いきあたりばったり
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2006年07月10日(月) 受け入れると言うこと

あんなに良い気分だったのに。
夜中にりんと電話で大げんか。
おかげさまで、寝たのは4時過ぎ。
1時には布団に入ったのに!
5時には起きる予定なのに!!

喧嘩の内容はいつも同じ。
しかも、今まで必死に訴えてきたことが、ようやく分かってもらえたらしい。
らしいというのは、本当に伝わっているかどうか怪しいからだ。
彼にあまり頭の良さとかそういった物に関する期待はない。
なので、今まで「わかった」といっていたことは何だったんだ!
ということに怒りはない。
ただ、やっぱり分かってもらえていなかったんだなと思うだけだ。

それにしても、私は人を好きになるということは、
その人の嫌な部分でさえ、それを含めて、分かった上で好きということだと思う。
嫌いな部分も許せるということだと思う。

だけど、彼にはどうしても私の中に認められない部分があるらしい。
私は、自分のそういう部分もひっくるめて自分だとは思っているけれど、
その部分は好きではないし、なるだけ改善したいと思っている。
そうして気をつけてきたつもりだ。
その努力も認めてもらえず、いつもその部分を頭ごなしに否定されて、
「俺は、その部分は受け入れられない」
といわれ続けてきた。
いくら好きでも、そんなのしんどいではないか。
私ばっかりがんばっている気がしてものすごく疲れる時がある。
不毛だ。
こんなのいくら好きでも、騙し騙し付き合っていくようなものだ。
それなら、いっそ別れたらいいじゃない。
そう思う。
真剣に思う。
確かに、なれ合いすぎて、私が寄りかかりすぎて、人と人との間に最低限必要な思いやりを持てていないなという時期があった。
ものすごく反省して、気をつけないとと思った。
他人と付き合う限り、やはり最低限の思いやりは必要なのだ。
家族は、時にそれを欠いても、何らかの事情を察してくれる。
というか、私の親しい友人達もみなそうだ。
優しい。
甘やかされすぎているのかな。
でも、甘えてばかりではいけない。
けれどどうしても、私は自分をさらけ出した人には、
うっかり気をつけられないときにも、許して欲しいということを、
求めてしまうようだが、彼には求めてはいけないようだ。
それは、実はとても苦しい。
家族の次に、一番求めたい人ではないだろうか。
今は、我慢がきいても、そこんとこ本当に分かってくれないと、
私は苦しい。
根本的に受け入れられていない、そういうことはとても苦しい。

今は「わかった」といってくれた言葉を、信じるしかないだろう。

てか、おかげさまで大事な最後の授業に行けなかったあるよ。
気分丸つぶれ。


2006年07月09日(日) 最悪と至福のない交ぜな日

4時半に目が覚めた。
目は覚めたが、身体が重い。
何かが全身に被さっているかのように重い。
起きあがれない。
なので、もう少し寝る。
次に起きたのは10時過ぎだった。
りんの家の冷蔵庫に忘れた物を取りに行くつもりだったのだが、
どうにも起きあがれないので断念。
ものすごく熱さが身体にまとわりついて気持ちが悪かったので、
何とかクーラーだけつけて、もう一度寝る。
(私の部屋のクーラーは、20年以上物なので、リモコンはない)
起きると12時を過ぎていた。
頭ががんがんしているが、もう起きなければと思い起きる。
新喜劇をみて、昼ご飯を食べ、再びベッドでよしもとばなな。
ダメだな、と思いつつも暑さに耐えきれずクーラーを入れる。
頭はひどく痛む。
ふと、窓からあおーい空が覗いた。
あれ、としばらく見ていたら、このままじゃダメだという思いがふつふつふつと湧いてきた。
思い切ってベッドから降りて、クーラーを切り、思い切りよく窓を開け、
下に降りた。
犬と一緒に、お空を見て、ふーっと心を入れ替える。
でも頭は相変わらず痛くて、あんまり何をする気にもならないので、
今日は風の通る一階の部屋の畳の上で、またまたよしもとばなな。


クーラーや暖房を、ほとんど受けつけない私の身体。
頭痛の原因は、間違いなくクーラー。

なので、あっためないと。
という気持ちもあって、畳でごろごろしていたら、
母が
「お茶しにいかへん?」
と誘ってくれた。
炎天下にお散歩してお茶か〜とは思ったけれど、無理矢理にでも動かさないと
治らないな〜と思って行くことにする。



さて、そうして母とお茶に行ったのは、この2ヶ月くらい二人して気になっていた場所。

ある日隣町に向かう道路脇に、冠婚葬祭用の建物のような、なんかの工場のような、白い建物がどーん出来ていた。
春休みに入る前、2月くらいか、春から大学生になる妹のために、
地元のバイト情報を見ていたら、どうやらその建物でバイトを募集しているらしい記事が。
けれど、「スィーツレストラン」というのがどうも納得いかない、建物。
それ以降も、その横を通るたびに、どう見てもそうは見えないので、
母と2人、色々と憶測していたのだ。
で、遂に!!
という感じで、2人でのんびり散歩をしながらそこを目指す。
やっぱり、どう考えても、入りにくい真っ白な建物。
少し、坂をあがると、その建物の雰囲気とは全く違う、
アジアンな重たい木の扉が。
その自動ドアが開いた瞬間、夏の暑さを一瞬で吹き飛ばす、冷たい空気が流れ出て、一歩踏み込んだそこは、
意外にも普通のレストランだった。
広い。
中と外が違いすぎ。
びっくり。
タイカレーや、パスタのランチ、ディナーまでやってる・・・。
びっくりした。

私は、フレッシュジュースとアフタヌーンケーキセット。
母はアイスティーのアフタヌーンセットを頼む。
アフタヌーンケーキセットには、ケーキ2つと焼き菓子が付く。
アフタヌーンセットには、焼き菓子のみ。
焼き菓子はクッキーだった。
アメリカンサイズで、アメリカンな味のクッキーだった。
しっかり甘い。
余ったら持ち帰りも出来る。
家に帰って夜に食べたら、意外と癖になりそうな甘さかもと思った。
夜にお茶とつまむとちょうどいい。
私がチョイスしたケーキは、サツマイモのタルトと、チョコムース。
サツマイモのタルトも普通においしかったが、チョコムースはちょっと絶品。
こんな田舎であって良い味じゃなかった。
濃いし、味が深い。
舌で味わうことの出来るチョコレートだった。
今日は買わなかったが、いろんなチョコも売っていた。
チョコムースがこの味だったら、チョコは期待できると思った。
だけどやっぱり、広すぎるし観光客がちょっと立ち寄りたくなるような外観ではないので、
なかなか気に入った母と私は、潰れない家に何度か来ようと心に誓った。
勿体ないな〜。
あの場所だったら、もう少し入りやすい雰囲気にすれば、ある程度繁盛するだろうに。
マンゴーのフレッシュジュースも濃くておいしかったしね。


レストランですっかり冷え切った私の身体は、15分かけて暑い太陽の下を歩いても、黒い出で立ちで歩いても、冷えたまんまだった。
頭痛が少しぶり返したが、此処で止まっては行けないと思い、
母と2人買い物に出かけ、
帰ってからは、猛然とカレーを作った。
この熱さのせいで、2人ともとてもカレーが食べたかった。
しかも、立ち寄ったスィーツレストランでタイカレーの文字を目にして、
俄然夕食はカレーとなっていた。
タマネギをふんだんに使った、ミンチと茄子のカレー。
絶品である。
自分でつくっといていうのも何だが。
母がものすごくはまっている。
この一ヶ月で、三回はもう作った。

夕食に満足した今夜は、良い風が吹いていた。
縁側の椅子と机に、(10年近く置物となっていた)ランプを置き、
テーブルには紅茶とクッキー。
何だろうこの雰囲気。
絵に描いたような空気の中で、よしもとばななを読む。
こんなまったりしている場合じゃないけど。
こんな日曜日だから、明日からきっと頑張れる。


こんな感じ。











2006年07月08日(土) 偶然じゃなく必然の自分的ばななたいむ

もう本当にずっとここのところ、吉本ばなな或いはよしもとばなな一色である。
で、久しぶりに、よしもとばななの公式サイトを覗いたら、なんと!
文庫の新刊ラッシュ!!
これは!
と思い、本屋に行ってよしもとばななをたくさん購入。
今までずいぶんと買っていなかったようだ。
よしもとばななドットコム、の日記の本も5巻から買っていなかった。
びっくりだ。

読みたいときに、読みたい物がたくさんあるのは本当に嬉しいことだ。
ほくほくした気持ちになって、うちに帰る。
で、なんとなく日記から読み始めた。


しかし、今日の夜は暑い。
うちの家で一階が暑いというのは、本当に暑いと言うことだ。
うちは、本当に涼しい。
日本家屋というのは、本当に日本に適した家なんだ!
というのを実感できる家だ。
だから、夏は涼しい。
冬は寒い。
風通りがものすごくよいのだ。
なのに、風が通らない。
むっとする。
熱帯夜だ。
こんな時二階は、死ぬ。
しかも、南向きで太陽が昼間降りそそいでいる私の部屋なんて最悪だ。
たまりかねて、クーラーをつけて寝た。
睡眠不足でおどり疲れてべろべろの身体にクーラー。
湯船に浸からず、疲れを取りきらない身体にクーラー悲惨なことになるのは、
目に見えていたんだよね。







2006年07月07日(金) 他人の家で

七夕ですね。
りんりんの家族が、そのお兄ちゃんの彼女の実家である長崎の何とか島にりんだけ置いていってしまったため、
今りんの家に来て、りんの家のパソコンでこれを打っています。
りんも、バイトに出ていなくて、私は夕ご飯の支度をしながら、
さっきまでまた吉本ばななを読んでいました。
今日は『ハネムーン』。
昨日は『アムリタ』を読んでいました。


本当に些細なこと。
それは、雨上がりの夜の月が美しかったとか。
各駅停車の、いつもは乗らない車両に乗ったら、毎日見ているはずの車窓からの景色が、全く違ったものに見えたとか。
それから、『アムリタ』を読んだせいで、でもって『ハゴロモ』を読んでいたせいで、
無性に食べたかったラーメンを、食べられたこと。
夜中の11時半を過ぎて、たまたま見つけたそのラーメン屋のラーメンが、
とてもおいしかったこと。
そんなすべてが、どんなにか自分を豊かにするのか。
そういったことに、普段は忘れてしまっているそういうことに、
改めて気がつき、目を向けるようになる。
いかに人間が、不必要なものを必要と思い込んでそれに固執し、
かえって自分を不自由にしているか。
私たちは、自由を履き違えていて、自由を享受しているつもりで、
自ら不自由の中に飛び込んでいる。
それに気がついたからといって、具体的にどうこうできないようなこともあるんだけれど、
些細な、本当に当たり前のことに目を向けて、それを素直に享受し喜ぶことは、
なんて幸せになれるんだろう。
自分を幸せにするんだろう。


ばななを読んでそんなことに感じ入って、幸せで。
当分この気分を手放したくなくて、吉本ばなな続行中なのです。



で、りんりんの家で勝手にくつろぐ私。
昔住んでいた家につくりが似ているせいか、
何度もお邪魔しているせいか、
それともこの家の人たちの持つ空気のせいか、
いやいやそれとも私の生来の図々しさのせいか、
とってもくつろいでいます、本当に。
自分の家でもそうなんですが、家人の居ない時間が好きなのです。
家の中が、しんとしていて、妙に空気が凛としている。
そんな中で、淡々と物事をこなしていくのはとても好きなのです。
だけれども、りんが帰ってくるのは11時を過ぎるので、8時半の今からではあまりすることも無く。
トマトソースを煮込んでいる鍋の様子をたまに見に行くくらい。
重たいので、勉強の本も持ってこなかったし。
なので、勝手にゴッドファーザーでもただいまから観劇しようと思う。
有名なシーンとテーマソングは知っているんだけれど、
ちゃんと見たことが無いような気がするんだよな。

他人の家で勝手する。
いいことではないか。

というか、なんかお腹の調子悪い・・・下痢??


2006年07月05日(水) 吉本ばななを読んでいる

バッテリーの五巻と一緒に新潮文庫新歓の『ハゴロモ』を買った。
読んだら、何か他のも読みたくなって、
昨日は電車のお供に『キッチン』を選んだ。

吉本ばななとの初めての出会いは、『TSUGUMI』だった。
難波ウォークの難波駅よりの端っこのブックファーストに母と2人立ち寄ったとき、
何かおもしろいのないかな〜。
何か読みたいんだよな〜。
と母に話したら、そういえば最近コレが面白いって言ってたな〜
そういって母が、吉本ばななを手に取ったのだった。
小学六年生の時だ。
私は当時の友人の影響か、速読にはまっていて、業間という20分の休憩の間に、ティーンズハートという少女向けの文庫を1冊ないし2冊読む、
というのを日々自分に課していた。
そのせいか、そろそろそういったお子様むけなものから脱却したい、
そんな思いもあったのかも知れない。
ぱらぱらとあらすじを見たり、中を見たりして、面白そうだ。
と思った。
母に買ってもらい、家に帰って読んだ。
そこにあったのは、大好きな世界観だった。

中学に上がって、図書館に吉本ばななが入っていたことで、ますますはまる。
中学の頃読んだ本と言えば、ダニエル=キイスに吉本ばなな、金蓮花だろう。


私の中で『TSUGUMI』が占める位置は大きいが、吉本ばななの本で一番好きな本を、
といわれたら、迷わず『哀しい予感』なのである。
だけどこの本は、本当に読みたいときいつも私から姿を隠す。
今もなぜだか、この本だけは所定の位置に納まってくれてなかった。
キッチンに続いて、選んだのは『N・P』。
『アムリタ』もいいのだけれど、今は短時間で読める本。
なので『N・P』を選んだ。
どうして好きなのか。
吉本ばなな。
そう問われれば、あの空気が好きなのだと答える。
家の近所の有名なお寺の東大門に、早朝、或いは雨上がりのもやの中腰掛ける。
1400年前の時代にタイムスリップするかのような感覚に囚われることが、
ままある。
あの世とこの世ではなく、いくつかの時間が重なる幽玄の時間。
吉本ばななの世界にはいつも死があり、お寺に腰掛けている時間のような、
柔らかで優しくて、でもきゅっと胸を締め付けて、胸の奥底にじりじりと、
青い炎を灯される。
それが、その空気が好きなのだ。

どうしようもなく駄目なとき、しんどいとき、
吉本ばななを通じて私は「生きる」ことを再確認するのだと思う。
おいしくご飯を食べると言うこと、
ご飯がとてもおいしく感じられると言うこと。
生きている幸せを噛みしめるために、忘れないために、思い出すために
私は吉本ばななを読むのだと思う。









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