**In my heart of hearts**
心の奥のこころ


2012年09月13日(木) 事件その後 1

昨日の夜、現金書留で送られた弁済金でカード会社への払い込みを完了させた。これでわたしの被害事件が、予想をはるかに上回る速さで解決、終止符が打たれた事になった。思えば不思議なことだらけ。 事件の発覚から、ちょうど3週間になる日に解決したなんてことも。 上司の後押しがなかったら・・、事態はとても手間のかかる大変なことを経験するところだった。ましてや、盗って使った本人の自白がすぐ得られなかったとしたら・・。証拠をつかんだこと、そのアドバイスをくれた署の刑事さんに相談できたこと、助けられたなあと思う。 一時はいろんなことを覚悟したものだった。

出来事も多かった。驚きの請求が来た頃は、2日後に京都へ夜行バスで向かうという時。 すっきりした気持ちが削がれてしまった部分を作ってしまう。ほんとだったら、東京へ行って、母と弟の交流を持たせたかった時間だったのが、兄が控えるように止めるものだから、弟への気遣いももっとしたかったのが、余裕を失う。帰ってきたら、写真のアップ作業に没頭して、なんとかコンタクトをしていたかった。 不正使用の件もとりあえず様子見の時期とする。カード会社からの書類提出分の郵送を待ちながら。

1週間が経過した時点で、職場の上司たちがどう対処していくか、私への質問があった。 のんびり構えているように見えているらしい。お尻をたたくようにして、警察への相談を提案してもらう。刑事さんに直接電話をかわってもらい、上司と話もしてもらったりして、私の話の信憑性の確認をしてもらう必要もあった。

つづく



2012年09月11日(火) 現実

今日は一時帰国している兄が、多分韓国へ帰るという日のはずだ。何を書こうかと迷っていたら、このことが浮かんだ。

まともに連絡取り合うような、付き合いにはならない兄妹だけど、心の中では、こうして思いがしっかりあることだけで充分だという確信もある。
結婚し、面倒を見る人がいる中で、小姑がしゃしゃり出ることもないのだという考えが支配する。そして、それが正しいと思っている。

弟もそうであって欲しかった。そうあるべき人だった。それが惜しまれる。そこで、こんな私でも、何か力を与えて上げられればと願った。ただ、その力はかなり及ばないものではある、というここが問題。 社会性の問題。

まず、この私自身がきちんと配偶者がいる、それなりの安定した人生をもっていること、学歴、いい仕事、いい生活。良い人間関係。 その上で初めて、姉としての包容力も感じてもらえるものなのだ。

誤魔化しで始めから、事を進めていることに薄々は自分でも違和感は持っていたけれど、自分の思い、甘い幻想だけで、なんとかしようとした。 

夢ばかり追うのは辞めにしようと思う。 母の前に3人が並ぶ。弟と母が親しく時間を過ごす。兄の家族と弟が仲良くする。 一速とびに私が描いた夢だった。

カード詐欺事件での被害者になるかどうかの分かれ目が2日後にはっきりするようだ。 彼女はいちおう要求どおり、約束を守ることを一筆書いて送っては来た。縁起の悪いできごとに関わった自分だとマイナスに考えがちなところをぐっと頑張って、プラス思考の努力の継続が必要だな。気を緩めるとすぐに、気持ちの迷路へ入っていくものだという事も学んだ気がする。

頑張らないといけない。自分を粗末にできない。卑屈にも傲慢にもなってはいけない。

そうだ、もうひとつ浮かんだ事。今日が、9・11という出来事がおきたひから11年を迎えるという事。 あの日を境に人類が次のステージへの幕開けだっただろうこと。 今日から12年目が始まる。 今朝も暑苦しい気温が体を包み、胸が苦しい。

いよいよ大詰めではないのか。 その日は突然に、やってくるのではないのか。 震災は全て、前日まで何事もない生活を当たり前にして過ごしているだけだ。 そして突然の未曾有の恐怖が降って湧くのだ。

今目の前にあったものが、恐怖の中で、一瞬にして失われるのだ。どうにも手立てはないのだ。突然の別れに呆然とするのだ・・。

覚悟はあるか・・。 昼だけではない夜までを含めて初めて一日が成るように、ただそれを経験するだけなんだと教えてもらっている。肉体が滅びようが、永遠に存在する魂の前で、何を恐れることがあるかということ。



2012年09月09日(日) 9月事件簿

今日は9日か・・。会ったことはないもう一人の祖父の月命日でもある。
私にも事件が降りかかったことが分かった日から、20日になろうとする。

まるでドラマかのような、スピード展開で、事が流れていく。職場の人間が3人から、クレジットカードを一枚ずつ抜き取る。一人がすぐに気がついて、ストップをかける。もう一人の人はそれを聞いて、自分も確認すると、ないことに気がつく。その時点で、貴重品の持ち込みへの注意が呼びかけられた。内容については、細かいことは言われなかった。 漠然とした注意だったので、あまりおおっぴらに口に上ることもなく、ひっそりと、盗難があったらしいという、噂程度。疑心暗鬼を抑えたいためか、表面的には何事も無いかのように、皆ふるまうしかなかった。 その前に現金が財布からないことに気づいた人がいた時に、勘違いかもしれないからと、職場で盗られたんだと言い切るのをはばかられたらしい。

証拠を掴まない限りは、このまま、この件はうやむやで終るはずだった。確かに疑わしいと思われる人物はいた。それとは関係なしに、その人が信用できなくなる仕事ぶりを指摘されて、締め出しをかけようとする動きをかけた直後のことだった。 3人目の盗難カードが実際に不正で使用されたことが判明した。 あの通達から一ヶ月以上たち、不安で不快な思いも多少はぼやけてきた矢先のこと。

カードのないことに気がつけなかった呑気な人とは、この私。クレジット払いには使用するつもりがなく作った分のカードで、現金と一緒にポイントをつけるためのものだった。 今年の春ごろだったか、チャージをして使う新しいカードが企画されたので、そちらを作って使うことにした。2枚も要らないので、一つにポイントをまとめられないかを尋ねると、中身分は共通なので、と言われ、破棄することを暗に止められた形だった。これで単に死蔵カードになってしまい、 いつのことか最近だろうけど、財布の中で見当らないと気づいた時には、探しはしたものの、どこかに紛れているものであって、無くしたものとの判断ができなかった。甘いといえば、私らしい判断の甘さといえた。 ないと気づいても放置した私がいた。そして、そのまま一ヶ月以上過ぎてこの事件。盗難の内容を詳しく教えられていたら違ったかもしれないけれど、今にしてみれば、すべてが結果オーライで考えられてくる。

すぐにストップをかけていないことを、犯人はどうやってか調べるのかもしれない。 初めての犯行なんだろうか。裏に名義人のサインがないと保険で不正使用分が支払われない事知っていたんだろうか。 なんで、3枚もカードをとる必要が、あったんだろう。 それもそれぞれが違うタイプのカードではなく、同じショッピングモールで作ったハウスカードなのはなぜ。

現金には手をつけず、3枚カードを手にして、どういうつもりだったのか。
使ったのは裏にサインのないカード。たまたまストップがかかっていなかったからだけなのか。 署名を裏に自分でしておいて使うのだから、こんな好都合なことはないと思ったのか。 使うつもりで盗んだのなら、その日に犯行に移すものではないのか。 日にちがたつほど 相手はほぼ、100%気づいて止める事くらい分かる事なのに。 それに筆跡を真似るという自信があったのか。 使う気はなくて盗み たまたま私のカードがサインがなくて、安易に出来心がつき、すぐにバレテつかまる事も考えずにやってしまったのか。これが本人が言う出来心ですの意味なのか・・。 盗ったカードが私の分だけだったら、私は職場でとられたと確信できただろうか・・。その人のこと疑えただろうか。  カード裏にサインをしなかった私は、その13万ちかい金額を自腹で払うことになっていた。 彼女が抜け目なく疑えない行動をとっていたら、職場はカード一枚のことで、警察の聴取をいれようかと本腰にまでいっていただろうか。そういう上司の協力がすんなりと得られたとは思えない。

まとまった金額の不正使用の請求がきたことを受けて上司たちにも緊張が走った。一週間後に当事者の私の警察への届出についての再度の確認があった。 まだその時、先週投函したカード会社への依頼書からの調査を待っている段階だった私は 少し待てば、うろ覚えだったカード裏のサインの対処についての解答がくるのだと、勝手に思っているだけだった。

サインさえしていて、保険がおりると分かれば、それで自分の腹は痛まないしと。 これまた、私流のいいかげんさと甘さ。盗難の不正使用だとはっきりしているなら、例外としておろしてもらえるかもしれないなどと期待する部分すらも持ち合わせていた。 

そんな私へ、お尻をたたいて、警察へもう一度行って、相談することを勧めてくれた上司。 職場で盗難届けを出す前に、内部でも調査する方法のひとつとしての、助言をもらうことができた。 

サインの筆跡を名義人本人であると、開示要求ができるのだと強く教えてもらう。 そして、運のいいことに、店舗名のでている請求がある。ここだったから、すぐにものの何分もかからずにサインの筆跡を目にすることが出来た。 百貨店の分はカード番号がある場合には調べられるが、無ければすぐには無理だった。 店も遠くではない。しかもハウスカードである会社のモールの中の提携店だから、事はもっと早かったかもしれない。カード会社は私からの連絡をうけるとただちに被害届を出して、すでに警察にはこのコピーと防犯カメラに映っている特定できる人物の映像も送られていると教えてもらう。 筆跡はあの人のものに酷似している。

こんなことが分かった日から2日後、本人が出勤してすぐに呼び出されて、話がなされた。 観念したのか、事実を認め、その場で退職となる。 詐欺事件の発覚から、11日目での犯人判明だった。 表面的にははっきりしないまま、時間を過ごし、本人は疑われているという自覚がかなり薄かったのではと思われるし、すぐに尻尾をつかまれることも考えていなかったのでは、何食わぬ顔して笑顔を見せていた。よく仕事場で出てきたものだった。

事件が発覚した日からよく欠勤をするようにはなっていた。。
私自身がそんなことが起きてから、一度くらいしか顔を合わせていない中で、普通に愛想よくした覚えがある。相手はいつも低姿勢で笑顔まで作って見せる憎めない態度をする人だったからだ。 ただ悪人だったということではないのは確かでも、持ち物で飾り立てた派手さ、会話に建設的なことが無い、自己中ばかりのところ、タバコ依存、男性依存の言葉がせっかくのいいところを汚しているひと。

退職手続きで訪れたとき看護部長の計らいで本人から連絡先を聞いた。
ちょうど2連休の初日の午後だった。それからの時間は今後の対応への知恵をめぐらせ、参考として、ネットの情報と首っ引きでずっと過ごす事になる。本来、こんなことが起きていなかったら、2日後にひかえた弟の誕生日でのコンタクトにあれこれ、想いをめぐらせていられたのだったけど。そんな気分は消えうせている。余裕がないと言う方が正しいか。 よりによって、同時期だな、不思議な因縁を感じて少し動揺しないでもなかった。

母から聞いた話が蘇る。結婚で祖父母が送った洒落た婚礼家具があったのだが、それに差し押さえの紙がはられたこと。叔父たちが取り戻しでお金を払ったこと。 どんな気持ちを味わった事だろうと、今にしてまた改めて心が震えた。

相手は私と会うつもりでそれを申し入れてきたが、夜の8時ではどうかなどとメールで答えるので、断った。今肝心なのは、全額弁済する具体的な確約を取ること以外は無いし、遅い時間であるのはあきれた話だった。精神的な重荷で苦しんでいることを思いやれば腹を立ててもしかたない。

メールで会話をやり取りする。自宅へいるというので、確認のためも有り、番号へかけて、携帯へかけ直すように指示する。 長電話になって、お金もかかるので、あとは、メールでやりとりすることにする。 

期日を決めて書留で送るところまで、約束を取り付ける。そのあとに思いついて、全額支払うという念書と、謝罪文をすぐに送るように伝えた。これはネットで多数の事例を読んでいく中で、加害者側が行っていることで参考にした。

本当に手紙が届いているかは、半々の思いでいたけれど、どうにかそれらしきものが約束どおり送られてきた。封筒には誤字が二つもある、短い手紙だった。二回に分けてもいいからと譲って覚悟していたが、全額を13日に届くようにすると書かれている。 金額はおよそ13万円。13という数字はわたしの誕生日の日付である。考えてみれば誕生日のちょうど一ヶ月前ということでもある。 さて、13日を待って、どう展開することか。





2012年08月21日(火) 悪に負けたくない

夢見の悪い時期があって、そのことを書いていた。先月の始め頃の事だ。
何か起きるのではと思わないでもなかった。そのうちに忘れていたけど。
でもその頃に私のカードを盗んだ人が高級店で買い物をしていることが分かった。今日使いもしないカードの請求明細を見て、あっけにとられた。カードは”ゆめ”カード・・。すぐにそこへ電話をかけて、停止してもらい、事情を説明した。明日、免責についてもはっきり、答えてくれるだろう。サインを裏にしていなかったような気もする。どうせ使わないのだしと。 

病院だからとすっかり気を抜いていたものだ。6月の終わり頃のこと、盗難があったらしくて、貴重品はロッカーへと言われて、信じ難かったけれど、普通にありえるわけか。やはり、覚悟していたとおり、ここは少し、汚れた淀みを残す場所であるようだ。仲間うちでこんなことを平気でする人間をも生かしているところ。

いい勉強をさせてもらえる。 相変わらず私は人に認められない、馬鹿な役回りをするばかりね。絆なんて、ない。 これまで患者さんの暖かさに救われてきた。感謝したい。たぶんこれからもそうなんだろう。感謝ばかりだ。
負けずに頑張らねば。これからもずっと。



2012年08月08日(水) 更年期でいい

頭の芯が妙にぶれて胸がくるしいような、眩暈でもないけど、神経が出口を求めて、切ないような感覚に襲われて、うずくまるしかなかった。ストレッチというかヨガの意味する神との合一なんてものをイメージして体をのばしたりした。そのうちじっとして目を瞑っていたら、そのまま眠ったと言うか意識をなくしたといえるような感じになった。目が醒めた時さっきまでの胸騒ぎに苦しんだ事などすっかり忘れて、ここで何してたっけ。 変な体験だった。

地震が来ると言ったって、毎日東北では震度3くらいの地震は当たり前に起き続けているわけだし、こんなに大地が小刻みにゆれているのがむしろ日常のことだったというのを知った感じがする。

またもや、超大型が起きるとは絶対に想像したくないんだなぁ・・。
関東にくれば、この国はマヒする。全く、なんの心構えもできない。



2012年08月05日(日) 花火の音

午後7時半すぎ、花火の音が始まったようだ。今日は筑後川花火大会。
遠くから訪れる人たちにとっては楽しみもひとしおだろうな。私は毎年
その爆発音でうんざりしてきた。そのうち、仕方なく外へ出たりする。

人それぞれに 花火を見る時間があるだろう。まず気の置けない親しい間柄が基本。 はぐれていれば、このとおり、闇に紛れてすぐ目と鼻の先の川まででると、それはみごとな花火を一人で見ることになる。

今年は台風がいい塩梅に熱気を冷やしたのか、煮えあがるような暑い空気の中で花火の音を聞いていたものだけど、とてもしのぎやすい。ビールなしで
どうやって眺めようか・・。それが問題だ。

夜の帳が今になって一気に下りてきたようだ。このたそがれ時に人々は酔いしれて楽しむのだろう。 あー・・。行ってきます。あの音がし始めたら、世界が急に変わっていくよ。



2012年08月04日(土) 連休


8月3日(金)
全くの私的な話題だとこの日記を使う。なんせ、6つも作って取ってあるブログの数々。 ここはパソコンを始めてすぐに出会ったところ。広告も入らずに無料で使わせてもらって、もう10年以上が経過している。キーの不具合がすぐ起きるようになって、わずらわしかったりで、新しいパソコンに変えるまで、もうほとんど忘れていた。 今はこんなレンタル日記は貴重だ。

仕事は丸一周年を向かえたばかりだな。もっと喜んでいいのに、なかなか上手に人とやっていけないことの波が上下して繰り返すばかりで少しへこんでしまいそう。スケープゴート役をもらう自分にどこまで耐えて向上できるのかが課題。言葉で押さえつけてマイナスのエネルギーを送りたい人が今のところ3人存在していて、漏電するところかな。 組織の中の意識を代弁してやっているという正当感で武装でもしているようで、姑息だと思う。

そんな仕事ぶりの相変わらずダメな私からは抜け出す事はできそうにない。
これでこのまま、だらだらと生きていく気がする。

久しぶりにステージの音楽を聞きに行って少し華やいだ日の翌日のこと。
看護士が絡むようにして噛み付いた。呼びつけては、テーブルに座って2対1でのつる仕上げのような非難をされた。一方的に私の非を責めるばかりという図式は単なる指導という名のいじめであり、ストレスの発散だろう。腹が全然たたなくて、なんとも無い私なのは、その人への憐れみ。 

上司へからの私へのマイナス評価も作っただろうけど、精一杯に仕事をしていくだけ。それ以外に何が・・。そうね、足りないのが下手にでてゴマすることね。まともにきちんと仕事ができなくて、ミスの多い私なりの示す態度があるだろうということの自覚が足りないと言いたいのだった。 

一人前の顔して偉そうにするなと、ここが嫌いで我慢できないんだと言っているのだろう。わかっていて、なおさら開き直るからねぇ。  むずかしいのはここだろう。子供みたいにのびのびと清廉潔白さを気取っていようなんて虫がいい。 

そんな風にかんがえたりする。 その日は、不思議な出来事もあった。市民へのサービスの一環での2日間のコンサートだったから、すばらしくて、もう一度味わおうかと迷った。 でも外食だけして帰ることにした。
満腹になって気を良くして、急に引き返して券が残っていれば入ろうと思って、そこへ向かった。階段を上り詰めると、そこに人が立っていて、出会いがしらに顔が視野へ入ってくる。

なんと前の職場を嫌になった原因の人物だった。辞めた理由はいろいろあっても、常にその人への嫌悪感と怒りを何年も何年も抱いては傷つき、ひたすらに接しないようにしたかった人だった。職場にいられなくなったことの原因の一つ、しかも大きなもの。

引き金すらあの人との関わりで、生まれたこと。辞めるとき今となっては後押ししてくれて、感謝していると伝えてくれと私は言ったけれど。 そういう人が、シンクロして、あのちょっと異常だった日に変な偶然で現れた事がおもしろい。 役者なところが大嫌いだったけど、この期に及んで、またそれが目の前にくるとはねぇ。笑う。

人脈を築けない私のしたたかさをもてない度がまた、露になる。 職場のことは全く気にしていないからというのもあるし、何も感じないので、ただ会釈くらいはしてあげただけ。 ほんとに嫌なものは嫌だな・・。自分の本質に目を向けないといけなさそうだ。

ああ、セミが休憩してたのか、今になって声を出し始めた。暑さを肌にぺたっと貼り付けてくるかのように鳴く。

朝方どんな風に過ごそうかと頭を巡らせたけれど、巡りきれずにギブアップ。で、こんなせっかくの2連休の一日目が過ぎていく。真夏の昼下がり。



2012年07月24日(火) 思い

夏の朝だ。雨の匂いも遠ざかって、この真東に向いた窓のカーテンは開けられない。セミの声が暑さを呼ぶようにして光と重なる。うだるような暑さはお昼すぎにやってくるだろう。断シャリタイムを作るべきでその気にもなりつつあるけど、夏色を見るという口実で図書館の緑に会いにもいきたい。 

夕方ごろには薬をもらいに行く予約がある。定期の検診だ。もう副作用なしで丸3年が過ぎたから、頻繁に刷る必要ないんだけどな。 あのリューマチの激痛が薬でウソのように治った。 不良医師がドクハラで2年後には寝たきりになるといういい加減なことを言って高い薬を買わせようとして一時は不安を煽られたこともあったので大きな病院に変えた。最初からここへきていたらどうだったろうか・・。
先生もきれいな女性の優しい人だったのでギャップに舞い上がる感じ。勇気付けられて、有り難かったものだ。
大学へ戻るとのことで新しい先生に代わってからも一年以上たつかな。元気で親身ないい先生だ。見てくれる人の存在感、人間性が治療そのもののようにも思える。

夜勤の仕事はやっと慣れて来た。しっかりやらなければという緊張感で、こんなに少ない仕事量でいいのかという気ばかり先立って、どこに大事なポイントを見たら良いのかがわからなかった。そんな理解力のなさでずっと相手が腹を立ててきた。いやいや、今現在もだけど。

ささいな間違いも相変わらず起こしている。箸やスプーンを配るという単純作業で間違ったり、変なことしたりで(箸を手に持っているうちに片方を人の車椅子の後ろへ落としていて、ないから探すと言う無駄な事が生じる。すぐに自分で気づいたから良かったものの、そうでなかったら結構大変な事だった)こんなおかしなことがいつも私の仕事ぶりには付きまとうのだ。

あわてる癖、面倒を省こうとする癖、それを効率と称して、誤魔化す。治らない限りは、仕事は続けていけないかもしれない。 もうすぐ8月にはいれば、丸一年を迎える。本当に早いものだ。 でも本質は簡単には変わらない。変えなければと本気で思っているのか・・。

先日も攻撃的な言動をぶつけてくる2年目の看護士の挑発に乗って、言いたいことをいってしまった。関係は悪くならないだろうと楽観しているけど、まあ、挨拶の言葉が素直に出てくる自分であるうちは大丈夫だと。 ほんのちょっと感情的な言葉、あとは至って冷静で、客観的な思考で話すことしかしていない。 一年前と同じだなあ・・。  相手が違うから、大丈夫なはず・・?

問題も前の職場の人のような、単なる甘えと自己顕示のみというものでもないと思えばいいし。 いつもと同じことがまたおきていくのかな。自分なりにやっているつもりでも、それを否定していくことを使命として、そぐわなかったことをしたと決め付けて、裁断していく人がでてくる。 

前のところもナンバー3に甘んじるしかない立場に隠された不満を募らせている人がいて、相手に落ち度を見ると徹底した攻撃をするのを思い出した。そうすることで自分のストレスを吐き出しているようだった。しかも反動なのか気に入った人や、利害関係上有利であれば徹底して上機嫌を見せるような人だった。 なぜかその人には少しも腹が立たなかった。この上ないようないやらしい威嚇のトーンをぶつけてくるのに。どうしてだろう・・。もののあわわれしか感じなかった。私を嫌悪しているようだったけれど、普段は至って、真摯な態度をとるので、甘えられる人だった。逆手にとった私のそんなところも嫌だったのかもしれない。 その人のことを思い出すことは、これからもほとんどないだろうな。

正論ではあっても、いかにも怠慢だと決め付けて怒りをぶつけてきたあの時、汗を流してやって疲労しているスキをあえて付くようにして噛み付くなんて、フェアだろうか。あきらかに足をすくおうとする行為だろう。  

圧力を加えられたストレスは神経を鈍らせる。そして絵に描いたような暗くて見難い位置の目視点検の時にそのひと手間を惜しんだばかりに、見落としたとして、危険の可能性を作った作業ミスであるとして重大に取り上げられた。 事なきを得たけれども、一瞬の間に発見が遅れて喉につめたとして、死亡の可能性もあると言えるわけだ。 

そのことがあったのが12月の25日。しかも夜中に目が醒めてから、弟へどうしても今メールを送っておきたいという自分の欲で朝までそのまま起きていた。そんな自分の願望を優先していた罰でもあろうか・・。ちゃんとやる自信はあったし、やれていたのだ。 でもイージーミスは多く、そのために仕事の歯車はいつか、道を逸れるようにと待ち構えていたんだと言える出来事なんだろう。自分の心の奥も、そして何よりも職場の人間たちも。 あの日を境にして、私は仕事の流れの中で、最後の点検からはずされる事になった。

かなりショックで辛い思いを味わったけれど、しばらくすると自分特有の思考の誤魔化しに逃げるしかなかった。なんでもないことだと。平然とする態度を示したがった。そしてまた、そのことでの非難が始まった。なんどか面と向かって責めて、挑発してくる上司の態度には明らかな意思が感じられた。じりじりと土俵際へと追い詰めていかなければならないのだと。

そんな中で、父との対面の3月に向けて、気持ちは緊張している頃と重なっている。 この頃は体重もぐんと減っていたと思う。 気が張っていたから、元気でいられた。なんとしても明るく兄たち一家とも会わなければならない。 

そして無事にというか、そっけなくというか、兄と父は改装してきれいに大きくなったばかりの駅の待合室で、対面をする。兄は話す気などなかったようだし、なにも感じることはないんだという最初からの姿勢のまま、父が一人で特有の口八丁で喋り続けた。 

その姿が切ない。私は父の真後ろに立って、その気持ちを送っていた。 兄は生まれつきの穏やかな笑顔の地顔であきれたように口元をほころばせた。握手を求める父。そして兄は座る事も無く、時間だからと、ホームへと去って行った。

見送りのために父の分の入場券を買ったからと告げに行くと、嫌がるのでそれもできず、私は父の横へ戻って、兄がわざと?なのか弟と会った事を”宗二はしっかりしているから心配はいらない”という言葉で知らせてしまったことを説明しなければと話し始める。 あんなことを言う必要があったのか、何のつもりだったんだろうかと今になって思う。



2012年07月13日(金) 今月も半ば

10日の夜だのこと、いつものひらめきに似た、決心がフット湧いた。来月に東京行きを決めようと。すっかり忘れかけていた手配のことを思い出す。そして、希望どおりのリーズナブルなパックがとれた。 うわー・・朝の天気ではこのまま晴れるように錯覚しそうだった。昨日も雨とは無縁のいいお天気だったからだ。 また土砂降りが始まっている。県南では被害で困る人たちが苦しんでおられるだろう。煙るように雨が垂直に落ちてくる。 この街はいつも自然の脅威を免れる場所。

出かけなくてよかったんだな。水をかぶったように濡れるだろうこの雨なら。大量の雨くらいいつもの景色なのにニュースで被害の映像がしっかり映っているのを昨日目にしてしまうと心苦しい雨に変わる。

一昨日の11日は早出。久しぶりに母の元へいくのにこの時を逃せないと思った。面倒なので外食でもしたかったけれど、大雨を控えている天気のためにあきらめる。いつこのように寿司と、大きな切り分けのスイカの甘そうなものがあったので、祖父に供えるため買い込んで行く。スイカが祖父の好物だったから。

弟に祖父の写真を見せようと思いついて、電話で話していた。あれからもう何週間かたつだろう。 スナップ写真をだしてもらい昭和30年代の白黒の世界を眺めた。なつかしい牛小屋がある。若き日の叔父のと小さな兄のポカンとした顔がある。まっすぐ立ってカメラを眩しそうに見つめて映る祖父。

そんな時にちょうど叔父が電話してきて、野菜を今から届けにくるという。元気な姿の母と叔父のツーショットが計らずも残せる事になった。仏壇から赤いスイカがちらりと覗いている。

部屋へ戻った私は眠いのを通り越して(冷酒が効いたのか)遅くまでメールをせっせと書いて弟へ送る。 明日は遅出のシフトだと思い込みが酔いのせいでそのまま気づけなかったようだ。朝になって時計を見て、日勤の申し送りの時間だなと思った瞬間になって、あれ?何か変よね・・。ぎりぎりその時間に気がついたのは辛うじて幸いで そうでなかったら心配をかけてしまうところだった。 15分の遅刻。こんなことで、皆勤手当が消えた。今もう一度調べてみて良かった・・。賞与にさらに上乗せしてもらえる皆勤手当ては一年間での無遅刻無欠勤だと分かった。もうすでに12月に弟のために仕事を遅らせて行ったから、がっかり度が減った。^^;



2012年07月09日(月) ”9”の日に涙した

仕事に慣れてきて、その分の悩みも薄れてきたのに、ぐっすりと眠れないでいるのを分析しないといけない。 リアルな夢、明晰夢というのかな、それが続くので眠りが浅い。気持ちのよくない夢ばかり見る。普段の自分はそんなに機嫌悪いわけではないと思うけど。不満とか怒りとかを抱えているとは思っていない。  去年の今頃は弟がお盆の頃に手術することでの心配と新しい環境へ変わることへの不安と期待とで、真剣な思いをしていた。 今現在の自分はその枷が外れて、心の圧力がない。 でも開放感があるわけでもなく、夏を前にしてこれまでのような、浮いた気分に少しもなれないでいるのは、やっぱりどこかおかしいだろうな。

先週だったか父親は呑気にFBの友達リクエストなんぞを送信してくる。
私も心の片隅でこんなところで互いのやり取りができるといいのではと考えた事もあった。 私の心は硬くなって動けない。苦しんでいる弟のことを考えたら、私という存在は一体何なのだろうか。 親を素直に愛することができなくさせたのは、親自身の言動であること。そのことについて、一体どうやって救えるのだろうか。 ふとした孤独の重みにずっと耐え続けるだけで一生を終らなければならない弟だというんだろうか。 そんな事を考えると、母に甘えたい自分への後ろめたさが湧く。でもそれっていうのも、何か理不尽な気もしてくる、この宙ぶらりんな思いが苦しい。 割り切れない思いを抱え始めた事に気がつく。弱い自分に負けていくのか。

野菜を嬉々として、食べていた時期があったのに、最近そうならない。目先のコンビニのお菓子とビールを求めるようになっている。こんなところに何かが現れている気がする。

今日はまじめにもトイレをきれいにしたりも、したのだけど、料理する気になれない。何だろうこの気持ちは。 父親を嫌い排除し、孤独を抱える弟。何度か話をしてきて、何も展開はなかった。無駄なんだろうか。私がどうにかできると、考えた事。 いや、どうにか今しなければならない時がやっと、来たんだと考えたのだ。 これまでと同じく日常の生活に追われて、またあやふやなままにしておくつもりか。 私が30代のときに、どうにも動こうとしなかったこと、知恵も真心もなくて、自分の快楽にばかり目が行って、お酒を飲んだくれて、まともな男性一人捕まえる事も出来ないでいた自分を恥じて、一流会社で活躍する弟の前に出る事はできなかったこと。そんなことが思い出される。

また同じ事を繰り返すんだろうか。 自分に自信がもてないのかもしれない。 もう若くはないなと外で鏡をみるたびに思う。笑顔はあるけど、もう勢いのようなものがないのだ。張りと言うか。それはそれで、特別に不満でもなく、それもまたよくないのかもね。意欲を持つと言う意味では。
不安もないけど、期待もないというこの感情ってなんだろう。

左の手は悪化というよりもやや、回復というところだ。これまでと違って、指先の力や動きはあると思う。曲がってしまう中指の動きはもう仕方ないようだけど。デジタルピアノを弾くと良く分かる。薬指と中指の立ての動きが壊れてしまっていること。指がぼけている分だけ頭の思考もぼやけるのかな・・。 いろんなことを素直に淋しいと正直に感じることすらできなくなたんだろうか。 建前、強がり、優しさに隠された甘え、自分のこと胸を張っていられるだろかと言う気がしてきた。人にいじめられて、無視される経験。日常の仕事のなかで、見ようと出来ない事がある。それって、トイレ掃除をやったおかげで今、意識を向けて書けたことかも知れない。

私は10代の多感な時期に友達との交流をしてこなかったこと。これも家庭の負い目と関係することでもあるし、まともに振り返ったことがない。もっとも自分の中の大きな問題であったこと、ずっとそれが今現在まで生きる中での核であったことにすら気がつこうとしなかったこと。今何かはじけるようにして、心に浮かんできた。 心の中で・・In my heart of hearts
まさにそれだ。。

今日は 何日でしょう・・。そう「9」日である。


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