ずいずいずっころばし
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今日は夕方から雨が降ってきたのでお散歩は中止。
愛犬が悲しがるけれどしかたがない。 きんもくせいの香りがしてきた。
寝室の側の植え込みには銀もくせいが植わっている。 銀木犀は金モクセイよりも香りがおだやかでつつましい。
慎ましいものは地味で控えめであるけれど、奥ゆかしい美がかくれているものだ。 母はそんな慎ましい人だった。 いつも大島紬の着物を着ていた。 地味な大島の美しさは子供の私には分からなかった。
他のお母さんのように華やかな服を着て花のようでいてほしかった。
母は「大島の着物はね、普段着のよそゆきね」といって笑った。 「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ。 分かる人にだけわかる美しさかしら。」 「着れば着るほど肌になじんで、味がでてくるのよ。」
「へー」と聞いていた私だけれど、なんとなく母の矜持をそこにみた。
普段着に格のあるものを着るという「粋」。 しかも、それは決してでしゃばらないものであること。
大島紬は黒っぽく地味だったけれど、母は袖口や裾になんともいえない渋い色調の赤をほどこすのだった。
えりあしのほつれげをかきあげる時など、袖ぐちからちらっと渋い赤がこぼれて美しかった。 そしてなにより私が美しいと思ったのはその絹ずれの音。 母があるくたびにシュッシュッと心地よい雅(みやび)やかな音がして、同時にその裾裏に配したほんの2,3ミリの赤い裏生地が地味な着物を一瞬のうちにつややかなものにしたのだった。
「たおやか」とは着物姿をさすのだと思った。
物をとるとき、たもとを片方の手で押さえながらとる。 その美しい手元の三角形が女らしいたおやかな美をかもしだしてため息がでる。 着物の袖というのはすごい女の美をかくしている。 真っ白な女の二の腕がものをとろうとして袖からちらりと見えるとき、それは今までかくれていただけにあっと思うほどなまめかしく美しい。
母は自分の贅沢のために宝飾品を買うことはなかったけれど、買うときは何かの記念のときだった。 その記念を宝石にこめて娘たちに伝えたいと思うのだった。 母がいつも身につけている宝石はヒスイの指輪の他に結婚するとき、祖父が自らデザインしたダイヤの指輪だった。二月生まれの母のために祖父は梅の花をかたどったプラチナ台の花芯にダイヤをはめこんだ見事な指輪をつくった。
学者だった祖父が娘のためにデザインした美しい記念の指輪だった。
母は質実剛健な祖父がデザインしたその指輪を大事にしていた。
指輪は高い安いでなく、そうした思い出が伴ってはじめて光彩を放つのではなかろうか。
私も大島が似合う年齢になった。 私は一つ発見したことがある。 それは地味な大島は顔を華やかにすることだった。 渋さ、シックなものというのは「若さ」「華やかさ」を逆に引き出すのだということをみつけた。
そうか!母亡き後に母の「大島紬」への想いに気がついた。 母が子供の私に言った「大島の魅力は決してでしゃばらないのに、秘めた美があるのよ」 ってそういう意味だったんだね。
母は本当のお洒落の真髄を知っている人だったのだ。
2005年09月17日(土) |
追憶のひとひらに咲く花 |
よその家に行ってお玄関に花が活けてあるとその家の女主人のたしなみを感じる。 我が家でも家のそこここに花を活けている。
活けた花の辺りから あかりが射して辺りをあたためてくれたり、さわやかにしてくれ心地よい。
何もかもが枯れて花の一輪も咲かない真冬に、 黄金色(こがねいろ)のつわぶきの花が庭の一隅に咲くとき、そこにも花の灯りがともる。
真っ白な雪景色の中に咲く紅い山茶花。 庭を飾る冬のブローチ。
お正月になると母は床の間に、上から床まで垂れる柳をよく活けた。 長い柳の束を途中で一結びし、美しい曲線を描いて床に垂らす。 子供心にその長くやわらかな曲線の美しさにみとれた。
夏には籠で編まれた舟型の花入れに涼しげに花を活け、上からじざいかぎで吊す。 夏の風がゆるやかに舟を揺らすと、その空間は湖水に浮かぶ涼やかな風景となる。 母のゆかた姿も美しく、花を活ける母の心のすがやかさに見惚れた。
うっとおしい障子戸を取り払って座敷用の御簾をかけると、夏が何遍訪れても悪くないと思うのだった。 簡単にエアコンをかける風情の無さはさみしい。 籐で編まれたビール瓶のはかま。うちわ立てには涼しげな絵が描かれたうちわ。
花を愛した母と懐かしい四季折々の風景は心の中に今でも昨日のことのように思い出される。 母はもう黄泉の国に逝ってしまったし、思い出の詰まった我が家には、もう待つ人もなく庭池の水も澱んでしまった。
過ぎし日は帰らじ。
されど追憶のひとひらに花は咲けり。
嫉妬。漢字にするとなぜか女扁がつく。 嫉妬には、色々ある。昇進につきまとう嫉妬、物欲がもたらす嫉妬、美への嫉妬、恋にまつわる嫉妬など。 文学でもオペラでも演劇でもこの嫉妬をテーマとしたものは傑出したものが多くある。何世紀も前から取り上げられたこの「嫉妬」は古今東西を越え、人間を描く上で不動の位置を勝ち得ている。それだけ人間の心に巣くう不可避のものなのかもしれない。
江戸歌舞伎の大立て者に、鶴屋南北と桜田治助の両作者がいる。 治助の代表作の「大商蛭子島」(おおあきない ひるがこじま)では「辰姫」の嫉妬の姿が美しくも凄まじい。
辰姫は、愛する頼朝と政子の祝言の模様を落ち着いて眺める気持ちでいようと自らをいましめる。 ところが鏡に向かって髪を梳いているうちに二人の事を思い出し、だんだんに腹が立ってくる。 心を晴らそうとして酒の燗をするが、飲もうとしても飲むことができず、茶碗を砕いて嫉妬に身を焦がす。水を汲んで飲もうとすると手水鉢から炎が立って「ひさげの水も湧きかえる」嫉妬となる。しかし僧が現れて数珠に打たれて辰姫の嫉妬は消え、清い心となる。
有名な「辰姫の髪梳き」の場面であるが、水から炎を生まれさせる程の辰姫の嫉妬は凄まじい。鬼気せまり凄艶である。しかし、作者治助は趣がある。 作者は、辰姫がこの嫉妬で破滅するのではなく数珠で打たれて元の清い心になるよう心を配った。そこが美しくはかなく哀れさを感じさせるではないか。女心の凄まじさとはかなげな哀れさを書ききっている。
おなじ髪梳きの場面でいうなら、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」のお岩も有名である。 お岩は隣人の邪な心から愛する夫を奪われる女である。髪からは怨みがしたたりおちる。嫉妬とともに怨みつらみがにじみでている。 凄まじさからいうなら「四谷怪談」であるが、辰姫の髪を梳く場面は全く違う。 辰姫の髪を梳く姿には優艶さがそこはかとなくにじんで誠に美しい。 自分の悋気を押さえながら、忍びながら、愛する人に想いを馳せてその緑なす黒髪を梳いていくのである。人間と人間との永遠の絆を求めようとする魂の美しさがある。 南北にはない幽玄さ人間主義が現れていると思う。
また、能は趣が全く変わった嫉妬をえがいていて面白い。 嫉妬と言えば言わずと知れた「葵の上」である。 六条御息所の生霊のシテが段々高まっていく気持ちを舞いであらわす。最後に扇を叩き付け、着物を脱いでひきかつぎ葵の上を暗黒の世界へ引きずり込む光景を表現して素晴らしい。
「思い知らずや、思い知れ、恨めしの心や、あら恨めしの心や、人の怨みの深くして、浮き寝に泣かせ給うとも、生きてこの世にましませば、水暗き沢辺の蛍の影よりも光君とぞ契るらむ、…」と謡う。
しかしここが能の能たる所である。 葵の上とはまるで関係ない蛍を追いかけたり、沢辺を見回す形で舞いを舞って表している。
明滅する蛍や、沢べの暗闇に御息所の心の深淵を覗く思いになるのである。全くここは白眉というものだ。素晴らしい描き方に心底感激する。
シテの謡う声、姿の美しさ、そこに能の真髄があるのではなかろうか。やがて御息所のシテはかぶっていた物をはねのけると、下からは美しい先ほどの面に変わって恐ろしい般若が現れる。しかし行者の数珠に打たれて解脱する。 この般若の面こそ嫉妬の面差しなのであろうが、これはやがて来るべき、悟りの道へ到達する過程を表しているように思う。
人間の心の中に巣くう嫉妬の念。オペラ、演劇、歌舞伎、能など、形式は異なるけれども、誰もが描きたい人間の底にあるおどろおどろした情念の世界なのであろう。そしてそれを見てなにかを感じる我々。嫉妬とは、人間と人間との永遠の絆を求めようとする魂のなせるわざなのかもしれない。
2005年07月25日(月) |
逆境にたってみえるもの |
人生の中で絶望の淵にたたされるときがきっとあるだろう。ないままに一生を送れる人は本当に幸せといえよう。 絶望の淵とは?病だったり、職を失うことだったり、身体のどこかに障害をもつことだったり、・・・などなどさまざまだろう。 「左手のピアニスト」館野泉さんは脳梗塞で右手に麻痺が残った。 ピアニストが弾けなくなったとき、それは死を意味するに近い。 しかし左手で再度よみがえった。 画家のモネは白内障をわずらい、視力を失った。(後にわずかながら見えるようになったが) その視力を失った時に描いた絵が凄まじい作品だった。 それは「橋」という題で、自宅の池に架かっている日本風の太鼓橋を描いたものだった。 題をみてかろうじて「橋」だと分かる程度のもので幾重にも色を塗り重ねた分厚い色の塊であった。およそ淡いタッチの印象派のモネの絵とはかけ離れた作品だった。 画家から視力を奪って何が描けるというのだろうか? そんな絶望との葛藤が絵からにじみでている。見えない目に淡い色の絵の具はもはや無色に近かったのだろう。何層にも赤や黄、緑、黒、などを重ねた「橋」を池に架けたモネ。
10年に一人出るかでないかと言われた名人能役者、友枝喜久夫。 彼も晩年視力を奪われた。そしてこの盲目の能役者友枝喜久夫が演じた最後の能舞台が最も難曲と言われた「影清」。役柄は奇しくも盲目の役。 主人公「影清」は平家の侍。今は落ちぶれ盲目の老人。一人住まいのボロボロの家に娘が都から訪ねてくる。娘に自分がかつて武人として活躍した様子を語り、娘を鎌倉に帰してしまう。 盲目の悲哀と零落の身を悟られまいとする父。老いさらばえた我が身の悲哀とかつての猛々しさとを演じわけるのは至難のわざ。 それを本当に盲目になってしまった友枝さんが能舞台で舞って謡って演じる姿は孤高にして名人の極みの至芸だったとか。
聴力を失ったベートーベン。盲目になった能役者友枝喜久夫。視力を失った印象派画家モネ。 左手だけのピアニスト館野泉。
市井の名もなき人の中にも障害を持ってなを強く生きていく人は多い。 作家で精神科の医者であり、詩人、母、妻であった神谷美恵子さんはかつて「ハンセン病の人に」という詩の中で
あなたは黙っている。 かすかに微笑んでさえいる。 ああしかし、その沈黙は、微笑みは 長い戦の後にかち得られたものだ。
運命とすれすれに生きているあなたよ、 のがれようとて放さぬその鉄の手に 朝も昼も夜もつかまえられて、 十年、二十年と生きて来たあなたよ。
何故私たちでなくあなたが? あなたは代わって下さったのだ、 代わって人としてあらゆるものを奪われ、 地獄の責め苦を悩みぬいてくださったのだ。 (省略)
私はこの詩を読んで衝撃を覚えた。 「なぜ私でなくあなたが?」と思う神谷さんに動かされた。 神谷さんのことはそのうちじっくり書いていくつもりだ。
館野泉さんの脳梗塞から立ち上がって左手だけでコンサートを開いたことは、多くの人に感動を与えた。 逆境から立ち上がって復帰した人への心からの拍手であり、その音楽への情熱のありように打たれた。
見えない目で絶望との葛藤がにじみ出ている「橋」を描いたモネ。あのすさまじい厚塗りの赤や青や黄で彩られた絵を見てからはかつての美しい「睡蓮」が物足りなく見えてくる。
人生とは皮肉なものだ。目が見えなくなってから初めて見えてくるものがあり、無一文になって初めて知る真の友。 傲慢な人間は病を得てはじめて知る健康のありがたさ。謙虚な心で人生をみつめなおしてみたい。
槿(むくげ)の花の季節となった。 槿の花は「一日花」とも言われて朝咲いたかと思うと夜にはしおれて散ってしまう。 「木あさがお」とも呼ばれ朝鮮から渡来したという。
底紅の花は、千宗旦が好んだゆえに宗旦槿(そうたんむくげ)と呼ばれて白地に花芯がほの赤く美しい。 利休居士がそだてて咲いた朝顔(むくげ?)を秀吉に、ぜひ見たいと所望され、実現したのがあの有名な「朝顔の茶会」。 朝顔とは、槿(むくげ)の花だという説がある。
※「朝顔の茶会」
利休の庭に、朝顔の花が一面に咲く様子が大変美しいという噂を聞いた秀吉は、利休に「明朝、朝顔を見に行くから」と言いつけた。 翌朝、秀吉が利休の屋敷へ行ってみると、朝顔の花などどこにも咲いていない。 あの噂は偽りだったのかとがっかりし、腹を立てながらも、躙口(にじりぐち)を開けて茶室を覗いてみると、床に一輪の朝顔が生けてあった。それを見た秀吉は、庭一面に咲いている朝顔とは違う、独特の美しさに深く感動したという。 利休は前日に庭にある朝顔を全部摘み取ってしまい、一輪だけ残しておいてそれを活けたのだった。
金ぴかの黄金の茶室を、得意そうに見せびらかしている秀吉に対して、一輪の花が持つわびた美を示した利休の無言のいましめか、はたまた本当の茶人の「もてなしの心」のあらわれか?さてどれだろうか?私はその両方のような気がする。
千宗旦が好んだゆえに宗旦槿(そうたんむくげ)と呼ばれる槿の花は美しい。 これを籠に「矢はずすすき」と共にすずしげに活けると茶室は一気に夏が来る。
Sさんの見事なレビューを読んで『神屋宗湛の残した日記』 井伏鱒二を読んでみたくなった。
一瞬「宗湛」は千宗旦かと思ったが、これは違ったようで博多にすむ茶人のようだ。
茶会を催すと必ず、「茶会記」「会記」なるものを書き表すならいである。 それには茶会で扱ったお道具(釜、茶碗、お茶器、茶杓など)、掛け軸、茶花、お菓子などすべてを書き表す。
その会記を読むとその茶会に行かずとも亭主(茶会を催した席主)のもてなしの心を読み取ることができ、茶会の様子などがうかがい知ることができ、大変趣のあるものである。
会記にある道具の取り合わせはその席主の「もてなしの心」が百の言葉であらわさずとも読み取ることができる。 『神屋宗湛の残した日記』 井伏鱒二はまだ読んでいないのでどんなものかはわからないけれど、茶人宗湛が私心を交えず書いた日記とは、会記に近いものなのだろうと私は推測する。 茶の道をかじるものにとって「会記」を読むことは非常な楽しみであり、あれやこれやと茶会の席を想像する手がかりとなるものである。
その会記に近い日記(Sさんはこれを乾いたとあらわしていてすばらしかったが)を読んでこれまた骨董や茶道具にうるさい井伏鱒二がそれを読み取って解説するのは趣がある。
ことに席主が秀吉とくればなおさらである。 秀吉と茶会には逸話が山のようにあって、それこそ文才があれば、それにちなんだ物語を創造したくなるの難(がた)くない。
先にあげた「朝顔の茶会」の後、秀吉は利休の茶の心に感嘆の声をあげたと共に内心、また「やられた!」とも思ったのではなかろうか。 仕返しに似たことをやってのけた秀吉だった。
※ある日、水のいっぱい入った大きな金色の鉢を用意させた秀吉、そばには紅梅一枝を置かせた。 利休を呼ぶと「大鉢に、この紅梅を活けよ」と命じた。普通に活けたのでは、紅梅の枝は鉢の中に全部沈んでしまう。 さて、どうなることかと内心懐手をしながらにやにやする秀吉。 利休は澄ました顔で「かしこまりました」と言うと、やおら紅梅を手にしたかと思うと逆手に持ち替え、片手でそれをしごき、紅梅の花びらや蕾を水面に浮かべた。
金色の鉢に映える紅梅の花びらを見た秀吉は、あまりの美しさに声をあげて驚いた。同時に一瞬のうちに「美」を見抜くことができ、利休の臨機応変さに、頭を下げる思いになったという。
「秀吉と茶」。「会記」から読む茶席。井伏鱒二が読む『神屋宗湛の残した日記』。 面白いこと極まりないではないか。
時の宰相や主君にまつわる逸話に「紅茶」や「コーヒー」があるだろうか?
美しい日本に茶の道があり、花がその美しさに「花を添える」。 利休が丹精こめた朝顔の全てを摘んでしまってただ一輪活けた床の間の花。そこに「侘び」の美を見出す茶の心。
「侘び」を外国人に説明するのは難しい。日本人ですらいまやその心を知るのは難しい。 せめて夏のひと時、槿の花をめでることにしようではないか。
「言葉は文化なり」などと言われて久しい。
最近、言葉、文に関わる人と交流する機会が増えて感じる事はアマチュアにせよ、プロの物書きにせよ滋味あふれる文を書く人は、文からにじみ出るのと同じように好人物が多く、嬉しくなる。 ユーモアと機知を愛する高雅な人、向井敏さんの文は気の利いた諧謔を交えていて実に胸がすく。しかも誠実で品格をそなえた本物の紳士である。しかし、筋違いの文学論や偏見などに出くわした時などは憤怒に燃え胸のすくような啖呵を切ってみせてくれる。 こうでなくっちゃとばかりに私は「やんや、やんや」と快哉を叫ぶのである。と言っても勿論ご本人様に私の声が届くわけなどもないけれど。 そしてまた、私が敬愛してやまない堀江敏幸氏の作品「いつか王子駅で」に至っては、その作中の文、島村利正の短編集「残菊抄」で、篠吉の胸中をとらえた文、 「篠吉の胸の中に子供心に似たほのかな狼狽が走っていくのが感じられた」 を引用し人の心の震えに光を照射し、“こうした「子供心に似たほのかな狼狽」を日々、感じ得るか否かに人生のすべてがかかっている” と言わしめた堀江氏の言は随分含蓄があって「言葉」の深みについて十分咀嚼し反芻するにたる極上の言葉であると痛く感じ入るのだ。
さて一方、素人の文においても軽妙な語り口と小じゃれた警句を弄し、時には人情篤き部分をひょいと覗かせてくれる人などに出逢うと、もうすっかり「ほ」の字になってしまったりする。 さてもさても、「文は人なり」と称される恐ろしきものでもある。 言葉は魔物でもあることをゆめゆめ忘れてはいけない。 私なんぞは未熟で浅薄な人間性が露呈して大失敗をやらかすことがあるゆえ気をつけねばならない。『「言葉」に傷ついた』などとうっかり言ってしまいがちであるけれど、そう言う自分はどうなのだろうと振り返ってみる。無意識な「言葉」で人を傷つけている。「無意識」であるがゆえに罪は深い。
文章修行は人生修行でもある。 巷には「文章教室」「文章読本」などが売れている昨今、書き方のコツだけをすくい上げて、ある程度の文をこなせるようにはなるだろう。 しかし、「文は人なり」の如く、中身のない人間がこじゃれた文を、さかしらに書いてみたところで、虚ろなさみしさが漂うだけである。 文は書き方のコツでなく、生き方が問われるのである。 文はその人の人となり、いきざま、思考のありようが問われる。 心豊かに滋味あふれる文を綴るのは容易でなく一朝一夕のしわざではない。 もっとも、これは文だけに限らない。 一朝一夕で全てを了することはかなわない。 ただ、極上の音楽と極上の文に出逢えた日などはふと心に灯りがともる。 温かないっぱいのスープが凍えた体と心を温めてくれるように、一編の詩が数行の言葉が明日へと繋げてくれ、心に灯りをともしてくれる。 言葉は心のまんなかから出るとき初めて言霊がやどるのではなかろうか。 心のまんなかを如何に豊にするか。それがその人の豊かさに繋がり、言葉を発するとき、まあるく、広いやさしさが辺りを満たしていくのだろう。
2005年06月21日(火) |
A lily of a day |
今までずっと私が女の子であったがゆえに父に疎(うと)まれていたという事実を忘れたふりをしてきた。 しかし、悲しかったのは私なんかじゃない。 高齢で私を産んだ母だったに違いない。上二人が女の子であった父は3人目こそは「男の子」と望んだ。 しかし、産まれたのは「またしても」「女の子」であった。やけになった父は産まれた赤子に名前をつけるのさえ嫌がって、区役所に届ける最終日にようやく、好きな花(百合)の名前を不承不承つけたのだった。 それが私であり、私の名前であり、私の出生の顛末である。
危険を冒して病弱な母は私を産んだ。それなのに喜ぶどころか「また女かあ!」と落胆し、子供に名前をつけるのも厭う夫の態度にどんなに傷ついたことだろう。 母はそんな出生の秘密を決して私には言わなかった。一回り以上も年上の姉が長じて私に教えてくれたのだった。 作家の幸田露伴の娘で同じく作家の幸田文さんは「みそっかす」という作品の中でこう言っている。 (幸田露伴が娘が生まれたとき「いらないやつが生まれてきた」と父がつぶやいたということを、女中からきかされ、物心ついてから何十年の長い年月を私はこのことばに閉じ込められ、寂寥と不平とひがみを道づれにした。)とある。
まさに私も同じだった。 きっと父は生涯、娘が悲しがっていたことを知らずに死んでしまったにちがいない。 かたくなだった幸田文さんも「露伴亡き後、父の生命とひきかえのようにして、ようよう全ての子は父の愛子であるということがわかったのであった」と結んでいて、私も救われたような気持ちになった。 私はBen Jonsonの「It's not growing like a tree」の一節をこよなく愛す。
A lily of a day Is fairer far in May, Although it fall and die that night; It was the plant and flower of Light. In small proportions we just beauties see; And in short measures life may perfect be.
一日の百合の花、 五月には更にうるわし、その夜散りて朽ちはつるとも。 そは光受けたる花なりき。 なりふりの小さきものにもまことの美あり、 命は短かけれど全き人もあるなり。
この名訳を書いたのは英文学者の斎藤勇氏である。 世に英詩の翻訳本はあまたあるけれど、齋藤先生の訳は日本語として味わっても名品である。
父が亡くなる前、皮肉なことに疎ましかった三人目の女の子であった私が看病にあたった。 動けなくなった背中をなでるようにさすると「ああ、楽だ」と喜んだ。 あんなに大きかった背中が小さくなっていた。
もうじき父の日がくる。
2005年06月20日(月) |
「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」 |
「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」 “the morn in russet mantle clad, Walks o'er the dew of yon high eastward hill:" 「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」 「ハムレット」の第一幕の終わりに夜じゅう亡霊に翻弄されたホレーシオが朝に希望を見出し語る有名なセリフだ。かのT・Sエリオットがたたえてやまなかったセリフでもある。
窓をあけ、朝日を仰ぐとき、このホレーシオの「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」がふと口にでる。 シェイクスピア没後何百年と経った今、極東の片田舎に住む私の口からかのセリフがでるとは、なんとシェイクスピアは偉大なのだろうかと思う。 茜さす朝の訪れは誰の心にも希望を抱かせる。 このホレーシオと聞くと思い出すのは1903年(明治36年)5月22日、一高生・藤村操が、日光・華厳滝わきの大樹を削り、そこに「巖頭之感」と題した墨書を残して滝壺に身を投じたことである。 弱冠16歳、日本近代史学の祖として高名な那珂通世博士の甥でもあった少年哲学者の自死であった。 16歳にして次のような遺文であるからして驚く。
「巖頭之感」 「悠々たる哉(かな)天壌 遼々たる哉古今 五尺の小躯を以て此(この)大を測らんとす ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチーを価するものぞ 万有の真相は唯一言にして悉(つく)す 曰く不可解 我れ此恨みを懐いて煩悶終(つい)に死を決するに至る 既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし はじめて知る 大なる悲観は大なる楽観に一致するを」
この遺文中の「ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチーを価するものぞ」と、ホレーシオがでてくる。 奇しくも「ハムレット」の名セリフ「To be or not to be」 ”永ろうべきか死すべきか”は、かの坪内逍遙先生の名訳であるが、藤村操青年も同じホレーシオならこの「ハムレット」の名セリフ、「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」 を思い出して欲しかったものだ。 「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」 何と希望に満ちたセリフではないか!
「人生不可解」藤村操青年は煩悶するけれど、まさにその通り!人生は不可解なものだ。 だからこそ生を全うし、死ぬまで煩悶し解き明かさねばならぬのだ。夜のとばりが明けるとそこには「茜色の朝が、丘の露を踏みしめてやってくる」のだから。
父は不思議な人だった。 幼い私に李白の詩を読んで聞かせてひとりで頷くのだった。 私はどう聞いてもお経にしか聞こえない李白をBGMによそごとを考える。
ちょうど今頃の季節になると、独り静かに独酌しながら、これまた幼い私に「山中対酌」をつぶやいてみせる。
曰く: 「山中対酌」 両人対酌山花開 (両人対酌して山花ひらく) 一杯一杯復一杯 (一杯一杯 また一杯) 我酔欲眠卿且去 (我酔うて眠らんと欲す 君しばらくかえれ) 明朝有意抱琴来( 明朝 意あらば琴を抱いて来たれ)
つまり 山中誰にも邪魔されることなく 二人差し向かいで いっぱいやっている。折から季節の花が咲き乱れ ここは楽園のようだ。一杯一杯と杯を重ねる。 ああなんと気持ちのいいことか。いよいよ眠くなってきた。 君はしばし帰っていてくれ、私はこの眠りを楽しむ こととしよう。そうだ、気が向いたら明日の朝、琴を 持ってもう一度きてくれ。今度は君の琴を聞きながら いっぱいやろうじゃないか。
と、おかっぱ頭の女の子をつかまえて呪文のようなもの。 女ばかり三人の娘。きっと息子と酒を酌み交わすのが夢だったに違いない 気の毒なお父さん!こんなに美しく愛らしい娘でごめんなさい!(?)
しかし、三つ子の魂百までとはあな恐ろしや!こうして時々、花を酒のお供に庭を 眺めているとふと「一杯一杯また一杯、我酔うて眠らんと欲す・・」と言う句が私の口を つく。 小学校の時、国語の時間に、知っている歌を一つ挙げてみろと言われ 「は〜い、先生!しらたまの歯に染みとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」 と言ってしまった私って酒精? さて、この辺でお酒の話しにふさわしい歌を挙げて締めくくりとしよう。
対酒(白楽天) 蝸牛角上争何事 (かぎゅうかくじょう何事か争う) 石火光中寄子此身 (せっかこうちゅう此の身を寄す) 随富随貧且歓楽( 富みに随い貧に随いしばらく歓楽す) 不開口笑是痴人( 口を開いて笑わざるは これちじん)
つまり 物事を大きな目で見ると、全く意味がないほど小さな事で いったい何を争っているのか。まるでカタツムリの角の 上のことではないか。実に愚かだ。 人生は石火の如く過ぎ去り、そこに身を寄せるはかなさ。 お金持ちはお金持ち、貧乏は貧乏、分に応じて とりあえずは酒を飲もう。 口を開いては悩み、悲しんだりするなんてバカげたこと。 大いに笑おうではないか!
まことに言い得て妙。父に献盃!
ペンシルバニア大学に留学していた次姉は最初、寮に入り、後に友人たちとシェアして一軒家に入った。 私がイギリスでホームステイすると言うと家族全員の反対にあった。 わがままで他人と暮らしたことがない私が外国人の家庭で上手くやっていけるわけがないというのがみんなの意見だった。 でも私はイギリスの普通の家で、普通の暮らしを英国人と共にすごしてみたかった。寝食を共にしてはじめてその国を知ることができ、暮らしの中から学ぶことのほうが意義があるし、それよりなにより、「家庭」がなければ過ごせない私の習性がそうさせたのだった。 「ただいま〜」と帰宅して待つ人がいない家は「家庭」でなく、物理的な「家」でさみしい。 さみしがりやで人恋しい私には「家」でなく、「家庭」がなくてはならない。 夕食の手伝いをしながらママの味を教えて貰ったり、学校をさぼったのがばれて台所でママに叱られている高校生のイアンの後ろで私まで叱られているような気持ちになって小さくかしこまって聞いていたり・・週末に帰ってくる女子大生のクレアはへそピアスをしていて、百合もやれとけしかけられたり・・・ 長女のクローリーとは、長電話のことで大喧嘩したり、・・・ そんなどこの家でもあるような出来事を寮やフラット(アパート)に住んでいては出来ない事柄だった。 でも一度だけ短期間、寮に入ったことがあった。厳しい寮監が午後9時になると点呼にやってくる。 だらしなく部屋が散らかっていないか、危険物がないか、男の子を隠していないか(?)などをチェックする。 ロシアからの留学生は学校一の美貌の持ち主だったけれど、みんなから嫌われていた。 幼い頃から英国の学校に放りこまれていたせいか(?)、手くせが悪かった。国へ帰ることも出来ず、両親は会いに来たこともなかった。お金はたくさんあるようなのに、人の物を盗る。けちでどんなものでも欲しがるのだった。物欲でなく、精神が餓えていたのだろう。 英国に来て最初の頃、友人もなく、ぽつんとしていると、この子が私の机に何かを放り投げた。見るとキャンディーが一つ。 にこっと笑って、目で食べろと合図した。 思わず私も笑ってそれを食べた。 心にしみるような甘さだった。 おそらくこの子が他人に分け与えた初めてのものだったに違いない。 さみしさを誰よりも身にしみて知っているただ一人の女の子だった。 その後も、多くを語り合うほど仲良しにはならなかったけれど、すれちがうとき、お互いに温かなものが流れあうのを感じた。 そんなとき、二人ともほんの少し、”孤独”という文字が心から薄らぐのを感じあうのだった。 物には光と影がある。 人の心にもみえない影がある。 そんな陰影をそっと汲む心があってほしい。 欠点ばかりをほじくり返したり、弱いところを叩く心ばかりが育つことのないように・・と思う。 母を亡くし、父を亡くし、・・・ 私のさみしさにじっと寄り添ってくれる野の花。 その野の花に心を寄せるとき、いつもあの子をおもいだす。
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