前潟都窪の日記

2005年02月18日(金) 秦   河 勝 連載3

「河勝や、お米は今では田圃で作りますが昔は山の中の畠で作られていたのですよ。昔々、お米が此の国へ渡ってきた頃は山を焼いて、その跡へお米の種を蒔き、稔ると稲穂を摘み取りその跡へは桑の木を植えたのです。桑の葉はお蚕さんの餌になるのです。その頃はお米の収穫量はとても少なかったのです。稗とか黍や粟のほうが作りやすく手間も掛からなかったのですよ。山を焼いて種を蒔き、採り入れが終わるとその跡へ桑の木を植えて次の土地へ移っていくのです。だから今のように一つの場所に留まってお米を栽培するというようなことは無かったのです。」

 母の赤子郎女は秦国勝の許へ嫁いできたときに一族の長老から教えこまれた米作りの歴史を最愛の息子に伝えるのに懸命であった。

「それでは何時頃から、今のように田圃でお米を作るようになったのですか」
「この国に鉄製の鍬や鋤が半島から渡ってきて畠を耕すことが楽になったころからですよ。今から二百年程昔のことです。その頃には山の中の畠で水を溜めやすくまた水の抜きやすい所を選んで御先祖は稲を栽培するようになったのです。このような畠を棚田というのですよ。水稲のほうが陸稲よりも収穫量が多いので水田でお米を作るようになったのです。そして、農耕技術が進んでくると、次第に人々は平地へ下りてきて大きな水田でお米を作るようになったのです。作物を作る場所を『畠』とか『畑』とか書きますが読み方はハタケとハタです。ハタケは白い田つまり火を使わないからシロイ田なのです。定まった場所で作物を作るところつまり定畑を表し、ハタは火の田つまり焼き畑を表すのです」
母は指先に水をつけて飯台に『畠』と『畑』という二文字を書きながら説明する。
「それでは水田で稲を栽培するようになったのは最近のことなのですね」
「そうですよ。秦氏の『秦』を今ではハタと読んでいますが昔はシンと読んでいたのですよ。同じように秦人はシンヒトと読んでいたのです」
「何故、シンをハタと読むようになったのですか」
「それは秦氏が管理している一番大切なもの、つまり作物を作るハタと織物を織るハタを管理している人という意味でいつの頃からか世間では秦氏のことをハタ氏と呼ぶようになったのです。このように秦一族にとっては農耕と機織はそれを抜きにしてはその存在価値がなくなる程大切な仕事なのですよ。更に土木技術にも秀でていたからこそ川の流れを変え田に水を引くことが出来、飛躍的にお米の収穫量を増やすことが出来たのです。この葛野の桂川に大堰を築き氾濫を無くしお米が採れるようにされたのも御先祖様の努力の賜物なのです」
「御先祖様って偉かったのですね。秦氏の御先祖様はどんなかただつたのですか」と河勝の好奇心は飛翔してゆく。
「遡れば秦の始皇帝にまで行き着きますが、弓月の君(ゆづきのきみ)という人が秦氏の始祖とされているのです」
「もっと聞かせて」と河勝はせがむ。
「今日はここまで。もう遅いからお休みなさい。弓月の君のことは深草の長老様にお願いして教えていただきなさい。私よりも詳しいことをご存じだから」
母の赤子郎女は我が子河勝の知識欲にたじたじとなりながら、やっと寝かせ付けた。



2005年02月17日(木) 秦   河 勝 連載2

「この子には河勝と名付けることにしよう」と父の秦国勝(はたのくにかつ)は皺くちゃだらけの嬰児の顔を覗きこみながら、産褥にある妻の赤子郎女(あかこのいらつめ)に向かって言った。
「河に勝つですか。強そうでいい名前ですこと」と赤子郎女は嬰児の頬に頬ずりをしながら応えた。
「そうだ。桂川に先ず勝つことだ。そして世の流れという大きな河に勝つことが秦一族の繁栄に繋がることになるのだ」と国勝は最近氾濫した桂川を部民を指揮しながらやっと治めた十日程前のことを思い出しながら言った。
「先祖ゆかりの地新羅が栄えるのはよいことじゃ。この子もきっと幸せを掴むじゃろう」

 秦国勝の先祖は新羅から渡来してこの葛野(かどの)の地に定着した帰化人であったが、昨日出仕したときに、大臣の蘇我稲目から最近、任那の日本府が新羅にうち滅ぼされたと聞かされていたので、新羅の国から渡来した遠い先祖のことを偲びながら言った。

河勝が生まれたのは562 年欽明天皇の御代のことであった。

 この時代は、蘇我稲目が娘の堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(こあねぎみ)の姉妹を欽明天皇の大后・后として宮中に送り込み、外戚としての地位を確立し、権勢を誇っていた時期である。

河勝は幼少の頃から聡明な子供であり、色々なことに興味をしめした。
「まあこの子はなんて勿体ない食べ方をするんでしょう。そんなに沢山飯粒を残してからに。河勝や、御飯は一粒でも残したら罰があたりますぞ。お米が食べられるようになるまでには多くの人々が八十八回も汗を流しているのですからね」と母親の赤子郎女は木の椀の端に残っている飯粒を指さしながら河勝を叱った。

「はい。ごめんなさい」と素直に謝ってから河勝は椀の端にへばりついている飯粒を可愛らしい手でつまんでは口へ運びながら聞いた。

「八十八回の汗とはどんな汗ですか」
「お米を作るには、先ず田圃を耕して、水を引き、苗代を作ります。苗代を作るためには草をとり、畝を作って肥やしをやり、また耕して畝を作りその上に種籾を蒔きます。種籾を蒔いてからも種が烏や雀に食べられないように、籾殻を焼いてその上にかぶせますのじゃ。芽がでてからも草をとったり、肥料をやったりして苗を育てるのです。苗が育つとこれを抜いて、田植えをします。田植えをするためには、その前に別の田圃を耕して水を引 き、準備をしておかなければなりません。田植えが終わってからも、田の草取りをしたり 、水車を踏んで水を田圃へやらなければならないのです。やがて稲が穂を出して実ってくるとまた烏や雀に食べられないように、案山子をたてたり鳴子をつけたりしなければなりません。十分穂がみのったら今度は稲刈りです。刈り取った稲は乾燥させて、脱穀しさらに乾燥させてから今度は籾擦りをして籾殻とお米を分離しなければなりません。こうしてできた玄米を臼で挽き、糠をとってはじめてお米ができるのですよ。このようにしてお米ができるまでには、八十八回も手間をかけ汗を流しているのです。このことを忘れないように、御先祖様は米という字を作られたのです。」

赤子郎女は秦一族が米作りに如何に血と汗を流してきたかを、一族の未来の統率者に子供のうちから教えこんでおかなければならないという使命感に燃えていた。



2005年02月16日(水) 秦   河 勝 連載1

秦   河 勝
         古代大和国家の発展を陰で支えた実力者一族の頭領

 吉田山の「白樺」という学生相手の飲み屋に、私達はトグロを巻いていた。ママと高校二年生の娘が醸しだす家庭的な雰囲気に魅きつけられる何かがあったのかもしれない。眼鏡の奥底に人なっつこい笑みをたたえて、広隆寺の弥勒菩薩の素晴らしさを情熱的に語っていた秦野という学生は私と同じ法学部五組の二回生だった。

第二外国語にドイツ語を選択する学生が多い中で、フランス語を選択した数少ない変わり種の一人であった。秦野を教室で見かけることは少なく、秦野に会おうと思えば、夜「白樺」を覗いてみればよかった。

彼は、歴史書、美術書を片手に、京都・奈良の神社仏閣を訪ね歩くのを日課としており、夜になると「白樺」へ現れ、同好の学生を相手に彼独特の見方で歴史上の事実を解釈し、皆に披露するのであった。

夏休みになって、学生達がそれぞれ帰郷し、「白樺」が閑散となっていたある日の新聞に広隆寺の弥勒菩薩に抱きついて、あの見事な流れるような線の右手の指を折ってしまった学生のことが社会面の記事として報道された。犯人の学生の名前は伏せられていたが、その記事を読んだとき私は何故か秦野という学生が犯人に違いないと直観した。

「推古天皇が美人であったから、聖徳太子は半跏思惟像を秦河勝に与えたのであり、崇峻天皇が殺されたのもそのためだ。聖徳太子が天皇になれなかったのもその所為なのだ。美しいことは罪悪だ」と熱ぽっく語っていた秦野の言葉を思い出したからである。眼鏡の奥底に光るあの人なっこい眼差しは彼流にいえば犯罪だからである。

その夜、久しぶりに「白樺」へ行ってみたが秦野は帰郷したらしいということで、彼の姿を見かけることは出来なかった。この事件があってから私は教室でも「白樺」でも秦野の姿をみかけることは出来なかった。

私が秦河勝についてその生涯を辿ってみたいと思うようになったのは、学校卒業後さる大手の製造会社に就職をして20年程経ったある日、京都の南禅寺境内にある某僧坊で開かれた同窓会に出席し秦野に会ったからである。この僧坊は権限の乱用で社長職を解任され世間を騒がせた有名百貨店の社長とその愛人の女実業家が逢瀬の場所として使っていたその百貨店の元接待寮であった。

そして20年いや22年振りに再会した秦野はやはり眼鏡の奥に人なっつこい笑みを湛えていた。聞けば暴力団のみをお客にとる有名な弁護士になっているということであった。

美しいことは罪悪だと言った彼。人なっつこい眼差しは犯罪であると思った私。
この二人の22年振りの邂逅が何故か私を1,400 〜1,500 年前の世界へ誘うのである。



2005年02月15日(火) 密葬 連載の30

今岡多市様

拝啓 13日は母の新盆、本当に悲しさがこみあげてきます。母は本当に逝ってしまったのですか。27日の早朝4時半にお墓参りに行ってまいりましたが、悲しさと寂しさが胸を締めつけます。母の死は呼吸停止でその上葬儀は密葬、こんなこと聞いたことありません。母の悲報を誰にも口にだすことができず秘密にしているのです。先に故母寿子の死亡診断書の写しを送付頂くようにお願いいたしましたが、未だお返事を頂いておりません。どうして送って下さらないのですか、それによって言いがかりをつけるとか難詰したりするつもりは毛頭ないのです。ただ母の死を納得したいだけなのです。本当に母がこの世にいないことがどうしても信じられないのです。助けて下さい。死亡診断書がどうしても私には必要なのです。死んだことを納得するために。

 再再度死亡診断書の写しを郵送して下さいとお願い致します。
 6月12日付けのお便りに「故人の最終にして最高の意思の表明が遺言書でございますので、それを尊重することがせめてもの親孝行の道かと存じます」と書かれておりますように私は母の意思を尊重して生きていきたいと思っておりますが、福吉による暴行傷害事件の被害者である享子姉の気持ちは私とはまた別の抑えきれないものがあるようです。

 親に呼ばれて集まった会合で親姉弟の前で実の弟に理不尽に殴られ怪我させられて、その事実がなかったことになっていることに怒りの根源があるのです。私としては姉が欲得なしの意地で弁護士をたてて遺留分訴訟を起こし、親姉弟間の醜く見苦しい遺留分争いになることを心底危惧いたしております。私はこの事件では直接には何の被害も受けておりませんが福吉の暴行傷害事件の現認者として、また姉を同伴した者としての責任と亡母から「稔子を頼むぞ」と頼まれている者としての責任から姉に単独行動はさせられないので、遺留分争いとなれば姉と同一行動をとらざるを得なくなることを虞れています。私の本心は遺留分訴訟はしたくないのです。だからそうならないように父親に頑張って欲しいのです。

 福吉の暴行問題はひとまず稔子と福吉間の未解決問題として横へ置いておいて、以下に私の提案を述べます。

 先のお便りに「貴金属や生前分与されたものを含めた相続対象となる財産目録の作成は四十九日が済んだあとにお知らせしたい」とありますが、貴方が再三仰るように「母にも貴方にも財産は何も残っていない」ということであれば、「85年間二人で頑張って事業してきたが、三人の子供にはこれだけしか残せなかった」とはっきり宣言なさった上で、「長男にはこれだけ、姉二人にはこれだけ」と少ないなりにはっきりと示され、「無駄な遺留分争いはやめて欲しい。見苦しいだけだ」とはっきり言って下さい。

「三人しかいない姉妹弟が遺留分をめぐって法廷で争う見苦しい争いはやめなさい」と父親としての威厳を保って言って下さい。母の遺言を遵守できるように毅然として事実を伝えて下さい。母の遺言に「どうか今後ともおのれの分を知り、人の立場を理解し、公正な社会人として、大小は別として、人の師表になる、子孫の教材になるような生きかたをしてくれるように望みます。それが最短ルートかと思います。私は私の死後も今岡家が安泰で、きょうだい仲良くしてもらうことが最大の願いです。」とありますように、貴方がまず模範を示して下さい。親として三人の子供に公正公平な行動をとって下さるように、そして早急に相続財産目録を送って下さるようお願い致します。相続財産が何もないのに無駄で虚しいだけの意地による遺留分争いにならないように、先送りしないで早急に晩節を汚すことなく親としての役目を果たしてくださるよう重ねてお願い致します。
                                   敬具
                  平成15年7月8日
                            豊岡 淑子



2005年02月14日(月) 密葬 連載の29

遺言書を読んでから淑子が多市に出した手紙


 今岡多市様 

死亡診断書送付の請求

前略 6月12日付けの貴方よりの返信とともに亡母の公正証書による遺言書写しを本日受け取りました。初めて私の要望の一部に応えるお便りに接しました。しかしながら、お手紙には「今回法要さえ出席しないとのことですので」と書かれておりますが、「暴行傷害事件にけじめがつけられておらず、未だ依然として同席できる環境が整えられておりません。暴行傷害事件の非を認め、謝罪の意を表し、二度と同種の事件は起こさせないという誓約をしていただかない限り、席を同じくすることに身の危険を感じているから出席できないのです。」

 この公正証書遺言状とともに送られてきたお手紙を拝見してがっかりいたしました。私の怒りと心情が全然理解されていないのに驚いています。貴方は真面目に私の手紙を読まれたのでしょうか。本当に読んでいただけたのでしょうか。

 常日頃、孫子や社員達に「挨拶、挨拶」と口やかましく言っておられる貴方が「基本的な挨拶」を忘れているのではないでしょうか。自分で招集した会議で発生した暴行傷害事件の非なることを素直に認め、非は非として率直に被害者に謝るのが、「一番大切な挨拶」ということではないのでしょうか。何故簡単なことができないのですか。言うこととやっていることが全然違うではありませんか。
    
 私の一番の憤りは、生前の母に会わせていただけなかったことと私の抗議の意味や心情がなにも理解されていないことにあるのです。

 何か遺産目当てで騒いでいるという風にしか受け取っておられないのが悲しいことです。母の訃報に動転して国光病院に電話したとき貴方が開口一番「どんなに騒いでも財産なんか何もないよ」と言われた守銭奴的な発言のことは終生忘れることができないでしょう。

 私は母がどのような最後の日々を送ったのかが知りたいし、「呼吸停止」で逝った死因を死亡診断書で確認し納得したいのです。それも暴行傷害事件のけじめがついていないので、お二人と対面してお聞きすることができないのが悔しいのです。前回のお手紙で死亡診断書の写しを送っていただくようにお願いしましたが、今回同封されていなかったのは何故でしょうか。お尋ねしますとともに重ねて死亡診断書の写しを送付して下さいますようお願いいたします。

豊岡淑子



2005年02月13日(日) 密葬 連載の28

今岡福吉から今岡寿子の遺言書のコピーが郵送されてきた。

今岡寿子の遺言書

女学校を卒業したばかりで世の中の右も左も判らない二十才の若さで、あまりにも急なもので結婚式もして貰えず、無一文の今岡に柳行李一つで嫁いできました。以来五年間、共に力を合わせて配管請負業を営み、何とか生活も楽になった頃、今岡は応召、戦地にいきました。二才と四才の娘を抱え、生家が石材店なので、父や兄の好意で手慣れない石材の運搬などを手伝って手間賃を稼いだり、生活物資の転売、ミシンを踏んで稼ぎ、畑を買って農産物を自給し、人の恵みを受けることなく自力で立派に銃後を守りました。親兄弟といえども、物品、金銭など一品、一銭たりとも、決してただではいただきませんでした。

 終戦後約一年近くして、天運に恵まれ今岡が約4年の軍務を終え、復員してまいりました。今岡は私に輪をかけての努力家で、あくまでも自力本願、如何に困窮しても、精神的にはともかく、物質面においては一銭たりとも他人の恵みは受けません。独立独歩の精神に徹していたからです。復員直後は米を東京に運び、帰路は進駐軍物資の衣料などを田舎に運び、いわゆる闇屋をしたり、ぽんせんべい焼き、菓子問屋など、次から次と新しい仕事に励み、成果をあげました。世界大戦後の米ソの冷戦が始まり朝鮮戦争勃発、軍需基地となった日本の工業化が急速に発展、戦前より今岡が最も得意とする配管請け負い業が繁盛し、今岡建設株を創立,今日に至っております。今岡建設の創業は結婚後間もなくの昭和12年ですから今年で63年、共栄株は32年になります。男は仕事、女は内助の効、それにすべてをかけるのが人生の華であります。60年以上手塩にかけて生み育てた両社の今後益々の持続と繁栄を願うのは、人間最高の願望ではないかと信じます。

 子供3人に恵まれ、それぞれ世間一般に照らし、恥ずかしからぬ生活を営んでおります。親としては喜びであり、誇りでもあります。

 どうか今後ともおのれの分を知り、人の立場を理解し、公正な社会人として大小は別として人の師表になる、子孫の教材になるような生きかたをしてくれるよう望みます。それが人間の生きかたの幸福に繋がる最短ルートかと思います。

 私は私の死後も今岡家が安泰で、きょうだい仲良くして貰うことが最大の願いです。

 私の死後、無用の争いを避けるためにこの遺言公正証書を作りました。日本社会の上級知識人として、恥ずかしからぬを願います。

 遺言者は遺言者の所有する左記の財産を長男の福吉に全部を相続させます。

遺言者は第3条及び第4条に記載した財産を除く遺言者の有するその余の財産の全部を全記遺言者の長男今岡福吉、遺言者の長女児島稔子(昭和14年10月1日生まれ)及び遺言者の次女豊岡淑子(昭和16年10月4日生まれ)の3名に相続させ、今岡彰子(昭和23年1月1日生、前記遺言者の長男今岡福吉の妻)及び今岡○太郎(昭和47年10月23日生、前記遺言者の長男今岡福吉の長男)の両名に遺贈する。その割合は各五分の一とする。



2005年02月12日(土) 密葬 連載の27

今岡多市様
49日の法要に欠席の件

前略 亡母今岡寿子の49日法要の案内は確かに受け取りましたが、暴行傷害事件について一言の言及もなく未だけじめがつけられていないので欠席します。

 ことある度に主張しておりますが、去る平成11年1月29日発生の今岡福吉による暴行傷害事件は、貴方の招集に応じて出席しましたのに、親姉妹の面前でしかも貴方も見ているところで理不尽に殴られ大怪我をさせられたのですよ。もしもこの席に妹の淑子さんが同席していて制止してくれなければ、私は殺されていたかもしれないのですよ。

いくら兄弟姉妹の間柄とはいえ、全治3週間の大怪我をさせておいて見舞いはおろか謝罪の一言もないのはどういうことでしょうか。
 このような事件を起こしておきながら事件がなかったことにして、臭いものに蓋をする貴方のやり方は一人の人間としても赦すことができません。何故事実を事実として素直に認め、非は非として素直に謝ることができないのですか。

 常日頃口癖のように社員達に「挨拶、挨拶」と口うるさく言っている貴方は「最低限の挨拶もできない人品卑劣な人間で、言っていることとやっていることは全然反対の人」と思われても仕方がないのではないでしょうか。

 私からの文書による抗議に対して、たまたま残っていた「親族宛に用意した印刷物である49日の案内書」をおざなりに郵送してきただけの誠意のなさには憤りがいや増すばかりです。

 このような態度をとられると、あの暴行傷害事件は貴方と福吉が予め共謀して起こした事件と疑わざるをえません。阿南町名誉市民の資格はこのような共同犯罪行為を起こしこれを隠蔽しつづけなければならないほど迷惑な称号なのでしょうか。

 事件にけじめのつかない限り、同じ席につくことには身の危険を感じますので欠席します。

 親族の皆様に「お見せする故今岡寿子の遺言書」のコピーを6月20日までに郵送で送って下さるようお願いいたします。  敬具
                                   
差し出し日  平成15年6月6 日
名宛人 東京都大田区田園調布     今岡多市
差し出し人 東京都目黒区碑文谷 1−1−4   児島稔子



2005年02月07日(月) 密葬 連載の26

★四十九日の案内
  豊岡淑子殿
 拝啓 初夏の候、皆様お揃いでご健勝のことと拝察申し上げます。
さて5月10日に葬儀を済ませ、来る6月26日には亡妻久養院分応浄照大姉の四十九日にあたりますので、日蓮宗大本山池上本門寺において心ばかりの法要を営みたいと存じます。つきましては、ご多用中恐縮でございますが、当日午前10時までに同寺総受け付けに御来駕下さいますようお願い申し上げます。その折り、生前故人が遺言書を作成しておりましたので、お見せしたいと存じております。なお当日は法要の後、故人の想い出話しなど承りたく存じますので粗食の用意をいたしてございます。 敬具
    東京都太田区田園調布1丁目○○番地1号
             今岡多市



2005年02月06日(日) 密葬 連載の25

多市と寿子の関係その5

多市は請け負い師としては若くして成功した者のうちに属するであろう。請け負い師の宿命として請け負い工事が完成して工事代金の支払いを受けるまでは職人の手間代や宿泊食事代等を立て替えなければならない。時には若い職人達に飲まさなければならないが、手持ちの金が潤沢にあるわけではなく台所は何時も火の車であった。
勿論工事着手の時には着手金として請け負い工事代の1/3程は支払われ、中間でも出来高払いを払って貰う訳ではあったが、締め切り日の関係で何時も金には窮していた。

寿子も帳面付けを手伝いながら業界の雰囲気にも次第に慣れてきて、職人の手間代を支払う準備をしている時に、どうしても現金が足りない時には持参した帯、着物や指輪、時計等を質屋に入れて都合をつけ良き内助の功をあげていた。しかし、お嬢さん育ちの身にとっては風呂敷に包んだ質草を人目につかないよう夜を選んで質屋へ運ぶ時の切ない気持ちは我慢できないものとして心に沈殿していった。

内助の功を得て多市も喜び口では「お前のお蔭で助かるよ。今に女中を使いお前には金で苦労させることはしないからな。もう少しの辛抱だ」と言って労ってくれるので、「嫁いだからにはこの人を業界でも名の通った男にしなければ」と自分に言い聞かせとかくしり込みしがちな気持ちに笞打って頑張るのであった。そこには「おしん」の精神にも通じる戦前の女性の美徳が残っていた。



2005年02月05日(土) 密葬 連載の24

多市と寿子の関係その4

多市の強引なやり口にほとほと困惑した健吉は次女静子の嫁ぎ先の次男坊であるし、いざこざを起こしてもまずいとの判断が先にたった。結局寿子を説得して多市と結婚させることにした。

問題は町長の息子の方であるが、これは親の同意を得てない婚約であるから無効だということで秘密裏に折り合いをつけた。町長も田舎町のこと故身内のごたごたが噂されるようになると町政運営の上でも好ましくないと判断し、内々で収めることに異議はなかった。未だ親権が強力であったから、このような解決ができたのである。今昔の感がある。

このようにして二人は寿子の卒業を待つようにして結婚したのであるが、嫁いでみてびっくりしたのは寿子である。
多市は請け負い工事を手がける程のやり手として売り出し中であったから、家財らしいものはなにもない借家には若い職人達が寄宿して生活しており、賄いは通いの小母さんに依存していたのである。そんな生活の中へいきなり投げ込まれて、甘い新婚生活の夢はどこへやら毎日おさんどんの生活に追い回されるのであった。


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加