私の雑記帳
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2012年09月24日(月) 災難多し

浜松に滞在する友人に会いに行く。

ちょっとした家族のトラブルに見舞われている彼女の
話し相手になろうと思ったのだが、体調を悪くした家族がいたので、
軽食を食べながら30分ほど話をしただけで、たいした話も出来なかった。

往復新幹線だったので痛い出費。
プラス駐車場代金。


私自身、やらなければならないことをたくさん後回しにしている。
これではいけないと思いつつ。

父が亡くなって今日でちょうど五ヶ月。
寂しくてたまらない。


2012年09月01日(土) 伊勢神宮に参拝したい

詳しい友人に聞いたら、一番すごいと感じる神社は伊勢神宮だと。

不幸続きの今年、これでもかと思うほど不幸や災難が重なるので
払ってもらいたいのだ。

午前中の早い時間にお参りしないと、どこの神社でも同じだけど、
帰ってしまうそう。だから、早く行かなきゃダメだよ、と教わった。

うちからはちょっと遠い。名古屋まで行って乗り換えて・・しか
ないと思う。

神頼みなんて、私らしくないけれど、見えない力にすがりたくなるのは
父が亡くなってしまったからだと思う。

もう少し心が楽になって生きたい・・と思ってもう随分になる。
時間だけが過ぎてゆく。


2012年08月31日(金) 八月が終わる

一番好きな夏の終わりの始まり・・。

大人になっても8月の終わりはとても寂しい。


2012年08月11日(土) この世は泡沫でも

4月に父が、5月に伯父が、6月には従兄弟が亡くなった。
血縁者ではないが7月には妹の舅が亡くなった。

7月末の従兄弟の四十九日法要まで、
気の張った日々が続いていて、ようやくひと段落かと思ったが、
そうもいかない。

今週末には上京し、1年生になった下の姪をつれて来る。
実は来週、義弟の手術がある。それも重篤な病気で。
病気のことも相当だが、義弟のうつ病も深刻な状態らしい。

妹は入院する夫に付き添わなければならないので、
小さい姪だけこちらで預かることに。
6年生の姪は受験勉強の山場だが、父親の病気のことは
知らされているそうで、心理的な負担も相当だろうと思う。
祖父二人を見送り、今度は父親の病気である。
そして嫌と言うほど勉強しなければならない受験生の夏。

妹は4月に異動して新しい仕事に忙殺される日々の中、
父のこと舅のこと、夫のこと、極限状態のようで
かける言葉も無い。

妹自身もうつ病の治療中で、今年は仕事を辞める寸前まで
来ていたのに今の状態では、妹が一家を背負う日が
来るかもしれず、辞めることはできないだろう。

今年は私たち姉妹にとって数々の不幸な出来事が濃縮された一年となった。
今を乗り切って、そして早く今が底だったと思いたい。

色々あるということは、それだけ忙しく、
父の死のことだけを思いつめているより
いくらかマシなのかもしれない。

生前、父は自分の最愛の母親を私が生まれる2週間前に失ったが
私が生まれて忙しくしていて気が紛れたと言っていた。
私も父が亡くなったことに正面から向き合うのが心底怖い。
時々、向き合ってしまって泣いてしまうし
生きている意味もないように思うが、
それなりに忙しいと、良くも悪くも気が紛れているのかもしれない。
そうやって時間は過ぎてゆく。

生きてることにあまり意味は無い。
泣いたり笑ったりして時は過ぎ、そして土に還るだけなのだと思う。

ただもう少し、残された子供達のサポートと、
妹の手伝いくらいはしてやらないと、人の道に外れるなぁと思うので
もう少し頑張ってみようと思う。


2012年06月23日(土) 続く不幸

4月に父が亡くなり、父が家を建て独立するまで長く本家で一緒に暮らした、父の甥(私の従兄弟)が突然亡くなった。
父の葬儀では、弔事の代わりにお別れの言葉を、私たち姉妹が生まれる前の昔の父の思い出を、心温まる言葉で語ってくれた、本家の家長である。
仕事や町内連合会の役員などの激務で40代から透析生活になってしまっていたが、60で務めていた農協を退職して、今は悠々自適の生活だった。
父の生前、父がいなくなったあと困ったことがあったら、その従兄弟を頼るように言っていた、その人である。父が亡くなって二ヶ月も経たないうちに、もう向こうに行ってしまった。脳溢血であった。

一昨日が通夜で昨日が告別式。出棺の時の従兄弟のお嫁さんや子供たちの胸が張り裂けそうな悲しみが伝わってきて、どうしようもなく辛かった。私も大事な父を失ったばかり。大切な人との永遠の別れがどれほど辛く苦しいか知っている。

向こうで父とあったら父に「なんだ、もう来たのかね〜。ちょっと早すぎるよ」と言われていると思う。

父の葬儀の時のお礼の電話で話したのが最後になってしまった。
父方の本家の家長であったため、あらゆる取りまとめ的なことを引き受けてきてくれた従兄弟。うちだけでなく、どの家もこれからだれに相談したらいいのか途方にくれていることだろう。

20年、透析をやっていたからおそらく長生きは出来ないと思ってはいた。
でも、亡くなる時は、あっという間だった。本人は自分が死ぬという意識もなく、数日間の昏睡状態を経て息を引き取った。苦しまなかったことがせめてもの救い、と思いたいがそんな簡単な割り切り方はできない。

「五郎さん(うちの父)とは年の離れた兄弟のようで、喧嘩もしましたが、子供の頃は紙芝居やら手品やら、近所の子供達も一緒に遊んでくれたので、地元の同世代の人間で五郎さんを知らない者はいません。それは60を過ぎた今でも語り草です。東京オリンピックの頃に当時はまだ珍しかったカラーテレビをおばあちゃん(父には母親)のために買ってくれたりもしました。我々の自慢の叔父さんでした。」

というようなことを語ってくれた従兄弟。私自身の記憶はないが私が2歳に家を建てたのでそれまでは私も本家で暮らしていたのである。
小学生の頃は父が少しノイローゼになったこともあり、週末ごとに泊まりに行っていた。
だから、大勢いる従兄弟の中でも、本家の従兄弟は私たちには特別な存在だった。

あの世なんてないというが、できれば向こうの世界で父や他にも先に向こうに行ったみんなと再会して、いろいろ積もる話をしていて欲しい。

大事な人たちが次々と向こうに行ってしまうけれど、どうかどうか冥福を祈る。

人間は生きているうちに、やりたいことをやっておかなければと妹が言った。
その通りだと思う。
でも私の今の生活を、どのようにしたら良いのかすら、まだ私にはわからない。

ただただ寂しく悲しく辛く、途方にくれているだけの状態なのである。


pearl〈パール〉 |MAIL

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