あやめとりこの日記

あやめとりこの無駄話
アニメ中心に面白かったあれこれを
一応日記と称してますがたまにしか更新してないです

2004年04月20日(火) アニメ「プラネテス」雑感(と)

終わったところでつらつらと。

漫画の「プラネテス」って「折り合いをつけていく」物語だなーと思ったんですよ。
人類にとって未知の世界である宇宙に出て行った人々が、まっさなら空間に足跡を残して行くその過程で、目の前に横たわる茫漠とした空間をどう自分の中に位置づけるかという。
憧れであったり、仇敵であったり、目的であったり、手段であったり、夢であったり、生活であったり。人類として、個人として、どう向き合って行くのかというお話なのかなあと。(四巻のフィー連作は対象が人間社会になっただけで、やってることは同じなんだよね)
未知の領域に足を踏み入れる不安や恐怖を克服するのに「愛」だの「神」だのが引っ張りだこになるけれど、結局は個人の気持ちの有り様ひとつなのかねえ…と、愛の無い感想を抱きました。
登場人物の多くが自分なりの折り合いをつけていったのに、最後まで「気安く愛を語るんじゃねえ」と憎まれ口(と思う)叩くロックスミスの「惑い人」ぶりが何とも愛おしく。ロマンチストだねえ。

これに対し、アニメ「プラネテス」は、劇中でも語られているように「人々が愛によって繋がっている」物語です。そしてそれが宇宙そのものであると。
25話から最終回の流れで、なるほどそういうお話だったのか…と納得しながら見ていた最後の最後。エンディングのスタッフロールが終わったその後。
えっ?と目を疑いました。
タナベ、妊娠してる…?マタニティぽいジャンパースカートに座れと気を使うキュータロー。ベビー服持ってるし、ハルコさん干してるし。
ええええええー!?
目に見えない、でも確かに存在している力によって人々は繋がっているんだよ、と訴えたお話が、最後にあからさまな「証」を暗示して終わっていいの?
原作通り、またデブリ屋やりながらハチの帰りをまつタナベだっていい、というかそっちのほうがよりテーマを明確にできるのに、何故に??
変えるからには、そこに何らかの意思なりメッセージが込められていると考えるのが妥当、そのココロは?
そんな深読みするまでもない、単純にハッピーエンドとして愛の象徴を出したかった、もしくは結婚したから子供ができるのはごく普通でしょ、と思えばいいのかなあ。(そんな鈍感な…無神経な…)
緻密な伏線を張りまくって見事に回収したのに、このオチですか?ベタ好きにも程がある!
いやほんと冗談抜きで、何を考えてああいう改変をしたのか問いつめたいです。私が鈍感で分からないだけなのかなあ。だったらいいのだけれど。
なんか自信無くなって来た…。この点に矛盾を感じた人、いないかなあ。感想探しの旅に出ようかな…

改変といえばオープニングの改変は凄かったですね。劇中の変化に合わせ、くるくるとよーく変わったこと。ぐっとくることも多かったけど、ちょっとやり過ぎなんじゃ…と呆れかけたことも。
でも最終回、ハチがハチマキを巻く所の改変はぐっと、どころじゃなくうわーっ!と来ました。
そうか、あの背景は「帰って行く場所」だったのか。タナベの原風景を彼もまた故郷として大切に共有していくんだなあと。そう思うと、ハチの厳しい表情がまた異なって感じられます。

そして原作からの改変。
アニメオリジナルキャラについて語ると長くなりそうなので、とりあえず原作準拠キャラだけ。テロがらみでハキムがより深みのあるキャラクターになったと思うけれど、私としてはやはりノノ!ですね。原作では一回こっきりのゲストキャラだったのに、ここまで物語に深く関わってくれるなんて。おまけにアニメのデザインが超絶カワイイんだものねえー。大人っぽくて、でもちゃんと子供で。あどけないのにどこか悟っちゃってる風もあって。声がまたいいよねえ。これしかない!ってくらいぴったり。普通だったら何だこれ?って思っちゃいそうな癖のあるロリータボイスなのに。
最終回の彼女はホントに女神様でしたよ。無邪気な発言で自分の身を守ったと同時に、修羅の道に堕ちたハキムに救いを与えたんですから。任務遂行の障害となるものは躊躇無く叩き潰して来たであろう彼が見せた哀れみの心。色々引っかかる所もあったけれど、このノノとハキムの対決(だよね)が見られただけで、十分な最終回でした。

まだ語りたいなあ。やっぱり面白かったよ、プラネテス。




2004年04月18日(日) プラネテス25話&最終回など(と)

放映日にそれぞれリアルタイムで見ましたが、今続けて見返してみたところ。
正直言って25話がそれまでの盛り上がりっぷりに比してありゃ?な出来だったので、最終回を見るまで巻き戻す気になれなくて。
悪くない、決して悪くはなかったのだけどねえ・・・それだけ24話までがこの後どうなるのよ?な期待と不安を抱かせるだけの緊迫感溢れる出来だった証左でもあるけど。

うーん。まず、ハチに引き金を引かせてしまったのがショックだった。
結果としてハキムを撃てなかったけど、「引き金を引こうとしたまさにその瞬間に邪魔が入って撃てなかった」のと「確かに引いたけど弾が出なかった」では、同じ「意に反して」の結果でも全く違う、と思うのですが…。
それと、海からあがったその場所でタナベと出会うのは余りにも都合が良すぎじゃないでしょうか。いくら目的地としていたって。運命的すぎるのって端から見てるとなんだかなー(というかそんな上手くいくわけあるかーっ!というやっかみですなあ。。。

でも、一番はやっぱり「繋がってるみんなが手つなぎ」だなー。
いや、伝えたいことそれ自体はいいんだけどさー。
それをそのまんま絵にしちゃうのってどうなのよ?付け加えるにハチがご丁寧に説明してくれちゃうのってどうよ?アニメは絵解きじゃないでしょうが。
なんとなく思ってるんですが、アニメって普通じゃ出来ないことも出来ちゃう、不可能を可能にしちゃうからこそ、それに頼っちゃうと却って表現できるものを狭めてしまう気がするんですけど。そこで終わっちゃうっていうか。受け手が自分の中で発展させる余地を奪っちゃうっていうか。うーん、上手く言えない。
とにかく、ハチの感じた「繋がってる」感覚がいまいちこちらに伝わってこなかったのですね。

レオーノフ(生き残って良かったね!)のナイスフォロー(いいやつ!)とか、ハチの「惑い人」っぷりの表現、タナベが顔を歪めてしゃくりあげる表情など、脚本、演出、作画の見どころも多かったんですが。

で、最終回です。
うーーむ。悟りを開いたら今度は布教活動ですか・・・そりゃ茶化すか取りあえず逆らわずにおくしか無いでしょうなーって「愛の鞭」ってナンデスカー。もはやついていけません・・・てな二人は放っといて、ノノとハキム!うわまさか!と構えてしまいましたが・・・そう来たか!
11話を思い起こさせるノノの台詞、傷跡が残る顔に暗い瞳と淀んだ声のハキム、隣り合いながら光と闇に塗り分けられ隔てられる二人・・・最終回で一番心に残ったシーンです。(二番目はキュータローの脱ぎ捨てられたスニーカー(笑)
ハキムが思いとどまってくれて良かった。クレアがタナベを見捨てられなかったように、僅かでも彼に希望を残してくれて本当に良かった。

デブリ課でみんなに迎えられる二人、登場人物全員が繋がっているエンディング、オープニングから最後まで、見事にまとめあげられた物語にひとまずは満足しました。

えーっとまだ言いたいことあるんですけど、シリーズ全体に関わるし、原作絡みにもなるのでまた後で。



わーリンクすみませんー・・・でも、私が性懲りも無くあちこちに出没してるのは、単にほぼ無職だからです・・・(あやめは真っ当な社会人です。休みが不規則なだけ)
いーかげんまともに働かなくちゃだよな・・・




2004年04月06日(火) プラネテス感想 24話(と)

全宇宙のプラネテスアニメファンの皆様こんばんは。
土曜日を指折り数えてお過ごしのことと存じます。
三週間前、めちゃくちゃイイところで続く、となった上に一週休み、ようやっと二週間ぶりに続きが見られたと思ったら、またもや引き金握ったまま次週に持ち越し、に加えてタナベまでもが生死の境目で一線を越えてしまうのかーーー?!
とまあ、スタッフのイイ性格に翻弄されまくっているわけですが。
いやもう、テロがね、あんな形でおわるとはね!
拍子抜けしましたけど、プラネテスはテロやその周辺を描くお話じゃないからこれでいいのかしらん、と思ったり、ヒーロー(もしくはヒロイン)の活躍によって世界が救われる類いでもないんだよなーとか。
それにしてもちゅーはどうしたんだちゅーは!
と思ったが、よくよく考えたら「キングゲイナー」で一度やってるネタだから脚本家的には二番煎じにしかならないもんなーと気付いたり。
ああそれにしてもどうなるのよこれはいったい。
ちゅーで解決できないとなったら??遠く離れた場所でそれぞれ追いつめられた二人はどうなるの?どう決着つける気なのよ?
あ〜早く土曜日になってくれー!


東京国際アニメフェア2004シンポジウムまとめ

細田監督の発言要旨を覚えているだけ。
(注:あくまでも私の脳内フィルターを通した文章ですので、監督の意図とは異なっているかもしれません。当然以下の文章は発言そのままではありません。)


「66」は「街の破壊と再生」の物語だが、冒頭で東京の街が一瞬で消滅するという絵コンテは、最初通らないんじゃないかと思った。あの破壊されたビルの中に森ビルもあったかもしれないのに、良くぞ通してくれたと思う(笑)。

村上作品は日本のアニメから出発していながら、外からの視点というか批評性を持ち得ているところが興味深い。それをまたアニメーションにするのは面白いだろうと思ったし、事実その通りだった。

自分が今までやって来た版権ビジネスであるTVアニメやお金を払って見に来てもらう劇場作品とは異なる、街中で不特定多数相手に繰り返し流される作品であることにはじめは戸惑いを感じた。
三者三様(森ビル、村上、細田)のやりたいこと、それぞれの思惑が一つにまとまるまでが大変だったが、結果としてみなの満足のいくものが出来上がった。(これは森ビルの部長さんの発言だったかな?)

村上さんのキャラクターは一見フラットだが実は立体的な手法を用いて描かれている。なのでアニメーションのキャラクターとして動かす場合、色々と難しい(このへん私の力不足でよくわかりませんでした…m(__)m
アニメーション表現の最終的な着地点は決めさせてもらえた。

自分の所属する東映アニメーションも含め、日本のアニメビジネスはほぼイコール版権ビジネスというのが現状だ。
しかし「66」では今まで縁の無かった業種とのコラボレーションが実現し、版権ビジネス以外の可能性を示した。
今回のような新しい試みがアニメビジネスの可能性を広げはしないかと、また演出家として新たな表現の生まれることを期待している。


会場からの質問に答えて。

Q:従来の劇場やTVアニメと66のような新しい試み、これからどちらの方向で作品を作っていきたいのか(かなりの細田ファンらしい方でした)

A:東映の中で何故か自分はこういうこと(66など)をやらされる役回りで正直大変(笑/会場からも)だけど、演出家としていい経験をさせてもらえるので、機会があればこれからも参加したい。
そしてもちろん、今までやってきた、子供たちのための劇場やTVの作品も作っていきたい。(気のせいかもしれませんが、「子供たち」と「劇場」に力を入れて発言されていたように感じました。…脳内願望フィルターかなあ……)

Q:あと2分あったら、「66」に何を付け加えるか。(業界人?ぽい方でした)

A:(ちょっと困った様子で)与えられた尺の中で収まるように最初から考えていくので、あと2分、と言わずあと5分、あと20分あっても、また逆に2分少なくて3分しかなくても、その尺に合わせた「破壊と再生の物語」ーーこれはアニメのテーマの一つでもあるけれどーーを作ると思う。
なので、あと2分あったらこれを、というのは特にない……ということでいいでしょうか。
(満足されたみたいです。にこにこしてらした)


・・・かなりはしょってまとめましたが、もっと色んな発言があったはず…「66」のキャラクターの声について、森ビルの部長さんは「環境映像的なものだから声はなくてもいいんじゃないかと思ったが…」と発言していたから、声を入れたのは監督の意向だったのかなあとか(明言されてなかったと思います)、森ビルにくるくると螺旋状に巻き付く花はじつは「花束」なんだとか、他にもあったよなーー記憶力の無さが恨めしい。
多分無いとは思うけど、何か思い出したら、また付け足します。






2004年03月30日(火) 最近のハガレン(と)

ここしばらく感想書いてなかったので、まとめて。

セントラルに戻って、第五研究所に入ってからは、文字通り息をも付かせぬ展開でしたね。
グリードが、キンバリーが、そして何とタッカーまでが登場(それもあんな姿で!)、死んだはずのグラン准将、スカーの腕の文様、賢者の石の原料、それにニーナ・・・なんて嫌らしくも上手い使い方するんでしょう。
鎧兄弟のキャラクターと最期はより悲惨になり、タッカーの妄執をこれでもかと見せつけられ・・・。
ほんとうに後味の悪い、それでも何かしら救いを残しているから、見続けられるんでしょうねえ。

そしてとうとう先週は・・・(T_T)
改めて思ったけど、ストーリーエディターの會川昇さんて、映像にしたとき映えるように言葉を選んでますよね。
漫画の台詞と比べても、ヒューズの埋葬の場面では土をかける音にいたいけな子供の声を繰り返し重ねて涙を誘い、墓前の大佐と中尉は逆に言葉少なくして内に秘めた悲しみを感じさせる。
また、「俺の下に付いて・・・」の台詞をもとに、ロイとヒューズの関係を掘り下げたのもいいなあ。
最後の別れの演出も切なかったですねえ。エドの無邪気な顔が尚更。。。

とまあ、毎回楽しんでいるわけですが。たった一つ、先々週を除いては・・・。
うーーん、やっぱわたしこの人駄目だわー。(脚本家さんね)
4話や10話に比べれば随分マシだったけど。
とにかく台詞が唐突なんですよね。気持ちを踏まえての台詞じゃないから、見ている方が「いったい今の台詞はどういう心情から出たんだ?」と疑問に思いながら話を追いかけなくちゃならない。それがあらかじめ用意された答えを導く布石なら判るけど、全くの放ったらかし、ならまだいい、その無理のある謎の台詞で物語を引っ張っていこうとするから、終わった後アゴ外れちゃうんですよねー。
トンデモ展開はもう諦めるけど、スカーとエドの会話がどーにもこーにも違和感ありまくりで・・・。
なんとかなりませんかねえ。
同じアゴ外れ展開でもうーさん、もとい浦沢義男先生みたくあまりのぶっとびぶりに気が付いたらすっかりウラサワールドの虜・・・あやめが今カーレンジャー通して見てるそうです。全編大爆笑だそうです。うらやましい・・・になるならいいんだけどなー。
眼前にイノウエ世界が開ける日が、いつか来るのでしょうか・・・

この一点というか一要素を除いては、ほーんとに面白い!
アニメでの再構築が、残り半年をかけて最終的にどう練成されるのか、しかと見守りたいと思います。


あ〜一昨日はだいぶ感情的になってしまいました。
というのも事件を知った時、「やっぱりな」という気持ちになったので。
それは別に前々から「あの回転扉危なそうだったな〜」と思っていたから、じゃなくて、シンポジウムでの森ビルの方の発言に、今回の新しい取り組みへの意識の低さ、認識の甘さを、その言葉の端々に感じていたので。
自称「アート好き」の部長さん曰く「このアニメ(66)をアートだ、と私たちは捉えている。だから、街中の大画面でアニメが流れていたって、別に変じゃない、おかしいことではないんですよ」
語るに落ちるっちゅーかなんつーか。
そしてこの感覚はおそらく彼個人でなく、森ビル全体のものなんだろうなあと。

自分達の意識やスタイルを変えること無く異文化を取り込もうってのが、そもそも間違ってる。
蛮族に文明社会のルールは通用しないって。
それでも、彼らを未来の大人として、等しく社会全体の宝物として、守っていこうという、どんなことがあっても守ってやるぞという、その覚悟や気概無くして、安易に「子供達にも遊びに来てもらえる街に」などと口にするな。
ほんと悔しい。

あー駄目だ。
忘れないうちにシンポジウムの内容まとめておこうと思ったのに、もうかなり記憶が曖昧になっているのに、話それてばかり。
ちょっと頭冷やして、再度日を改めます。




2004年03月26日(金) 東京国際アニメフェア2004シンポジウム(と)

終わったーおわったーー!
引き継ぎとか残務処理とか年度をまたいでのイベントが残ってるけど、ひとまず終わりです。やったー。
最後のさいご、色々と遺恨のある御夫人をぼろぼろに泣かせてやるぜ!と気合い入れて練りに練った自信作を引っさげて臨んだのですが・・・結果:自分が読みながらボロ泣き。<負け
まあ当初の目的は果たせた(らしい)ので引き分けなのかもしれんが。
「チカちゃんのお花」作戦は大成功でした〜。
大合唱になるわ、自分の花が振られるのを見てみんな壇上に駆け寄るわで。
余計かもしれんな〜と気が引けたけど、お願いして振りを付けてもらった甲斐がありました。

という具合に忙しかったのですが、行くものはしっかり行ってます。
東京国際アニメフェア2004シンポジウムトレンド対談「文化としてのアニメーション」
当日はビジネスデーということで、参加登録確認メールは貰えたものの、本当に入場できるのかしらん?と不安でしたが。ぜーんぜん大丈夫でしたよ〜。
フェア本会場とは場所も違うしチケットも必要無いので、別扱いなんでしょうか?
だったらその辺もっと分かりやすく記載してくれたらいいのに。
どうにかこうにか時間やりくりして出かけていったのに無駄足だったらどうしよう〜そしたら仕方ない、六本木まで行ってヒルズのスクリーンで66見て帰るか〜なーんてあれこれ考えちゃいましたよ。
なのであっさり受付が通れてほっ。
五百人程度収容できるレセプション会場らしいですが、座席の数はそれより少なめだったかな。そこそこ席は埋まってました。

パネリスト&ナビゲーターの登場と紹介を経て始まったシンポジウム。
まず実写フィルムによる10分程度の六本木ヒルズの紹介映像が流されましたが、導入に「66」の冒頭部分がちゃっかり使われていて、思わず微苦笑。
細田監督も初見だったのか受けて?らしたご様子。
その後、ヒルズのオープンCMと森美術館のCM、それぞれ15秒バージョンを映してから、「66」の上映です。
メトロやテレ朝スクリーンとの違いはやはり音響ですかね〜
あれが「ラッカセイ」だったなんて初めて知ったよ。
冒頭の破壊も以前見た時より迫力ありました。
そして66星人のダンスは何度見てもキュートだった。
ヨシコとユウコの首もたげの愛くるしさも同じく。
今回印象に残ったのは、野原に転がり落ちるリング状のタネ?かな。くるくる円を描くのが何となく。

(3/26は力つきてここまで。以下は3/28に追記)

その後、ナビゲーターの質問に答える形で進んでいきましたが、ナビゲーターの夏目房之助さん、そつのない話運びは流石でしたけど、必要以上に一般向けを意識しちゃって、全体的に食い足りない感が。
平日の、それもビジネスデーに来る客なんて、業界関係者かオタクしかないっしょ。私ですら知ってることを改めてレクチャーされてもなあ。
細田ファンの期待とは裏腹に、主に六本木ヒルズの宣伝におけるアニメの役割についての話が展開され、新しいお仕事情報などは特に無かったっす。
ヒルズアニメはイメージ戦略の一部であり、環境映像として町づくりに一役買ってるそうですが、聞き捨てならなかったのが、森ビル株式会社六本木ヒルズ運営本部タウンマネジメント室の部長さんが得意満面でおっしゃった次の発言。
「6月6日はロクロク星人の日、ということでこのアニメ(66)は昨年の6月6日からヒルズとTV朝日のスクリーンで流されました(笑」
嘘です。
でも、公式にはそうゆうことになってるんですね〜。
なるほどー、こうやって事実が歪められ、歴史が捏造されるんですね〜。
さらに「アニメを利用したのは新鮮だから。四月の一周年記念イベントも含め、今後使うとは限らない」「アニメを使うことで六本木=大人の街、というイメージ脱却、幅広い層へのアピールを狙ったが、狙いどおり子供たちが訪れ、また予想以上にキャラクターグッズが売れている。嬉しい誤算だ」などと本音を語ってくれたのは、好感の持てる態度でしたが。
あくまでもおまけのビジネスってことよね。雰囲気だけ利用して、本当に相手する気はないんだよね。
森ビル六本木ヒルズなんたらの中には、その道のプロも、日常的に接している人もいなかったんでしょうね。
アニメも子供も。

「不思議世界アタゴオル物語」が判り易いので例に取るけど、子供の行動って大人の予想の範疇を超えてます。
ぐわっと体全部の体重を預けるように振り向いたり(体が柔らかいから怪我しないけど)、じーっとしていたかと思うといきなりぱっと動き出す。興味の対象に全神経を集中して、他のことは構っちゃいない。空を見上げたまま走っていっちゃう。恐ろしいくらい無防備。

最初に書いたように、先日私は保育者にお礼を述べる機会があったのだけど、一週間うんうん唸って書き上げた、あらん限りの感謝とねぎらいの言葉のなかに、ひとつだけ、触れていないことがありました。
いま、保護者による文集をもいちど読み返してみたけど、やっぱりそのことに言及している人はいなかった。
たぶんそれは、あまりにも当たり前すぎて、改めて言葉にするまでもないことだから。
日常的に子供と接している人にとって、常識以前の大前提だから、あえて言う必要を感じなかったのでしょうね。
でも、子供相手のプロは、そのことを第一に仕事をしてるわけですよ。端から見ていたって、そりゃもう、よーく判ります。

その時限りの、本腰入れてない仕事でも、それがアニメだったらまだいいですよ。
わたしらみたいな酔狂な大人が何度も無駄足運んで地団駄踏むくらいで済むから。
子供はそうはいかない。
素人が生半可な気持ちで手を出して良い商売じゃない。
本当に子供をお客として迎える気があれば、今回のむごい出来事は未然に防げたはずです。

起こってしまったことはどうにもならない。
失ったいのちは戻らない。
だったらせめて本気でやんなさいよ、と思う。
子供たちが安心して訪れることのできる、安全な街をつくんなさいよ。
それくらいしかできないんだから。



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