はぐれ雲日記
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2005年08月03日(水) 秘密日記


パソで打つのか。紙なんか。いずれにしろ日記は「読者」を想定しないでしょう。

希望。悲嘆。悦び。などのこころもよう。備忘録。見聞録。生活記録。
そんなものを記録するのにまさか神楽坂相馬屋の原稿用紙に書き付ける人はいまい。
紀貫之の「土佐日記」だって、「読者」が必ずしも想定されていたわけではないでしょう。まあそのときの状況は背景はよくわかりませんが。
後世になってからその「文学性」に気がついた学者たちが、これを勝手に古典「文学」に仕立てあげただけだと思います。ひょっとすると、そんなことは貫之にとつては迷惑千万のことだったかもしれません。あれは彼自身が、土佐から京都へのたびの途中で経験したみずからの体験を綴りながら、それをいくつもの和歌に託した私的日記なのだと考えます。以上は「読者」を前提としない文章は自由ということに関連した補足です。自由とは公権力に縛られないという意味。との知人さんのご指摘は生まれて恥めて奇異たことでありなるほどこれは助かった。と感じたわけです。いつもありがと。


ああ。ここはあてくしの秘密基地ですかんね。いまんとこ。


2005年08月02日(火) 書くということ

職業的文筆者はつねに「読者」を意識する。言論の自由といううるわしいことばがあるが、じつは読者という相手があるから、筆者はけっして自由ではない。題材や用語にも注意しなければならないし、他人から抗議をうけそうな表現は遠慮する。わたしじしんも、ウエブページに書くさいはずいぶんそういう苦労をしてきたし、いまでも事情はかわらない。
しかし、「読者」を前提としない文章は、ほんとうに自由でありうる。メディアがとりあげてくれない問題だって自由に書けるし、メディアの悪口を書いても文句はいわれない。世の中で「中傷」とか「差別用語」などとレッテルを貼られそうな表現をつかったっていっこうにかまわない。おおげさにいえば、ものを「書く」という行為は、「読者」を意識したとたんに自由を失い、拘束をうけ、ときには屈辱的にならざるをえない。つまり「発表」などという大それた行為を視野にいれると「言論の自由」の完全な保障はなくなるのだ。皮肉なようだが、虚飾と妥協のない文章は「読者からの自由」のもとにはじめて成立するのである。
もとより人間には欲があるから、書いた作品がしかるべきメディアに発表され、読者をもちたいと夢みるものだ。大手の雑誌、新聞などにじぶんの書いた文章が掲載されればうれしいし、ましてや小説であれ評論であれ、それが単行本になれば自慢もできる。うまくいくといささかの原稿料も手にはいる。だが、その代償になにを失うかは、くわしく書かずとも刷り込み済みであろう。そのことがよくわかるのは、たとえば永井荷風の『断腸亭日乗』(岩波書店)であろう。荷風は『腕くらべ』をはじめとする小説をのこしたが、『日乗』は自由な日記体。かれのばあい、若いころから「発表する日記」という形式に興味をもつていたから、この日記体文学に「読者」を想定していなかったといってはウソになるが、いまなお『日乗』がおもしろいのは、ひとつひとつの文字の背景にそれぞれの時代が自由に描かれ、かれの内面生活が躍動しているからであろう。枚数制限もないし、締め切りもない。わたしが荷風の真髄は『日乗』にあるのではないかとひそかにおもつているのは、このような理由による。


2005年07月28日(木) 天はシトノ上ニシトを作ラズ

靖国の帰りにY先生の研究室へ遊びにぃ〜行きました。おみやは爽健美ちゃ2本。
中国の香りがいっぱい。いっぱいでした。
先生に北京好日と戦中派虫けら日記は読んだ。いまは日米戦争と戦後日米関係を
読んでると報告。それとこんな(靖国の英霊)騒ぎになった原因は日露の戦争大勝利。
というのがすべての元凶でしょう。。日清戦争勝利。日露戦争辛くも勝利。
負けたのは米にだけ。
日露では余力ゼロ。エネルギー使い果たした状態で何とかかんとか勝ったのに
神国日本大勝利とお祭り騒ぎされそこからどんどん取り返しのつかない泥沼状態に。
日本のターニングポイントはこの時でしたよね。そこまではわかりました。
と言ったら、それは大方の意見になっています。との由。それよりも。と
本棚から一冊のボロボロの本を出してきて「近代史を語る上で自由民権運動がとても
大事です」と言われ。内容は不十分だがアジアで憲法と国会を持ったのは日本だけと
細かく説明してくれたのでなにやら大事そうとメモったらメモはとらんで話しをよく聞いたほうがいいです。と静止され、ふんにゃなるほど。と語る教授の話を見ていた。
話がさびの部分に入り。福沢諭吉は自由民権運動には貢献したが大きな過ちを侵したと
またまた「脱亜論」これはコピーしてあげますから。と。ね。
なかでもとりわけ(以下引用しまふ)出典は日本近代国家の成立と革命情勢。
おおもとは時事新報明治18年3月16日・・・・これでいいンか。

引用


我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云ふ。此二國の人民も古來亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと、我日本國に異ならずと雖ども、其人種の由來を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺傳教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國三國相對し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二國の者共は一身に就き又一國に關してして改進の道を知らず。交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風舊慣に變々するの情は百千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、學校の教旨は仁義禮智と稱し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其實際に於ては眞理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を拂ふて殘刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二國を視れば今の文明東漸の風潮に際し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず。幸にして其の國中に志士の出現して、先づ國事開進の手始めとして、大に其政府を改革すること我維新の如き大擧を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若しも然らざるに於ては、今より數年を出でずして亡國と爲り、其國土は世界文明諸國の分割に歸す可きこと一點の疑あることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓兩國は其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するものなればなり。輔車唇歯とは隣國相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫の援助と爲らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば、西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚擧に遑あらず。之を喩へば比隣軒を竝べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も殘忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正當の人事に注意するも、他の醜に掩はれて湮没するものに異ならず。其影響の事實に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは實に少々ならず、我日本國の一大不幸と云ふ可し。左れば、今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。



以上を音読していただき「小泉はこういうことを知らないから靖国に参拝するんでしょう」と言われた。
ふむふむなるほど。諭吉は韓国中国をコケにしているんだ。当時はさぞかし影響与えただろーな。
・・・ところでこれ。初耳なんですが他の人は知ってんの?え?もしかしてわたしだけ?
たいていの人は知ってますよって?・・・わたしって常識ないのかな。
え?常識はあるほうの人だと思うが知識が断片的なんですねえ。ですと。
ものごとはいいですか。時系列を追って系統的に調べたり関連性を勉強しなければ
ならないのです。と。・・・む。そういうんは大学で歴史学んだ人は知ってるんかいなと
たずねたら、どの学部でも一般教養でやります。みたいなことを。
まーいいや。わからにとこは聞けばいいんだから。いまから基本をコツコツと。
(当分このっサイトやBBSはおせーないでおこう。アヒャ)

帰りに角田房子の「閔妃暗殺」と片野次郎 「李朝滅亡」はゼヒ読みなさい。
どっちも新潮文庫ですから。・・・・って。あーーーくらりっ。


鈍角 |MAIL

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