Espressoを飲みながら

2001年05月27日(日) 自家培煎

 去年くらいから、コーヒーをよく飲むようになった。
最初はドリップしていたけれども、ある日思いたって
神戸国際会館のとある店でエスプレッソマシーンを購入。
スタバで豆を買ってエスプレッソ生活をエンジョイ。

 それはそれで幸せな日々であった。

 しかしある日のこと。私こと空遊は遠方に住む友人より
「コーヒーは煎りたてが美味しい」という人類が存続する限り通用する
絶対法則を知らされるのであった。

 本当かどうか試してみた。友人に贈ってもらったコーヒー豆で入れた
コーヒーは確かに美味しい。黒船がやってきたようなショックだった。

 こうなったらスタンハンセンのウエスタンラリアートを
受け続けながら自分の必殺技リキラリアートを開発した長州力のように、
このショックをばねとして自分も自家培煎するしかあるまい。
そう決心した。

 東急ハンズに行って一番安い胡麻とか用の培煎器を買った。
豆は東京のとあるコーヒー会社から取り寄せた。

 早速培煎。注意しないとすぐ真っ黒こげに。
火からの距離が肝要と思い知る。

 何回かトライした後に、ようやくなんとかそれなりにいけそなのが
出来あがる。エスプレッソにして飲んでみる。

 おいしい!

 ところでエスプレッソの苦味と酸味によく合うのがチョコパン。
チョコクリームが入っているやつより、板チョコがはさんであるタイプが
良い。一緒に食べると気分がほのぼのする。

 そんなこんなで、こんな題名の日記をつけ始めるのであった。


 



2001年02月08日(木) 隙間という名の時間

 遊んだり、働いたり、学んだりする時間でも無く、
休んだり、眠ったりする時間でも無いのだけれども、
ただ、ひたすらに時が過ぎるのを待っているより他に為す術が
無いような時間が確かにある。

 できることなら何かするのに使えればいいのだけれども、
もしそう出来ないとしても休息したり睡眠を取ったりできれば
いいのだけれども、それすらままならずに精々可能なのは
前の方をぼうっと眺めていることくらいだったりする。

 そんな風にして過ぎ去って行ったたくさんの時間。
山のように積み重なっているに違いないたくさんの時間。

 そう、時間が過ぎ去り続けていることさえ忘れさせるほど
何ごとも為すことなく過ぎ去って行ったたくさんの時間。

 生きている、そのプロセスの中の隙間。
一つのこととそれより新しい一つの事の間の隙間。
百貨店の入口の2枚の自動ドアの真ん中のスペースのような時間。

 田舎じみたアメリカ中西部の空港で乗り換え便を待つ時、
掛かってくるはずもない電話を待ち続けている時、
晴れたら自転車で出掛けようと思いながら曇り空を眺めている時、

 隙間の時間は私の前に姿を現わすのだ。
 



2001年01月17日(水) 6年になるのか

いろんなことを思い出した。
冬の風が肌に冷たい。



2001年01月12日(金) 浦島太郎

 ある時からずっと時間が止まったままになっているような感じがしている。
とはいえ自分の外側で起こっている出来事についてはそれなりにきちんと認識している
つもりだし、様々な生活の変化は目紛しく、大きな規模で起こっているものだ。

 だからもっと時間の変化を一つの感覚と言うか、体感として感じていても
いいはずなのに。

 なぜか時間が経っているということが実感できない。
時間はずっと止まったままで、時折周りの人やマスメディア等によって
その変化を告げられるというだけのよう。

 例えば、ハイペースで仕事して、疲れてきたからそろそろこれくらいは
時間がたっているだろうと思って時計を見るとか、それくらいの短い単位の
時間の感覚はあるのだけれども、何ヶ月、何年、といった長い単位の時間は
全然実感することができない。

一日という時間の長さでいろんな事が起こる。引っこ抜かれたり、食べられたり、
という訳ではないけれども(筆者はピクミンではないので)。
けれども、一旦夜になって眠りについてしまえば、それは全て記憶の中のこと。
昨日のことも、10年前に起きたことも、20年前に起きたことも、何の
違いも無いように感じられる。

 体験は、一定の時間が経つと、永遠というアルバムの中の一枚の写真と
して綺麗に保存されてしまうかのようだ。そしてその写真は「忘却」に
よっていとも簡単に破壊されてしまう。

 「現実」はその原形をとどめないほどに変わり続け、「記憶」のみが
過去の証人となる。しかしその証人も「忘却」という容赦ない死刑執行人
により日々殺され続ける。長い時間の中で見るならば、結果は単純。

 「とどまるものは、何も無い。」

 「とどまることも、変化することもないそれを除いては。」

 



1995年01月17日(火) 阪神大震災当日の思い出

 奈良県内の実家で目を覚ました。
ただし目覚ましなどという生易しいものによってではなく、
激しい揺れによって。
次の瞬間私がしなければならなかったことは、大型本棚と大量の本に
よって押しつぶされないように本棚を一生懸命支えることだった。

 家族が目を覚まし、「すごい揺れだった」とお互いの衝撃を相互確認。
「一体何が起こったんだ」とTVをつける。
地震のニュースが流れるが、全体像は全然見えて来ない。
「淡路島で急いで外に出たお年寄りが瓦で頭を打って軽い怪我で病院に
運ばれました」とか、その程度の事しか最初報道されていなかった。

 当時芦屋市内のマンションに住み、神戸市内の大学に通っていた。
数日前に実家に帰り、すぐに芦屋に戻ってくるはずだったが風邪をひき、
実家での滞在が長引いていた。1/17は英語の授業があって出席する必要が
あったため、早朝に家を出て登校する予定だった。

 奈良で受けた地震の衝撃から判断して、電車は午前中は動かないだろうと
思い、今日はのんびり家でくつろいでいようと思った。どれだけ大変な事態
なのか、まったく知る由もなかった。

 少しずつ時間が経つにつれ、事態の重大さがマスメディアによって
知らされた。

 この地震は思わぬところで空遊の人生に影響を及ぼすこととなる。
良きにつけ、悪しきにつけ。



1992年07月18日(土) 新しい名前

 インドのPune市のOSHO Commune Internationalに滞在していた。

毎日いろんな瞑想法を学んだり、ボディーワークを受けたり、
インド音楽を聴きにいったりしていた。

OSHOのSannyasinといふものになると新しい名前がもらえると聞いていた。
OSHOはかつてバグワン・シュリ・ラジニーシと呼ばれていたインドでは
大層有名(かつ悪名高い*1)精神的導師で、
Sannyasinとは「探究者」とか「弟子」とかそういう意味だそうだ。

空遊は、親からもらった苗字と名前に満足していなかった。
「これがきみの名前だよ」と言われても、そんな頼んだ訳でもなければ
自分のセンスに合ったものでもないし、「自分の」名前と言う感じが
しなくってサイズの合わない服を着ているみたいな居心地の悪さがあった。

新しい名前、しかもおそらくサンスクリット語の名前。
それはとっても魅力的に感じられたのだ。

「今度は、それなりに納得の行く名前がやってくるかもしれない。」

ほとんど事務的なものに過ぎない事務手続きを済ませてしばらくすると、
名前はもらえる、しかも御祝いまでしてくれるとの知らせがあった。

もちろん出席。

美しい音楽と、世界中のあちこちからやってきたSannyasin達の祝福の
中、新しい名前の書かれた紙と、素敵なネックレスをいただいた。
名前の意味は「覚醒」とか「宗教性」とか難しい意味だった。

とにかく私は自分のもらった新しい名前についてハッピーだった。

同じ時に名前をもらった友人達と正真正銘の本場インド料理レストランに
出掛けておいしいものをたらふく食べた。夜遅くまでいろんな話をしていた。

*1:インドの伝統や因習とは折り合いがあわなかったため。


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空遊 [MAIL]

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