謹賀新年。 とはいえ、松の内ももう過ぎた。
家の中が静かになって、ようやく 昨年末、12月30日に急逝した大滝詠一さんのことを考える。
青春の時期に爽やかな風のように出会い、 それからは当たり前のように自分の周りに存在していた。 彼の創った世界に入って心を遊ばせることが好きだった。
大滝詠一氏の音楽に限らないが、 ずっとあるものだと信じて疑わなかった音楽のほとんどは、 当代限りのかりそめである、という危機感のようなものを、 最近痛いほど感じる。
大滝詠一さんと同時代に音楽を創り上げた細野晴臣さんも、 山下達郎さんも、少し若いが佐野元春さんも、 年齢的にはもうおじいちゃんだ。忌野さんは既に鬼籍に入っている。
自分の好きな音楽だけではない。 うざったく思っていたフォークミュージックも、 自分とはあまり関係ないなあと思うロックも、 庭先に繁茂する夏草のように、 時代が変われば世の中から跡形もなく消えるだろう。
誰も聴かないし、誰も歌わないものになるのだ。
*
翻って考える。
じゃあ、何百年も続く音楽というのは、一体何なのか。 どんな仕組みが、それを「伝統枠」にするのだろうか。
ふとロンドンオリンピックの開会式を思い出す。
何故あんなロックコンサートみたいな開会式なんだろう、と思っていた。 元日に肉じゃがを食べるようなものだ、と。
あれはきっと、多分、−意識的にせよそうでないにせよ− 放っておけば消えていく英国ロックを、 伝統に昇華させるための儀式だ。
時代の波頭にのった人が存命しているうちに、 誰にでも手に入る当たり前の音楽であるうちに、 百年先を見据えてその作業を周到にやっておくのだ。
現に、ビートルズもエルトンジョンも、 時代を超えたクラシックとして「成長」しつつある。
ああ、やはり「伝統」は英国だ。
伝統を作り出すことが英国の伝統なのだ。
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