2007年11月08日(木) |
力を加えず導くか、手を加えて成果を得るか |
朝のラジオで、「中国は科学的発展観を貫けるか」と題した解説。
この「科学的発展観」という苦肉の策のようなスローガン −日本語と同義に解釈してよいものか正確なところはわからないが− を耳にするたびに、中国の大変なお家事情を感ぜずにはいられない。
問題の「貫けるか」の部分について、解説員は、中国共産党の体質が変わらない限り、「貫くのは難しいだろう」と話している。つまり著しく制限された人権や民主主義を変えない限り、科学的発展観の実現はもちろん、国際社会に置き去りにされるだろうとも。 まあそうだろうなと同意する。
*
国家だけ−ある政党だけ−持続可能な未来を描いたところで、 市民が自分の未来について希望ある見通しをもてなければ、 国というのはいずれ破綻する。
何も中国だけではない。 「不正の時代」真っ只中にある日本だって、同じである。
もう少し想像する。 あるいは国家は賃貸住宅の家主のようになるかもしれない、アメリカみたいに。 契約条件を満たすことができる者だけを市民としてかかえ、 そうなると入居者は入れ替わり立ち代わり変わるから、愛国心で管理する。 その傍らで屋根裏部屋には必ず居候が侵入し、その駆除に追われるだろう。
*
閑話休題。 ラジオで聴いた話で書きとどめておきたいのは、本当はこっちである。
「文化」という言葉は、日本では室町時代から明治以前までは、 「権力を用いずに人を導くこと」を意味していたそうである。
明治時代に、ほぼ逆ともいえる内容へ意味が変わったのは、 西洋の「人間が自然に手を加えて物心両面の成果を得る」という概念を当てはめるために意図的に流用されたのである。
すっかり元の意味を失っているのは残念なことだけれど、 こうした概念を、おそらくは室町以降の権力者が認識していたということは、それは誇らしいことだなと思う。
2006年11月08日(水) 山門 2005年11月08日(火) 鳥災 2004年11月08日(月) 戦場は自然現象ではない
|