川本三郎著「今ひとたびの戦後日本映画」。
川本氏は有名な映画評論者であるが、この本は映画評論の本ではない。
否、映画を論じていながら、 実は戦争-戦前・戦中・戦後-の実相を語っている。
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戦後の日本映画には、復員兵が多く登場する。 合わせ鏡のような関係で、戦争未亡人も多くの作品で描かれている。
著者は、まず戦争未亡人について考察し、「戦後日本映画は、おそらく−戦争未亡人を描くことで、ついこのあいだの戦争で死んだ多くの死者たちを追悼、鎮魂しようとしたのだ。「死者を忘れるな」と生き残った自分たちに言い聞かせようとしたのだ」と、さらには「戦争を批判しながら、そこで死んでいった「死者」を慰めることができるのは、社会的弱者であった女性しかいなかったのではないか」と述べている。
次に、復員兵に関する記述。
復員兵なんて言葉が、そういえばあったなあと思いながら、読む。
川本氏の記述によると、戦後の復員兵は約500万人に達したそうである。
「…そうした-友人たちが、声もなく死んでいった日々-痛恨の思いを抱いている復員兵にとって、戦後社会に生きることは困難を極めたに違いない。「大日本帝国」が突然「民主日本」になったからといって、すぐにその現実に追付くことは、戦場を経験したものであるほど出来はしない。頭の中ではいくら日本は新しく再生したと理解していても、心情が、肉体がそれに追いつかない。客観的には戦後を生きていながら、主観的には戦中を生きる。そういう二重構造を生きる者として大きく浮き上がってくるのが「復員兵」である…。」
「彼らは器用に戦後社会に自分を適応させることができない。といって昔に戻ることもできない。…戦争で死んでいった仲間たちのことを思えば、戦後の明るさのなかにすぐに自分を投げ込むことはできない。…「復員兵」は明るい戦後社会の異物になっていく。そして「異物としての復員兵」が描かれていくからこそ、戦後の日本映画は豊かさを獲得していく。」
「(映画「酔いどれ天使」に登場する)復員した三船敏郎は、戦後やくざに身を崩すことによって、「大日本帝国」を批判し、傷だらけになって死んでいくことによって「民主日本」も批判した。どちらにも与しない第三の戦後が、もしかしたらあり得るかもしれない可能性を残しながら死んでいった。「酔いどれ天使」の三船敏郎の死の衝撃は、そこにある。「異物としての復員兵」が突き付けた、「大日本帝国」と「民主日本」の両方に対する否定の重さにある。
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引用終了。 長々と引用したくなるほど、川本氏の考察に私には心が揺さぶられた。
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復員兵は、明るい戦後社会の異物である。
そういえば、「明るい未来のエネルギー」などというキャッチコピーが、 ついこの間まで、どこかの町に掲げられていた。
戦争を二度と経験したくないけれど、戦争を忘れたくはない。
何という、悲しくねじりまがった心もちであろうか。
それは、東日本大震災で被災した方々の心境を思い起こさせる。
おそらく、国家に背を向けられた個人の存在、と言う点で共通するのだ。
2009年06月11日(木) 平野と都市 2008年06月11日(水) それを手放してはいけない 2004年06月11日(金) お世継ぎを!
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