こんな一日でした。
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村上龍の「半島を出よ」は、思ったよりもはるかに笑える。そうか、青春群像でもあったのか、と思う。 物語は一筋だが、大きく分けて二つの視点で進んでいく。殺人や暴力に対する抑制の利かない日本人の少年達(中年を含む)の個々人の視点と、北朝鮮特殊工作員達の純朴で、画一的な視点、その対比が面白い。どちらも、尋常ではないが魅力的で、暴力に冴えていて、もの知らずで純朴。一番恐ろしいのは、そういう者達なのかもしれないが。
生ぬるいあなたをはき出そう、とUAは歌ったが、これは聖書に出てくる言葉。カトリックの作家、遠藤周作は、「白い人、黄色い人」でそれを書いた。しかし、彼は近代の人だから、黄色い人の中に、確信や絶対をもつ人間達がいると前提には出来なかったのだろう。西洋と東洋という分け方で、語られなかった多くの黄色い人々を、もっと知りたいと、私は思う。
村上龍の「半島を出よ」を読み始めた。 彼の「愛と幻想のファシズム」「五分後の世界」「ヒューガ・ウイルス」「希望の国のエクソダス」という作品群が、私にはすさまじく面白い。 これらを読んでいると、本の中の世界があまりに緊迫しているので、読書を妨げる現実社会の事物に対して「それどころじゃないから!!」と、言い放ちたい衝動に駆られる。心は架空の革命の虜である。劇画的だという批判もあるに違いないが、そんなこと言ったって「それどころじゃないから!!」なのである。
愛知万博の影響なのか岡本太郎の本が再販されている。「今日の美術」という名著とされている本が出ていたので、とりあえず読んでみた。現在の感覚で読むと、そう大して驚く内容でもなく、むしろ普通すぎてつまらないくらいだ。あとがきの赤瀬川源平さんがおっしゃるように、現代美術的なものがそこらじゅうにあふれた今は、それを疑ってかかることこそ岡本太郎が当時、この本に書いたことの主旨に沿うことになるだろう。 権威化されたもの、曖昧で生ぬるい予定調和を、簡潔にばっさばっさと切り倒す岡本太郎の言葉は「即効性」を持って当時の若き作家達を力づけたというのは良く理解できる気がした。
覚醒、革命、そして力。 私は多分、革命の中にあったなら掃いて捨てられる方の人間かもしれないと思う。それでも、その渦中にいる緊迫感を想像すると清々しくなってくる。 しかし、美術というのは日々革命の中になければならないもので、私がそのことに鈍感にいるだけのことだ。「それどころじゃないから!!」と、制作以外全てに言い放つ緊迫感を持たなければいけない。
夕方から、激しい雨と雷。しかも地震まで起きたので 我が家の恐がり犬はガタガタ・ブルブルである。
制作中の私のそばまで来て「あの〜、あの〜」と言う。 抱っこしてやると、ふるえの激しさがよく分かる。 仕方がないので、抱っこしてベットに入る。 掛け布団をすっぽりかぶせて、しっかりとホールド。 震源地は、愛犬の内臓か?と思うほど、魂の奥底から ガタガタブルブル…
小さな時はちっとも恐がりじゃなかったのに、 いつからこんなになったのかな? ビデオを観るのもひどく怖がって、必ず二階に上り 自分の毛布で怯えている。 最初はエイリアン物だけを怖がっていたが、 次にホラーが駄目になり、 アクションも駄目になり、 ついには恋愛物ですら駄目になった。 喧嘩が起こりそうになると、もう怖いらしい。
カミナリからどうすれば逃げられるかと、 台所、二階、トイレ、廊下…と放浪し、 いつもはあれほどいやがる浴室にも入ったらしく、 廊下が彼女の足跡で濡れている。 自分が怖くて入らない場所には、 カミナリ様も怖くて来れないに違いない、 とでも思ったのだろうか?
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