2005年02月28日(月) |
秦 河 勝 連載13 |
河勝が深草の大津父を訪問してから一年程経ったある日河勝六歳の時、河勝は松尾神社に父に伴われて誓願にきていた。誓願の目的は二十日程前に生まれた河勝の妹玉依郎女(たまよりのいらつめ)が病弱なため病魔退散、悪霊退治を祈祷することであった。 河勝が神殿に向かってお祈りをしていると突然河勝の体がぶるぶる震えだし 顔の形が変わってきた。目はつりあがり口を尖らせて、しわがれた声で口走った。
「河勝よ案ずるでない。わしはお主らの先祖の弓月の君じゃ。お主の守護神として物申そう。玉依郎女は健やかに成長するであろう。彼女が長じて女の印があった日に葛野の川で衣の洗濯をさせなさい。上流から丹塗りの矢が流れてくるであろう。玉依郎女はこの矢を持ち帰り、寝室の入り口の戸へ刺しておくがよい。一夜明ければ、玉依郎女は懐胎するであろう。その子は玉依郎女が丹塗りの矢を捧げたいと思って捧げ、それを受け取った男の子である」 その声はしわがれてはいるがこの世のものとは思えない荘厳な響きをもっていた。
「あれま。若様に御先祖様の霊が憑かれた」とお守り役の下僕がはいつくばって地面に頭をこすりつけながら拝み出した。
「河勝よ、心を落ち着けて、息をゆっくりはきだすのだ。御先祖様が安心して帰っていかれるようにお送りするのだ」と父の国勝が言うと河勝は再び息をゆっくりはきだした。それと同時に顔つきは穏やかになり、もとの顔を取り戻した。
息子の憑依現象を目の前に見て、秦国勝は本日の誓願の目的を息子の河勝にしっかり教えておかねばならないと思った。秦国勝が娘玉依郎女を連れてき たのは、病魔退散もさることながら、娘を品よく育てて将来、世継ぎの皇子の后として入内させることであった。蘇我稲目、馬子親子の権勢をみるにつけ、秦一族の経済力からすれば蘇我一族にひけをとることはないのだから、皇室にどんどん入り込んで権力を掌握しなければならないと密かに考えていたのである。今日の誓願はそのことに重点があった。その思いが先祖霊に通じたのか息子の河勝の体を憑り代としてあらわれたのであろう。託宣によれば丹塗り矢が誰であるかわからないが、玉依郎女は丹塗り矢に乗り移った男子の子を宿すというではないか。願わくば、丹塗り矢の主が世継ぎの皇子であって欲しい。
2005年02月27日(日) |
秦 河 勝 連載12 |
「秦の酒の公は、秦造として部民を統率して米や織物を沢山造り、天皇に貢ぎ物を沢山奉りたいのだが、情けないことに秦人はあちこちに分散してしまい、諸豪族の配下に入ってしまっている。そのため秦造としての職責を十分はたすことができない。情けないことです。どうか諸豪族の許へ散らばっている秦人を私の管理の許に戻して下さい。それが私が願う御褒美ですと訴えられたのじゃ。天皇がこれをお認めになり、調べてみたら秦一族は全国に約百八十の勝部(すぐりべ)を作って村主(すぐり)になっていたそうじゃ」
「一族が戻ってきたということですか」
「そうじゃ、秦造の管理下に戻ったということじゃ。天皇の好意に感激した秦造の酒の公は秦造の管理下に戻ってきた部民を督励して、絹を織り朝廷に献上したところ、庭にうずたかく絹が積まれたそうじゃ。天皇は秦の酒の公の忠義な心を喜ばれて酒の君に太秦という姓をあたえられたのじゃ。それ以来、葛野の地のことを太秦(うずまさ)と呼ぶようになったのじゃ。」
「全国に散らばっていた秦人が纏まったということですか」
「その通りじゃ。住まいこそ各地に別れてはいるが、一族の長である秦酒公を中心に置いて精神的な絆で結ばれるようになったのじゃ。産業が次第に発達して、人も増え機織りの部を増やさなければならない状況がでてきたということもあったのだが、この変化を素早く捉えて天皇に訴えでた酒の公は一族の長としては適切な措置をとったことになるのだよ。一族が離散する原因となったのは蚕の神様と酒造りの神様を同じお社にお祭りしたから祟りがあったのだという反省もあって、この頃秦忌寸都理という御先祖様が松尾神社を建てて酒造りの神様だけを専属でお祭りするようになったのだよ」
2005年02月26日(土) |
秦 河 勝 連載11 |
「秦の酒の公が琴を弾きながら現れて次のような歌を歌ったのじゃ」
神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る析(か)きて 其(し)が尽くるまでに 大君に 堅く 仕え奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠(たくみ)はや あたら工匠はや
歌の意味は工匠は天皇のために一日もはやく御殿を造ろうと努力している。それなのにそれを殺そうとしている。惜しいことだということなのじゃ」
「それでどうなったの」
「天皇の前で許しもなく、かってに琴を弾いたり、歌を歌ったりすることは本来許されることではない。不敬な振る舞いとして処罰されるのが当たり前の行為なのだ。酒の公は余程の覚悟をきめて琴を弾かれたのであろう」
「酒の公は処罰されたのですか」
「処罰されなかったのじゃ。雄略天皇は、武勇に秀でた名君の誉れ高いお方であったが、人情の機微にも通じておられたのじゃな。秦の酒の公の琴の音と歌声が天皇の心をいたく動かしたのであろうか。天皇は闘鶏御田を殺すのをやめて罪を許したばかりか、処罰覚悟で、間違った天皇の行為を指摘した秦の酒の公に褒美を授けようということになったのじゃ」 「御褒美になにを貰われたのですか」
2005年02月25日(金) |
秦 河 勝 連載10 |
「そのとおりじゃ。分散して勝部を作り生産に精出していた秦の人々は、秦氏としての団結が弱くなり、勝部ごとに諸豪族に徴用され和珥氏、穂積氏、巨勢氏、平群氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏、羽田氏、葛城氏等に駆使される情けない状態になってしまったのだよ」
「困ったものですね。秦一族の危機の時代ですね」
「その通りじゃ。秦造としての役割が果たせなくなったので、朝廷への貢物も少なくなり肩身の狭い思いをしたものと思うわのう」
「それで秦一族はどうなりましたか」 「秦酒の公という秦一族の中興の祖が現れたのじゃ。秦登呂志の子の酒の公は琴の名手であった。酒の公は出仕するときには必ず琴を携帯していた。雄略天皇の御代12年の10月のことであったが、秦酒の公が出仕して造営中の宮殿の前で工事の安全を祈願して琴を弾いていたところ、ある事件に遭遇されたのじゃ」
「どんな事件だったのですか」
「大工の闘鶏御田(つげのみた)が宮殿の建物を建てていたが、梁へ上がったり下りたりするのが、まるで鳥のように素早かった。たまたま伊勢の采女が天皇に奉る秋の味覚を盛ったお膳を捧げて通りかかったところ、闘鶏御田(つげのみた)が梁へ上がるのを目撃した。彼女が今まで見たこともない敏捷さで、闘鶏御田が上がっていったので、人間業とは思えなかったのだろう。度肝を抜かれた伊勢の采女はお膳を落としてしまったそうな。そこで騒ぎが大きくなったのじゃ。天皇に捧げるお膳を落とすとは不敬であり、不吉であるということになった。詮議してみると闘鶏御田が魔性をもっているのではなかろうかということになり、災いを封じ込めるためには闘鶏御田を殺して魔性を絶ってしまおうということになったのじゃ。」
「闘鶏御田は殺されたのですか」
「天皇の前に引き出されたとき、状況がかわったのじゃ」
「どのように」
「御長老わたしにも読み書きを教えてくださいませんか」
「いいとも。しっかり勉強して、一族の繁栄をはからなければならないからのう。読み書きの勉強も大切だが、もっと大切なのは神様を崇拝するということじゃ。秦一族が現在繁栄しているのは、守護神を丁重にお祭りしているからその御加護があり霊験あらたかなためなのじゃ。深草の里にお祭りしている稲荷(いねなり)神は五穀豊穣の神様じゃ。葛野にお祭りしているのは養蚕の神様だし、松尾の神様は酒造りの神様なのだ。賀茂の神様は大地の神様でこれらの神々は秦一族が畏敬の念をもって崇拝しているのだよ」 「わかりました。毎朝四方拝をし、神様を拝むように母親から教えられていますのでそれを守るようにします」と河勝は言った。
「秦一族がこの地に渡来以来、おおよそ二百年足らず経ってはいるがこの間、常に順調であったとは限らない。弓月の君が渡来してから二〜三代のうちは、族長がしっかりしており、神様を畏敬し敬う気持ちが篤かったから繁栄していた。だが、そのうち心得違いをする族長がでるようになる。そうすると一族は分散のはめになる」
「そのようなこともあったのですか」
「あれは、やはり応神天皇の御代のことであると聞いているが、須須許理(すすこり)という酒造りの名人が百済から渡来して、旨い酒を朝廷に献上したそうだ。帝は喜ばれて、須須許理を秦部に下されて酒造りも秦部の大切な仕事となったのじゃ。そのときの族長は秦登呂志(はたのとろし)といったが自分の子供の名前を「酒」とつけるくらいの酒好きであった。そのために、酒部の酒造りのほうへ力を入れすぎて、秦部の機織りのほうは蔑ろにしたということじゃ。万の神々を崇拝する気持ちが薄らいできたのだな。秦の登呂志は酒造りの神様を大切にしなければいけないということだけを考えて、蚕の神様と同じお社へお祭りしたのじゃ。こうなると蚕の神様のほうは面白くない道理じゃ。自分の神域へ他人が入ってきたのだから意地悪をしてやろうと考えられても不思議ではない。機織りのほうもおろそかにしたものだから機織りに従事していた秦部の民も面白くない。次第に秦一族の中で統制がとれなくなり、秦部の民は全国へ分散して行ったのじゃ。しかし、分散したとはいえ、秦部の民は優秀な人々が多かったうえに、稲作りの技術や、養蚕の技術や機織りの技術を持っていたので、分散していった土地で勝部(すぐりべ)を作り、村主(すぐり)になったのじゃ。勝部は稲作り、養蚕、機織りの専門技術集団のことであり、村主とはその集団の指導者のことじゃ。」
「分散してしまうと氏族としての団結力がなくなり力が弱くなるでしょうね」 と河勝が言うと長老の秦大津父は彼の利発な質問に満足げに頷きながら話を続けるのであった。
「応神天皇の御代(382 年)に、弓月の君は百済から120 県の人夫(おお みたから)を率いて大和の国へ移住を決行されたのじゃ。百済から加羅までたどり着いたところ、運悪く新羅人に妨げられて人夫は加羅に止めおかれてしまったのじゃ。弓月の君は使いを応神天皇に出して助けを求めたところ葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が派遣されて日本へ渡るのを助けたということじゃが、弓月の君が連れてきた人夫はいずれも腕の良い機織技術者と土木技術者達で、養蚕の技術も持っていたので葛野に定着してからも繁栄し今日に至ったのじゃ。」と秦大津父は白くて長い顎髭を右手の親指と人指し指で作った輪でしごきながら、河勝に物語ってくれた。
幼い河勝にとっては、先祖の流浪物語はロマンに満ちた魅力ある話であった。
「弓月の君が葛野に定着してまもなく、半島では応神天皇が軍隊を派遣し百済・新羅を討ち負かした(391 年)ので、弓月の君の渡来時期の選定は正しい決断であったことが判ったのじゃ。一族の長は将来のことも見通して決断しなければならないから責任は重いのだよ。」と大津父はやがて一族の長になるであろう幼き河勝に期待の眼差しを向けながら話を続けた。
「河勝よ、弓月の君が葛野に落ちついてから間もなく、応神天皇の御代に半島から阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が党類17県の民を率いて渡来してきているが、この一族は、高市郡檜隅を根拠地にして栄えている東漢直(やまとあやのあたい)氏の祖先なのじゃ。彼らは陶部(すえつくり)、鞍部(くらつくり)画部(えかき)、錦織(にしごり)の技術に優れているので、我が一族も機織りという技術の特徴を生かして彼らに負けないように頑張らなければならないのだよ」
「ほかにはどんな氏族が渡来したのですか」
「阿知使主(あちのおみ)が渡来してのち間もなく今度は、やはり応神天皇の御代に百済から、王仁吉師(わに)が論語と千字文を持って渡来し、朝廷に百済王からの品部(ともべ)として献じられたのじゃ。彼らは朝廷では史(ふひと)としてもちいられた西文首(かわちのふみのおびと)氏の先祖で根拠地は河内の古市なのじゃ。彼らは読み書きにあかるいので代々書記として朝廷で文書を扱い羽振りをきかせているのだよ。お前も読み書きができるようにならなければのう。」
「御長老は読み書きができるのですか」
「出来るとも。大蔵掾という官職は読み書きが出来なければつとまらない役柄なのだよ」 河勝は尊敬の眼差しで改めて大叔父の顔を仰ぎみるのであった。
「弓月の君の先祖は、一旦、半島に渡ったものの、当時の半島は未開の土地であったから、秦一族は団結して開墾に励み力を養うしかなかったのじゃ。秦一族は大陸から移住して来たとき、鉄製の農工具とそれを作る技術を持っていたので、未開地の開墾は順調に進んだ。彼らは秦の始皇帝の子孫であるという誇りを持っていたから、土着民と融合することなく一線を画して平和に生活していた。それは長い長い年月であった。長い年月が過ぎる内に半島にも高句麓、新羅、任那、百済という国が誕生したのじゃ。一方、大陸では秦を滅ぼした漢という国の次に新という国ができたが、忽ち滅んでしまって、また漢という国が生まれたのだ。前の漢に対して後の漢という訳で後漢と呼んでいるのじゃ。 後漢という国が出来た頃から、弓月の君の先祖は、大陸へ帰って国を再興することは難しいと考えるようになったのじゃ。」 「そしてどうなったの」 「半島の中でも高句麓という国は強い国でしょっちゅう新羅や百済を攻撃しては領土をかすめ取ったのじゃ」 「弓月の君はどうなったの」 「その頃はまだ弓月の君は生まれていなかったのさ。弓月の君の先祖は、そうさな曾祖父ぐらいになるのかな、高句麓の攻撃を避けて百済へ逃げたり、新羅へ逃げたりしていたのだが、弓月の君の代になって海の向こうからも任那を攻撃してくる強い国があり機織りの技術や天文、医学、暦、易のことを学びたがっていることを知ったのじゃ。その国が大和の国なのじゃ。弓月の君は大陸へ帰ることを諦めて、海の向こうに安住の地を求めることを決心したのじゃ。その時には新羅から百済へ移り住んだばかりの時であったそうな。なにしろ腕の良い機織り技術者と土木技術者を沢山抱えており、鉄製の農工具とその技術を蓄えていたから、新羅の王様も弓月の君の動向に対しては注意していた筈だわな」長老の秦大津父は言葉を切って、土器の濁酒を口に運んだ。
秦部の下僕や下女達が機織りしているのを興味深く見ていた幼い河勝を手招いて、一族の長老秦大津父(はたのおおつち)が長い顎髭を手でしごきながら言った。
「河勝や、今日は弓月の君のことを話してしんぜよう」
秦大津父は山背国紀郡深草里に根拠地を構えていた。葛野の秦部が織りだした絹や深草で醸造した濁り酒を馬の背に負わせて隊列を組み、飛鳥や伊勢へ運んでは売り捌き、伊勢特産の水銀を仕入れて帰るという商業活動にも携わっていた。官職は大蔵の掾であったから位は高いほうでなかったが、日本全国に広がっていた秦人約七千戸の首領として仰がれていた。飛鳥へ行ったり伊勢へ行ったりで、秦大津父は席の温まる暇もなかった。秦大津父は河勝の父方の祖父の弟である。河勝の今はなき祖父秦河(はたかわ)は葛野に根拠地を持っていた。河勝は秦一族の直系の血筋を継いでいた。葛野から今日は深草まで父の国勝に連れられて遊びにきていたのである。忙しい秦大津父は幼い河勝の顔を見るのは始めてのことであった。河勝は目を輝かせて長老の話に聞き入った。
「弓月の君とはな、融通王(ゆずおう)とも言われるのじゃが、秦の始皇帝の末裔なのじゃ。弓月の君の先祖は秦の国が滅びたとき半島に逃げ渡った秦の遺民で、一族が離散することもなく助け合って国の再興を期していたのじゃ。弓月の君は始皇帝の十三世孫にあたられるのじゃ。わかるかの、秦一族は皇帝の血筋をひく名門なのだからお前もこのことは誇りにして生きていかねばならないのだぞ」と祖父は河勝の目を見据えながら言った。
「それでその人達はどうなったの」と河勝は先を促した。
倭人の稲は北九州の地へ渡来し栽培されしかも品種は短粒米(ジャポニカ)であったことが、福岡県夜臼遺跡や板付遺跡の発掘で判ってきている。 倭人達は稲作だけでなく、漁労の技術にもたけていた。歴史上に初めて登場する日本人は「倭人」と呼ばれている。魏史倭人伝(西暦220 〜280 年三国時代の魏の国の歴史書に書かれた倭人の条のこと)によれば「禾稲(水稲のこと)を植え」「船に乗って交易を行い」、「漁業に従い」、「水に潜って魚を手づかみしたり、貝を採ったりすることが上手で」、「皆黥面文身(いれずみのこと)」していたと記されている。また越南(今のベトナムの辺り)で越人が住んだ地帯には入れ墨をする風習があったことが知られている。このことからも越人が北へ移動して、朝鮮南部や九州に至って植民地を作りだした頃倭人と呼ばれだしたと言えるのではなかろうか。
倭人は朝鮮半島にも住んでいたが、九州にも住んでおり、その間を船で往来し交易や漁労にあたっていたのも倭人であったと考えられる。
初めて大陸に統一国家を作った秦の始皇帝(西暦BC221 〜210 )が滅んで漢民族が覇権を握ると、秦人達は追われてその一部は朝鮮半島へ逃げて定住するようになった。朝鮮半島は大陸からみれば辺境の地であり未開の野蛮な国であった。
秦人達は当時朝鮮半島で活躍していた倭人から稲の栽培方法を学び、持ち前の 秀でた農耕技術でこれを改良し水田耕作を可能にしていったのである。彼らは鉄を使う技術をもっていたから鉄の原料を産出する朝鮮半島は鋤や鍬を作り稲の水田耕作を発展させるには好都合の条件を備えていたといえよう。
日本列島に米が渡来したのは2,200 年程前だとみられている。秦河勝が生まれた頃から数えれば約770 年程昔のことである。米は倭人が日本列島にもたらしたものであることが考古学・歴史学・民俗学・比較人類学等の研究の成果としてほぼ証明されている。
そもそも倭人とはどのような人種であり、日本の経済及び文化の基礎となった米と倭人とはどういう関わりを持ったのかということを辿ってみれば、秦河勝の先祖である秦人とその子孫である秦一族が日本の農耕技術・養蚕技術・土木技術・手工業技術に秀でたものを持っており、祭祀に重きをおく氏族であって、古代大和国家の繁栄に多大の貢献をした氏族であることが理解できるであろう。
米の原種は大きく分ければ、四種類位に分けられるが、アジアでつくられるのはこのうちの長粒米(インディカ)と短粒米(ジャポニカ)との二種類である。同じ米であってもこの長粒米と短粒米とでは、人間と猿くらいの違いがある。即ち長粒米と短粒米とをかけあわせても、穂はできるけれども実ができない。つまり染色体の数が基本的に違っているからである。この長粒米と短粒米の原種の分布を調べてみると、氾濫原では長粒米しかなく、河岸段丘の上で作られていた米は殆どが短粒米であった。長粒米の発祥の地はガンジス河流域のような氾濫原であり、短粒米の発祥の地はヒマラヤ山系の谷々のような棚田である。棚田とは水を溜めれば湿田となり水を落とせば乾く田のことである。
ヒマラヤの山奥の谷間に発生した短粒米は、だんだん谷を下りて揚子江へ至り、南の流域一帯及びその支流あるいは広東から西へはいっていく西江の辺りが大きな短粒米の稲作地帯となったのである。この地帯は古くは百越の国といわれていた。越の国の人々即ち越人達が稲作技術を進化させた頃、黄河流域には殷や周のような強い国家ができて勢力を増していったが、彼らは畑作の産物を食料とした。越人達は中央の強い国の文化を求めて次第に移動して揚子江や淮河の流域に村を作った。さらに北上して山東のあたりを経て陸路は朝鮮半島に至り、海路は日本の九州にまで至って町を作った。米作技術をもって朝鮮半島南部や日本にまで渡来した越人はいつの頃からか倭人と呼ばれるようになっていた。
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