリアにみられる女達の声の象徴なのだろうと私は思うのだ。

つまり「死なずに帰ってきてね」と大きな声でいえない妻の心の吐露の現れであろう。

この後、何千年の時を経て、地球の土を掘ったなら、何がでてくるだろうか?

何も出てこないだろう。

愚かな人間達が繰り返し起こしてきた殺戮で粉々になった虚しいあの「沈黙の春」がそこにはあるだけだろう。


2004年05月10日(月) 王様の座布団

育った家に帰らなくなって久しい。

待つ人のいない家ほどさみしいものはない。

心から出迎えてくれる笑顔ほど嬉しく心に染みるものはない。

見慣れた日常のこまごま。

幼い日のスカートがいつのまにか座布団カバーに変身していたりする。

母のリフォーム作品には思い出とぬくもりで溢れている。

それはリビングにもキッチンにもどこにもかしこにも満ちていて温かい。

出来合いの新品のものにはない母の丹精がこめられている。

枕まで手製。

それぞれの好みと健康状態に合わせて高さや柔らかさを調節。そばがらを天日に干して詰める。

父の座布団はキングサイズ。ふかふかの王様気分になるような特別仕立て。

私はそれを「王様の座布団」と呼んだ。

不在がちな父だったけれど、その「王様の座布団」が茶の間にデンとあるだけで家族皆の心が落ち着いて、そこには居ないのに父はいつも「存在」するのだった。

母を喜ばせたくっていつも駄じゃれを飛ばせて母を笑わせた。つまらない本当に子供が考えそうな「冗談話」だったのに、母はのけぞって屈託なく「あははは」と笑ってくれた。

母の笑顔を見ると「ぽっ」と心が温かくなって私も笑う。すると母もまた笑ってそのうち二人共、何で笑っているのか分からなくなる。

「幸せ」というものがあるとしたら、それはきっとそんな笑い声の中から生まれてくるに違いない。

企業戦士だった父親はどこかの「おじさん」のようでなじめない。

そんな父親だけれど鉛筆を削ってくれる。

学校へ行って筆箱をあけると削りたての鉛筆の芯先が鋭角でない。

帰宅して文句を言うと「百合ちゃんの目に間違って刺さるといけないから先を落としておくんだよ」と言う。

「もう削ってくれなくていいわ!」とつっけんどんに答える私。

父親の精一杯の愛情も私には通じなかった。

そんなこんなの思い出の詰まった我が家には、もう待つ人もなく、庭池の水も澱んでしまった。

過ぎし日は帰らじ。

小学生の私が着ていたスカート。くるくるまわって母を笑わせたそのスカートは私の台所の「オーヴン・ミトン」(鍋つかみ)となった。

追憶のひとひらに舞う私のスカート。

母のリフォームの「オーヴン・ミトン」は台所の壁に掛かって今日も私を見ている。


2004年05月08日(土) 松の花

その昔、父親が突如職場に辞職届を叩き付けてやめてしまったことがあった。

子供三人かかえ、次の転職先もきまっていないのに辞めてしまうなんて短気と片づけるにはおさまらない暴挙だった。

やむにやまない事情があったにちがいないが・・無責任な父親の所業である。

しかし、母は文句一つ、愚痴ひとつこぼさず、父親の財布に有りったけのお金をたっぷり詰めて職探しにでかける父を明るく送り出した。

家庭はこれから逼迫の状況になるだろうに・・なぜそんなことを・・?

気持ちがひしゃげているときに懐まで寂しかったら背筋のぴーんと通った気骨ある男でいられなくなるでしょ…だとか。

やがて父親は日頃の活躍をかってくれていた人のひきで新しい職場につけた。

新しい職場で、父は水を得た魚のように働いた。

本業の他に文芸春秋に小さな文を書いたり、シナリオを書いたり、八面六臂の活躍ぶりだった。しかし、母の慎ましく質素な生活は少しも変わることがなかった。

母は聡明な人だったけれど学問はどれほどなのか考えたこともなかった。

しかし、次姉がアメリカ留学から帰国してじきのある日、姉の留守中にアメリカのボーイフレンドから国際電話がかかってきた。

電話にでた母はちょっと驚いた風な表情の後、見事な英語でしゃべりはじめた。

家中ひっくり返るほどの驚きが駆けめぐったことは言うまでもない。

またこんなこともあった。それは

夏休みに有島武郎の「ある女」を読了し終わった私は、感想を問わず語りに言いかけると「あ、葉子ね」と主人公について語りはじめてびっくりさせられたことがあった。

母は何ものなのだ?

いつも台所をコマネズミのように動き、朝から晩まで休むことをしらない母。

母の手は何年と水をくぐった荒れた手だった。

私は先日読んだ山本周五郎の「松の花」に、かつてないほどの深い感動を覚えた。

そこに「母は何ものなのだろう?」の答えをみた思いだった。

「松の花」は山本周五郎が己の魂をこめて妻の手向けに書いたものだった。

『主人公藤右衛門64歳は古今の誉れ高き女性達を録した「松の花」の稿本の校閲をしていた。そんな折、妻やす女が不治の病で臨終の床にいた。妻の末期の水を唇にとってやった籐右衛門は夜具の外にこぼれた妻の手を夜具に入れ直してやろうとしてはっとする。そのまだぬくみのある手は千石という豊かな禄を得る主婦の手ではなかった。ひどく荒れた甲、朝な夕な、水をつかい針を持ち、くりやに働く者と同じ手であった。なぜこんな荒れた手に?その疑問はやがて解明する。そして籐右衛門は「これほどのことに、どうして気がつかなかったのであろう。自分が無事にご奉公できたのも、陰にやす女の力があったからではないか、こんな身近なことが自分には分からなかった。妻が死ぬまで、自分はまるで違う妻しか知らなかったのだ」』

・ ・の述懐となり、「世に誉められるべき婦人達は誰にも知られず形に残ることもしないが柱を支える土台石となっている」とつぶやく。

これを読んで私は亡き母の手を思い出した。母の手も何十年と水をくぐった荒れた手だった。生前の母にねぎらいの言葉や感謝の言葉をかけることをしなかった父や子供の私。もしかしたらこの『松の花』のように母のことを何も知らないで過ぎてしまったのかもしれない。

一家を背負う父親の存在もさりながら、母という名のもと、その一人の女性の生き様と深い想いを身近な夫や子供がもしかしたら一番知らないのかもしれない。

亡き母のことを知らないですぎてしまったにちがいない・


2004年05月07日(金) バス停

優しさの表し方はさまざま。

例えば私の初恋の人。

そう。あの家庭教師の先生。

大学受験に合格した私は大学生に、先生は東大を卒業して社会人になり海外に赴任が決まった。

つまり家庭教師と生徒という繋がりも同時に卒業することになった。

その最後の日に私は生まれて初めて「デート」というものを先生とすることになった。

先生が大学合格祝いをして下さるという名目だった。

何もかもが初めてづくしの日だった。

ヒールのある靴を初めて履いた。

薄化粧も初めてした。

口紅は先生のお母様から頂いたものをつけた。

二人っきりで、しかも大好きな先生とお食事をするなんて考えただけで胸が一杯になる。

おいしい料理もろくろく喉に通らない程うわずってしまった私。それでもどうにかこうにか時が過ぎて帰宅時間になった。

バスに座るとそこへおばあさんが乗ってきた。

先生は自分の席を少しずらして空間をつくり、おばあさんに目で合図して「ここ、ここ」という風に座席を手でとんとんと叩いた。

おばあさんは「どうも」と言って座った。

席を立って譲る方法もあるけれど、私は先生のこの方法は双方にきづまりがなくとても心地よいと思った。

いかにも先生らしい何気ない優しさの方法だった。

最寄りのバス停の一つ前で先生は突然「ここで降りよう」と言った。

そこから私の家まで二人並んでゆっくりと歩いて帰った。

そう。一つ前で降りて歩けば、その分長く一緒にいられるわけだ。

相変わらず二人ともとりとめもない話をしながら歩いたけれど、このままずっと家にたどりつかなければ良いと願った。

そしてついに先生も私も言いたい「肝心の事(好きだ!)」を言えないままわが家に着いてしまった。

門の扉を開けた私はもうこれで先生とお別れだと思うと涙がでてしまった。

先生はじっと私の目を見つめて手に包みを渡した。

「僕が作ったペンダント。僕からのささやかなお祝い」と言った。

それは先生が軽井沢の窯場まで行って焼いた楽焼きだった。四つ葉のクローバーが手描きされていた。

あれから随分長い時が過ぎた。

バス停を一つ前でおりようと言ったあの一言は千語以上の胸の内を語っていたことを今になって知る私。

華やかでなく素朴で慎ましい手作りのペンダントはそれだけに心がこめられていていかにも先生らしかった。

あの日のバス停は淡い初恋の停留所でもあり、そこからどこまでも一緒に歩いていけそうな分岐点でもあった。


2004年05月06日(木) メンマと蟹パン

父は容貌が外人のようだった為、理髪店に入ると店員が「あ!外人だ、どうしよう」と言われたりして辟易していた。

そこで時々いたずらっけをだして終始英語で通したりする変な親父だった。

そうかと思うと(会社の帰りに時々おいしいクロワッサンを買って帰るのだけれど)パンやでは「蟹パンくれ!」と言う。

パン屋の店員は聞き返しもせずに見事にクロワッサンを包んでくれるからたいしたものだ。

確かにクロワッサンは蟹のような恰好をしている。

変と言えば先の床屋へ行くときは必ず「おい!髪床(かみどこ)へいってくる」とのたまう。

今時どこの世界に「髪床(かみどこ)」などという人がいるだろうか?

また自分の子供をまじめな顔をしてからかう変な親父でもあった。

ラーメンに入っているメンマをつまみあげて子供に講釈をたれる。

曰く:

メンマ(シナチク)は植物である。

どこに生えているか?

それはトイレのそばの日陰に生えている植物である。

くさいトイレであればあるほどそこで採れたシナチクは旨いのだ。

どれ、このシナチクを食べてみよう。ん!旨い!これは大分くさいトイレから採れたようだなあ。

そう真面目に言うので

子供の私や姉は「キャー」「気持ち悪い」と言って食べない。

すると「ではお父さんがたべてやろう」と言ってこどもからまきあげる。

※そう言えばこの(シナチク)は放送禁止用語らしい。HPでも使ってはいけないのだろうか?

ニュースステーション内で久米宏が

「ラーメン特集で、シナチクという発言があり、シナチクは中国を蔑視する言葉であり、

使用されておりません。正しくは、メンマです」

と言ったらしい。

今頃父は草葉の陰でくしゃみしているかもしれない。

まさかこんなところで親の話をぶちまけてるなんて夢にも思わなかっただろう。

もうすぐお盆。

怒りに出てきて下さい。

メンマと蟹パンを用意しておきますから。

え?もっとましなものを用意しておけって?

それは顔を見てからね。

ゆっくりつもる話でも致しましょう、お父さん!


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