ちょっと怒りっぽいこの頃でまた、世渡りできない自分というか 頭悪い幼稚さで優劣を突きつける相手に切り返してしまう。切れ者ならば 絵にもなろうが、おばかに他人は見えると思う。
でも・・、お利口になりたくもない。それともわがままで自分本位な証拠なのか、いい格好したいのか。その程度の軽さでやはり恥かしら。そう、知恵が普段から足りないからね。
そんなところを直して正そうとしないことに問題があるのよ。一体何回そうやって劣っていることで排除されていったら気がすむんだよ。全く進歩ないね。まずもって人とうまい関係というものを作った試しがない。友達と呼べる人もとうとう一人もいなくなったな、
そういえば。その分を肉親再会の行動に求めていたりする。 危うい自分がいる。現実の中でどう行動するのか 学生時代からのズレをいつまでもなくせないのか。じわ〜っとそのことを今理解し始めたかもしれない。自分で想像し、かつ、創造した心の壁。
人と同じではない、同じでいられない、いてはいけない、交われない、交わる資格がない。そういっている自分がいた。その自分の奥に姿を消した父の存在が見え隠れする。
苦しかった10代。
そして今はもう中年層の仲間入りを果たしたというのに 心の奥に嫌でも居座る父がまた 愛のない顔をして言葉を投げかけてきた出来事に鈍い怒りの炎が燃えたりした。
でもそれはもう大丈夫 そこは成長なのか、悟りなのか、それとも、幼稚な怒りで口を滑らせてすっとしたからか・・。職場の嫌味な人の言葉に対して。
今日は雪しかふるまいと空は決めているようだ。 雲の色は暗いかと思えばすぐに明るくなるし、青空と 太陽まで見せたりしながらも雪だけは変わらずに 楽しげに舞い踊る。 新年の三が日が過ぎて空気は少しだけ 落ち着きを取り戻すとき。お正月のプレゼントの雪の演出。
病院の表舞台 病棟の中ではお正月は淋しくならざるを得ない のもわかる。家族と一番過ごしたいと思うのは同じだから。 正月の祝いどころではない病気の身に。そんな空気に仕事として 関わることにこれからはなっていくんだな。少しだけぞっとする。 こんな気持ちは初めての経験だった。
いつになくすっきりした目覚めの休日だった。それもそのはず、 一生の夢があっけなく叶ったのだから。 もう明らかに目に見えない 力の後押しを感じるばかりの不思議な有難い出来事の連続はまだ 続いていたのだ。母のもとで手料理を口にする弟をそばで見る私がいた。
今年最後の日を迎えている。大晦日だ。厳しい寒さも感じずにそれほどの 感慨もなく、これでいいのかと思うくらいだ。
いろいろと書けることが あるはずだが、なんせこの頭の回転の鈍さ。幼児性の抜け切れなさ。もう どうにもならないんじゃないかな・・。
何かを始めるのに遅すぎるという ことはないというのは、本当だろうかね。 新しい年を迎えるにはふさわしい変化もたくさんある。 無いのは体力、気力、想像力。あまり不安や 淋しさもないけれど 考えるだけのエネルギーを失っているだけ のようでもある。
書いて残しておべきことを きちんと書けたらいいけれど 同じようなことを繰り返してしまうのは なんでかな・・。
昨日夕方には父と弟から10分違わない時間でそれぞれにメールが 送られていた。
父と私との最初の繫がりはインターネット上の父の書き込み。そして あの80歳過ぎた人とのメールのやり取りから。 東京にいる弟ともメールで話し始めたから 赤ちゃんのときに引き離された兄弟だけどほんの少しずつでも 空白を埋め始めたのはメールで言葉のやりとりをしたから。 メールは家族をつないでいる。
東京へ転勤したと父はメールで書いた。皮肉なことに決して 会わせようというつもりなどなかっただろうと思う。これが 父の誤算であった。逆に大きな前進への扉を開いてくれている。
山の頂から太陽が顔を出してきた そう思って窓から覗くともう とっくに上に浮かんでいる。カーテンで遮られていただけだった。
前の職場での自分のこと、言動や物の見方、心の奥にあったものやなんかがこうして一歩離れてみてよく見えてきたりするものだ。
慣れの中で出てくる甘えとか他人への批判とかの垢をためていたこと。批判する前に自分のいい加減さで周りの人はうんざりしていることを見てみぬふりもした。
そんな風にして何年かが過ぎていたわけだ。結論を出さずには要られない状況は自然に自分の止まらないミスの連続の中で積み重ねられて行く。
それでも口だけは生意気に そして自分かわいいさでの甘えた話。 誰もが嫌っていながらも私の前では思いやりを示してくれて、そして肝心のところでは繫がりをしっかりと遮断する。賢い冷静な人たちだった。
言葉の大事さ その使い方の大事さが今 身にしみて感じられてきた。簡単なようで難しく その影響力の強さというものも。やっと気がつくのかこの年で。
盛り場でお酒の席で酔って男性をもてなし憂さを晴らしてあげることでお金をもらっていた時期が20歳代の大半だった私と 高校生時代の家庭の陰りを人に隠していた心の偏りとが私の人格の中に成熟しない部分を残している。
それともそれは建前であってもっと何か単純に自分の器量の悪さとか頭の悪さとかの問題なのかなとも思えるけど、 それが私の人生を動かす一つの鍵かもしれない。けっきょのところはね・・。
風邪は2,3日もすれば治るものだと思っていたが なんと半月以上をその症状のままに過ごしている。
さすがに薬はもらった。しかしかんじんの頭痛は一向に 治らない。 今朝はやっとまともな思考力がありそうで こうして日記をつけようと思った。ノートの日記帳が 紙が終わったので ちょっとしかたなく・・・。
気分はだいぶんいい朝だけど起きた時の立ちくらみは 初めてだったので気になるな・・。
お盆参りをした次の日からおかしくなっているので なにかあるのは間違いないだろうけど 深く気にしても 切りはないし どうにもならないだろうから 普通にして いようっと。先祖への感謝と愛情だけを忘れずにいいのだ。
目は心の鏡というけど 本当に体調と気持ちは顔に映って いるわね。
新しい職業は精神科の看護助手。 7月まで精神科で病院調理員を していた。9年と9ヶ月ちょうど。そして翌月の8月1日からは 希望していたこの職へ横滑りのごとくして入る。前職の退職を 決意したのは5月9日 頭の中にふっと考えがまさに飛び込んでくる ようにして そのまま私は決心も変わらず流れを進めた。月末に 東京へ行くつもりで連休をとっていたが、この状態で無理と思った。
心を落ち着けて仕事を調べてみるのには最適の時間だった。 その日すぐに 通勤も近いし希望に適うものが見つかり 6月にはいり 面接を受ける。内定の連絡がついたのが6月9日であった。
9日という日は祖父の月命日。 新しい職場は 父親の住んでいる家のすぐそばである・・。
このブログを始めたのがちょうど10年前のことになる。 私は次の月から前職についている。このころに父は70歳にして 法政大の通信部に入り9年間も在籍していることをしったのが 去年の5月のこと。
まともに会って話しをして以来20年近く別れている父へコンタクトを 取ろうと決心をし、気まぐれにネットで名前を検索してみた。 実際は9歳の時に両親の別居が始まっている。 ここまでの話には”9”という数字がつきまとう・・。
ネットの中から現れた父に、私は驚愕した。 いきなりくるとは・・まさかの驚き。しかもそれは 法政大の通信部の宮城県支部の掲示板への投稿文。 ついでに書けばその日付が3月11日。今年に起きた震災になんでかぶるんだろう・・。 父がその年齢で大学での勉強をしていたことにも驚くし そのことを知った日は東京から帰った夜のこと。その日午前中に私は たまたま市ヶ谷の駅側からいく道を選んで靖国神社をめざしていたから 途中の道でビルの壁に大きく"法政大学”の文字を見て ん?なにこれ ここに大学があったのね・・。と思って見ていた。
その日の夜の出来事は涙に咽ぶ経験となった。心の中に隠れていた涙が 開放されたようでもあった。 新しい流れがここから始まった。
去年の今頃は奈良にいた。夏の猛暑も少しも苦にならずに満喫できた。 夢が叶うことの喜びに浸りきる時間。こんなに連休を頻繁にとって許される 職場がそうあるはずないこと、わかっていたかもしれない。職をゆずることへの序曲なのだ。 この年春から数えて6回の遠出の旅をしている。当然 その分 信頼関係を壊そうともしていたことも分かっているし あえてそんな風に持っていったのは自分のほうからでもあった。
恩に対しての感謝の気持ちも充分には示していないまま 最後の勤務の日から4日後に新しい職場へ入る。 その有給休暇の間にはまた いつかしてみたかった阿蘇から別府へ抜ける旅に 調子付いて広島までも足を延ばし 有難い時間を作ることができている。 人のことよりも自分のことばかりだ。
今の仕事は望んでいたとおりのもの。すべてが私にとって調度あうのでは・・。 同じように 馬鹿でまぬけでお粗末な自分をこれからはちゃんと 自分で料理しなければいけないと思う。その時間と体力の余裕はしっかりと もらえていると思う。まるで用意してもらっていたかのような出会いが身近な場所にあったことが 不思議でしかたないとずっと思っていくといい。
感謝も継続しなければ 意味がないのだろうきっと。すべてのことにも 言えそうだ。
年齢のせいもあるのと来月からの身辺の変化を 控えているのとで 夏の開放感はちょっと感じられない。
若さがある時はあれもしたい、これもしようとか夢や期待という 光にきらめくのが夏のはずだったけどな。 孤独で辛くて寂しくて その分感性も鋭くて 夏に体を溶け込ませて街の中、ビルの中 華やかな 夏の服が並んでいるのを見て気持ちを高めたりした。
わたしにとってそれもあまり意味がない。 面倒で疲れるし夢がないんだよね。
この世のことも死ぬまで大事だけど あの世のことも興味がわく 次元という 表現のほうが相応しのか。
先祖供養とは、自分供養ではないのか・・。 生きているこの瞬間の自分をいたわることになるように わたしには思える。 死後の親 そのまた親・・。いつしか すべての親になるわけで・・。とりあえず何世代かの近いかった 人びとを忘れず思い出し感謝を捧げることの大事さなのか。
それはわかっている。 でも、もしかしたら 死んでしばらくの間 その人たちは違う次元において、まだ生きていたときの延長で 次の段階へ登るまでの営みがあるように思えてきた。 やっかいだな。 死んでまた親に再開してまた親子なのか?
受けると言う字の中に”心”が入ると愛と言う字ができる。 心を受け取る 受け入れることが"愛”だということに なるのか。
「give untie it hurts」
痛みを覚えるほどに与えること 傷つくまで与えること
マザーテレサの言葉があるけれど 本当に愛するということはそういうものなのだと。
与える前に その人を受け止める 受け入れるということが 先に存在するのかもしれないと思えるところがある。
何不自由なく現代社会の恩恵の中で、飢えも危険も知らないで 生きている私が 人に感謝をすることを忘れて愛を忘れて ただずんでいるなんて おかしいよね・・。
今の自分が実践する機会を終えたときに何が待っているんだろう 心の癖もこんな発想に出てくるし・・。
始まりはここにある肉体の私の心を受け入れることからかなあ。
愛だよ 愛 心を受けるんだよ 自分の! そしてそこから広げていくことだよ。
夏の香りはまたすぐ消えて またすっぽり蓋をかぶせたような 灰色の雲を眺めている
7月に入ったとはいえまだ梅雨そのもの 今の自分にはそれがちょうどお似合いの 感覚
今月は有給消化で5日休みが増える 退職金に ボーナスにそして最後の 給料日ということになる。
お金と暇がある時には若さはないって いうパターンにはまりそう。
職場の図書室へ通って1冊読み終えた 「愛は寿命をのばす 体を癒すラブパワー実証的研究」 医学博士 ディーン・オーニッシュ
以下引用=============== 食事やライフスタイルはたしかに大事だ。 しかし一番大きな力は愛と親密な関係がもつ 癒やしの力と それによってもたらされる感情的 精神的変化だろう =================
今の職場へ入った年の春 当時70才を超えたばかりの 父は大学の通信部へ入学している。 その父が 3年前に宮城支部のHPへコメントを投稿していた。
小さい頃に事情があって別れた父親である。
それで父のメールアドレスを知ってやり取りを始めた。 気になっているのは連れて行かれた弟のことだった けれど しばらく平静を装った。
東京本社へ行っていることを告げられて 気が焦った。 長崎にいるからそのうちに会おうとグズグズしていた 自分への後悔が押し寄せてくる。
しかも近くには 赤ちゃんのとき以来一度も会っていない 年の離れた兄が存在しているのだ。すぐに会わせたい。
半年前に私の この何十年間かの夢は実現した。
この愛しい弟が 試練を受けていた。これは思いもよらないこと だった。 何の不自由なく父とその新しい奥さんの家庭で 愛され 大事に育てられて エリートと呼ばれる道を歩んで 来た人。
子供心に年をとっている母親にどこか違和感を感じて本能的に 事実を悟っていたようだった。 うかつに戸籍まで目に触れさせた 父がいて 説明を強く拒否されショックだったに違いない。
反動的に無防備な結婚 悲惨すぎる相手 失った時間と財産
それから慢性の病気の苦労がやってくる。 彼は両親も伴侶も 不信のもとに愛情を手放し 一人で完治することのない病と 向き合っている。 唯一 自分の専門分野の研究をその道 一筋で好きでやれていること。
今 奇跡のように3人の兄姉弟が 出会うことができて 私がしてあげられることが”愛と親密な関係が持つ癒やしの 力”を使うことだろう。
今日は今月最後の休日 夏の匂いを追いかけて これまでの自分なら間違いなく 外へと出かけるところだったろう
私も若さをなくして坂道を転げ落ちて 行く反面 気持ちの中だけ変わらない ところを良くも悪しくも残している
この日記を始めたのが今の仕事に就く 直前の9月のこと 今から10年前に なろうとするところ その記念すべき10周年を目前にして また いつものパターンで職場を辞めることに なる。7月末で退職だ。
少しも変われない未熟でいい加減な自分 人を嫌って蔑んで その分同じようにして 人から疎まれる。
大人になろうとしない それをどこか 愛していたりする。
5月は私にとって これまでも大きな変化を 経験してきた月だと言えそうだ。
生まれた街に戻ってやりなしたのが5月 30才 体調を大きく低下させる経験も2年前の5月から
今年5月のそれは9日 頑なに辞めてなるものかと 踏ん張っていたものの 朝出勤前に突然頭の上から 降りてきたようにして 辞めて新しい生活を選択 することが自分のためであり 職場のためであると いう考えが湧いたと思ったら次の瞬間の決心は その後全く一度も変わることはなかった。
夢心地 現実離れの考えで動いたのは確かでも それを裏切るような失望にも出会うことなく 一ヶ月後のまた、9日に次の仕事に採用が決まった。
退職願を提出しその後東京へ行くかもしれないと とっておいた連休は職安へ職探しの下調べに行く。
思いがけずここはというところが出ていたので さっそく頼んでみる。
今と同じで 最初に惹かれた所へまず行ってみると すぐに受け入れてもらえるというパターン・・。 職探しの苦労からは免れることしか経験がない。
自慢になることでもなさそうだけど・・。 長続きしなかったんだから。定年までうまくいけば あと10年の日々があったのだが・・。人徳の問題 がひとつと 体の問題とがあった。
9日というと 祖父の月命日なので きっと 助けてくれたんだと勝手に想像して喜んでいる。
頼れるのは目に見えなくなったご先祖さまよ。 私はたった一人の甥っ子の先祖にはなれるんだなー。
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