ずいずいずっころばし
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2004年 岩波「図書」8月号に佐藤正午が寄せた文がある。 氏は三島由紀夫作『豊饒の海』中の蝉の声の直喩に注目。
『豊饒の海』四部作の『天人五衰』の最後に「数珠を繰るような蝉の声がここを領している」という直喩がある。
数珠を「揉む」ようなだとシュワシュワ、グリグリのような音でおそらく熊蝉だろうと推察できるが「数珠を繰る」とは数珠の一つ一つの珠を順にずらして指先で送っていくことである。はたしてどんな蝉なのだろうか?
仏壇からお数珠を出してきて私も手で繰ってみた。 水晶も、紫檀もサンゴのお数珠も珠がずらせない。繰ることもできず、音もなることもない。
はたして「数珠を繰るような蝉の声」とはどんな蝉なのだろうか?
「数珠を繰るような蝉の声」という蝉はいったいどんな蝉なのかも興味をひかれるけれど、 それよりも何よりも『豊饒の海』にはおびただしい数の直喩がなされている。
まったく三島由紀夫という作家は「言葉の達人」に他ならない。 直喩、つまり何々のように、何々するような、何々するようにという表現がおびただしいのである。
佐藤氏が調べただけでも「旗のように風のためだけに生きる」「緑の羅紗の上に紅白の象牙の球は、貝が足を出すように丸い影の端をちらりとのぞかせて静まっていた」などなど。
擬音語はありがたい。 例えばミンミンと言っただけで蝉を思い浮かべるだろうし、ジャージャーと言えば水や雨が勢いよく流れる様子がすぐ浮かぶ。
しかし、かの薄田泣菫や三島由紀夫のように、高雅な筆遣いでその趣や鳴き声やそのものの様子を描くことは言葉をつかさどるものの極みなのではなかろうか。
名にしおう名人と肩をならべようなどと大それたことを言っているのではないけれど、100に一つでも擬音語を使わず蝉の鳴き声を現すことができたなら、文を書く者の矜持が一歩前に進み出ることができるというもの。
「言葉の達人」にあらためて敬意をあらわしたい。
蝉。
なんと文人の感性を試す奴なのだろうか?
2007年03月09日(金) |
福原麟太郎と「英文学」とお能 |
英文学者の福原麟太郎先生を尊敬している。
それは河出書房から出版された小冊子『英文学入門』という名著を読んで以来のこと。 この本は外務省の役人。つまり、外交官になったばかりの人に研修するときに作られた福原麟太郎先生の名講義を記録したものである。
小さな手帳ほどの大きさの本なのであるけれど、こんな名著を読んだことがない。 私の宝物の一冊である。
堅苦しさなどみじんもなく、英文学の楽しさを縦横無尽に語った名調子! これがやがて諸外国にでるであろう外交官の卵たちに講義されたものではあるけれど、『英文学入門』書と名づけた同じようなあまたの本の中でもこんなに楽しいものは類をみない。
また福原麟太郎先生のお人柄までにじんでくるものである。
さて、それ以来福原麟太郎先生の御著書はどれも読んでみたいと思うようになったのだけれど、先日『芸は長し』沖積舎出版のものを入手した。
これは福原麟太郎先生がお能に造詣が深く、子供の頃からたしなんでこられたことのよしなしごとや、シェイクスピア研究者である先生の舞台芸術に関する随想をしたためたものだ。
読み応えがある本で嬉しい。
これと並行するように福原麟太郎先生の弟子(?)である外山滋比古の『中年記』を読んでいる。
福原麟太郎先生はかの有名な英語雑誌『英語青年』の主幹であった。 その『英語青年』の編集を福原先生から頼まれて引き受けたのが外山滋比古その人である。
戦前戦後の日本の英語事情をからめて外山滋比古の英文学、文学研究と編集、読者論など福原麟太郎先生とのかかわりを含めて語られていてなかなか面白い。
おりしも四月からまた英語の勉強を再開しようと思っていたところだったので、ここで再度福原麟太郎先生の『英文学入門』を再読してみることにした。
面白いことに英文学者でもあった夏目漱石も、福原麟太郎も日本の古典芸能の能楽愛好者であることだ。
さらに興味深いことは<狐>の書評で有名な山村修さんの絶筆『花のほかには松ばかり』では、この能楽愛好者である両者が謡い本について正反対の考え方をしていることである。
シャイクスピア研究者である福原麟太郎先生はシャイクスピアの戯曲を読むものとして受け入れているのに、能楽の謡曲は「読む謡曲」とはしなかったことだ。
一方、漱石は「読む謡曲」としている。
詞章の美しさ、文学性の高さを謡曲の本から感じる私は「読む謡曲」として愛読している。 つまり漱石と同じである。
こんなことなどを比較しながら福原麟太郎関連の本をあれこれ読むのは楽しいものだ。
書庫に、もう本が入りきれなくなってきた。なんとかせねばならない。 もう買わなければよいのだけれど、そうはいかない。
本はよみたし、金欠病。 本はよみたし、時はなし。 本はよみたし、置き場なし。
開高健が谷沢氏の書庫にある本を読みたくて風呂敷を持って通いつめた気持ちは良く分かる。 谷沢氏は開高健と絶交しても書庫は常に開高に開放していた話は実に麗しい。 男の友情というものに嫉妬を感じる。 阿佐ヶ谷文士の面々も友情にあつかったし、佐藤春夫と堀口大學も終生の友情に変わりはなかった。
木山捷平の文が井伏鱒二のに似せていると悪口言われたときは井伏は「捷平と血族をあらそう春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」と色紙に記したのは井伏鱒二の優しさであり、思いやりであり、つまらない噂に配慮した歌だ。
井伏鱒二という人物はあの開高健でさえもその本心を聞き出すのに苦労した人物である。 なにげない会話の中に聞き逃してはならない言葉をさりがねなくいれる人である。
男の魅力は、なにげなさ、さりげなさの中にちらりとのぞくとき、それはいぶし銀のように光る。
※ここで書評欄にかつて書いた「井伏鱒二文集」ちくま文庫の中から木山捷平の人となりを書いたものを転載しようと思う。
本書は「井伏鱒二」が書く「木山捷平」である。
題して「木山君の神経質」。 ◇「私は以前から木山君は神経質な人だと見ていました。ただそれに対する迷彩の施しかたが一ぷう変わっているのだと思う」とある。 さて、井伏言うところの一ぷう変わった「迷彩の施しかた」とは何だろう? 木山が満州から郷里へ帰ってきた日のこと、釣りをしていた井伏のところへ挨拶にきた木山は ◇「『ついせんだって帰ってきた』といい、それから屈託なさそうに『このごろ僕のうちでは、僕が地主で女房が小作人だ』と言いました。つまり奥さんが家庭菜園をし、そこへ木山君が満州から帰ってきて奥さんがほっとしているという意味だと解されました。」
さすがに井伏鱒二。この大陸的でちっとも神経質でなさそうな言葉の裏をこう書き表して妙味。 「満州から引き揚げてきたころの木山君は神経質な面を裏返しにして見せるという点では更に年輪を加えているようでした。」とある。 木山の「神経質」を「迷彩の施しかたが一ぷう変わっている」「神経質な面を裏返して見せる点では更に年輪を加えているようだ」と書いていて意味は深い。 さらっと書いているようで井伏鱒二独特のひとひねりが効き、人間を見る目の深さがうかがえる一文である。
この時の事を木山の随筆「井伏鱒二」と比較してみよう。 ★ 「私の留守中、私の家内はたびたび井伏氏に手紙を出して、捷平がいまどこにいるのだろうかと井伏氏に筋違いな難問を発して井伏氏を困惑させていたらしい」とある。
そんないきさつを木山は井伏に侘びて感謝したかったのであろう。お陰で今は安穏であるということを「地主と小作人」とユーモラスにしてみせる木山の「神経」。その神経の細やかな気遣いをいち早く察して「神経質な面を裏返して見せる」と表現する井伏。
引き揚げ後のもう一つの「神経質」を井伏はこう書く。 ◇「某新聞社の家庭欄用の詩の註文を受け、「女房が放屁した。くさかった。故に離縁するつもりだ」という意味の詩を書いて送りました。 放屁したから妻を離縁する。何という神経質なことでしょう。と結んでいる。
最後にどっと笑わせる「木山君の神経質」。 井伏鱒二の軽妙な文。「神経質」という言葉の裏にひそむ細やかな「木山」の気配りに向ける温かなまなざし。井伏鱒二の人間をみつめる目の深さであり、それこそ井伏自身がなす「神経質=心遣い」の「迷彩の施しかた」なのである。
本書はこのほか坪内逍遙、太宰治の最初の妻にまつわる「琴の記」、鴎外、安吾、菊池寛など思い出の人々を描いた名随筆集である。
2006年04月05日(水) |
さまざまのこと思ひ出す桜かな |
昨日は鶯の初ねを聞いた。
随分長い間隣家の木々にとまって鳴いていたようだった。 しばらくすると「梅にうぐいす」の言葉通り我が家の梅ノ木に止まっていい喉を聞かせてくれた。
夜になると雨になってせっかくの桜が散ってしまったところもあるのではなかろうか
しかし、腐っても鯛ではないけれど、「花いかだ」というものがある。 桜の花びらが川面にただよって桜の花いかだとなって漂うのである。
何と美しい光景と言葉だろうか。
花は散ってしまうと無残に成るものがある。 花の女王薔薇でさえもガクの部分にしがみつくように花びらの一片が残っていたりする姿はいたましい。 もっとも痛ましいのは今を盛りと咲く「白もくれん」ではなかろうか。 あの純白の花が茶色に変色して朽ちていく様子は老醜もかくやとおもわせるむごさである。
それにひきかえ桜はどうだろう。 ぱっと咲いたかとおもうと惜しむ暇もなくぱっと散ってしまう。 散った花びらは「花吹雪」となってうすべにのひとひらが可憐に舞うのである。 そして川もに漂うとき、それは川全体がうすべにのグラデーションとなってくだっていくのである。 それはあたかも筏(いかだ)の風情。 まさに「花筏」である。
花は桜木。人は武士。良くも悪くもぱっと咲いてぱっと散る無常観は日本人の心の底流にながれるものなのだろうか。
明るい春の日差しの中、野山は一面のパステルカラー。 心軽やかに浮き立つときでもある。 その浮き立つ中、散り行く花に、もの想う日本人とは何と細やかな情緒の持ち主なのだろう。
っとうっとりするのだけれども、それをかき消すようにお花見での落花狼藉。 花より団子。花より酒。花より馬鹿騒ぎのランチキが「お花見」の代名詞となるのはそう遅くないことだろうか。
西行の時代でも同じようなことだったようだ。 西行は桜ばかとよばれるほど桜の花を愛した人だった。 その西行が花見の客の騒々しさに嫌気がさして、庵の中のあちこちに花見禁制を出す。 そこへ洛中下京あたりからの花見の客が押しかけてくる。 おもわず西行は「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありける」と詠む。
つまり「桜よ、お前さんが悪いんだ」と桜に八つ当たり。 そこへ桜の精が現れて「桜ゆえに集う人のわずらわしさ」と云う西行の考え方は人間の考えかただと答える。 桜は無心の草木であり、人間世界でいう咎(とが)などであろうはずがないという。
これはお能「西行桜」の演目である。
いずれのときでも美しさを美しいものと心静かにめでるのは所詮無理なことなのであろうか。 奇しくも同じ話が佐藤春夫著「支那童話集」の中にあった。 書評『支那童話集』参照。
そのなかの一編「百花村物語」。 主人公は秋先という一人住まいの老翁。花を眺めては愛で、育ててはこれを愛し、四季を通じて花をたやさずにいる無類の花好き。 その愛好ぶりはといえば、もう散ってしまった花びらでさえも捨てないで皿の上にのせて眺め、ひからびると甕に入れ花のお弔いをするほど。また花びらが雨に打たれて泥の中にうめられると、幾度も幾度も洗い清めてそれを湖上に流すのだった。それを彼は花の浴(ゆあ)みだと思うのだった。
主人公は花を手折るものへ次のように言う: 「一たい花といふものは一年に一度だけ咲くものです。四季のうちたった一つの季節だけで、そのうちでもまたほんの五六日だけのものです。あとの三つの季節の冷淡な仕打ちを、かの女がじっとこらえて来るのも、このほんの幾日かを世の中へ出て、光や風に逢いたいという一念からなのです。これがふいに折りとられてしまいます。咲き出すのには長い辛苦で、折りとられるのはほんの瞬きをする間のことです。 花はものをいえないけれども、花だってこれが悲しくないことがありましょうか。」
花を手折る人を嫌って一時、秋先は庭を閉じてしまう。しかし、それは己の傲慢と知って後に村人に開放するが、それはお能「西行桜」の物語にも一脈通じていて興味深かった。
と私は思うのだった。 桜の話から随分長い文章になってしまった。
・さまざまのこと思ひ出す桜かな(芭蕉)
まさにみなそれぞの「桜」感があろう。
今の時期、花の風情に心を寄せてみようではないか。
平凡な人間に非凡な日々が続くことなどない。
子供の頃の夏休みの日記は夏休み最後の日に一ページも書いていなくて母に叱られながら創作日記を一日でこしらえた。 よその家の子のように、田舎があるわけでもない我が家。父は年中多忙。 どこかに旅行へ連れて行ってもらえるわけでもない。 そんな子が日々の日記を付けるのは耐え難いことだ。 何の変化もない日常。 文才があるわけでもない私が書く事と言ったら、日々食べたおかず。 これだってご馳走三昧であるわけでもない。
自分が食べたいと頭の中でそうぞうするもの、過去に食べた美味しかったものなどを羅列。
創作食事日記のできあがり!
毎日苺アイスクリームを食べました。ハンバーグでした。カレーでしたのお粗末日記を提出された先生は果たして読んでいたのだろうか? 一度だって添削や感想を書いた日記を返却されたことが無い。
じりじりと熱された暑い夏の日差しの中、「あ〜あ、つまんないな〜あ」と一人ぽつんと砂場でため息をもらしていた小学生の女の子の日常なんぞはだ〜れも関心がない。 たとえば、そんな女の子が「孤独」という言葉を知っていたら、日記のページは「孤独」で埋まっていたに違いない。
では女子大生時代の私に日記を書かせたら。 これは大変センセーショナルな出来事で埋まっている。 めまぐるしいばかりに変化に富んだ日々。 考えのユニークさ、小生意気な女子大生のたわごとほど愚かで、面白く、輝かしく、色彩にとんでいるものはない。
さてここで人間はなぜ日記をつけるのだろうと考えてみよう。
古典で言えば、「土佐日記」は紀貫之が土佐守の任を解かれて都へ帰る解放感を女性の日記として表現したり、 菅原考標女は「更級日記」を源氏物語を読めるという心の高ぶりから書いた。 岸田劉生は「癇癪日記」ではないかとおもうような癇癪ばかりの日記を書いて発散。そうかと思うと思いっきり個人的な、肉体の秘密まで書いてしまったりした。
日記というとすぐに頭に思い浮かぶのはあの永井荷風の「断腸亭日乗」だろう。 これは世に出す事を念頭に置いた嘘と誇張とに満ちたもののようだが白眉。 荷風らしく花街の風俗描写連綿、世相風刺などはさすが文壇人。しかし、弟との確執などは嘘だらけでこうした点をみるともう日記としてみるよりは創作作品として堪能するものとなる。 すごい人と言えば、あの野上弥生子さんの「野上弥生子日記」は何と62年もの長きに渡ったものだ。 こうなると激動の時代に生きた人の歴史的証言にもなりうる。読み込むうちにあの気品に満ちた人とも思えないようなめったきりの批評があってこれまたすごい。 それは芥川、志賀直哉、武者小路などはめちゃくちゃにばっさ、ばっさと切って捨ててある。 日記というのは人にみられないという解放感と共に、他方ではいつか誰かの目にふれるかもしれないという一抹の疑念と共に書かれるのが常だ。 樋口一葉などはその日記(20歳から25歳でなくなるまでの間)の内容から「処女性」を世の論争の種にされるとはユメユメ思わなかったことだろう。全くこの国の清純願望、処女礼賛の根強さには今更ながら驚くが・・・ 作家であり、初恋の人半井桃水と観相家、久佐賀なにがしとの関係をとり沙汰されて久しい。 今で言う「追っかけ」、昔流に言うなら「好事家」、「研修者」にしてみるとその作品や著書だけを研究、あるいは愛するに留まらず、そうした著者の一挙手一投足、はたまた関係者との肉体関係まで詮索して作品を読み込もう、あるいは心のひだまで読みたいと言うのは恐れ入るばかりだ。 また西洋ではあのアナイス・ニンの日記は彼女が11歳から亡くなる74歳まで続く。 アナイス・ニンは日記を父親が母親を捨てて他の女性のもとに逃げた時に書き始めた。父親に読んでもらう為に。 それ以来日記は彼女の無二の友達となり、そこに彼女は自分の全てをつぎ込んでいくように、いつでも日記を持ち歩いて寸暇を見つけては書いた。 日記はアナイス・ニンにとって常備薬のようなもの。
それでは市井の人間である私は、なぜ日記を書くのだろう? そもそもHPを立ち上げたのは日記を書くためであったようなものだ。 鉛筆を持って書くよりはタイピングの方が簡単で便利という利点もあった。 また、知った人がいないバーチャルな世界でおもいっきり自分を解放させて自己を表現出きると思ったから・・ それは雑踏の中での孤独と、何とも言えない孤立した解放感と似たようなもの。 そして何よりも私の場合は自分の心の声を吐き出さずには居れなかったことだろう。 田舎暮らしのさみしさや、両親を亡くした埋めようのない喪失感や、恋しいあの人のことや、読書メモや、日常のあれやこれや。 つまりはこんなことどもはまさに日記の特性である。 あまたあるHPにおける私という存在は雑踏にまぎれたほんの一粒の塵芥のようなもの。そんな存在としての日記。
服から飾りをとり 顔から化粧をとる 文から修飾語、美辞麗句、引用をとり 唇から追従をとる 削(そ)いで削いで 何もなくなる寸前まであらゆるものを削ぐ。 それは純米を磨いて、磨いて、研(と)いで研いで 一粒の米を研げるだけ研いで出来あがる極上の吟醸酒のように 自分の中からあらゆるものを削ぎ落として素になったとき どんな自分がそこにいるだろうか? 極上の吟醸酒になれるか? ただの細かくなった粒子にすぎないのか? 自分を磨くということはこの吟醸酒をつくる過程のようなものではないだろうか? そしてまた磨くと言うことはあまたの傷をつけることでもある。 あらゆる飾りを捨てて素で輝ける人になれるといいな。 ちっぽけな傷に泣くこともない、磨く途であると考えるなら。 遠い道、朱夏から白秋へ、そしてやがて玄冬へと続く道。 人生は短くもあり長い旅でもある。
今まで難解だからという理由で敬遠していたジョイスを読もうと思う。 アイルランドにはついぞ行かなかったけれど、ジョイスとアイルランドとはきってもきれない。 もっともジョイスは祖国を亡命(?)してイタリア、スイスなどに行ってそこで執筆活動をしたのだけれど、・・・来週からジョイスを読もう!
書庫に、もう本が入りきれなくなってきた。なんとかせねばならない。 もう買わなければよいのだけれど、そうはいかない。
本はよみたし、金欠病。 本はよみたし、時はなし。 本はよみたし、置き場なし。
開高健が谷沢氏の書庫にある本を読みたくて風呂敷を持って通いつめた気持ちは良く分かる。 谷沢氏は開高健と絶交しても書庫は常に開高に開放していた話は実に麗しい。 男の友情というものに嫉妬を感じる。 阿佐ヶ谷文士の面々も友情にあつかったし、佐藤春夫と堀口大學も終生の友情に変わりはなかった。
木山捷平の文が井伏鱒二のに似せていると悪口言われたときは井伏は「捷平と血族をあらそう春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」と色紙に記したのは井伏鱒二の優しさであり、思いやりであり、つまらない噂に配慮した歌だ。
井伏鱒二という人物はあの開高健でさえもその本心を聞き出すのに苦労した人物である。 なにげない会話の中に聞き逃してはならない言葉をさりがねなくいれる人である。
男の魅力は、なにげなさ、さりげなさの中にちらりとのぞくとき、それはいぶし銀のように光る。
※ここで書評欄にかつて書いた「井伏鱒二文集」ちくま文庫の中から木山捷平の人となりを書いたものを転載しようと思う。
本書は「井伏鱒二」が書く「木山捷平」である。
題して「木山君の神経質」。 ◇「私は以前から木山君は神経質な人だと見ていました。ただそれに対する迷彩の施しかたが一ぷう変わっているのだと思う」とある。 さて、井伏言うところの一ぷう変わった「迷彩の施しかた」とは何だろう? 木山が満州から郷里へ帰ってきた日のこと、釣りをしていた井伏のところへ挨拶にきた木山は ◇「『ついせんだって帰ってきた』といい、それから屈託なさそうに『このごろ僕のうちでは、僕が地主で女房が小作人だ』と言いました。つまり奥さんが家庭菜園をし、そこへ木山君が満州から帰ってきて奥さんがほっとしているという意味だと解されました。」
さすがに井伏鱒二。この大陸的でちっとも神経質でなさそうな言葉の裏をこう書き表して妙味。 「満州から引き揚げてきたころの木山君は神経質な面を裏返しにして見せるという点では更に年輪を加えているようでした。」とある。 木山の「神経質」を「迷彩の施しかたが一ぷう変わっている」「神経質な面を裏返して見せる点では更に年輪を加えているようだ」と書いていて意味は深い。 さらっと書いているようで井伏鱒二独特のひとひねりが効き、人間を見る目の深さがうかがえる一文である。
この時の事を木山の随筆「井伏鱒二」と比較してみよう。 ★ 「私の留守中、私の家内はたびたび井伏氏に手紙を出して、捷平がいまどこにいるのだろうかと井伏氏に筋違いな難問を発して井伏氏を困惑させていたらしい」とある。
そんないきさつを木山は井伏に侘びて感謝したかったのであろう。お陰で今は安穏であるということを「地主と小作人」とユーモラスにしてみせる木山の「神経」。その神経の細やかな気遣いをいち早く察して「神経質な面を裏返して見せる」と表現する井伏。
引き揚げ後のもう一つの「神経質」を井伏はこう書く。 ◇「某新聞社の家庭欄用の詩の註文を受け、「女房が放屁した。くさかった。故に離縁するつもりだ」という意味の詩を書いて送りました。 放屁したから妻を離縁する。何という神経質なことでしょう。と結んでいる。
最後にどっと笑わせる「木山君の神経質」。 井伏鱒二の軽妙な文。「神経質」という言葉の裏にひそむ細やかな「木山」の気配りに向ける温かなまなざし。井伏鱒二の人間をみつめる目の深さであり、それこそ井伏自身がなす「神経質=心遣い」の「迷彩の施しかた」なのである。
本書はこのほか坪内逍遙、太宰治の最初の妻にまつわる「琴の記」、鴎外、安吾、菊池寛など思い出の人々を描いた名随筆集である。
詩について荒川洋治さんの本を再、再読してさらに考える日々。
詩と散文について以前Jさんが大変興味深いことをお書きになりました。 とても印象に残っていてその文が頭に焼き付いて離れなかったのですが、今日フランス文学者篠沢秀夫の第一詩集を読んで、Jさんのことばがより鮮やかによみがえって、その意味の深さに考えをあらたにしました。
Jさんがお書きになった文を転載いたしますが、どうぞお許し願いたいと思います。
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こんにちは,ろこのすけさんが恋文について書いていらっしゃいましたので,感想などを少々。
遙か昔ぼくも恋文などを書いたことがありまして,高校生と大学生の頃でしたでしょうか。これは僕だけなのかもしれないのですが,そのふみが散文にどうしてもならないのです。中途半端なものではありますが,あきらかに詩のようなもになっていました。 これはぼく自身に散文にするだけの頭がないのか,それとも恋文というのはそういうふうに感情を詩のような形式で発露するものなのか,どっちなのだろう,と考えたことがあります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この文がどうしても印象に残って頭から消えませんでした。 それはつまり「散文と詩」の働きの相違についてです。
篠沢教授が刊行当時69歳という年齢で第一詩集を出したことは意味が深いと思いました。 さらにその詩集のあとがき「詩のあとで」を読むとこうかいてありました。
「それまで息子の死に触れたことがなかった。雑誌やインタビュー、エッセイ、人正論的著書などにおいて、一切触れなかった。 昭和五十年(1975年)八月二十九日、十五歳の誕生日を十月に控えて、九十九里浜に呑まれた長男玄(げん)の事故死について、十年は個人的な場でも口にすることができなかった。そのあとの十数年も隠そうとするのではないが、触れたい気がしなかった。しかるに詩を書くとなるとそれが出て来る!それはまた自分の死を含めて、死の想念に広がる。」 「誰にも語れなかった悲劇について、散文で書いたり語ったりはできなかったのに、それまでほとんど書いたことのない「詩」でなら書けることに気がついた」というのです。
荒川氏は詩と散文の違いについてこう書いています。
「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。散文はつくられたものなのである。」と。
篠沢教授が誰にも語ることができなかった愛息の死を真正面から語ることができたのは「詩」だったからです。 実際、篠沢氏は「誰にも語れなかった悲劇について、散文で書いたり語ったりはできなかったのに、それまでほとんど書いたことのない「詩」でなら書けることに気がついた」と書いています。
恋と死とを同じ線上で語ることはできません。しかし、どちらも心の真ん中にある大切な感情です。 ひと言でもつくりものであってはならず、間違いのないまっすぐな自分の心をあらわすのは「詩」の形なのです。 荒川氏の説く「「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。散文はつくられたものなのである。」がその答えになっているでしょう。
篠沢教授の第一詩集の書評を書いてしまいましたが、もしかしたら載せるべきでなかったかもしれません。 私ごときものが安易に感想を述べるような作品ではなかったと思いました。 子を亡くしたその苦しい年月と慟哭を詩の最後「白い波」に見たとき、ことばを失いました。
まさに「詩」は心のまんなかを貫くもののあらわれです。 Jさんの真摯な問いに応える事ができなかった不甲斐ない私でしたが、荒川洋治さんの「詩とことば」を読み、篠沢秀夫さんの「彼方からの風」を読んでその答えをみつけました。
・お昼寝や夢はお菓子の山を駆けめぐり
旅にやんで夢は枯野をかけめぐり の本歌とり・・・もどきになった! ・「本歌とり」とったつもりが取り逃がし釣瓶とられてもらい泣き(これも本句とりだ〜あ!)
三島由紀夫は「五衰の人 」。私は「午睡の人」
The Daffodild William Wordsworth I wander'd lonely as a cloud That floats on high o'er vales and hills, When all at once I saw a crowd, A host of golden daffodills, Beside the lake, beneath the trees Fluttering and dancing in the breeze. 水仙 谷や丘の上たかく浮かぶ雲のように 私はひとりさまよいあるいていた そのときふと目にしたのは 金色の水仙の大群が 湖のほとり、木立の下で そよ風にひるがえりおどるさま。
・・・と詩ったのはワーズワースだった。 水仙の花の高貴な香りは清らかな世界にたゆたわせてくれる。 水仙の花というと三島由紀夫の「唯識説」を思い出す。それはこうだ: 「世の中のあらゆる存在は、識すなわち心のはたらきによって表された仮の存在にすぎない。しかし、、それだけなら、単なる虚無になってしまう。一茎の水仙は、目で見、手で触れることによって存在する。だが眠っている間、人は枕もとの花瓶に活けた水仙の花を、夜もすがら一刹那一刹那に、その存在を確証しつづけることができるだろうか?人間の意識がことごとく眠っても、一茎の水仙とそれをめぐる世界は存在するのだろうか?」
『暁の寺』では三島由紀夫は「世界は存在しなければならない」と何度も書いている。世界がすべての現象としての影にすぎず、認識の投影に他ならなかったら、世界は無であり存在しない。「しかし、世界は存在しなければならないのだ!」と繰り返す。
難しい陽明学をもとにした考え方なのだろうか?こんなことを考えながら日々を過ごしていた三島由紀夫という人物は早くから五衰の人となってしまっていたに違いない。
不可解。 水仙の花というと思い出すのはワーズワースと三島由紀夫の「唯識説」。 明日も今日も、あさっても単純に生きていくであろう私には虚無も実存もない。
三島由紀夫が「五衰の人」であるなら私はただひたすら「午睡の人」である
2005年10月17日(月) |
黒髪とファムファタル(運命の女) |
美容院で髪をカットしてもらった。 ばっさりと切りたいと思ったのに、美容師さんが惜しんで切ってくれなかった。変なの! でも少し軽くなったので心も軽やかになった。女の髪は命・・・だなんて昔の言葉? いえいえ、今も命とまではいえないけれど、たった1cmのことで一喜一憂するのが女。
また話が蒸し返るけれど、ラファエル前派の時代、あのファムファタル(運命の女)を描いたロセッテイの絵には秘密がある。 ロセッテイは女しか描かなかった。その絵の女性の髪はほとんどゆたかに垂らした長い髪である。キリスト教社会では女性は本来罪深い存在であり、長い髪は罪の象徴だった。したがって女性は人前では髪を結い上げ帽子やかぶりもので髪を隠さなければならなかった。その名残であろうか、今も正式な洋装姿は帽子をかぶる。皇室の貴婦人方をごらんあれ! さて脱線したが話を戻そう。 つまり女性が髪をほどくのは寝室のなかだけだった。
すなわち、ロセッテイの絵の女性はタブーを破って豊かな髪をさらして魅惑している。 ファムファタル(運命の女)とよぶのにふさわしい光彩が画面から放たれている。
いかがであろうか? 「髪は女の命」ならぬ「女の武器」のようでもあって、なまめかしいではないか。
女の私から見ても実につやっぽい女の動作とは「髪を梳く姿」であると思う。 長い緑なす黒髪(?)を櫛けづる姿は実になまめかしく美しい。 茶髪に染めた傷んだ髪などおよそ色っぽさからは遠い。
漆黒の髪を束ねるためにピンをくちにくわえ、後ろ手にくるりと器用に束ねた髪を結い上げる姿はまさに「よくぞ女に生まれけり」と言いたくなる。
結い上げた髪のほつれが白いうなじに一筋ながれ、緋色の長じゅばんがはらりとはだけたりする。 品が落ちるかおちないかの瀬戸際の表現である。 これをあの与謝野晶子が美しくもろうたけた寝姿の詩を詠んでいてすばらしい。
ひとり寝
夫の留守の一人寝に わたしは何を着て寝よう。 日本の女のすべて着る じみな寝間着はみすぼらし、 非人の姿「死」の下絵、 わが子の前もけすさまじ。
わたしはやはりちりめんの 夜明けの色の茜染め、 長じゅばんをば選びましょ。 重い狭霧(さぎり)がしっとりと 花に降るよな肌ざわり、 女に生まれたしあわせも これを着るたびおもわれる・
(以下省略)
さて、ここでまた髪の話に戻すとしよう。 与謝野晶子の歌には「髪」の歌が多い。
その中でも有名な歌を引いて今日の日記のお開きとしよう。
・その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
・黒髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる
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