はぐれ雲日記
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2005年07月14日(木) 靖国に唄ふ。

きゃうは靖国神社のみたままつりでありまふ。
ぬわんと能楽堂での英霊たちへの歌を献納したのは
あの、つのだ☆ひろ氏でござひまひた。

これぞ。若き特攻隊員のホップステップ鬼畜米へ向けて玉砕!
の精神わ
名曲♪メリージェーン一発で散ったつのだ☆ひろ氏の
われてくだけてたまとちるやふな歌声と合い通じるものがあるのでせうか。

なほ。つのだ☆ひろ氏が審査委員長として
「日本を好きになる歌」を募集してをりまふ。
優秀作品は20万。つのだ氏のプロデュースにより、
CD化。販売されるさふな。後援は勿論産経新聞社でふ。



2005年07月12日(火) 「御府内備考」をどなたか譲ってください。

きゃっ。わたしの「下町」の定義が間違っていたようです。
葛飾、柴又。や月島。佃島まで下町と考えていました。
下町とはもともと江戸城の管轄下の地域内で
「お城の近くに住みたい庶民はここに住むことを許す」っていわれた
とても狭いエリアのことを御城下の町っていう意味で「下町」と呼んだそうです。
幕府編纂「御府内備考」によりますと
「下町というは日本橋川筋より北の方、神田内堀に属する」とあります。
つーことは当時の下町は日本橋・京橋・神田あたりだけとなりますね。

その後、薩長が江戸に乗り込んできて江戸文化や情緒を破壊しました。
また江戸という地名は廃止。「東京」とするとかいって地名変更などしても
江戸の庶民はあわてず騒がず。あ。そ。と割とすんなりそれを受け入れたそうでして、
旧町名の廃止のときにも抵抗は現代よりもよほど少なかったそうですよ。

維新後は江戸城も機能しなくなったから「御城下」なんていう枠もはずれて、
庶民のためのエリアは拡大していきました。
その頃の「下町」はもちろん城下町の意味ではなく、
上京武士や薩長貴族のエリアである山の手でももちろんないですよ。
ちなみに江戸・東京の大きな店はほとんどすべてが新潟や三重出身者。
伊勢屋とか越後屋とか近江屋とかありましたね。
日本橋は御城下町なんだけど、江戸っ子率は低かったそうです。
さらに
戦災によって更なる江戸っ子の拡散が生じ、戦後の混乱期を経て、
下町の「権力の誤用?」が始まったと見る説は多いです。
男はつらいよ。フーテンの寅さんで空前の下町ブームが起き、
下町人情がもてはやされ、それ以降われもわれもと下町を名乗り始めたようです。

最近。江戸川とか谷中とか神楽坂。本郷とかまでも下町を標榜しすぎ。
とくに寺町の谷中も大名屋敷跡の根津も千駄木も、もともと山の手なのに
下町ブームで「谷根千。」とか本出してごっちゃにされている気もしますが。
あそこはしっとりとしていて樹木も寺社にうっそうとしげり、どう見ても
下町じゃないよなぁ・・・・ってどこかで下町散歩。と自分で書いた気も(汗

明治33年発行 の「大日本地名辞書」で微妙に解釈が違ってきていますし
下町エリアの拡大がここでもすでにされています。
「下町、都内低地の総称にして、日本橋、京橋、芝、神田、浅草、下谷の数区にわたる」

あ”〜。本所区・深川区は下町には入らない。向島は当時まだ区ですらない。
ゆかりの町も江戸城から見て辰巳の方角ですがなんだかあぶなくなってきましたよ(笑

定義がどうであれ。
きどらなくって食べ物が安くっって。人情があって住みやすければいいと思いますが。
湯屋っ。とかが多いとなおいいね。みこしの松を眺めながらの銭湯の湯上りは大好きです。

・・・とにかくいろいろ書いてきましたが基本の「後府内備考」を読まなくては
どこまでもハンカツウですもんね。ああ。荷風やら杉浦日向子本はほとんどそろえてありまふ。
あのころ。そのころ。ハチのいる街。↓ここの白黒写真。本当にうまいねえ。
http://homepage.mac.com/yoshiokashigeru/haticity/haticity59.html



2005年07月10日(日) 今日はひややっこにしよう。豆腐百珍。を読んだから〜。

休日なのでにちゃりんこで浅草へ。
ふと立ち寄った喫茶店アンヂェラスであったかいコーヒーとケーキでいっぷく。
ここは戦前からある老舗。人気のケーキ「アンジェラス」はバターケーキで
小学生のときのクリスマスの味がしました。じーーーん。

ちょっと今読んだ本を打ち込んでみますね。杉浦さんの一日江戸人より。

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豆腐といえば忘れられない話があります。越後長岡藩主・牧野忠敬(七万四千石)は、
藩財政立て直しのため、ハードな倹約を実行し、自ら進んで木綿を着用し、
豆腐半丁をおかずとして五年間過ごしました。主君が質素にすれば、家臣は皆それにならいますから、効果は絶大でした。彼が藩主になったのは十六歳の時、それから足かけ五年間の倹約のため国庫もうるおってきた、が、その矢先に二十歳で若死してしまいました。あわれです。
江戸後期は、どの藩も深刻な財政難みより、想像以上の倹約を余儀なくされ、多くの大名が献立に豆腐を用いました。
現存する下野壬生藩・鳥居家(三万石)の食事記録によれば、献立は一汁一菜、そのお菜は月に一日を除き全て豆腐料理でした。同じころ、江戸の職人は一汁三菜、庶民は百珍ブームに浮かれていました。
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