幻の女 著者 ウィリアム・アイリッシュ著 稲葉 明雄訳 早川書房 妻と喧嘩して家を飛び出した主人公は妻と行く予定だったミュージカルと食事へバーで出会った風変わりな帽子をかぶった行きずりの女と行くことに決めた。女と別れて部屋へ帰った男を迎えたのは見知らぬ刑事と妻の遺体だった… 敗戦後間もない日本の古本屋で江戸川乱歩が他人のものを横取りしてまで手に入れたかったという古典ミステリーの傑作です。 デジタル時代の潮流にまんま流されているわたしにとっては「息もつかせぬ手に汗握るミステリー…」とまでは行かず、読後感はどちらかというとフィッツジェラルドやチャンドラーの小説を楽しむ気持に似ていたかもしれません。 そんな読後感と共に、自分自身がいかにシリアルキラーを最先端の科学技術で追いつめていくようなミステリーばかりを読んでいたのかを実感しました。 ディテールは細かく描写されていて50年代のニューヨークのエレガントな一面と装いを剥がされた人々の心の孤独が描かれています。 事件の現場となってしまった夫婦の寝室 ブルーとシルバーで統一され美しく設えられたベッドルームは彼らの優雅な生活を表すと同時にその色彩は夫婦の関係が温かなものではなかったことを表していました。 著者の他の短編を田中小実昌さんの翻訳で読みましたが、そちらの訳のほうがわたしにはしっくり来る感じです。 そして、欲を言えば村上春樹訳でアイリッシュ短編集を出していただければ…と思うわけなのです。
速い速い… 一週間が束になって飛んで行くような気がするこの頃です。 わたしより年配の方が歳を取るともっともっと速くなるのだとおっしゃいますが、 わたしは、歳のせいということももちろんあるのでしょうが、この速さは時代の趨勢だと思っているのです。 010101… デジタルはアナログに回る針に比べて、行間がなくて容赦なく時を刻んで行く感じがします。 先日、職場で久しぶりに盛大に飲み会がありました。 もう何年もそんな会は催されることがなかったのです。 職場のムードが殺伐としていた時期や、不景気のあおりでどうもそんな気持になれなかったりで… そんなこんなで飲み会はなかったのでした。 わたしの職場は以前は公的機関で、そこで働くわたしたちは公務員であったのですが、機構が変わり、現在は独立行政法人です。 雇用体系も変わって、随分と若い人たちが入ってきました。 飲み会は若い人の熱気に溢れていて、知らぬ間にわたしは自分が歳をとっていたことを実感したのでした。 こんな厳しい時の流れの中で、屈託なく年配者とも話せる若者…こどもこどもしているようで、実はまっすぐな気持を持っていそうな… この人たちは、新しい人たち。今までにないピュアに本物を見極められる力を持っている人たちではないか… そう感じました。 若いということには、いつもどの時代もさまざまな批判がされますが、 この人たちがどんな未来を切り開いて行くのか… わたしはそれまで考えたこともなかったそんなことを思いました。 難しい問題を前に、笑顔で働き続けていく若い人たち 今日もどこかの大臣の何を根拠に言っているのかわからない原発に関する発言があり、腹立たしくニュースを聞いたものでしたが、 次世代を担う息吹は着実に芽吹いているのではないか… あの若者たちの様子を思い出して、ひとりよがりに暗い見通しを持っていた将来が少し明るく見えてきたのでした。 そんな若い人たちのためにも、わたしたちのような世代は何をして行けばいいのだろう…
2011年06月11日(土) |
大雨警報 ふたつのエッセイ |
土曜日は灰色の馬 著者 恩田 陸著 晶文社 妄想気分 著者 小川洋子 集英社 大雨警報が出ている不穏な土曜日。 自然の困難は次々とやって来るのにこの国の人々は真面目で健気に暮らしを営み続ける。 底で支えている人々が堅固すぎることにあぐらをかいて、退陣要求だって…ああ腹が立って気が遠くなる。
いつか何かで吉行淳之介氏がブラッドベリの小説を評して、「二度読む価値はない」と言ったとか…そんな文章を読んだ記憶がある。 わたしは文学としての価値がどうとかそんな大層なことはわからないけれど、ブラッドベリを文学ではなく少女まんがとして読んでいたと思う。 カポーティもヘッセも少女漫画として読んだ。 文章を読んでいても頭の中では萩尾望都のキャラクターが動き話していたのだ。 それはきっとわたしの読書経験がまず少女漫画から始まっていたことに起因しているんだと思う。 同じように恩田陸という人の小説をわたしは少女まんがとして読んでいる。 彼女の書く登場人物は、わたしの脳裏にイメージされるときそれは内田善美の描くキャラクターで現れる。 「土曜日は灰色の馬」は彼女の好きな小説、少女漫画、映画にまつわるエッセイ集で、 この中で彼女が内田善美に影響を受けたことが書かれている。 なるほどその作家が愛した小説や音楽や芸術はその人に吸収されてその作品の中に醸し出されるのだ。 旅先のホテルの部屋、夜中にベッドの足元に何かの気配を感じながら、彼女はおののきながらも頭の中ではいったい何がいたら恐いだろう…とこの作家は考えるという。不穏なムードをいかに醸し出すか…それを恩田陸は大事にしていると書いていた。そうだ、その不穏なムードを楽しむために恩田陸を読んでいるのだわたしは。最後に裏切られてもね。
小川洋子は「妄想気分」の中でこんなことを書いている。 幼い頃親に連れられて出かけた水族館で巨大なワニの水槽に出会う。そのワニの巨大さに幼い彼女は肝を潰す。そしてその水槽が確実にその巨大なワニには狭すぎるのだということも瞬間的に悟る。その体を曲げて水槽になんとか収まっているワニの暗いまなざしが彼女の胸に突き刺さる。この水槽は一時しのぎで、本当の水槽は大きく水量ももっと多くて本来ワニはのびのびと暮らしているのだと彼女は自分を納得させようと試みるのだけれどワニの眼差しの暗さにそんな楽観はあっさりと消えてしまう。 ワニの暗い眼差しは彼女の胸に残って幼い心を傷める。 せめて彼女はそのワニの心を癒すようにとワニのためにお話を作って毎夜語り聞かせようとしたのだという。 ホテルの話もワニの話も、それぞれの作家の作品を長く読んでいる読者は素直にうなずけることだろう。 雨の土曜日自分と同じ世代のふたりの作家の興味深いエッセイを堪能したのだった。
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