ずいずいずっころばし
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2005年05月15日(日) |
「喫茶去(きっさこ)」 |
竹で編んだ朽ちかけた小さな扉を開けるとしっとりと露を含んだ飛び石が私を導いてくれた。
庭と呼ぶにはあまりにも狭いたたずまいだが、つくばいがあり風情があるひなびた趣を呈していた。
昔風な引き戸を開け声をかけてみた。
「ごめんください・・・」
目に飛び込んできた最初のものは真っ白な足袋。
白髪を品良く結い上げた着物姿の老婦人がでてきた。
それが私のお煎茶の師とのはじめての出会いであった。
人づてに聞いて訪ねたお茶の師匠の家。
それはあばら家と呼んでもよいくらい質素な家だった。
引っ越してまもない私は茶道の稽古を再開したいとおもい、茶道の師を探していたとき、ここを紹介されて訪ねたのだった。
老婦人は私の訪問の意を解すと、居ずまいを正してご挨拶下さった。
「あいにくではございますが、当方は茶道は茶道でも煎茶道をご教授しております」とおっしゃった。表千家の茶道を希望していたのにとんだ勘違いのお煎茶の師を訪問してしまったようだった。
しかし、この老婦人はこれも何かのご縁、「喫茶去(きっさこ)」と言う禅の言葉がございます。どうぞおあがりになってお茶でもお召し上がりくださいまうよう・・っと勧めてくださった。
「あばら家に鶴一羽」という風情のこの老婦人の凛とした、しかもただものではない立ち居振舞いに私は興味を惹かれ、言われるがままに上がった。
6帖間に煎茶の道具が置かれてあった。
見たこともない煎茶器の飾りつけだ。
涼炉と呼ばれる白泥でできた炉が置かれ、同じく白泥でできた湯燗、羽箒がセットされている。
老婦人が戸口で扇子を膝前においてご挨拶の口上を述べられ、お煎茶のお点前が始まった。
見るもの全てはじめてのことばかりで驚きながらも非常に興味ある光景だった。
出されたお茶は今まで飲んだこともないくらい甘露なものだった。
お茶がこんなにも甘く香り豊なものだったのだろうか?とおもわず目をつむって味わったほどだ。
茶たくは純錫で出来た蓮の葉型のもの。
お茶碗は何と古染付「大明制喜年製」(?)とあった。
明の時代のもの!!!!
急須は紫泥の美しい色の逸品だった。
何もかもが静かで凛として美しかった。
そしてこの老婦人の言葉のたおやかなこと!
美しい言葉。
家具らしきものとてない本当に草庵と呼ぶようなこの家にたった一人で煎茶三昧に暮れるこの鶴のように美しい老婦人はいったいどんな過去を持つ人なのだろうか。
私はもうすっかりこの老婦人のとりことなってしまい、以来煎茶道に励むに至った。
夏目漱石の草枕の中に、玉露の味について書いてある一節がある。
「濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へ一滴づつ落として味わってみるのは、閑人適意の韻事(暇な人間が気ままにやる風流)である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。舌頭へぽとりとのせて、清いものが四方へ散れば喉へ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たるにおいが食道から胃の中へ染み渡るのみである。歯を用いるのは卑しい.水はあまりに軽い。玉露に至ってはこまやかなること、淡水の境を脱して、あごを疲らすほどの硬さを知らず。結構な飲料である。眠れぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい」
とある。玉露の味わい方にしてけだし名言なり。
こうして私は茶道と煎茶道の二股の道を日夜歩み漱石の言う「閑人適意の韻事」にうつつをぬかし、恋をし、音楽をし、時には苦渋の悩みを背負い歩んでいる。
ひょいと迷い込むように訪ねた庵で禅の言葉「喫茶去」をこともなげに投げ掛けられた縁。
縁は異なもの味なもの。
それはあたかも「玉露」のような味。
※「喫茶去(きっさこ)」
中国の禅僧の鞘州という人が残した有名な禅の言葉。「お茶でも召しあがれ(喫茶去(きっさこ)」と主人はお客のためにお茶を用意してすすめます。お客もすなおに喫茶去とそのお茶を頂きます。喫茶去と客と主人が一つ心となったところに本当のお茶の味が生まれる。
父は不思議な人だった。
幼い私に李白の詩を読んで聞かせてひとりで頷くのだった。
私はどう聞いてもお経にしか聞こえない李白をBGMによそごとを考える。
ちょうど今頃の季節になると、独り静かに独酌しながら、これまた幼い私に「山中対酌」をつぶやいてみせる。
曰く:
「山中対酌」
両人対酌山花開 (両人対酌して山花ひらく)
一杯一杯復一杯 (一杯一杯 また一杯)
我酔欲眠卿且去 (我酔うて眠らんと欲す 君しばらくかえれ)
明朝有意抱琴来( 明朝 意あらば琴を抱いて来たれ)
つまり
山中誰にも邪魔されることなく 二人差し向かいで
いっぱいやっている。折から季節の花が咲き乱れ
ここは楽園のようだ。一杯一杯と杯を重ねる。
ああなんと気持ちのいいことか。いよいよ眠くなってきた。
君はしばし帰っていてくれ、私はこの眠りを楽しむ
こととしよう。そうだ、気が向いたら明日の朝、琴を
持ってもう一度きてくれ。今度は君の琴を聞きながら
いっぱいやろうじゃないか。
と、おかっぱ頭の女の子をつかまえて呪文のようなもの。
女ばかり三人の娘。きっと息子と酒を酌み交わすのが夢だったに違いない
気の毒なお父さん!こんなに美しく愛らしい娘でごめんなさい!(?)
しかし、三つ子の魂百までとはあな恐ろしや!こうして時々、花を酒のお供に庭を
眺めているとふと「一杯一杯また一杯、我酔うて眠らんと欲す・・」と言う句が私の口を
つく。
小学校の時、国語の時間に、知っている歌を一つ挙げてみろと言われ
「は〜い、先生!しらたまの歯に染みとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」
と言ってしまった私って酒精?
違いますとも!勿論「妖精」です!
さて、この辺でお酒の話しにふさわしい歌を挙げて締めくくりとしよう。
対酒(白楽天)
蝸牛角上争何事 (かぎゅうかくじょう何事か争う)
石火光中寄子此身 (せっかこうちゅう此の身を寄す)
随富随貧且歓楽( 富みに随い貧に随いしばらく歓楽す)
不開口笑是痴人( 口を開いて笑わざるは これちじん)
つまり
物事を大きな目で見ると、全く意味がないほど小さな事で
いったい何を争っているのか。まるでカタツムリの角の
上のことではないか。実に愚かだ。
人生は石火の如く過ぎ去り、そこに身を寄せるはかなさ。
お金持ちはお金持ち、貧乏は貧乏、分に応じて
とりあえずは酒を飲もう。
口を開いては悩み、悲しんだりするなんてバカげたこと。
大いに笑おうではないか!
まことに言い得て妙。父に献盃!
2005年05月13日(金) |
Habit is a second nature |
日本人が英語を学ぶとき、一番難しいのが前置詞と冠詞(不定冠詞)。
イギリスにいたとき、宿題の提出では必ずこの二つに朱を入れて直された。
なにしろ膨大な量の本や資料をよむだけでも一苦労なのに、それらをまとめて文にするとなるとお手上げ。
朝までかかってもまだまにあわず、朝食のパンをくわえながらまだ宿題を書いてる有様。それでもダメでついにママにチェックしてもらったことがあった。
ママも出勤前のお化粧中でファンデーションを半分塗りかけのところを捕まえて「ここをチェックして!」と頼んでやっとぎりぎりでまにあって提出。
ママは顔半分のファンデーションのまま出勤。
ところがである。返されたものは直された箇所ばっかり!
ネイティブが書いた英文でも訂正されるのだから、もう次からは自学自習に腹をきめることにした。
直され直され、学んでいくもの。
詩の授業のときはシェリーやキーツの詩をプリントされたものが配られる。「さ、各自読みなさい」と言われ、ぼんやり読んでいると「はい、回収」と先生が言うではないか!
「えぇぇぇぇぇぇ・・・私、まだ読み終わっていませ〜〜ん」という悲痛な声はかき消され、無慈悲にもかいしゅうされてしまった。
それからさらに悲惨な場面が展開!
次ぎに配られた詩の中の1行だけが書かれた紙切れがランダムにくばられる。
持ち時間の間にその詩のフレーズを使って自分で創作した詩を作れという。
みんなは各自さらさらとノートに創作詩を書いていく。
私は呆然!時間だけは刻々と過ぎていくので火事場の馬鹿力!
もうでたらめに思いつく端から英文を繰り出していくことにした。
もこうなったらシュール!
さらに悪い場面が。
「ではみなさんの詩を前にでて発表して下さい」というではないか。
私は服の襟首の中に頭ごと亀のようにひっこめたくなった。
どうか、あたりませんように・・・と祈っていると「はい!百合。読んで」
「あの〜〜。百合は腹痛の為、欠席です!」と自分で答えると爆笑の渦。
他の生徒は頭韻、脚韻を踏んでみごとな出来映え。
私は・・・・・・・・
あの短時間に優れた英詩を作ることが出来たら私は天才です!
今頃カズオイシグロに続く、英国の直木賞、ブッカー賞を受賞してますって!
英国国民の為に才能は襟首の中にひっこめて隠す事にしました。
え?もうそろそろ才能をだしてもいいのではないかって?
才能を襟首の中に引っ込ます習慣はもうすっかり習い性になってしまった私。
Habit is a second nature.と申します。
父はわが家では王様。と言っても暴君だったわけでもなく、自ら望んで王様の座についたわけでもない。威張るわけでもなく、いたって物静か。
母が父を王様に仕立て上げた。ご飯茶碗もお箸も湯飲み茶碗もおかずも、父親のそれらは特別だった。お刺身が大好きな父親のために母は毎日クーラーボックスを持ってバスを乗り継ぎ遠くの魚屋まで新鮮な魚を買いに行った。座布団は母の手作りのふかふかの大判座布団。テレビを観ながらごろりと横になるとこれまたごろ寝用ふとんが枕と共にさっと出る。
朝、新聞を読み始めるときりりと爽やかなお煎茶を淹れる。出勤の支度にズボンをはき、Yシャツの裾をズボンに入れようとするとさっとズボンのベルト部分を押さえ、ずり下がらないように持つ。父が「オッ」と言う暇(いとま)を与えずに持った手をはずすとぴしりとシワ一つなく、Yシャツはズボンの中に。
くわえたままのタバコの灰が落ちる寸前に灰皿がすっと出る。
すでにピカピカに磨かれてある靴を履くとすかさず靴べらを差し出す。
門のところで「いってらっしゃいませ」とお辞儀をすると居合わせた隣の奥さんまでつられて深々とお辞儀をしてしまう。
これらの流れが全てよどみなく何十年と繰り返された事柄。
家族一同見慣れた風景なので何の違和感もなく過ごしてきたルーティーン。
普通のおじさんである父親は会社ではおそらく下げたくない頭もさげざるを得ないことも多々あったであろう。しかし、ひとたびわが家へ帰ると心づくしの手料理と団らん、王様の座布団が待っている。
がみがみ口やかましく鞭を持って叩きそうな奥さんよりも、もしかしたら亭主操縦術にたけているのかもしれない。
こんな居心地の良い家庭を持っていたら亭主としたら世の中で誰よりも光って働かざるをえないのかもしれない。
してみるとこの王様の座布団は真綿で包まれた甘美で世にも厳しい叱咤激励の玉座なのかもしれない。
してみると母はなかなかの知恵者なのか?
いえいえ、そうは思いたくない。心から湧きいずる愛のなせるわざ!
あまり父親ばかりを優遇するのでひがんで「お母さんは何てったってお父さん命だもんね〜〜〜ぇぇ」とからかったりしたものだ。
しかしここで問題。
こうした母を見て育った娘三人は、はたしてどんな生活をしているのだろう?
それは聞かぬが花!言わぬが花!
ただ、一言付け加えるならば、
トランプには王様もいれば女王様もいることをそっとつけくわえておくとしよう。
おいしい野菜スープが出来た。
少しお裾分けとある人のところへ持っていった。
お気に入りの白磁のキャセロールに入れて持っていった。
日を置いて器を取りに行くと「ああ。あの器、割れちゃった」とあっさり言う。
内心ぎょっとして、返答につまっていると、
「あれ温めようとガスにかけたら割れちゃったのよ」と言う。
ひょえ〜〜〜〜〜〜〜!
陶器をそのまま火にかけたら割れるにきまっているじゃないか・・・・何という常識のなさ!
私はそのとき自分の顔がどんな表情をしていたか鏡をみなくても分かった。
「ナンタルチア、サンタルチア!」
紛れもなくこれは「惨たるちあ」ざんす!
しかし、元を正せば、おいしいスープを味わって頂こうという事だったので、怒るなんてことはお門違いのことなのだろう。誰にでもある「粗相」なのだから・・・
「しかし」・・・という但し書きが心の中に去来したことは確かなことだった。
私はふとお茶の稽古の時のことを思い出した。
お茶の師匠は普段の稽古でも名人が作った茶碗を惜しげもなく弟子に使わせる人だった。
あるとき、若いお弟子さんが名品と言われた楽茶碗を稽古の時に使用した。
楽茶碗は焼きが柔らかいので、扱いには気を遣わなければならない。
茶室でお点前がはじまり、そのお弟子さんがお茶碗を茶巾で拭いたとたん音もなく茶碗の口が欠けてしまった!
茶室にいたみんなは思わず「アッ」と声をあげた。
私はと言えば心の中で「あ〜ぁ!わっちゃった!」と叫んでいた。
すると「お怪我はございませんでしたか?」と先生がお弟子さんに駆け寄った。
若い弟子は「すみません!」と言って泣き出した。
何と言っても名物と言われる由緒ある茶碗だったのだから・・・
「陶器は割れる物。それよりお怪我がなくて良かったわ」と先生はそうおっしゃって割れ茶碗をさっさと片づけて、代え茶碗を持っていらっしゃった。
う〜ん。少し時が経てばそいう返答もあり得ただろうけれど、間髪を入れずに「お怪我はありませんでしたか?」と弟子の身を案じたとはさすがに師匠だと思った。
何かと難しい師匠だったけれど、さすがに人間の出来が違うと思った。
さて、話を戻そう。
陶器を火にかけて割ってしまった人に私は「お怪我はなさらなかったですか?」と咄嗟に言えただろうか?
う〜ん。やっぱり言えないわ。
心の中で
「ナンタルチア、惨たるちあ!」と叫ぶのが私!
器を割って知る、人の「器」の話。
青春とは
青春の詩(サムエル ウルマン)
青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう。薔薇の面差し、紅の唇しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。年を重ねただけど人は老はしない。理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増やすが、情熱を失えば心はしぼむ。苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥になる。六十歳であろうと、十六歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への深求心、人生への興味の歓喜がある。君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。人から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、二十歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にしていまだ巳む。 (作山宗久 訳)
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多くのトップビジネスマンに愛され続けたベストセラー詩として有名。
若さだけで、何も考えなかった私の青春は途方もない時間の無駄使いだった。
しかし、今になって考えると、人生にはそんな「時間の無駄使い」も必要なのかもしれない。
なぜなら、その後に待ちかまえている厳しい人生にはそのような贅沢な時の使い方はないのだから。
父は学生時代に働くことを禁じた。
世の中に出たら嫌でも働かなければならないのだから「遊べ。本を読め。生涯の友を作れ」と言った。
でも私はひものついた状態の犬は駆け回れないと思った。
ヴァージニア・ウルフが言うように経済的な独立があってはじめて精神の自立があると思った。
自分の力でお金を得た時、はじめてフレッシュな空気を胸深く呼吸できたように感じた。
何かから解き放たれた開放感と充実感。何でも自力で切り開いていけそうな意欲が全身にみなぎった。
さてさて、青春ということからいささか外れたけれど、「青春とはたくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。。」とサムエル ウルマンが詩っている。
さあらば、私はいつまでたっても青春真っ只中ということになろう。
さて、あなたの青春はいかに?
2005年05月09日(月) |
目には見えないけれどあるもの |
塾でアルバイト教師をしていたときのこと、一人の女の子が入塾してきた。
そのこの母親は心臓病で妊娠を禁じられていたのだけれど、命と引き替えにその子を出産した。そしてやがて亡くなってしまったという。
そんな妻が命と引き替えにしてまで産んだ子供をその夫は、後妻のいうがままに、独身の妹つまりそのこの叔母にあたる人に預けて遠方へ去っていってしまったという。
独身の叔母さんは助産婦をしながらそのこを育てた。
明るく元気一杯の女の子。勉強も良くでき、笑顔が愛くるしいこだった。
ある日塾が終わって後かたづけをしていたら、その叔母さんがやってきて風呂敷包みから重箱を出した。
「いつもお世話になりっぱなしで、ご挨拶もままならずに失礼しています」と丁寧なご挨拶。
「子供が大きくなったら先生のようになりたいと言ってはりきっています」と言う。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか」とにこにこする私。
「母親が生きていたらどんなにか喜ぶ事でしょう。今日はその母親が生前好きだったぼたもちを作ってきました。」と言って重箱を差し出した。
重箱の中身は大きな田舎風ぼたもちだった。
家に帰ってさっそく食べてみたら昔母が作ってくれた素朴なぼたもちと同じ味だった。
もち米を半突きして、つぶし餡がたっぷりからまったおいしい、おいしい、懐かしい母の味だった。時間と手間とたっぷりの愛情で出来た味だった。
食べ終わって、すぐに私は可愛い端きれで小さなポシェットを縫った。そのポシェットと一緒に重箱を女の子の家に返しに行った。
小さな露地を入るとその子の家があった。
ポシェットをみつけると、女の子は「わ〜い」と言ってうさぎのようにはねた。
「わ〜い」と言ってうさぎのようにはねたかったのは私も同じだった。思わぬ時に懐かしい母の味をいただけたのだもの。
こんな愛情たっぷりの叔母さんに育てられたその子はきっと幸せだ。
目に見えないものでも、心のなかにいつまでも灯(とも)る「灯」ってある。
そういう灯って不思議な灯なのだと思う。
さみしいときや、くじけそうになったときに心をあたためてくれるのもその灯。
心に邪な気持ちが沸いてきたときとか、捨て鉢になったとき、その灯が一瞬心をかすめる。
するとわずかのとまどいと共に「待て!」と自らを止めようとする声がする。
言葉にすると何か形のない漠としたものだけれど、小さくても、大風が吹いても消えることがない「灯火」のようなものがある。
母親も、父親もいない子だったけれど、生活するのに精一杯の叔母さんだったけれど、見えない灯がこの子の心にはともっている。 命とひきかえに産んだ母の愛情と、叔母さんの愛情が、見えないともし火となってこの子を温め育んでいる。
この世には目にはみえないけれど消えることのない灯火がある。
子供の頃、母の手のしわをこすったり、のばしたりしてみたことがあった。 両親が歳をとってから産まれた私だったので、友達の若い華やかなお母さんが羨ましかった。 出しゃばったり、自慢げな態度を恥としてきた母は、慎ましく、しかし、凛とした人だった。 母の親指はとても長かった。 それは手先が器用な証拠として裁縫が得意だった母は秘かにその親指の長さを誇りにしているようだった。 朝から晩までコマネズミのように良く家事をこなした母の手は「家事をする手」だった。 父が何かの業績で公に名をなしたことがあった。。 その記念にと母に翡翠の指輪を買った。 ダイヤでなく翡翠にしたのは、その神秘的な瑠璃色が指を美しくみせるからだった。 母は自分の贅沢のために貴金属を買うことはまれだった。 しかし、買うときは必ず記念になる理由をもっていた。 娘3人を持つ母は、それらの宝石をゆくゆくは娘等に譲る時のことを常に考えるのだった。 両親の記念の思い出や、その宝石にまつわる思い出と共にあることが、その宝石が単なる石、単なる宝石でなく、それ以上の付加価値を持つ物として娘等に代々伝わることに意義を見いだしていたのだった。
私にはその思い出の翡翠の指輪が母の遺品として譲渡された。 その翡翠の指輪をつけるたびに母は私に言ったものだった。 「翡翠はね、つけたとたんにどんな手指をも美しくしてくれるのよ」と。 そして少し荒れた手につけた指輪をみせて「ほらね」と言ってほほえむのだった。
しとやかで慎ましい母にその神秘な深い色は似合っていた。 しかし、あの微笑みは指が美しくみえたことへの喜びばかりではなかったような気がする。 父を陰ながらつつましく、ひたむきに支えた母があったからこそ、成し遂げた父の業績記念の指輪だったからではないだろうか?
家事労働に評価などなく、子供たちや夫から感謝の言葉もない報われない日々。 一人で大きくなったような態度で反抗ばかりする私に手こずった母。
そっとその指輪を出して指につけてみた。 まだ私には似合わないけれど、深い瑠璃の色は遠い母のあの日のほほえみをおもいださせてくれた。
宝石は思い出を持つとき、その美しさが冴え冴えと光彩を放つ。
優しさの表し方はさまざま。 例えば私の初恋の人。 そう。あの家庭教師の先生。 大学受験に合格した私は大学生に、先生は東大を卒業して社会人になり海外に赴任が決まった。 つまり家庭教師と生徒という繋がりも同時に卒業することになった。 その最後の日に私は生まれて初めて「デート」というものを先生とすることになった。 先生が大学合格祝いをして下さるという名目だった。 何もかもが初めてづくしの日だった。 ヒールのある靴を初めて履いた。 薄化粧も初めてした。 口紅は先生のお母様から頂いたものをつけた。 二人っきりで、しかも大好きな先生とお食事をするなんて考えただけで胸が一杯になる。 おいしい料理もろくろく喉に通らない程うわずってしまった私。それでもどうにかこうにか時が過ぎて帰宅時間になった。 バスに座るとそこへおばあさんが乗ってきた。 先生は自分の席を少しずらして空間をつくり、おばあさんに目で合図して「ここ、ここ」という風に座席を手でとんとんと叩いた。 おばあさんは「どうも」と言って座った。 席を立って譲る方法もあるけれど、私は先生のこの方法は双方にきづまりがなくとても心地よいと思った。 いかにも先生らしい何気ない優しさの方法だった。 最寄りのバス停の一つ前で先生は突然「ここで降りよう」と言った。
そこから私の家まで二人並んでゆっくりと歩いて帰った。 そう。一つ前で降りて歩けば、その分長く一緒にいられるわけだ。 相変わらず二人ともとりとめもない話をしながら歩いたけれど、このままずっと家にたどりつかなければ良いと願った。 そしてついに先生も私も言いたい「肝心の事(好きだ!)」を言えないままわが家に着いてしまった。 門の扉を開けた私はもうこれで先生とお別れだと思うと涙がでてしまった。 先生はじっと私の目を見つめて手に包みを渡した。 「僕が作ったペンダント。僕からのささやかなお祝い」と言った。 それは先生が軽井沢の窯場まで行って焼いた楽焼きだった。四つ葉のクローバーが手描きされていた。
あれから随分長い時が過ぎた。 バス停を一つ前でおりようと言ったあの一言は千語以上の胸の内を語っていたことを今になって知る私。 華やかでなく素朴で慎ましい手作りのペンダントはそれだけに心がこめられていていかにも先生らしかった。
あの日のバス停は淡い初恋の停留所でもあり、そこからどこまでも一緒に歩いていけそうな分岐点でもあった。
2005年05月05日(木) |
打てば響く太鼓の音色 |
機知に富んだ会話ほど魅力あるものはない。 なにげなく交わされる会話だからこそ、なおさらとっさの機知のひらめきが、その人の内面の奥行きがはかれるというもの。 昔の人でいえば、西行と遊女「江口」の会話の妙。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 男と女がある日雨宿りがきっかけで言葉を交わす。 女は目にも妖しき色香漂う遊女の風情。 男はというと男前の僧。 「遊女」の宿へ雨宿りを乞うた「僧」の物語。 さてどんな物語かというとこれはお能の中の一つ。「江口」という演目なのだ。女は遊女「江口の君」。男は誰あろうあの「西行法師」。 西行が天王寺参りの帰途、降り出した村雨を避けようと遊女の宿に立ち寄る。ところがここの宿の主(あるじ)でもある遊女は、こんなところで雨宿りは困ると西行を追い立てた。そこからが会話の妙の始まりだ。 西行はそんなに嫌がらなくても良いではないかと一首詠む。 「世の中を いとふまでこそ かたからめ かりの宿りを 惜しむ君かな」と。 すると遊女は笑ってこう返歌する。 「家を出づる人とし聞けばかりの宿に 心とむなぬと思ふばかりぞ」 とぴしゃりと筋の通った厳しい返答を返した。 法師だから断ったのにじゃらじゃらと甘えるんじゃないよと小気味よい遊女の気迫ある答えは白眉(はくび)。 遊女「江口の君」は才たけた美貌の人。元をただすと平資盛の娘。 平家没落後、落ちて落ちて、ついには、遊女にまで身を落とした人だった。 能では遊女「江口」は西行に一夜の宿を貸すが、「江口」の正体は普賢菩薩であり西行が気がつくと江口は白象に乗って白雲と共に西の空に消えていくという筋立てになっている。 実際は歌のやりとりのあまりの面白さに江口は西行を招き入れてもてなす。 才気に満ちた魅力的な西行と美しくこれまた才ある遊女「江口」の夜もすがら語りあかす感激は一期一会の法悦の極みだったであろう。 ---------------------------------------------------- そしてもう一つはあの太田道灌の山吹伝説があげられるだろう: ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけてにわか雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきた。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。 その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに 【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】 という歌があります。その娘は蓑(みの)ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。 驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この話は年端もいかない貧しい娘の深い教養の素晴らしさにある。 貧しいので傘(蓑)はありません。と言ってしまっては身も蓋もない。 貧しくとも口にだしてそれを言わずに歌に寄せるこの誇りと機知。 奇(く)しくも両方の逸話とも「雨」が元。 西行と遊女「江口」の場合は打てば響く会話の妙。 こんな軽妙洒脱なやりとりは相手あってのこと。 太田道灌のように歌の意味を知らなければ折角の機知もからぶりに終わってしまう。世に座談の名手と言われる人がいる。 例えば英文学者の渡部昇一氏。 その博識多才に裏打ちされた会話は座談の相手が、打てば響く相手であるからこそ互いが光りあうというもの。 一方が輝くだけでは暗闇の中のダイヤモンドと同じ。 光源と対象があってこそ光あうというもの。 黙っていても、惹かれ合う関係というものがある。 それは互いの関心事、価値観、ある種の匂いのようなものが同じでそこに響き合うように惹かれていく。 そんな二人が探し求め合っているとき、ある日突然姿を発見する。 それはまるで長年さがしていた恋しい相手に出逢ったときのような瞬間。
西行と遊女「江口」が交わし合った歌で、お互いが驚きと歓喜に打たれた瞬間だったのではなかろうか? 落ちぶれた零落の遊女が名高い歌人の西行に勝るとも劣らない歌でぴしゃりと答えた瞬間。 そしてその丁々発止の歌のやり取りのなかに互いの魅力の深みを量り合ったのではなかろうか?
そんなやりとりが出来る魅力を自分の中に持たない限りはそんな相手にも恵まれないということになろう。 人生は長いようで短い。
そんな一生の中で打てば響く会話の妙を味わいたいものだ。 磨け、磨け 私! 響いて鳴ってくれる人はいずこ?
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