群青

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090928
2009年09月28日(月)




 思考が焦点を結ばない。頭の奥がぼんやりと痺れている。それは、来客(事象)を家に招き入れることなく、玄関先であしらって帰すことに似ている。景色を見ても、音楽を聴いても、無味乾燥で訴求力がない。なんでこんなところにいるのか不意に馬鹿馬鹿しくなり、あるときは欠伸をかみ殺してやり過ごし、あるときはたまらずにその場を後にしてしまう。









 ブレーキのかからない車に乗っているようだ。行為に実感が伴わないので、省察に忙殺されるようになる。だのに、気持ちは先を求める。いま、いま、いま!速度に深刻さが増すと、やがてハンドルすら思うように動かせなくなる。ぶつかってばらばらになるのは自分か、それとも周りの世界か。見たくもあるし、そうでなくもある。目をしばたく。強く目をしばたく。









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ザ・スズナリでかもねぎショット「嘘と迂闊と物語」

梅小路公園でくるり、石川さゆり、奥田民生「京都音楽博覧会 2009」
SHIBUYA-AXでスパルタローカルズ「ラストダンスはあなたに」

シアターN渋谷でレニ・リーフェンシュタール「意志の勝利」
新宿バルト9で是枝裕和「空気人形」

東京都美術館で「トリノ・エジプト展」
東京都現代美術館で「伊藤公象 WORKS 1974-2009」
「MOTコレクション 夏の遊び場
-しりとり、ままごと、なぞなぞ、ぶらんこ」
21_21デザインサイトで「山中俊治ディレクション『骨』展」
「TOKYO FIBER ’09-SENSEWARE」
ミヅマアートギャラリーで「山本昌男 展『川』」
ギャラリー小柳で「杉本博司+石上純也 展」
小山登美夫ギャラリーで「建築以前・建築以後 展」
ギャラリー・間で「カンポ・バエザの建築」
椿山荘で「団・DANS Exhibition No.5 真夏の夢 -椿山荘-」
鎌倉大谷記念美術館で「『デュフィ展』-海-音楽-競馬-」
神奈川県立近代美術館で
「建築家 板倉準三展 モダニズムを生きる:人間、都市、空間」
江戸東京たてもの園で「特別展 魅惑のカンバン・ハリガミ展」
Bunkamura ザ・ミュージアムで
「ベルギー幻想美術館 クノップフからデルヴォー、マグリットまで」









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レベッカ・ブラウン「犬たち」
安川奈緒「MELOPHOBIA」
中島らも「心が雨漏りする日には」
田村隆一「詩集 1999」
よしもとばなな「王国 その2 痛み、失われたものの影、そして魔法」
「王国 その3 ひみつの花園」
ディーン・R・クーンツ「ウォッチャーズ」
青木新門「納棺夫日記」
西川勝「ためらいの看護」

読了。






















090817
2009年08月17日(月)




 弱くなる。振りかざした拳をTが包む。Tと暮らせば、もう怯える必要もないし、何かに拳を振り上げることも格段に少なくなるだろう。社会は敵ではない。牙をむき出しにする必要もない。新しい土地には新しい規範があり、今までと違う価値基準がある。そこでは調和と配慮が重んじられ、転じて激しい敵愾心はそこにあるものを損なわせる一方だろう。これが異性愛者であれば融け込むのも幾らか容易かったろうにと思う。子を、家族を、家庭を守るための自己犠牲は時として力になり得る。守るべき者を持たないが故の仮想敵をこしらえずとも、関係性に憩うという方法もあるだろうに、総毛を逆立てて拒絶していた者にはそれがとても難しく感じられる。まるで、孤独を奪われたらば息ができなくなるとでも言うかのように。


 呼吸法を変えれば良いのだと頭では分かっている。えら呼吸から肺呼吸へ。あるいはその逆へ。孤独を媒介とせずに、家庭的(疑似)なあたたかさから酸素を抽出すれば良いのだ。年々、冬への抵抗力が低下していることからも、それが避けられないことなのだと分かる。二律背反と付随する二者択一に帰着しがちな了見の狭さが恨めしい。張り詰めていたものが溶解したらば、自分を自分たらしめていたものまでが溶け出してしまうのではないかと思ってしまう。硬化した表皮の下で腐り、流出する臓腑。すっからかんのがらんどう。つくづく変わることは難しい。得ることよりも失うことを恐れる貧しさと、積年の慣習が、変わろうという気概の足を引っ張る。


 ただ、この変化がもっと先のことではなく、もう間もなく起こるということに歓びを見出して良いのかもしれない。むしろ、手を加える余地、即ちまだ可塑性のある間にそれに直面できるのは幸運なことなのかもしれない。Nさんは言う。「大丈夫、十年経てば慣れてるよ」と。相反する感情を持ちながら、なかなか東京を離れられないでいたが、もうそろそろその言葉を信じて良い頃合いなのかもしれない。じきに二十代が終わることを思うと、十年という歳月の遠さにくらくらするが、多分今がその時期なのだろう。






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青山ブックセンターで藤森照信、赤瀬川原平、藤塚光政
「この先になにがあるのか--1960年代と2000年代の実験」

TOHOシネマズで細田守「サマーウォーズ」
ユーロスペースでイジー・バルタ「屋根裏のポムネンカ」
早稲田松竹でジョン・クローリー「BOY A」
ヴァディム・パールマン「ダイアナの選択」
吉祥寺バウスシアターで田口トモロヲ「色即ぜねれいしょん」

東京オペラシティアートギャラリーで
「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」
「開館10周年記念 響きあう庭」
パナソニック電工汐留ミュージアムで
「建築家 板倉準三展 モダニズムを住む 住宅、家具、デザイン」

片山東熊、村野藤吾【赤坂迎賓館】






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上橋菜穂子「神の守り人」
オリヴァー・サックス「火星の人類学者」
恩田陸「いのちのパレード」
アーシュラ・K・ル・グィン「闇の左手」

読了。






090727
2009年07月27日(月)




 犯人は母親を殺害し、娘を誘拐して逃亡した。この事件の奇妙な符合が、僕のなかである種の化学変化を促し、もともとそこにあったものをすっかり変えてしまった。符号といっても、傍から見れば他愛のないことだ。事件が叔母の住む団地で起きたこと。逃亡に使用した車のナンバープレートが僕の住むエリアで交付されたものだということ。逃亡潜伏先が母方の実家のある島だったこと。犯人の年が近くなおかつ義務教育の学区を等しくしていたこと。それらのあらましを知ったとき、レールのスイッチがカチリと切り替わった。これから進む先は、これまでとは全く違うだろうという妙な確信を得た。


 『私には他人の生命を引き受ける余裕はない。自分一人の生命の重みに
 耐え、自分の孤独に耐えていくだけで精いっぱいなのだ』

 『百貨店の大きくひらかれた一階の、高級な、手入れの行き届いた光の
 なかの一点の曇りもない大きな鏡のなかで自分の顔を映せば、色々な感
 情は奥へ奥へとひきのばされて女自身にもつかみどころのないものに変
 化して、それをまんべんなく見つめて、そこからしか見えないものを、
 隅々まで管理しつづけること』


 孤独と反骨精神が原動力だった。独りで生きていく。負けない。逃げない。そうやって大抵の辛いことは乗り越えてきた。けれど、Tと知り合ってから、そういった感情がエネルギーとして機能しなくなった。僕はこの状況に動揺せずにおれなかった。鋭敏さや押し負けない強さが、安穏として鈍感な弱さに取って代えられるのは耐え難い。君は人に甘えるのが下手だ、とCさんは言う。その言葉は目頭を熱くさせたが、少なからず僕を苛立たせもした。人の言葉を素直に聞けずに、疑ってかかってしまうのは悪い癖だ。負けん気の強さが前面に出てしまう。人に甘えなくたって、自分が強くいさえすればいいだろ、と思ってしまう。Iさんは言う。あなたはなんでも独りでできてしまう。けれど時には人に頼ることも大切よ、と。自分独りでやった方が上手くこなせるのに、なんで人の力を借りなきゃならないのか、と僕は思う。


 『トゥレット症候群のひとたちの多くは運動に惹かれるが、(たぶん)
 ひとつには運動の際に要求される並外れたスピードと正確性のためであ
 り、またひとつには彼らの瞬発力と過剰なほどの動的衝動とエネルギー
 がはけ口を求めるからだろう。演技や試合のなかでは、彼らの衝動とエ
 ネルギーは爆発的に発散されるのではなく、調整のとれたリズミカルな
 流れとして表現される』

 『ここでは、単なるリズムやいわゆる自動的な運動パターンの共振とい
 うよりももっと高度なレベルのなにかが働いている。このときには(今
 後、心理的あるいは神経的レベルで明らかにされるべきものだが)、変
 身あるいは別人格化が起こり、そのパフォーマンスが続くかぎり、他者
 の技能や感情、神経レベルでの記憶痕跡が脳を占拠して、人格も神経シ
 ステム全体も組み替えてしまう。このようなある役割、ある人格から他
 の人格へのアイデンティティの変化、人格の組み替えは、毎日の暮らし
 のなかで誰にでも起こり、親から職業人へ、政治家へ、エロティックな
 人間へ、その他のさまざまな役割へと変身している。だが、神経的、心
 理的な症候群のあるひとの場合、それにプロの演技者や俳優の場合、こ
 の変化がとくに劇的なのである』

 『でもそれから何時間かたち、そんな空気が徐々に薄らいでくると、あ
 たりはまた淡い哀しみの衣のようなものに包まれていった。そして結局
 のところ僕はこちらの世界にいて、叔父はあちらの世界にいた』





 分裂している。岬の突端で強い風に吹かれている自分と、あたたかな部屋でTと寛ぐ自分に。半身の引き裂かれる不安と恐怖が、近付くTを拒絶した。かけがえのない関係が恐い。一人の人間に比重が増すと、失くしたときの損失も大きい。自分の好ましい面や美点が根こそぎにされてしまうのが恐い。しかしそうやって恐い恐いと言ったところで、もう後戻りはできない。一度知ってしまった温もりを、僕はきっとまた欲しいと思うに違いない。独りで生きていく。いや、もう独りでは生きていけない。


 『彼女はその致命的な欠落のまわりを囲うように、自分という人間をこ
 しらえなくてはならなかった。作り上げてきた装飾的自我をひとつひと
 つ剥いでいけば、そのあとに残るのは無の深淵でしかない。それがもた
 らす激しい乾きでしかない。そしてどれだけ忘れようと努めても、その
 無は定期的に彼女のもとを訪れてきた。ひとりぼっちの雨降りの午後に
 、あるいは悪夢を見て目覚めた明け方に』

 『だからこそ青豆という安定したパートナーを必要としたのだ。自分に
 歯止めをかけ、注意深く見守ってくれる存在を』


 猫の町へ行く。丁度今読んでいる本の主人公も猫の町へ向かっている。年齢も一緒だ。現実では母親を殺害した犯人が娘を誘拐して逃亡した。事件の起きた団地、ナンバープレート、逃亡先、年齢、育った町。

 作中と違うのは、たとえ損なわれても父がそこに生き続けているという点だ。僕はそれを嬉しく思う。高速道からの川沿いの風景は、遠目には何一つ変わっていないように見えた。Tと生きていこう、ふと、そう思った。


 『これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。そ
 れがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動
 いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうと
 しているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はな
 い。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き
 延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしな
 ければ、この心を失いさえしなければ』


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Zepp東京でくるり、サカナクション「J-WAVE PLATOn LIVE」

早稲田松竹でテンギズ・アブラゼ「懺悔」
ファティ・アキン「そして、私たちは愛に帰る」
シネカノン有楽町2丁目で中江裕司「真夏の夜の夢」

銀座ニコンサロンで「榎本 敏雄展[アルルカン]」
東京都写真美術館で「コレクション展『旅』第2部
『異郷へ 写真家たちのセンチメンタル・ジャーニー』」
国立新美術館で「生誕150年 ルネ・ラリック
華やぎのジュエリーから煌めきのガラスへ」


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舞城王太郎「SPEEDBOY!」
津村記久子「ポトスライムの舟」
村上春樹「1Q84 BOOK1〈4月-6月〉」
「1Q84 BOOK2〈7月-9月〉
よしもとばなな「王国 その1 アンドロメダ・ハイツ」

読了。





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