解放区

2014年02月19日(水) ファングーラオ午後10時

ベトナム・ホーチミン市にあるファングーラオ通り近くの安宿に部屋をとった私は、とりあえず腹を満たすために外に出た。そう言えば、格安航空会社のチケットを握りしめて日本を発ってから、全く何も口にしていなかったのだ。

外に出ると亜熱帯特有の臭気を含んだ生暖かい空気が体に纏う。さっきも同じ道を通ってこの宿に来たはずなのだが、いくら安宿と言っても申し訳程度の空調もあり、いったんシャワーを浴びてさっぱりした身にはほとんど時間が経っていないとはいえこの生暖かい空気は懐かしく感じられた。宿の前で雄一と落ち合い、二人で歩き始めた。

通りを歩く。通りの歩道の端に、何人かの老人がぽつりぽつりと座っていた。よく見ると、彼らのほとんどは体の一部が欠けていた。両側の大腿から先が欠損している者、片方の腕が肩関節部分から欠損している者。

共通しているのはみな一様に汚れた衣を体に着け、自分の座っている場所の前に、無造作に汚れた帽子を逆さまに置いていることだった。

「彼らはベトナム戦争で戦った傷痍軍人やねん」

と、雄一がひとり言のように呟いた。彼とはタンソンニャット空港のバス乗り場で知り合ったばかりだったが、バスを待つ間に少し話をしてみて、私は彼とはウマが合いそうだと勝手に感じていた。私は初めてのベトナムだったが、彼はベトナムが好きで休暇の度にベトナムに来ているらしい。彼の生まれ育った大阪にも似た猥雑なサイゴンが好きなのだと、彼は知り合ったばかりの空港で私にはにかみながら言った。

「国の政策として、傷痍軍人は保護されているはずやねんけどな。もしかしたらアメリカについた南ベトナム軍の軍人は、全く保護がないのかもしれんな。そうか、きっとそうやわ。今までこんな簡単な事にも気が付かへんかったわ」

と、彼は私の方を見ずに、再びひとり言のように呟いた。

傷痍軍人の横では、米軍兵がベトナムに残して言ったというZIPPOを売る少年がいた。ホンマかいな、そんな前のものが残っているはずはないんや、でもそう言って売った方が間違いなく売れるからな、ところであっち側にあるあの屋台どうや、ビールもあるみたいやしあっこに入ろうや、と彼は言った。


屋台と言っても小さなガスコンロが一つ二つあるだけの店で、歩道から車道にはみ出すような形でプラスチックのテーブルと椅子が無造作に並べられているだけだった。店の前にはいろんな種類の貝が並べられており、その貝を茹でているだけの店のようだった。

空いた椅子に座り、ガスコンロでせっせと貝を茹でている主人に、ビアプリーズと雄一は叫んだ。ずっとコンロに乗った鍋で貝の茹で具合を見極めるのに忙しそうだった主人は、一瞬だけこちらを向き、虫歯だらけの歯を見せてにっと笑った。

ついでに皿の上に乗った貝を適当に選び、主人に渡す。注文を終えた私たちは、すぐに運ばれてきたビールで乾杯した。ビールの中にはやや大ぶりな氷がいくつか沈んでいた。

「ストリートには冷蔵庫あらへんからな。これ、ベトナムの水道の水やで、腹壊さんように気ぃ付けや」
と雄一は笑った。気をつけるのなら飲まないに越したことはないが、そう言う話ではないよな、と私は笑って中途半端に冷えた、生ぬるいビールを一気に喉に流し込んだ。

ベトナムでの初日の夜が始まった。



2014年02月18日(火) 既視感

目取真俊の「水滴」を読んだ。

この小説は、出てすぐのてめえが大学生の頃に一度読んだことがある。その時は「まあ面白いかな」くらいの感想しか持たなかったのだが、今回読み返してかつての自分を恥じた。正直、人生の中で、短編としては三本の指に入るくらい感銘を受けた。

これは「沖縄」を経験したからということもあるのだろうと思う。「呆気(あっき)さみよー!」という言葉の意味がこれほど深く入ってくるとは。そして物語の深さ。本当に、こんな小説が書けたらいいね。







「舟を編む」を映画でみた。正直detailがいまいち。原作を読んだらまた違う感想になるのかもしれないが、映画としては脚本が圧倒的に駄目だと思う。ただし音楽は素晴らしかった。あと、辞書を扱うと言うのも着眼点としては面白いと思った。なんて上から目線ですみません。


どうでもいいがてめえの好きな辞書は「新明解」でございます。辞書とは思えないこの切れ味が素晴らしい。


れんあい【恋愛】 
 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態 (第4版)






「台北の朝、僕は恋をする(一頁台北)」を映画でみた。台湾行きが決まってまあ正直、タイトルだけで観てしまった。「台湾人気質」を上手く表現していたのと、郭采潔演じる女の子の一途さが印象に残った。

台湾の中国人は、大陸の中国人とは異なり殺伐さがなく、まったりしているのは、日本であった時代があったことと無関係ではないと思う。






既視感を久しぶりに感じた。

かつて「青い影」で感じた、あの既視感。

立命館大学広小路キャンパス、河原町荒神口にあったジャズ喫茶「しあんくれーる」。てめえは間違いなくそこにいたような気がする。








2014年02月17日(月) スッポンの夜。

友人NO氏と晩御飯。この日のために、あらかじめ親父を預ける予定を入れ晩御飯に行った。

彼はこの春から東京に栄転する。一般的に言う「出世」であり、おそらく今後京都に帰ってくることはないだろうと思う。是非彼には日本のために偉くなってほしいと願う。てめえとは違って。

そんなわけで、東京に行く前に是非晩御飯を食べようと言う話になったのだが、彼の希望でスッポン料理を食べに行くことになった。その店には彼は以前に食べに行ったことがあり、そしてとんでもなく旨かったらしい。


事前に予約して店に向かった。まずはビールで乾杯し、日本酒でスッポンを頂いた。刺身から始まりまる鍋、そして雑炊まで本当に堪能しました。



飲み物メニューの中に「にがたま酒」と言うのがあった。これなんですか? と訪ねたところ、スッポンの胆嚢を焼酎に漬け込んだ酒で、苦すぎておすすめしません笑と言われた。「正直、罰ゲームレベルですわ」と店の主人は笑って言った。

雑炊を食べ終わる頃、彼は言った。「アレ、行ってみませんか?」と。そう、アレと言えば罰ゲームレベルの酒しかないわけで、さっそく注文。店の方も「まじですか! 行っときますか!」などと言いながら嬉々としてお酒を運んでくる。


お酒の見た目は真っ黒で、中には本物のすっぽんの胆嚢が一つ沈んでいる。胆嚢は絶対に噛んだらあきまへんえ、そのままごくりと飲み込んでおくれやす、と語ったお店の方の京都弁は、やたらと生々しく感じた。

さっそく彼から飲む。と言うより舐める。苦っ、と彼は顔を顰めた。確かにこれは罰ゲームやわと彼は笑う。次はもちろんてめえの番で、ちみりと口に含むと確かに苦いが思ったほどではないか。こちらが構えすぎたきらいはあるだろう。

これ飲んだら二日酔いしまへんのえ。朝も目覚ましより早く起きて、体が朝からぽかぽかですわ、と店の方は笑った。

さて胆嚢だけ残ってしまった。これはもちろんてめえに行けということなので、躊躇わずてめえは胆嚢を口に含んだ。絶対に噛んだらあきまへんえ! と言う店の方の期待通り、てめえはそれをがりりと噛んだ。



最後のデザートも頂き、店の前まで丁寧に送って頂き、とてもいい気分で二人京の街を歩いた。

とてもいい気分だったのはほんの少しだった。店を出て数歩、突然の嘔気がてめえを襲い、我慢する間もなくてめえは嘔吐した。道端の排水溝に、震えるはらわたからありったけの内容物を吐瀉した。

正直恥ずかしくて涙が出た。腸炎以外で、食事後に嘔吐するなんて何年振りだろうか。酒飲みとして最も恥ずべき行為とは認識していたが、生理現象としては止まらない。胃の中が空っぽになるまでてめえは憚ることなく吐き続けた。

気が付くと、友人がてめえにタオルを差し出していた。なんということでしょう。てめえがまるでこうなることを予想していたかのように、タオルが差し出されたのだ。何でそんなものを持っているのか、とてめえは尋ねたが、私にもわかりませんが、なぜかかばんの中に入っていましたと彼は言った。


てめえの嘔吐が落ち着いてから、二人で再び京の街を歩いた。


「胆嚢じゃないですかね」と、突然彼は言った。同じものを食べて片方だけ嘔吐すると言うことは。食べた物の違いと言えば。

なるほど、そうかもしれんね。きっとてめえのはらわたは、スッポンの胆嚢を拒否したんだろうね。吐くだけ吐いてすっきりしたてめえはそう言って笑った。



2014年02月15日(土) 台湾旅行の思い出其の二。

初めて台湾に行った時は、まだ台湾は戒厳令下だった。

「絶対に、共産党の話とあのハゲ(蒋介石のことで、台湾人はみな彼のことを「あのハゲ」と言う。名前も口にしたくないらしい)の悪口は言うな」
と台湾渡航前にいろんな人に言われていたが、小学生がそんな類の話をするはずもなかったので、実際のところはあまり自分とは関係ないかと思っていた。

ただ、実際に台北市内を車で移動していると「反共」とか「打倒共産党」みたいなスローガンが壁に描かれていたりして、ああ国民党の支配する島に来たのだなあという感慨に耽った。

とはいえ、実際に軍隊が街角に立っている、というわけでもなく、人々は平和に生活を過ごしていたのだ。そして国民党と共産党の戦争が実質終了して長い間が経ち有名無実化していた戒厳令は、私が台湾に渡った翌年に解除された。


ただし、祖父母からは強く言われていた。
「絶対に一人で外を出歩くな」と。
「日本と違って、悪いことを考えている人がたくさんいるからな。それに日本人だと分かると何されるかわからんぞ」
と言われていたが、そんなに治安が悪いのかな、くらいにしか思っていなかった節があった。ただし、小学生の自分にも、台湾は以前は日本の一部であったこと、日本が占領していたことに快く思っていない人がいるだろうと言うことは容易に理解できた。


そんなある日。祖父母は祖父の弟とどこかへ出かけており、私は一人家の軒先でのんびりと西瓜の種を噛んでいた。空はどこまでも蒼く澄み渡っており、通りの向こうの方では自分よりも少しだけ幼い子供たちが知らない遊びを楽しんでいた。

ふと、どこかに出かけたくなった。といっても、ほんのすぐそこまで。さすがに父祖の地とはいえ異国の地であり、祖父母の言葉も頭の片隅に残っていた。

ふらふらと家の前の通りを歩き始めた。路地を歩き、次の辻で右に曲がった。通りはたちまち開けて、人の通りもそこそこあった。なんだか自由になったような気がしたが、僅かな不安もそこに付随していた。

もう少しだけ歩いたら、分からなくなる前に帰ろう。

そう思ったその時、前から歩いてきた50歳くらいの男性に突然呼びとめられた。

彼は地図を広げて、私に何かを尋ねている。時折黙りこみ、そして私の顔を見てまた何やら尋ねてくる。おそらくだれかの家を探しているのではないか。さすがに言葉のわからない私もそれくらいは理解できた。

しかし、これはあくまで単なる想像である。正直なところ、彼が何を言っているのか全く分からなかった。北京語なのか台湾語なのかもわからない。

それ以上に、そのシチュエーションに私は戦慄した。小学生の自分にはどうすればいいのか皆目わからないのだ。

とりあえず、一緒に考え込むふりをして、ほんの僅かだけ時間を稼いだ。ほんの僅かだけ。そして決断の時は近付いていたのだ。

日本人であることはばれてはならない、もしかするとこの人は、私が日本人であると知るとたちまち豹変するかもしれないし怖い思いをするかもしれない、どうしよう、両手を広げて耳が聞こえないふりをしようか、あるいは全力でここから逃げ出そうかでも自分の脚力だったら追いつかれるに違いない、大声で叫ぼうかでも全く逆効果な気がするどうしようどうしようどうしよう一人で外に出てごめんなさい…。

パニックに陥ってしまった私は、自分でも意外な行動に出てしまった。

「わ、わかりませんっ!」

と日本語で叫んでしまったのだ。

私に道を尋ねた彼は一瞬絶句し、次の瞬間に爆笑した。

「あはは、そうかわからんか。そりゃあわからんわな! すまんかったな坊主!」

と、彼は驚くほど流暢な日本語を使い、にこにこと笑いながら私の頭をぽんぽんと叩いた。

そして、にっこり笑い手を挙げながら、彼は去って行った。

ほんの少しの時間の出来事だったにもかかわらず、私には物凄く長い時間が流れていたような気がした。そして、気が付くとびっしりと冷や汗をかいていた。


日本の支配が終わって約40年が経っていたが、あの時代にはまだ日本人として生まれて日本語で教育を受けた方がたくさんいたのだ。



私の名を呼ぶ声でふと我に返った。振り向くと、おばさん(祖父の弟の妻)が驚いたような安心したようなそして少し怒ったような顔をして私の元に近寄って来た。



#実際は、祖父が考えていた以上に台湾の人は親日であった。このことに驚いた私は、台湾に行った時にいろんな人に理由を尋ねたが、みな同じことを言った。

日本人は学校を作ったり病院を作ったり良いことをたくさんしたが、その後に来たあのハゲはそれらを破壊した。ハゲが来てから新しくできた学校はない。私たちは国民党が来た時は、祖国に帰れるのだと一瞬期待したが、彼らは祖国でも何でもなく単なる破壊者だった。だから台湾人はあのハゲが大嫌いなのだと。冷静に考えると、日本時代が台湾人にとって一番いい時代だったと。

日本のあとに「さらにひどい存在が為政者としてやってきた」ので日本を過大評価しているのかとも思ったが、そもそも日本のことはひどい存在としてとらえてられなかったのが意外だった。

歴史を冷静に評価すると全くそうなのだが、世の中には冷静に考えられない人(集団と言ってもいいのか)はたくさんいるのに、台湾の方々は理知的だなあと感動したのを覚えている。



2014年02月14日(金) プルシェンコ/弱者と卑屈さについて

まだ真っ暗な早朝に目が覚めてしまった。

今何時だろう、と寝ぼけた頭で時間を確認しようと思い、ぼんやりとあいぽんを起動する。時間を確認するついでに、いつものようにニュースを確認する。

まだ半分以上眠っている頭で「プルシェンコ、棄権」というニュースのタイトルを見て、てめえはなぜだか涙が止まらなくなってしまった。やっぱり駄目だったんだね。そして、彼はこれで引退するだろうというつよい確信を持った。限界はとっくに超えていた。ソビエトシステム最後の傑作と言われた彼は、最後までソ連的だったと思う。お疲れさまでした。

プルシェンコの五輪参加自体が奇跡に近かったということに関しては、こちらが良くまとまっていると思う。


先日書いていた「ドゥマンギテ」をアマゾンで衝動買いした。昨日CDが届いたのでさっそく聴いてみたが、表題作以外は正直よくある沖縄ポップだった。うーん残念。表題作の出来が良すぎたから特にそう思う。その路線でいけば他との違いを強調できるのに。残念。




しつこく詐欺師の話。てめえがこれほど許せないのは、弱者を騙ったというその一点に尽きると思う。聴力障害の2級は「全聾」で、難聴ではなく聴力の全廃状態なので、聞こえるようになるということ自体がありえない。視力を失った全盲の人が光を取り戻すことがありえないのと同様に。

そして「卑屈さ」について考える。卑屈さについて考え始めると限りなく果てしなくなるので、これまではほとんどしてこなかったのだが、今後は向き合う必要があるのだろうなと思う。

てめえは家庭の事情で、小学2年生の時から新聞配達をしていた。新聞配達自体は全く苦にならなかったし、それなりにいい経験だったのだが、唯一嫌だったのが、配達途中に同級生に遭遇してしまうことだった。

そう言うことがないように真っ暗なうちに起きて配達を始めるのだが、朝からジョギングしている子に会ったりすることもあったし、天気の悪い日は配達に時間がかかってしまい、活動を始めた同級生に会ってしまうこともあった。

今思えば堂々としていればよかったのかもしれないが、小学生当時はなかなかそういうわけにもいかなかった。そして同級生に会うたびに、とても卑屈な気分になったものだ。

小学校高学年になると、夕方からはラーメン屋の手伝いをさせられることになり、さらに卑屈さに磨きがかかった。大人の世界を垣間見ることになったのは良い経験だったが、同級生が食事しに来た時が悲しかった。あちらとこちらの差を痛感し、なんとも卑屈な気分になった。

中学生になり、学校にも行かずに引っ越し屋のバイトをすることになった。もちろん、中学生と正直に言えばどこも雇ってくれないので高校生ということで仕事をしたのだ。バイトを斡旋したのが実の父親というのがこれまた悲しい話だが、この時は仕方がなかったのだ。

引っ越しバイトも割が良かったし、体を動かすことが嫌いではなかったので楽しく働いていた(もちろん、当時でも法律違反ですよ)のだが、その時も同年代の子供がいる家庭の引っ越しの仕事をするのが嫌だった。

同じくらいの年の子供の荷物を「お嬢様の荷物はこちらでよろしいですか?」などと言いながら運ぶ自分に嫌気がさした。もちろん、同じ中学生なのに荷物を運んでもらう側と、年齢を偽りながら貧乏が故に働かなければならないその身分の差にうんざりしたということもある。


弱者であるということは、人間を卑屈にする。そしてマイナスからはマイナスしか生まれない。「それではダメなのだ」ということに、十代の最後で自分で気が付いた自分は偉いと思うし、自分で気が付いたから故に、卑屈さを克服できたのだろうと今になって思うのだ。

だからこそ、弱者を騙る人間は許せないし、加えて騙されないということの大切さも強く感じるのだ。


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