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しもさんの「新聞・書籍掲載文」
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1995年05月13日(土)
連休が終わり戻った車の列(36歳)

静岡新聞 朝刊(読者のページ)

今年の連休は、テレビにかじりついていた。
気のせいか、渋滞のニュースはあまり聞かなかった。
自宅のそばを通る国道1号も、例年は恒例のように大渋滞を起こすのに、
今年は他県ナンバーの車がスムーズに流れていたと思う。
それがどうだろう。
大型連休が明け、今日から再び仕事に・・と向かった国道1号は
渋滞で動かなかった。
大渋滞を予想した連休は見事に外れ、毎日の渋滞は確実にやって来た。
なぜだろう、という私の疑問は歩いて通勤してみてすぐに解決した。
歩いている私が追い越していく車には、
ほとんど一人しか乗っていないからである。
もちろん、反対車線の車も同様で、
みんなイライラしている心情が伝わってくる。
これでは、どんなに道路整備をしても渋滞解決にはならない。
ドライバーが本気になって渋滞解消を望むのならば、
相乗り通勤、ノーカーデーにも積極的に取り組むべきであろう。
季節は春。
「連休ボケ」と「渋滞」の解消を考えて今はやりのリュックでも肩に掛け、
ラップの音楽でも聴きながら、徒歩で通勤してみてはいかがか。
いつも見慣れた風景も、きっと違った発見が出来るはず。
そして、風の暖かさを感じられるはずである。



1995年03月30日(木)
一生懸命の演奏に思わず拍手!(36歳)

静岡新聞 朝刊(読者のことば)

先日、地元の中学校吹奏楽部演奏会「スプリング・コンサート」に出掛けた。
その名にふさわしく、春の訪れを感じさせるイベントであり、
毎年楽しみにしているコンサートである。
特に今年は、地元で頑張っている女性コーラスグループとの共演もあった。
娘の伴奏で母親が歌う。孫の伴奏でおばあちゃんが歌う。
そしてその光景を見て、父親が力いっぱい拍手をする。
「これぞ生涯学習」という一場面を感じさせられたのは私だけではないはずである。
演奏も素晴らしかった。
メンバーのほとんどが女生徒にもかかわらず、迫力のある音を出していた。
いつだったか、この音を出すためには、
運動クラブ顔負けの腹筋トレーニングをしている話を聞いたことがある。
専門家ではないから、音の良し悪し、上手下手の区別はつかないが、
一生懸命演奏している熱意が伝わってきた。
狭い会場ではあったが「頑張れ」の気持ちと
「感動をありがとう」の気持ちが入り交じって、いつしか思い切り拍手をしていた。



1995年01月22日(日)
役割拡大する世紀の大発明(36歳)

朝日新聞 朝刊(テーマ 戦後50年・テレビ)

私の小さいころ「テレビっ子」という言葉があった。
おじいちゃんに子守されていた子供は「おじいちゃんっ子」、
おばあちゃんに子守されていた子供は「おばあちゃんっ子」、
そしてテレビに子守されていた子供を「テレビっ子」と
使い分けていた記憶がある。
前記ふたつの言葉はいまだに使われるが、
「テレビっ子」だけが最近聞かなくなった気がする。
なぜか?
答えは簡単である。ほとんどの子供が「テレビっ子」だからである。
もちろん、育てる親も「テレビっ子」が大半であろう。
「テレビで育った親」が「テレビを見ないで、勉強しなさい」と
言うのには無理がある。
「本を読まない親」が「本を読みなさい」という論理と同じように
子供に対して説得力がない。
問題は、今世紀の大発明となったテレビとの付き合い方であろう。
現在角界で活躍している、若者から中高生の中にも、「テレビっ子」はいる。
「巨人の星」を見て野球選手にあこがれ、
「新日本紀行」を見て日本の各地に思いをはせた。
「紅白歌合戦」で歌手になろうと夢を見たはずである。
そして実現した。
そんな彼らを見ると、テレビが「人づくり」に貢献していると思えて仕方がない。
CATVも含め、マルチメディアの動きが進む中、
テレビが果たす役割はこれからも拡大すると予想される。
このすばらしいハードを使いこなせば、莫大(ばくだい)な情報が手に入る。
肝心なのは、あふれる情報から、自分に必要な情報だけを整理する選択能力である。



1995年01月20日(金)
自然の脅威を目の当たりに(36歳)

静岡新聞 朝刊(読者のことば)

テレビ画面は、地震の被害の大きさを報道している。
ズタズタにされた神戸市の街並みは
「チェチェン情勢」を特集していた画面と変わらないのに驚いた。
今度は、関西が自然を襲った。昨年は東北、その前は北海道。
どうも周りから、じわじわ攻められている気がしてならない。
静岡県民なら、一度は感じる恐怖ではなかろうか。
ふと、何十年も前に見た小松左京さんの「日本沈没」が脳裏をよぎった。
最後は富士山の大爆発。
そんなばかな・・と思いながら、ちょっぴり不安になる自分がいる。
ノストラダムスの大予言も浮かんできた。
あらためて「自然の力」を思い知らされている。
「地球にやさしい」「人にやさしい」という言葉を耳にするが、
今まで好き勝手に「いじめ」ておいて、
今更何を言っているんだという人が思い出される。
今回の地震を含めた地球環境、最近のいじめを含めた教育環境も、
口先だけの討論でなく、危機感をもって本気に行動しないと
もっと大変なことになる。それからでは遅すぎる。
できることから、できる時間から、そして出来る人から・・。



1995年01月19日(木)
被災地援助に全力あげよう(36歳)

朝日新聞 朝刊(声)

多額の税金を、どんな目的で何に使うのか、
国も地方も、もう一度考えてみる必要がありそうだ。
今、一番必要なのは、地震で被害にあった地域の復旧に、
出来る限りの税金を使うことではないだろうか。
いくら自治体が「ゆとり」や「文化」
「豊かさの実感」などを掲げても、
寝たい、食べたいという生理的欲求や、今までのような、
雨風をしのぐ家や危険から自分を守る安全の欲求が
満たされない限り、絵に描いたモチとなる。
本当に優しい国民は、
税金の大半を地震の被災地に使っても文句は言わないし、
税金以外のボランティアや義捐金という形で
助けあおうとする意識をもちあわせている気がする。
今こそ、国や地方に限らず、安全な状態の国民が、
危険にさらされている国民の力になる努力をしたい。
いつ立場が逆転して、
自分が危険にさらされる側にまわるかわからない。



1995年01月10日(火)
心の言葉に聞く耳を持とう(36歳)

毎日新聞 朝刊(ふおーらむ)

今年は「聞く耳を持ちたい」と思う。
それはまさしく、昨年起きた悲しい出来事に端を発している。
このコースは危険だ、走りたくないよ、とつぶやいた
アイルトン・セナ。
いじめはつらいと叫んでいた大河内君の自殺。
彼らの死は、本当は救えた死ではなかったのか、
今一度考えてみる必要がある。
本人達の心から発せられる言葉に、だれ一人真剣に受け止め、
耳を貸さなかったために起きた事件ではないだろうか。
娘も今年は小学五年生になる。
顔を合わせる時間が減ってきた分、
彼女の考えていることがわからなくなってきたのも事実である。
少なくとも、娘の主張に対しては、
素直に「聞く耳を持ちたい」と思う。