2012年06月13日(水)
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『シレンとラギ』@青山劇場
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先日の藤原新也から、本日は竜也へ。『シレンとラギ』の感想を。
いやぁもう。。。良かった。
2階席の1番前だったので表情はいま一つ見えないが舞台の全景が見えて、これはこれで満足。 群舞ならぬ群演技(?)。十数人の動きを俯瞰で見て、その計算しつくされた動線に感動する。 3次元把握がすごいぜ演出家。
ライティングと抽象的な舞台セットもいい。 場面説明として必要十分でありながら、観客の想像力の飛翔を邪魔しない。 むしろ「どんどん飛ばせー。好きにイメージ膨らませぃ!」と背中を押しているような存在でありました。
続いて役者の話。 まず、前評判どおり、カッツミー高橋克実のエロかっこよさに落ちる。 冒頭の説教シーンでの空気のつかみ方はすごかった。会場全体に投網を投げて片手で手繰り寄せる。 気持ちをざっくりわし掴んでいった。圧倒的でした。 あんな教祖がいたら信者増えまくりだ。 映像でこの手の役あるかなぁ。湿ったノワール映画あたりでがっつり見たいな。
古田新太の殺陣は、早いと華麗のあわせ技。 ちょっとキャラクター設定が弱かったかなぁ。 でも、どうしててくれればという案もなく。 ミサギがもうちょっと魅力的であれば動機付けが強くなったのだろうか。
以前アメトーークでバカリズムが、バーターの場合は名前の後ろに、(バーター)とつけろと言っていたが。 つけた方がいいよなと思った。あ、でも演劇見に行くような人はわかってるか。
じゅんさんとのコンビは最高。 ストーリーへの戻りがジェットコースターなみにがくん!と落ちる落差と速さが気持ちがいい。 「高い〜高い〜」のあの原始的な快楽に似ている。
竜ちゃん。藤原竜也の声は、仙骨から背骨を駆け上る。 息と音とのバランスがたまらん。 高低強弱のみならず、声に色がある。 あの声でささやかれたら、説法されたら、この教団も信者増えまくりだ。
殺陣がちと弱い気もしたが、まわりがまわりだから、そう見えるのは止むを得ないかと。
葛藤し、のたうちまわり、年上の女にはまる。 ここらが観客も見たいし・製作陣も見せたいところなのか。 パブリックイメージもしくは十八番。たしかに逸品。 この路線で60歳になっても是非。(。。。今一つ想像ができんが)
って、3名が良すぎて。 永作博美がかすんだ。いや、良いんですけど。 凛としてて、その一方ちょっと疲れたやさぐれもあり、リアル。 でも、彼女のクローズアップに耐える表情表現は映像のほうが向いてる気がする。
あほの王は気の毒で、終いには泣けてきた。 それをまた"カメ"(と未だに呼んでいる)がいかにも無邪気に演じるもんだから。
劇団員+ゆっきーは磐石の安定感。 要するに全体的にぎゅっと絞られてて、無駄も遊びもこみで余分なものは一つもなく、 派手でキャッチーでキッチュで笑えてわくわくして、そのくせ職人芸で、夜店のうさんくささと闇の怖さもある。 イメージだが後ろに色街を従えた戦前の浅草花やしきのような舞台でした。
エンディング。 シレンとラギがお互いに腹を刺し合って血脈を断ち切り、血を地面に返す展開が常套と思いきや。 穢れた血を使って人々の命を救う旅に出る。
日記を遡ると、蛮幽鬼の感想があった。 『皆殺しにして新しく築く。ノアの箱舟の話だよ』というグレアム@はみだしっ子の台詞を思い出したと書いていた。 へぇそうなの。(やっぱ日記は書いておくもんだ。後で読む自分のために) 今度は皆殺しにされた人を蘇生する。変るもんだ。
これが時代の空気か。 善悪二元論を突き詰めても先がないのは皆感じているところ。 皆殺しが絵空事ではなく可能性に近づいた事故も経験した。 勝ちと負けをつけたがる風潮はいまだ世間を覆っているけれども、この手の作品が出たっつーことは風が変わる前触れなのかもしれない。
今度の16日(土)のドラマ『永遠の泉』の原作は、連載時にいくつか読んだ。 著者は藤原新也。
彼の作品は随分と昔、何冊か読んでいた。『東京漂流』『全東洋街道』『乳の海』とかだ。 『東京漂流』では、80年代当時を、土地を人工物で覆い/行動は管理し/生物の野生が去勢されていく時代と書いていた。 川俣軍司の写真を覚えている。 荒ぶる野生を汚いものとして排除する時代の表出、として書いていた。
まさに、そのナマの生き物感が、当時の藤原新也の写真からは濃く匂っていた。 生き物の暖かく湿った空気が匂い立ちそうな写真に凄いなと思いつつ、異質なものと感じ距離をおいた。 異質感の発生元は世代と出身地の両方だろうなと感じた。
久しぶりに読んで、"枯れた"との印象を持つ。 川の流れに例えるのはべただけど。 世代だ文化だ環境だと色々違っても、結局ゆっくりと同じ海に流れ込むんだなぁ、って。 あ、枯れたのはお互いか。
辿り着く海は「出来るだけ(絶対はないから)盗まず殺さず、心穏やかに日々を送るには、どうしたらいいか」ということ。 自分が関わる森羅万象を、まるっと受け止めて慈しんで手放して見送るってことかなぁ。 が連載時のざっくりした感想。
寺尾聡が自身の代表作とまで言った作品を、楽しみに待つ。 山本さんの熊本弁が新鮮!
最後に。 通り魔で思い出した川俣軍司。 改めてぐぐって知った。「電波がきてる」はこの人だったのか。
そういえば、最近の通り魔は「電波がきてる」とも言わなくなった。 もう電波すらこないのか。それほど自然と離れたか。どれほど閉塞してんだか。
占星術的には35歳前後は、太陽の年齢域から火星の年齢域に移る時期と言われる。 前後を省略すると、16〜25歳が金星の、26〜35歳が太陽、35〜45が火星の年齢域だ。 もちろん年齢はぴったりではなく、おおよそこのあたりという意味だ。
牛を捕まえる過程を描くことで、人間の悟りへの階梯を解いた禅の経典、十牛図に重ねると、 それぞれ見蹟(牛の足跡を見つける)、見牛(牛を見つける)、得牛(牛を捕まえる)と、言われている。
ざっくり言うと、金星の年齢域は『自分はこういう人間?こういう生き方をする?という予感・手掛かりを掴み』、 太陽の年齢域で(大河・清盛の言葉を借りると)『それを自分の軸とて固め』、火星の年齢域で『世間に自分を打ち出していく』となる。
演劇に例えると、演目を決めて⇒稽古して⇒発表して、のような感じ。
と考えると論語とも平仄はあう。 あれは10年単位だが、30にして立つとは、25歳での"演目決定"を終えているとのことだし、 40歳の不惑は、太陽期の後だ。
それぞれの年齢域。 誰もがきちんと惑星の意味するところを燃焼しつくすわけじゃない。 ぐずぐずだったり、身近な人に(夫とか)に託してやり過ごす場合もある。
太陽の年齢域を活かしきって生きると、"自分はこういう人だ"との揺るぎない核が出来る。 火星期には、それを俗(世間・時代)と折りあわせて行くことになる。 その過程で避けられないのが、火星の象意。戦い・摩擦・葛藤。
結果、傷がつく。自分が作り上げた美しい生き方に。
気高き理想、美学を貫くこと。 自分の人生を十全で一点の曇もないものとして生きること。
世間と折り合う以上それは無理。 火星期は、きらきらでけがれの無い透明に磨き上げた水晶球のような自分の美しさを、 砂嵐にさらすようなもの。
自分の美しさを守るためのFadeOut。 ぐだぐだになってまで時を重ねることを潔しとせず席を立つ。 あるいは、薄汚れた俗世に弾かれて無念の退場。
自分の核が美しく・硬く出来ているが故に火星期への移行をせずにこの世を去る。 35歳前後の死には、そのような解釈がはまる場合もある。
と聞いた時に、土方さん・頼長さま・半兵衛さま・ジョナサン・モーツァルト。 おや皆ハマるなぁと思った。 彼らの生き方の在りようがぼやっとしているとは誰も思うまい。
宮澤賢治もそこに入ると先日の朗読会で思った。 享年は35歳ではないけれども。
薄桜記の典膳さまも(二次元ではあるけれども)原作を読む限りは、美しく生きることに固執し破滅していく。 滅びのカタルシスと手の届かない美しさ・正しさへの俗人の憧れとして描かれている。
なぁんてことをつらつら頭に残していたので、あうるすぽっとの『tick,tick,Boom』のインタヴューが心に染みた。 『何が正しいとも間違ってるとも提示してないところです。「でも、とにかく生きてるんだよ!」ということを強烈に訴えかけてくれる。』
"今生きてる"を芯に持ってきてるーって。 ほっとしたし、やっぱり思いを託されてるよっ!って。 思った。
(追記)おりしも10月頭に土星が蠍座に入る。ほぼ2年半滞在。 土星の象意は努力・訓練・試練と言われるが、要は自分のエゴと社会とのすりあわせ。 太陽・火星が蠍座にあり、そもそも蠍座集中のホロスコープときては、こりゃまたきつそうだ。。。。 が、マイナスばかりではない。 試練の着地点は、自己研鑽を重ねてきた結果が、社会に認められるとのなのだ。 時間はかかるかもしれないが、その分ゆるぎなく強い。それが土星だ。 楽しみー。(ってS心か?)
脳内に残る瀕死の映像。 志が折れる様は切ないね。
邸宅前についた時の声なき声がまず衝撃。 拒絶を聞くしか出来ない、返事はおろか耳を塞ぐことすら出来ない衰弱した身で、ただただ流す涙が哀しい。
屋敷前にたどり着いた時の安堵、父の拒絶にあっての絶望、そして最後に見せた貴族の矜持。 短い時間でのこの感情の揺れ幅の大きさ。一方で瀕死を演じつつ、心も見せる。 いやぁ、何度見ても素晴らしい。
こひさん、金田さんと、"老い"というか、過ごした日々の長さなくして、 表現できないも"わびしさ"のようなものも見た。 (もちろん歳月の長さは十分条件ではなく、必要条件)
大河ドラマ。平清盛。 ホント保元の乱前後の回は、それなりに面白いと思うのよ。 「人物の関係がわかんない」と身近の感想で聞いたが、ここ最近の回はぼーっとわかれば 単純に話の流れを楽しめる作品なんじゃないかと。
だから!もったいない! 返す返すも第1部の散漫さと、Teen清盛の無理くりな活躍が! 製作チームのイメージの不統一が! それぞれが好き勝手に脚本カットするのも話がぶつぎれの一因なんじゃねーの?
あと密かにこの時代やるなら源氏3代の方が良かったのでは? という感想もある。 義朝主演でさぁ。後半主役がいないor交代というイレギュラー展開でどうだ。
主演が悪いわけじゃない。 別にことさら好きなわけじゃないけど、嫌いっつーわけじゃない。 ただ、元々の地のキャラにあってない&どうにも脚本家が"清盛"(演じ手の彼ではなく、制作陣で作り上げた人物像)の魅力に首っ丈に見えず。
忠正おじさんや由良姫はあれだけ不憫なのに。 義朝のつっぱりは痛々しいのに。 清盛だけがどうにも印象が散漫で残らない。何か託す思いの熱量が足りないっつーか・・・ 主従にしてからに、源氏の方が書き込まれているもんなぁ。
いやいや贅沢はきりがない。 ただただ、頼長さまという人物像を魅力的に体現してくれたことに、その機会に感謝。 愛しい時間でした。
今思えば、ドラマティック・アクターズ・ファイルは全然ネタばれではなかった。 まさか、ほろほろと涙を落とすとは!!
さすが涙自由自在!!泣かせたら日本一! そりゃ山本さんキャスティングすれば泣かせたくはなるよなぁ。 予想してしかるべきでした。
なのに想定外。不意打ちでした。
切ないなぁ。 上手いなぁ。 綺麗だなぁ。 血まみれが似合うなぁ。
苛烈な人柄を見せつつも、人の弱さ・愚かさを愛しく感じられるように、演じられていたと感じました。 悪役なのに憎めない。短いシーンなのに多面性のある人物像を作り出す。 こういうお仕事を見ると、「やっぱ、山本耕史っつー役者は凄い!ファンで良かったー!」と、 海に沈む夕日に向かって、両手を挙げたシルエットで叫びたい。(心象風景)
でも、泣けはしませんでした。 それは組!とは、積み重ねた思い出の量が違うから、なんだろうな。 死をこう持ってくるならば、もっとエピソード積み重ねて欲しかった。 せめて、"頼長"と名づけた父の期待は見ておきたかったな。 一心にご政道に打ち込むお姿とかも。 (歴史秘話ヒストリアで補完したけどさぁ・・・。)
つか、歴史秘話ヒストリアのほうが面白いってどーよ。 何か、Teenの清盛を無理に絡めた結果なのか、 権力闘争を妙に好きだ嫌いだに矮小化させてきゃんきゃん言わせて、返って面白みを殺いでる気がする。 最初の数話はちび清盛に忠盛実質主役で良かったんじゃなかろうか。。。
言い始めると切りが無いので話を本筋に戻す。
息子たちに訓戒いたすシーンでの語尾。 「見守っておるゆえな」の"な"の柔らかさに愛の深さを感じた。 一音のことなんだけどね。こういう細かいところが好き。
井浦新さんが対談で「一つの役を獲得し、最後までやり通す」との表現があり、 "獲得"とさらっと出るところに、その世界の競争の激しさを思いやる。
今回は間違いなく、頼長さまっていえば山本耕史、崇徳といえば井浦新との強烈な印象を見る人に残した、と思う。 崇徳はまだ、怨霊化のシーンもあるのね。どんな絵になっているのか。期待してしまう。
うーん。 やっぱり、信西と義朝が死ぬまではFULLで見よう。 崇徳が亡くなるシーンもちゃんと見よう。
そっからは、ま、いいや。
alain
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