日の想い
幸花



 自分のリズム

のほほんと何もしない日が1日ぐらいあってもいいではないか。

私は、誰にも干渉されずに脳味噌を空っぽにする日が
週に1日ぐらいないと非常に窮屈だと感じる。

人といることは嫌いではない。
しかし面倒だと感じてしまう時もある。
この傾向は特に読書している時に現れるようで、
いわく、非常に不機嫌になるそうである。

好きなこと1つにぐっと集中して取り組むことのできた後の爽快感はたまらない。
逆に、没頭することとができないことがあると、むっとしてしまう。
私はひとに自分の時間を邪魔しないで欲しいのである。


一般にG線上のアリアとよばれる曲を、部活で合わせ終えた時のこと。
指揮者兼顧問のおじちゃんが、
次回はチェロ、通奏低音のアクセントをどうにかしないとねとのたもうた。

私の楽譜には8分音符4つが2セットで1小節、それが18小節間、最後まで続く。
音の並びやリズムは一見単純に見える楽譜だが、それだけ非常にむずかしい。
1つずつの響きに神経を尖らせなければならないからだ。
古典、と分類されるものはだいたいそうである。

私はクラブで会計、広報である。
それと同時に唯一のオーケストラ経験者でありコンサートマスターでもある。
だから合奏最中に自分の演奏以外のことに気を取られる場面も少なくない。
それば書き込みの鉛筆を置いていないとかいった、
ごく些細なことだったりするけれども。

本来大雑把で、自分自身のことだけで手一杯な私は、
きめ細かな気配りが非常に苦手である。


指揮者の一言は演奏に集中できない私には、無理な注文。
合奏は気分が高揚するものだったはずなのに、
いつもクラブの後は楽こともある反面、抜け殻のように疲れる。


今日3時間思うままに相棒たるチェロ弾いて
おもいきり鳴らすことができて、久しぶりに自分の中での達成感があった。

2002年10月05日(土)



 

やるコトが多い。
山積み状態である。
足元と歩いていく先を両方考えていくうちに、
にっちもさっちも首がまわらない。


私は今年3年。
就活も目の前である。
しかし、今だに決めることができずにいる。
どうかすればうちの大学で一番多い、銀行の窓口を考えなくも無い。
もちろん入れればの話ではあるけれども。


やりたいことなら沢山ある。


数え切れないほど、尽きることがないほど、興味がある。
けれども仕事と結びつけてでも続けたいことというと悩む。
両親の言うように、公務員という方向が、一番私に向いているようにも思われる。

公務員試験を受ける対策は、この夏が最終期限のようなものである。


それなのに、
きまらないし、きめられない。


足元とその先の見通しがたたなくて、自分のことだけで手一杯である。
だからあちこち疎かになっているだろう。
いつも顔を会わせるわけではない、ネットや
その他の人の付き合いに関しては特に。


大学に入るまでの自分と、今の自分は随分違うと言える部分も多くある。
けれども要領の悪さは、変わらないようである。
周りの様子に気が付いて、自分の中で消化するまでに人の倍かかる、
この厄介な性質は。

2002年07月06日(土)



 みちばた

色々、写真を公開するサイトを巡り
近々私も公開しようと思っている。

写真はとった人の性質を示す。

あちらこちら行ってみると、繊細な写真を多く見かける。
そうして振り返り自分の作品らしきものを見る。


どうやら繊細とは程遠いように思われる。
あかるくきっぱりしたものが撮りたい。
古風なのだろうか。





2002年06月27日(木)



 移転。

かなり久々の更新である。
過去KOUにおいでの方には初めてといったところか。

ここは感じたことのみを書き置く予定である。
まぁとはいえ日々のつれづれとは目的が違う ただそれだけなのだが。


さて。
KOUはやり始めたのが大学入りたての頃ぐらいであるから
まる2年以上経ったことになるだろうか。

やっていてずれを感じるようになった。

そしてここ最近それが顕著になってきていた。


何故だろうか?

KOUを持ってから2年の歳月が流れたと書いた。
1年目は人との繋がりを大きく広げた。
2年目は繋がりの中で考え、行動していくための手段を学び
計画を他人に伝え一緒に行動することを覚えた。


KOUは
まわりに憧れたりしてなんとなく、だったんである。



色々体験して、感じて、
だから
過去の自分の擬似空間へ

違和感感じて当然。



過去に日の想いをおいていたサイトはKOUの裏
でその名も風のつどいという。
どちらかというと交流を求めたKOUと違い
自分を見てくれといった志向のサイトであった。
とどのつまり私が感じてそれを一定の形に定めたものを
見てもらっていたわけだ。

しかもほぼ完全なる受け身型。


こちらは技術面でのもどかしさはありつつも
自分のやりたいことをやっていたからか。
違和感はありえなかった。
むしろどんどん広げていきたいものだった。



サイトを維持するには自分が何をやりたいのか
意志を持っていなければ続けることは出来ない。
KOUにはある意味それがなかったと言える。


やりたいことを見据えて、やる。


このごろそうやって行動をとるようになった。
責任も色々あるので厳しいけれども。
自分を自分で縛ることがなくなりつつある。

完全とはいかないけれども、1人で立てるようになってきたのかもしれない。


2002年03月21日(木)



 

紅葉が綺麗な気候になった

見上げると
散りかけて、すこし残った感じがひどくはかなげで
むき出しの枝にふんわりと
暖色の薄いヴェールをまとったようにみえる

寒々しい木肌に 暖色が舞う


家から5分ほど出た先はバス通りになっている
そこはケヤキ並木になっていていつもバス待ったり、降りたりするとき
季節の移り変わりを色鮮やかに見せてくれるところである


ケヤキは落葉樹である
つまり今紅葉の時期を迎えているわけであるが

ふと目を落としたとき

ひどく、葉が大きい気がした


もともとケヤキは胴の部分は確かにどっしりとしていて硬く、
家具などにも用いられるしかしその枝の先は思いのほか、脆い
他の樹木と比べても明らかに枝の先が細かいことがみてとれるだろう

だから葉はどちらかといえば杜若ほどに小さくそして紙のごとく薄い

しかし私がバス通りの歩道でみたその葉は
かしわのごとくひろがっていたのである


わりと最近、
ケヤキ並木を切り倒すなぞという声があがっていると聞いたことがある

いわく、落葉樹であるがために、落ち葉の時期に雨が降ろうものなら
排水溝などや樋がつまり迷惑だということ
そしてなにより落ち葉の掃除当番が道に面したブロックのみということも
不満の原因であったらしい

この声が恐らく反映されてのことだろうか
だいたい夏よりも前にケヤキの枝打ちがあるのだが
これで本当に大丈夫なのだろうかと思うほどに
今までよりもはるかに切り詰められてしまっていた

枝が少なければ、葉を茂らせる面積も必然限られてくる
限りある場所でいかに高木を維持していくかと考えてみれば
大きな葉の理由もなんとなくではあるけれども納得できる


確かにめんどくさいだろうとは思う
でも落ち葉で遊んだことはないのだろうか
枯葉独特の香りを感じているのだろうか
季節を感じることはないのだろうか

私は落葉樹は表情が豊かで楽しいとも思うのだが、
効率化の近、現代 みまわしてみると常緑樹が多い
もちろん常緑樹も好きなのではあるけれども

植物もぎりぎりの環境で生きている
折り合うことはも考えることはできないのだろうか?
(そうでなくとも枯葉を集めて焚き火をしようものなら)
(苦情が出かねないご時世である)

本来の自然とまではいかないまでも
目の前にあるものを大切には出来ないのだろうか


私の根拠があるようでないような考えではあるが
それでもなんとなくかなしいおちばだった

2001年12月04日(火)
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