私の雑記帳
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2012年06月10日(日) |
私はどうすればいいのか |
昨日の新聞で知ったが、元・フリートウッドマックの メンバーでもあった、ボブ・ウェルチが拳銃自殺した。ショックだった。
中学の頃だったと思うけど、ボブ・ウェルチ結構好きで、 LPも1枚持っていた。 「エボニーアイズ」の人だけど「悲しい女」も好きだった。
Ebony Eyes
今野雄二も田中実もボブ・ウェルチもみな自死してしまった。
明日が父の四十九日で、週末に妹が来て父を偲んだ。 そのこととは別に、どうにも辛いことも言われて 涙に暮れた。 私は、自業自得とはいえ結局一人ぼっちなのである。 誰かにどうかしてもらおうなんて、おこがましいのは わかっている。 私は子供の頃〜成人する頃まで鬼畜のように妹を虐めて 罵って虐待した。 因果応報、だから今の言いようの無い悲しみ苦しみと孤独が あるのかもしれない。
仕方ない、と言っても、もう辛い。 このまま生きていく意味があるのだろうか。 生きて、妹に罪の償いすら出来ず、 「だれも私をわかってくれない」などと くだらない愚痴をこぼし、孤独に浸る、そんな ダメな私に生きる意味はあるのだろうか。
今の自分が惨めでならない。
母方の伯父が亡くなり、今夜は通夜だった。 私の妹以外の従兄弟6人が全員集まった。 みなほぼ同世代、30年ぶりの従姉妹もいて 懐かしかった。 従姉妹会をやりたいなと話がでるが、まだ子育て世代も いて、たぶん無理だろう。 集まるのは、こういった悲しみのセレモニーの 時だけ。
母は実の兄が亡くなったというのに葬儀に出るから 通夜はいいという。(隣町なのに) キチガイだからどうしようもないのだが、 明日の葬儀には母もつれて行く。 昔から母が大嫌いだ。私たち家族の諸悪の原因の女だ。 早く母から離れたい。 父が私を迎えに来てくれたら良いのにと思う。
伯父の葬儀、伯母も一人娘である従姉妹も泣いてない。 むしろサバサバしている。長く患ったこともあるのだろうが 私と妹の涙とは対照的だった。
伯父さんは見る影も無く痩せていて別人の顔だった。
人は生まれて死ぬ。 なんのために・・? 辛い思いをするために?
父の異変に私の娘が気がつき、救急車を呼んだのが13日の夕方。 長いこと寝たきりの状態だったらしく手足が全く動かず 意識も朦朧としていた。
少なくとも肺炎の状態は確実にあったのだが 強い薬で炎症反応も下がってきていた。 急変は覚悟しろと最初に言われていたが、 おかゆと刻み食ではあっても口に入れてやれば なんとかたべていた。 意識はもちろん頭もしっかりしていて、意思の疎通も会話も 普通に出来ていたのだ。 このまま命だけは取り留めたと思った。
私は13日からずっと病院に泊り込んでいた。 「急性期が過ぎたらリハビリ病院に移ってもらう ことになるから今から下見に行け」 「介護保険の申請をしろ」と言われていて 合間を見てそれらもこなした。
しかし22日に様子が急変、意識が朦朧としているようになり 再びレントゲンを撮ったところ、肺の機能が著しく低下していて 酸素は入っても、もはや二酸化炭素を吐き出せない、というのだ。 つまりは、それは死を意味していた。
24日の午前1時26分に、父は静かに息を引き取った。
葬儀は整然の父と私と妹の意向で、身内と近親者だけの 家族葬の形をとった。 葬儀なんて全然わからない私と妹だったが、 祭壇の花は父が好きだったカサブランカ、てっせん(クレマチス) 芍薬、バラ、チューリップを取り揃えて、美しく飾ってもらった。 また、父が1970年から毎年作っていた木版画の年賀状を 写真立てにいれて展示した。 得意の編み物も、私や妹や孫のために編んだ力作の中の一部を 展示した。 ちょっとした父のミニ展示会のようだった。
26、27日と通夜、告別式を妹と何とかどうにかやり終えた。 長女の私が喪主だったが、妹がそばに居てくれなかったら なんにも出来なかった。 告別式とそのあとの食事会を終えて帰途に着いたとき うまくは出来なかったかもしれないけれど、どうにか 二人でやり終えたね・・と妹がつぶやいた。
うちの母は極度の発達障害さながらに頭が変なのだが そんな母が一人残ってしまった。 今後の諸々の手続きは母のせいでどうなるかわからない。 納税の概念さえない、どうしようもない母なのだ。
お骨は私のアパートに安置した。 一番可愛がられた孫の部屋に今は居る。 あのブタ小屋以下の実家にはもう返せない。
母が異常者だったせいで我が家は父が母でもあった。 私たちは父と私と妹の3人で肩を寄せ合って生きてきた。 私も妹も父を失うことが実は一番怖かったことなのである。 それが起こってしまった。 ついに、父を永遠に失ってしまった。
ほぼ近親者と極親しい友人のみの小さな集まりだったが 生前、父がみんなに愛されていたことが、 ひしひしと伝わってきて それが嬉しくも切なくて、何度も涙が出た。
大切な人を失う、ということがどれだけ苦しいことか 想像していたけれど、やっぱり想像を絶する苦しみの中にいる。
亡くなる少し前、私が「人生は一生修行だよねぇ・・」と つぶやいたら、父は「大半の人がそれに気が付かずに 一生を終えるんじゃないかな」と言った。
父は弱い身体で、精一杯生きて私たちを育ててくれて 孫も可愛がってくれた。 晩年、近所に居るのに私がイライラしてそばに寄らなくなった せいで、父は死んだようなものだ。 母がダメな人間だから、私が我慢してでももう少し 気を配ってやるべきだった。 わかっていたのに・・・わかっていたのに・・・ 私が父の死期を早めたのだ。もう少し早く気が付いていたら、 肺炎にならなければ、もう少し生きられたはずだった。
急変後の病床で医師から絶望的なことを聞かされて 取り乱して妹やその連れ合い(医師)と個室のその部屋で 携帯電話で話している最中、 父は目に涙を浮かべて 「どうして、こんな悲しいことになってしまったんだろうね・・」 とつぶやいていたと、そばに付いていた私の娘が聞いていた。 たぶんそれが最後の会話だったと思う。
なんて悲しい言葉じゃないか・・・ こんな悲しい思いをするならもう二度と生まれてこなくていい。
妹と「(家族さえいなかったら)おとうちゃんのそばに行きたい」と 涙ながらに話す日が続いている。
大事な人を失ったのだから辛くて当たり前の出来事だと思う。 また、各人に各人の後悔があるだろう。
私は耐え難い思いをかかえながら、まだ生きなくちゃいけない。 残酷だなあ・・。
友人と行きつけの日本茶喫茶のお店に行き、新茶(種子島)を飲む。 初物なので期待したが、なぜか全然美味しくなかった。 新茶の香りも風味も無く、残念。
友達ととりとめの無い話をする。 友人にはつまらない話かもしれない。
ベランダのチューリップが見ごろ。 もっと土いじりをやりたいなあ。
父とは最近連絡とれず。 寝たきりに近い状態なのだが、色々と私が怒っているので 連絡もよこさない。 高齢なので心配だが、子供に「半分ボケて動けない爺さんに 何かを言っても要求しても無駄。怒るのは自由だが、だったら もうかかわるな」と注意された。 むなしい。父はこのまま寝たきりのボケ老人となってしまうのだろうか。
私はどうしたらいいのだろう。 いい年をして、自分でどうすることも出来ない。 ただ生きているだけの惨めなおばさん。
明日から新しい生活がスタートする。
きっと大丈夫、何とかなると思いたい。
私は自分の道が見つかりますように。
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