2004年07月01日(木) 怒りの日を求めて
我が家の宗教(というか、伝統?)では、人は毎夜寝るたびに死に、そして目覚めたときに生き返るといいます。 その考えは小さい頃から刷り込まれているので、私の中に深く刻まれています。 その、毎日を小さな死とするならば。 本当の死は、大きな死であって。 毎年一度、この時期に訪れる死は、中くらいの死。
グレゴリオ聖歌のDies iraeの旋律。それはそのまま西洋の死のテーマ。 大抵のDies iraeは、第2ヴァチカン公会議でレクイエムから外されたほど、死者をも起こす激しい曲ですが。(もちろん当然だと思いますけれど^^;) あの旋律は、初めて聞いたときもインパクトを受けた。 まさしく死。 まさしく業火。
前日の日記は、Dies iraeの歌詞をそのままコピーしたもので、何にも面白くない内容ですが。 あの日こそ相応しい。 ふさわしいというより、あの日こそ私が求めるのが最後の審判。
…本当は、一年に一度死んでもいられないんですけどね。
なぜわたしを母の胎から引き出したのですか。 私など、だれの目にも止まらぬうちに死んでしまえばよかったものを。 あたかも存在しなかったように 母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに。 わたしの人生など何ほどのこともないのです。 わたしから離れ去り、立ち直らせてください。 二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国にわたしが行ってしまう前に。 その国の暗さは全くの闇で 死の闇に閉ざされ、秩序はなく 闇がその光となるほどなのだ。
(ヨブ記10:18-22)
いつまでもそんなこといってられないから、終わりを求める。 それって、やっぱりダメ人間の思考なんだろう。
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