ずいずいずっころばし
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2005年05月28日(土) サンクチュアリ

自分の部屋にいると落ち着いて色々な世界が広がり湧いてくるような気がする。
小さな狭い部屋である。おまけに雑然としている。しかもうるさい。ジャズががんがん聞こえたり、クラシックの調べが聞こえたり、髪の毛振り乱してピアノを弾いていたりする私がいる。無線機から外国語がピーピー、ギャーギャ、ノイズと共に聞こえたりもする。
夜中にそっとこの部屋を覗くと、あんどんの油をなめていたり、包丁をといでいたり、鶴が機を織っていたりする・・なーんてことあるわけない。
しかし不思議な素敵な部屋だと私だけが思っている。
設計段階ではこの部屋は小間の茶室になるところだった。天井も凝って、がまで組んだかけこみ天井とするか、編み込み模様のような網代天井にする予定だった。
しかし、最後の段階で私がその計画をひっくりかえした。
一言。「書庫にしよう!」
私の一言は雅な茶室計画をくつがえしてしまった。
三度のご飯より本が好きな私は書庫を持つのが夢だった。そしてついに書庫となり、ピアノルームとなり、無線室となりパソコンルームと化した。いつしか誰ものぞかない、足を踏み込まないサンクチュアリとなった。
無線機の前に座って海外の局とおしゃべりを楽しむ。ヨーロッパの局が束になって呼んでくる。
それが済むと江戸期の祇園南海の「詩画の歌」を読む。曰く、「詩の云う能(あた)わざる所以をもってその体を尽くし、画写すあたわざる所、詩もってその解を得る」
さっぱりわからない。どうやら「三体詩」についてのべているような・・・。
あれ?またまた面白い詩を見つけた。
Coleridgeの“Ancient Mariner”だ。

The horned Moon、with one bright star
Within the nether tip.
三日月の下弦のうちに、
星ひとつ照る。

科学者から否定されそうな句である。
しかも奇々怪々な言葉に満ちている。
このAncient Marinerにおいては骸骨船が海を走り、その上に立つ「死」の肋骨を通して夕日が見えるとある。
Coleridgeが描く世界は超自然的で奇抜で大胆なところが好きだ。

They hear, see, speak,
And into loud discoveries break
As loud as blood.

この詩について誰かと話してみたいなあ…・
などととりとめもなくこのサンクチュアリで独りごちる。
さて、
サンクチュアリとひとからげに言ってしまったけれど、それはいったい何だろうか?
人は日々雑駁に過ごす中、静かに内なる声を温め、熟成させる時と空間が欲しくなるものだ。それは沈思黙考の中から見いだすことも有れば、書物の人となっているときにでも、それらに自らを投影し、その打ち返す波のなかに自己を見いだすこともある。
サンクチュアリとはそんな自らを見つめる空間のことなのだろう。
静かな時のまにまに漂って、なにものにも犯されない時空のたゆたい。
雑然とした小さな私の書庫というサンクチュアリから今日も発信する。
「何か素敵な本はありませんか?」と


2005年05月26日(木) 能の裏話

お能の稽古に通い出してから何年経つだろうか?

中断してはまた通い、通い、して久しい。

稽古するには遅まきなスタートだったかもしれない。

高校に「謡曲」クラブがあり、そこで謡曲と仕舞いを始めたのがきっかっけだった。

クラブ員はおおむね子供の頃より家族共々稽古に通っていたという連中が多かったような気がする。

私の両親、特に母は幼少の頃から宝生流に師事しており、父は結婚後母の影響で同じ派に所属していた。

私はそんな両親に逆らって観世流。

違いなど分からないまま、ただ逆らってみただけだった。

今は稽古場を3箇所も通っている。

一箇所は集団で稽古するカルチャーセンターのような所。(月に2回だけの稽古)

ここは個人で稽古をつけてもらえないが、兎に角先生が素晴らしくてやめられない。

名人がかならずしも良い指導者とは限らない。

このカルチャーセンターの先生は中堅どころの先生だけれど、教え方がぴか一!

苦労して習得した人だけに、素人の私達がどうして出来ないのかを良く心得ていて、憎いばかりに的を得た指導で私は涙がでそうになるくらい納得してマスターして先に進めるのが嬉しい。また、素人が到底しりようのない伝統の世界の裏話、能舞台での苦労話, 芸談義などが聞けて、面白くて、やめる人は皆無と言って良い。

この稽古が済むと昼御飯をそそくさと済ませ、バスを乗り継いで次ぎの稽古場へ向かう。

そこは、おおだなの呉服屋の2階。

百畳敷きの広い所で一人づつ稽古をつけてもらう。先生はこの道では画期的な女性能楽師。

中年になろうとしている凛とした人だが、名人の誉れ高い人。

能に生涯を捧げて独身。

1階にいると階上の師の謡いの声がガラス窓をびりびりと鳴らせて今にも割れそうなすごさだ。

稽古はとにかく厳しい。

なぜか私の仕舞いの稽古には厳しさが並のものではなく、音をあげそうになったり、泣きべそかきそうになる。

しかし、稽古を待つ間、弟子の一人であるおばさまがお抹茶を点ててくださり、おいしい御菓子が頂けて嬉しい。

食い意地の張っている私は実はなにを隠そう、このひとときが大好き。

お弟子さんはご高齢の方が多く、謡曲歴数十年という人ばかり。私は超若手で皆に可愛いがられていて幸せ。

しかもこの待ち時間に貴重なお話を弟子の長老方から聞けるのでゆめゆめ耳をおろそかには出来ないのである。

古老方は教えたがり!

待ち時間に能の鑑賞の仕方、名人の芸についてぼそぼそ語ってくださる。

私は御菓子に半分気を取られながら半分の注意を半分の耳で聞く。

その話しの中でも白眉なものは「橋懸り」について。

能舞台で能役者が出てくる橋のような場所を「橋懸り」と呼ぶ。

私は能鑑賞するとき、「あ!いよいよ登場だわ!」などときゃぴきゃぴしているだけだが、この長老は名人はその橋懸りを1歩出た瞬間に分かるとおっしゃる。

その1歩に若い女か翁か、もののふか、年齢や心情すべてが込められているからそこを見なければならないとのたまう。

そうかぁ・・・知らなかった・・・

っと私はそこで始めて能の深さを学ぶのであった。

また、たかだか素人の稽古とあなどっていてはいけないという場面に遭遇したことがある。

それはこの長老が先生に「影清」という重習いを習っていた時に起きた。

私はまたまた恥ずかしながらおいしい御菓子を口に頬張ってにんまりしていた時、突如、高弟の一人のおば様が忍ぶようにすすり泣きをしたのであった。

稽古と言ってもさすがに長老はすでに枯淡の息に達しており、稽古と言っても全霊をこめて「影清」を演じていたのである。

年齢もこの平家の流人、悪名高い「悪七兵衛影清(あくしちびょうえかげきよ)」の年齢と同じ。

さて演目をかいつまんで説明すると、盲目になったかつての勇将、影清が九州日向の地にて、見る影もなく老いさらばえてあばらやに住んでいる。そこへ鎌倉に住む娘が訪ねてくる場面。

要約すると、過去を封印して生きている昔の武将「影清」が思いがけなくも現われた娘を前にしての心の動揺を描いたもの。

封印していた過去(屋島の合戦で敵将三保の谷との力戦の顛末)を娘に心をこめてじかに語り明かすことで強い「父」を与え,自らは独り盲目のまま辺地に留まることを選ぶ。

この甘えのない非情とも言えるかたくなさ、自己抑制の見事さがみどころ。

語ることによって、勇ましい合戦での強い武将の父の像を娘の胸に焼きつかせる。

しかし、現実は盲目の老いさらばえた乞食となっている悲惨。

この対比のすごさが演じての技とも言えるかもしれない。

強い父を娘の胸に焼きつかせることで草庵独居の盲目の淋しさを決してみせようとしない「父」のかたくなな誇り。

たけだけしい過去、現在の零落した盲目の孤独、娘への父としての心情。

これらを演じるのは枯淡の境地に達した名人でなければ、出せないものである。

話しを前にもどすとしよう、

この有名な「影清」を稽古する弟子の長老の謡いは、今まさにお茶を淹れ様としていた瞬間の高弟のおば様の胸に感動を呼び起こしたのである・

老いた影清の心情を想い

そして哀感のこもった謡いの素晴らしさに

おばさまは忍ぶようにすすり泣いた。

あたりにいた弟子達も落涙。

素人が稽古で喚起した感動。

芸の素晴らしさがそこにあった。

素人、玄人の垣ねなど超えた感動。

私は体が震えて声がでなくなった。

忘れ得ぬ稽古だった。


2005年05月25日(水) お茶の話

子供の頃から客人がお見えになるとお茶だしをするのは私の役割だった。

年の離れた姉たちに半ば強制され、嫌な役割を押しつけられたからだった。

母が客間で接客している間、洋菓子を出すか、和菓子を出すか考える。

お客様のランク付けも自分で考える。

ちょっと寄っただけの客か、父の重要な客か、知己かなど。

それによって紅茶、コーヒー、ジュース、煎茶、玉露か等を決める。

和菓子となると虎屋の羊羹などを漆の菓子皿にくろもじを添えて厚めに切ってだす。

虎屋の黒餡の羊羹が大好きな私は残り少なくなると後で自分にまわってこないといけないので、客にはださず、私の嫌いな抹茶羊羹を出す。

ケーキも私の好みのケーキは客にださず、バームクーヘンをこれでもかとばかりに厚く切って客に出す。

でも大好きなケーキしかなく、しかもそれがわずかしかないときなどは、泣く泣くそのケーキを客にだす。いつもはお出ししたらすぐに引っ込む私だけれど、そんな時はそばに立って客が食べてしまうのを恨めしそうな目で眺めているので客もそんな視線に気が付くのか食べずに帰っていく。

さもしい根性の私は後で母にこっぴどく叱られる。

「もう二度とお茶出しなんかしないもん!」と言ってスカートの端を噛みながら泣きべそをかく。

客人はジャーナリスト関係の人が多く、お茶を出す私をつかまえちゃあ、ああでもない、こうでもない、誰それに似ている、似ていないと品定めをしていく。

ある日、玄関に客が来て応接間にいつもの通りお通しした。

「あの〜。お名前をうけたまわりたいのですが?」と母にいつも教えられている通りに言うとその人は「お嬢ちゃん、僕の名前は「すーさん」ですと言えば分かるよ」とおっしゃる。

きまじめな私は母に後で叱られないようにしっつこく食い下がって「あのー。どちらのすーさんですか?」と大人びて言ってみた。

するといたずら好きのこの人はこういった。

「助平のす〜さんだよ、お嬢ちゃん」

私は忘れないように「すけべえのすーさん、すけべえのすーさん」とお経のように暗記しながら、奥へ入って母の顔を見たらほっとして、家中に聞こえるような大声で「すけべえ〜のすーさん」がいらっしゃいました〜〜〜ぁ。と言った。

その後母はしばらく客間に行かなかった。

行かなかったのでなく、行けなかったのだった。

どんな顔をして出ていって良いやら分からなかったのだろう。

子供にお茶だしをさせるからこんなことになるのよ。

以後、私はお茶だし係りから放免された。

番茶もでばなの年頃になっても、私の出番はまわってこなかった。

(*^_^*)

つまり古い言葉で言えば「お茶をひく」ことになったのである。

そうか、それでこの年になってこんなところで「ちゃ、ちゃ」をいれてるのね。(^_-)(^-^)(~o~)


2005年05月24日(火) 心の闇

人間の心の闇ほどわからぬものはない。

病的に底意地の悪い人がいる。

病的と言ったけれど、厳密に言うなら病気なのかもしれない。

昨日の日記にも書いたけれど、美の感じ方は人それぞれ。

絵画でも、音楽でも、文学でもしかり。

前々回の(?)芥川賞受賞作品では、あまりの暴力シーンに嘔吐しかけた。

本を読んでいて嘔吐しそうになったのは生まれて初めてのことだった。ついには完読できず、放擲した。

絶賛する人もいれば、完読すらできない私のようなものもいる。

以前書評に書いた野見山暁治氏の絵画展に行ったときも、私はその絵に心を揺さぶられたけれど、一緒に見に行ったものは抽象過ぎて分からないと言って出ていってしまった。

つまり世の中には二分の一ばかりでなく三分の一のようにどこまで行っても割り切れない数の存在はある。

精神分析医が数十枚の分析カルテ分を母は一瞬のうちに読みとってしまう。「ただいまー」と言って玄関を入ってきた瞬間、夫や子供の心を読んでしまう魔術。

それはコンピューターにも分析できない愛情というもののなせるわざなのだろう。

しかし、この「心」。

全ての人が読みとれたらどんなに恐ろしいことか。透視できないからなりたつ人と人。

それは「信頼」というものの存在が心を読もうとしなくても人と人を結びつけるもの。

しかし、人間ほど複雑怪奇なものはない。

知っていると思っても知らない「心の闇」がある。

あの東電OL事件のように、一流大学を出、一流企業に勤める堅実な家庭の子女が夜の巷に立って春をひさぐ怪。お金に困るわけでもなく、男性にもてないわけでもない。

まさに「心の闇」。

さて、話が拡大して収拾がつかなくなってきた。

先を急ごう。

話とは実はこんなことなのだ。

花を一輪活けた。

野にあるように、一輪挿しに侘びた花を活けるのが好きな私。

いけおえて花を愛でていたら、ついっとそばを通る者がいた。

通りしなに、「トイレの花!」と捨てぜりふ。

しばらくして、私の一輪を「ぐいっ」と抜きさると、いつのまにか持ってきた花器に「花はこのように活けるものよ」と豪華な花を活けはじめた。

いけおわって会心の笑みをもらしながら「ね。素敵でしょ!」と言った。

それが豪華で素敵であっても、花の腕前が私よりはるかに勝るものであっても、その「心」が私には恐ろしかった。

なぜここまで人の心を踏みにじらなければならないのか?

この人の「心の闇」に触れた思いがして寒気がした。

分析すれば思い当たることもあるだろうけれど、この「心」をどうすることもできない。

闇は闇を底なし沼にずぶずぶと深くするばかりだ。

この場合、一輪挿しの美と豪華な花の美の差などではない。前述したような美的感覚の差うんぬんなどでは決してない。

人間は生きて行く過程で様々なものをなくし、様々なものを得る。

喧嘩をし、悪行もするだろう、嘘もつき、罵詈雑言を吐くこともある。

人を傷つけ、自らも傷ついて生きていく。

人の行為をあしざまにののしろうとすると、母は必ずこういった。

「人の振りみて我が振りなおせ」と。

心に鬼を住まわせないことだ。

他人の行為に自分の中にもあるものを見ることがある。

しかし、私の花を捨てて豪華な花を活け直した人の心を理解することは難しい。

怒りを通り越して、苦々しくやりきれない寂しさに返す言葉もなかった。

凍り付くような心の荒涼がその笑顔に貼り付いていた。

人間が大好きな私でも、時々この「心の闇」の暗渠(あんきょ)に足を取られて立ちすくむ。

小説家はこんな不可解な部分に光をあてるのだろう。しかし、人の世は「小説よりも奇なり」の部分が多い。

カラヴァジョの絵のように光源がひときわ明るいところは影もまた深いのである。


2005年05月23日(月) 本あれこれ

供の頃、父親があらゆる新聞、雑誌、書籍に目を通す仕事をしていた関係で家の納戸には処分すべくこれらの書籍がうずたかく積まれていた。

何ヶ月かごとに古本屋がトラックでこれらを集積していく。

一応儀礼的に書籍は古本屋のおやじが値踏みして吟味する。

子供向けの雑誌もそのなかに含まれていた。

誰よりもはやくこうした子供雑誌を読める幸せに浴した私であるけれども、同時にその至福のタネであった雑誌をこのおやじが無慈悲にも持っていってしまう憂き目にもあうのであった。

子供雑誌についている付録をこっそり隠しておくと、このおやじはするどく見抜いて、「お嬢ちゃん、確かこの本には付録がついていますよね」と言って、じろりと睨む。

母が「はやく付録を出しなさい」と迫る。

無慈悲にトラックに積まれた私の愛読書を「シェーン!カムバック!」とばかりに毎度毎度、涙声が追うのであった。(シェーンは古いっつうの!)

またあるときは、おかっぱ頭の私と父が並んでヌード雑誌を見ることもあった。

父親がこの種の本が好きであったわけではない。ありとあらゆる本に目を通さなければならなかったからだ。(っと信ずる私)

また少しもいやらしさのない裸ではあった。

幼い私は「お父さん、こっちの裸より、こっちのほうが綺麗よ」と言うと、父が「そうだなあ」などと言い合って似たような後ろ姿の親子がそこにはあった。

全く奇妙な光景だ。

そうかと思うと書きかけのシナリオをそのままに席を離れた父を目の端に置いて、そっとそれを盗み見したことがあった。それからほどなくしたある日、学校から映画を見に行ったことがあった。

気が付くとそれはあの盗み見した父のシナリオの映画だった。友人に「この話お父さんが作ったのよ」と言うと友達に信じて貰えなかったばかりか仲間はずれにされてしまった。

父はシナリオライターでもなんでもないのに不思議なことであった。



おてんばで体育会系の次姉は本嫌い。

おとなしく読書好きの妹がなぜか小憎らしく思うらしい姉は誕生日プレゼントに貰った本をどこかに隠してしまった。

悔し泣きをして降参するのをひそかに楽しみにしていた姉。

こんな意地悪にまけてはならじとじっとこらえてそしらぬふりをした私。

それから何年も経った大晦日の昼下がり、額のほこりを払おうとして絵をはずすとばたりと本が落ちた。

あの時の誕生日プレゼント「小公子」だった。

大学生になった姉にボーイフレンドが出来た。

文学好きのハンサムボーイ。

デートの話題は本のことばかりだったとか。

読書が何より嫌いな姉は困って私になきついた。数冊の本の名前を列挙してそのほんの内容と感想を聞かせてくれと言う。実は次回のデートのときにその本の話をしようねと言って別れたとか。

おやすいご用!熱を入れて解説し、感想をつけて、おまけにそれらに付随するエッセイまで紹介した。

デートは予想外に好転。「君がこんなに文学にあかるいとは思っても見なかったよ」と感激した彼はわが家に次回やってくるというところまで進展。

その後の姉と彼氏はどうなったかは聞かぬが花。言わぬが花。

本についてのエピソードは尽きないわが家。

めでたくもあり、めでたくもなし。


2005年05月22日(日) “昔を今になすよしもがな”

「ふたりしずか」の花の風情が時々まぶたに浮かぶ。

そして、能「二人静」の謡いを思い出す。

「しづやしづ 賎(しづ)の苧環(おだまき)くりかへし 昔を今になすよしもがな・・・」

と静御前が別れて暮らす義経を恋 慕いながらも敵の目の前で舞いを舞いながら歌う。

“昔を今になすよしもがな”

あの日に帰れるすべがあるのなら・・・

私は何をするだろうか・・・

野の花に心を寄せ、露がたまを結んだ草のしとねに横たわりながら、心静かに月の光を浴びる時、過ぎ越し方と、恋しい人を想う。

誰かがこんな事を言った。

「月や星、花がやたらにきれいに見える時って、何かすごく悲しいことがあるときだって」

そうかもしれないと思った。

人は恋をするとき、あるいは悲しみにくれるとき、月を仰ぎ、花にものを想う。

それは恋しさゆえだったり、悲しみだったりが、人に月を仰がせ、花に心を寄せ、自らを投影させるのだろう。

ひなびた当地に来てからどれだけ月を仰いだことか

名もなき花にどれだけ心を寄せたことだろう

書庫から亡き父の「能百番集」を出してきた。

稽古で使い込まれたため、表紙はぼろぼろ、紙は茶色に変色している。

稽古したものには鉛筆で印がつけられていた。

「二人静」をあけてみた。

「ページ」の変わりに「丁」とある。

367丁(367ページ)、

「二人静」世阿弥元清作

最後のくだりの地謡:

「物ごとに憂き世のならひなればと、思ふばかりぞ山桜、雪に吹きなす花の松風・・」

(何かにつけて憂いことの多いのはこの世の習い、だからしかたのないことと思うばかりなのだ、ちょうど山の桜が松風によって花の雪と吹き散らされるように・・)とある。

私も憂き世に咲くあだ花か?

いずれ風に飛ばされ散ってしまうのだろうか?

心静かに花を愛で、泡立つような熱情の焔(ほむら)がほこを治める今、

ざわざわと浮き立つ、あの獣の匂いのする青き春が懐かしい。

夏だというのに小寒い夜更け。

夜の帳(とばり)は感傷にひたるには恰好の緞帳。

朝がくればこの感傷の緞帳は輝ける朝日にかき消されてしまうことだろう。

「日はまた昇る」のだもの・・・


2005年05月20日(金) 自分だけの色

父と私はほとんどまともに一対一の会話をかわしたことがない。
それは、父が海外赴任で不在期間が長かったり、企業戦士としていつも疲れていたからだった。
だから、よその家の子のように父親にまとわりついて甘えたこともない。

幼稚園の時から絵画教室に通っていた。男の先生だった。まあるい黒い瞳が澄んで、ひとなっつっこい目が笑っていた。一目で先生が好きになった。先生が絵を直してくださっている間に背中におぶさったり、首にかじりついてもにこにこして叱ることがなかった。

私は男の人の大きな背中の温かさをはじめて知った。それから8年間、絵画教室にはほとんど休まず通った。相も変わらず先生が絵を直してくださっている間中、首にかじりついたり、おぶさったまま先生の注意を聞いていたのだった。

ある日先生は「ゆりちゃん、自分だけの色をみつけなさい」と言った。

「誰にもマネできない自分だけの色を見つけるんだよ」と言って、画用紙にパステルで様々な色を重ねるよう言った。重ねた色の上からクギで絵を描くのだ。エッチングの練習だった。

日々色を重ねる内に不思議な色調が表れた。先生は非常に喜んで「いい色だ!ゆりちゃんの色だ!」といった。柔らかな青みがかったグレーとでもいおうか…

それからそれを背景色に使ったり、様々な試みをするようになった。

自分の色をみつけてから先生にかじりつくのをいつのまにかやめた。

絵画教室をやめる日、先生は「ゆりちゃん、誰にもマネできない自分だけの色を見つけるんだよ」とまたおっしゃって目をしばたかせた。

私はそのころには随分大きくなっていたけれど、また先生の背中におんぶしたくなった。

絵の具がこびりついてぼろぼろのセーターから出ているずんぐりした首にかじりつきたくなった。

それなのに「うん」といって鼻水をすすることしかできなかった私。

先生は幼少時の私が甘えることができた、たったひとりの男の人だった。

「誰にもマネできない自分だけの色を見つける」は私の人生の指標となった。


2005年05月19日(木) 花ありて 君あり

わが家の庭には想い出深い木が一本ある。

木瓜の木だ。

花は白地にほのかな淡い赤がにじむように咲いて美しい。

入院している母に庭の木瓜の花を一枝とって持っていった。

花瓶にいけるとそこだけがあっというまにわが家の庭と化した。

「家に帰ったような気がするわ」と母は喜んだ。

髪をきちんと整えてほほえんでいた母は、病室にはふつりあいな程美しかった。

「爪を切ってちょうだい」と母が言った。

爪切りはどこを捜してもなかった。

買いに行けば良かったのにそうしなかった。

「今度ね」と私は愚かにも答えた。

その「今度ね」はもう二度とこなかったのに・・・

木瓜の花を見るたびにいつもにじんで見えなくなる


2005年05月18日(水) 本を読むということ

デパートの古書展へ行ったら父親が書いた本が古本として売られていてびっくり!

もっとも父個人の名前でなく、勤務先の出版物として編纂された全集だった。

日本全国を回って神社仏閣、秘仏などを見て歩き、日本を海外に紹介する為の書だった。

なんだか嬉しいようなさみしいような気持ち。

安かった!

月日をかけて書いたものに値段をつけて出されること。そんなことにこんなに不本意な感じを覚えるのははじめてだった。

おまけにすでに古書となっていたことも。

当たり前と言えばあたりまえなのに・・

はたして誰の手に渡るのだろうか?

誰かが買って大事に読んでくれたらあの年月は生きてくるというもの。

書物は読まれるためにあるのだと今更ながら感じるのだった。

専門書のようなものなので何かの資料として読まれるのであろう。

日々手にとって愛読する類のものではないのできっとほこりをかぶって本棚の片隅におかれる運命の本なのだろう。

そう。わが家にある同じ本のように。

ああやって日焼けしたように変色した父の本を目の当たりにすると、書いた者の渾身を思う。

本はやはり愛して読むとその書物に命が吹き込まれる。

書評をお気楽にしたためる今日この頃の自分を顧みると、愛してやまない本というものがあっただろうかと疑問に思う。

父の書斎の本棚から本を選ぶとき、なぜか父の心を読むような気持ちになったものだ。

一冊一冊を父がどういう気持ちでその本を選んで、どう読んだのだろうかと探った。

古びた本がここに一冊ある。

「経済学の基礎理論」

本の裏に父が自分で彫って作った落款がおしてあった。

絵心のあった父は自分独自の落款を彫って作ったのだった。

何と愛しい本なのだろう。

こうして自分が愛して読んだ本に落款をおして自分の書の証としたのだろう。

とぼしい小遣いの中からひねりだしたお金で買った本はひとしおのものがあって愛読してやまなかったにちがいない。

父の時代の人間は本をこのように愛して読んだのだ。

本を読む姿勢にあらためて衿をただしたくなった。

私の書庫の守り神はこの古びた父の書だ。

人間の体は滅びても、魂は様々な形となってそこここにあるのだ。

それを見つけるのは故人への哀惜の情がさせるのだろう。

古書にもの想う時をすごした。


2005年05月16日(月) 「センセイの鞄」とジョージ・ギッシング

小学、中学、高校、大学と使用したそれぞれの教科書を後生大事に本だなに納めている人は一体どれぐらいいるだろうか?

私はといえば、小学校の教科書以外は全て保持している。

時折、それらの教科書を取り出して読むと、中に書き込んだ落書きに往時のクラスメイトや退屈で十年一日の如き授業をしていた女教師の顔などが浮かんでくる。

思い出す教師達の中でも、高校の英語の教師は異端であった。

服装には頓着せず、着たきり雀。

びん底眼鏡をかけ、発音が悪く、風采があがらない中年のおっさんそのもであった。(先生は東京外語大出身。)

隣のクラスの英語教師は学校で一番人気のあった独身、ハンサム、ソフィア出身。

風采のあがらない英語教師にあたったのは身の不運とばかりに我がクラスメイト達は大いに嘆いたのである。

しかし、最近になってなぜか私はこの風采のあがらない中年のおじさん先生のことが思い出されてしかたがない。

まるで番外、川上弘美の「センセイの鞄」の如し。

なぜこの風采のあがらない不人気であった教師を思い出すのかよくよく考えてみると、それはあのジョージ・ギッシングにあった。

授業はほんとんど聞いていなかった私であったが、この教師、ジョージ・ギッシングの話しをしだすと止まらない。

しかもギッシングの話しになると俄然豹変!

ビン底眼鏡の奥にある眼がキラキラ輝いて、ギッシングの洗練された文章がよどみなく流れ、

ギッシングが乗り移ったかのようであった。

そして私達女生徒はいつのまにかこの教師に、いや、ギッシングに、いやそのどちらでもなく、一人の人間が光彩を放って輝き出す瞬間の魅力に惹き込まれて行ったのである。

さて、大都会から辺境なこの田舎に移り住んだ今、ひなびた田園の風景が寂しい私の心を慰めてくれるにつけ、思い出すのがジョージ・ギッシングとあの英語教師。

日記風に田園を叙し、世態を批判しつつも、洗練されたジョージ・ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」の文が五感をふるわせる。

如月に入ったばかりの今日。

春を待ち焦がれる境地しきり。

「ヘンリー・ライクロフトの私記」の中の「Spring]の一節を読みなおしてみる;

Above all on days such as this when the blue eyes of Spring laughed from between rosy clouds when the sunlight shimmered upon my table and made me long long all but to madness for the scent of the flowering earth for the green of hillside larches for the singing of the skylark above the downs.

さながらイギリス版「徒然草」の趣がある。

春夏秋冬と続く随想のテキストを楽しみながら再読したいと思う。

川上弘美の「先生の鞄」ならずも、あの英語教師が提げていた「先生の鞄」にはきっとジョージ・ギッシングの愛読書が入っていたのだろう。

そうそう、そう言えば、あの英語教師の妻は20も年の離れた美しい人だった。

かくも美しい若妻を娶った先生にはきっと私など知りようのない隠れた魅力があったに違いない。

先生はHenry Ryecroft?

はたまたジョージ・ギッシングの生まれ変わりだったのかも・・・・。

さても謎めく先生なり。


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