前潟都窪の日記

2005年03月10日(木) 秦   河 勝 連載23

 額田部皇女が13歳のとき聞かされた姉磐隈皇女の受難の物語は本能的に彼等を毛嫌いさせた。

「伊勢大神宮にお仕えなさっている磐隈皇女がお役を解かれたそうですね。お気の毒なことです」と侍女が言った。
「まあ、姉君が。何故なの」
「神に仕える身でありながら、人間と通じ、汚れたからです」
「あの潔癖好きな姉君が男と通じるなんて信じられないわ。どうしてなの」
「皇女様もそう思われるでしょう。私達も口惜しいですわ。ある皇子から何度も歌を贈られたけれど磐隈皇女は神に仕える身であることをよく弁えておられるので、無視し続けられたそうです」
「巫女としては当然の事でしよう」
「返歌のないのを逆恨みされて御寝所に忍びこまれて無理やり犯されたということです」
「一体相手は誰ですの」
「茨城皇子ということです」
「茨城皇子といえば私にも歌を贈ってきたことがありますわ」
「皇女様、あの兄弟は程度が悪いから気をお付けになってくださいませよ」
「それで茨城皇子はどうなりました」
「お構いなしです」
「磐隈皇女はどうなさいましたか」
「臣下の大伴氏へ下げ渡されました」

 額田部皇女が15歳になったとき、茨城皇子からの相聞歌が届いたが姉磐隈皇女の受難の物語を思い出しこれを無視した。神に仕える巫女を犯すような粗野な行為が許せなかったので、返歌を贈ろうという気すら起きなかった。やがて、茨城皇子の弟の穴穂部皇子からも相聞歌が届けられるようになったが、これも無視し続けた。小姉君を母とする皇子達兄弟はいずれも粗野で向こう意気ばかり強く品位にかけていた。

それにひきかえ淳中倉太珠敷皇子は母が宣化天皇の二女であり立ち居振る舞いには洗練されたところがあり、文章をよくし史学を愛するインテリであったので豊御食炊屋姫の好みにあっていた。欽明天皇が崩御されると、淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となられた。皇后を立てられることもなく、先帝の皇后石姫を敬って皇大后と称していたので、炊屋姫は自分が皇后になれるかもしれないと、密かに胸をときめかせていたが、息長真手王の女広姫が皇后と決まったと聴かされてがっかりした。しかしながら間もなく、広姫が一男二女を残して薨去し、炊屋姫が皇后に立てられたときには炊屋姫の自尊心は大いに満足させられた。天皇そのものではないが、皇后という天皇に最も近い立場になれて、幼少の頃の夢の一部がかなえられたからである。



2005年03月09日(水) 秦   河 勝 連載22

蘇我稲目の死去を狙って決行された物部守屋らの排仏運動もひとたび火のついた崇仏派の求法の情熱の火を消すことはできなかった。帰化人達は崇仏の念厚く蘇我氏を支援した。特に飛鳥に本拠を置く鞍作氏(司馬氏)は積極的に蘇我氏を支援した。

 この年病床にあった欽明天皇は、太子の淳中倉太珠敷皇子(ぬなくらふとたましきのみこ)を枕頭に呼び、任那の復興を託して、翌年四月、金刺宮で崩去した。

淳中倉太珠敷皇子が即位し敏達天皇となった。欽明天皇と宣化天皇の皇女石姫との間に生まれた第二皇子であった。

豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)は18才の時敏達天皇の皇后となった。幼少の時は額田部皇女と呼ばれ、才気煥発の人でその質問には侍女達もしばしばたじたじとなることが多かった。

「どうして女は天皇になれないのじゃ」
「昔々からのしきたりでございます」
「何故そのようなしきたりができたのじゃ」
「皇祖の神武天皇以来,天皇は皇子が継承することになっているのでございます」
「私は天皇になりたい」
「皇女様が今度お生まれになるときは皇子としてお生まれになることですね。天皇にもなれますよ」と乳母達は自己顕示欲の強い姫を宥めるのが精一杯であった。

 長じてからは容姿端麗で、立ち居振る舞いにはメリハリがきいており、数多い同年代の皇子皇女達の中では一際目立つ存在であつた。母は蘇我大臣稲目の娘堅塩媛で欽明天皇との間に七男六女をもうけた子福者であった。他にも異母兄弟姉妹が大勢いたが、小姉君を母とする茨城皇子、葛城皇子、穴穂部皇子、泊瀬部皇子の兄弟達とはうまがあわなかった。穴穂部間人皇女の美貌は許しがたかったが、控えめな性格は自分の性格と裏腹であるため絶好のいじめの対象であった。



2005年03月08日(火) 秦   河 勝 連載21

 570 年(欽明天皇31年)三月に蘇我稲目が死に、稲目の後を継いで馬子が大臣に就任した。稲目の死とあい前後して尾輿も死んだ。後を継いで大連となった物部守屋は予てから崇仏派の祭る仏像を破棄してやろうと機会を窺っていたが、稲目の死亡がチャンスとばかり蘇我氏の向原の家を襲って仏殿を焼き、聖明王から献上されて祭られていた仏像を持ち帰ると自宅近くの難波の堀江に流した。

人間が被る災禍や疫病の穢れは、禊や祓によって清められるという日本古来の神道の考え方による行動であった。

 蘇我稲目の逝去に先立つ570 年正月、八才になった秦河勝は父に連れられ蘇我稲目の向原の自宅を年賀に訪れ、仏像を拝まして貰った。予てより仏教に関心を示していた父秦国勝が、年賀にことよせて稲目の崇拝する仏像を拝観させて貰おうと、秦大津父を通じて稲目に渡りをつけておいたのである。河勝にとっては父と一緒の初の大和路への旅であった。秦氏の一族は大和にも住んでおり、父が出仕するときに利用する館も大和に用意されていた。

河勝が初めて仏像を拝観したときの気持ちは荘厳なものであり、人間の顔をした外国の神様はやさしく微笑んでいた。

「ありがたい仏様だ」と国勝は魂を奪われ、恍惚境に彷徨った。
「私も仏像をお祭りできるようになりたい」と河勝は祈るのであった。
「河勝よ仏像を将来お迎えすることができたらお寺を建てよう」と国勝が言った。
「是非そうしましょう」河勝は将来仏像を我が手で祭ることを夢みながら頷いた。



2005年03月07日(月) 秦   河 勝 連載20

 蘇我稲目は天皇のこの言葉を聞くと跪いて仏像と教典を恭しく拝受し、お礼をいった。
「必ず仏法がこの国に根づくと信じていますが、それまでは私がお預かりしお守り致しましょう」

贈られた仏像は、悉達太子の半跏思惟像であった。蘇我稲目は取り敢えず豊浦にある小墾田の家を清めてその仏像を安置したが、やがて向原の家を寺としてこれを祭った。ここに於いて日本における最初の仏教帰依者が誕生したのである。

彼が仏像礼拝を始めてから一年程経った頃、疫病が流行して多数の死者が出た。崇仏派攻撃の口実を捜していた物部尾輿と中臣鎌子はこれにとびついた。
疫病流行の原因は、蘇我稲目が他国神である仏像を祭ったからだというのである。これに対して蘇我稲目は、疫病流行の原因は他国神拒否による無礼な措置が仏の祟りとして現れたのだと主張した。疫病がはやったり、飢饉がおきたりするとその度に原因をめぐって崇仏派と排仏派が論争を繰り返した。



2005年03月06日(日) 秦   河 勝 連載19

「私は今までこのような尊い妙法を聞いたことがなかつた。すぐにでも入信したい気持ちだ。しかし大和朝廷の天皇としては影響するところが多いの で、採否をいますぐ決定し返答することは差し控えたいと思う」

次いで、天皇は聖明王の使者接待のために集まってきている群臣達に下問した。
「諸卿に聞くが西の国から伝わった端麗な美を備えたこの仏像を祀るべきかどうか意見を述べて欲しい」

「おそれながら、天皇が天下を大王として統治していらっしゃるのは、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬お祀りなさっているからでございます。このたび仮初めにも蛮神を拝むことになると、必ず国つ神の怒りを受ける事になるでしょう」と中臣鎌子が他国神を祭ることに反発し、物部尾輿も拒否を表明した。

 これに対し蘇我稲目は崇仏を主張して言った。

「西の国では諸国が皆仏を礼拝しています。豊秋の日本だけがなんで拝まないで済まされましょうか。大いに礼拝すべきです」

 天皇は三種の神器を奉安し、天神地祇を司祭する立場にあったから中臣鎌子や物部尾輿の意見はよく理解できた。一方では進取の気にも富んでいたから、蘇我稲目の意見にも心を引かれた。

 しかしここでは自分の意思を明確に表示することは賢明でないと判断し、目先の効く蘇我の稲目に仏を預け自分の態度を明確にしないほうが得策で
あると考え次のように言った。

「それでは願い人の蘇我稲目に仏と教典を預けて、試しに礼拝させてみよう」



2005年03月05日(土) 秦   河 勝 連載18

 他方、臣姓の氏族は本貫の地名を氏の名とする在地性の強い集団である。大和朝廷が統一王朝を確立するまではこれに対抗するだけの力を持っていた。彼らは帰順した服属集団であり葛城、平群、巨勢、和珥、蘇我等の氏族である。    

 中でも蘇我氏は古くから帰化人の東漢氏や西文氏らとの接触を通じて、大陸の事情にも明るく大陸文化の優越性を認めていたから仏教の受容についても積極的な姿勢を示していた。そこへ仏教が仏像という具体的な形をもったものとして外国から入ってきたのだからその受容をめぐる争いは崇仏派と排仏派の対立を産み出し、皇位継承問題と絡んで壮絶を究めるものとなった。

一般民衆にとっては神であろうが仏であろうが祟りさえなければよかった。お加護があればそちらのほうがよかった。

しかし、権力の中枢にあるものにとっては崇仏派に属するか、排仏派に属するかは将来の生き残りをかけた死活の問題であった。

538 年に百済の聖明王から欽明天皇に仏像と教典が献上された。聖明王は使者を遣わして、次のように言上した。

「この法は諸法の中で最も優れております。見かけは解りにくく、入り難くて、かの賢人周公・孔子もなお知り給うことができないほどでしたが、この 仏像を拝みさえすれば無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を生じることができるのです。例えば、人が随意宝珠(物事が思うがままになる宝珠)を抱いて、何でも思い通りになるようにするようなものです。この法は遠く天竺から三韓に至るまで、教えに従う人々に尊敬されています。それ故百済の王である私は侍臣を遣わして、御地の朝廷にこの有り難い仏像と経論を伝え国中に流布させて頂き、お釈迦さまが願われたことを実現したいと思うのでございます」

これを聞き天皇は欣喜雀躍して百済の使者に言った。



2005年03月04日(金) 秦   河 勝 連載17 

国内問題としてもう一つの大きな問題は仏教の受容をめぐって、崇仏派の大臣蘇我氏と排仏派の大連物部氏とが対立を深めつつあった事である。

 当時の大和朝廷では皇祖神(天照大神)と地主神(倭大国魂神)二柱の神を祭っており、奉安されている三種の神器の八咫鏡・八尺に曲玉・草薙剣 は統治権の正当な継承者即ち天皇の地位と権威の象徴であった。国神 (くにつかみ)の司祭者としての天皇家が他国神(あだしくにのかみ)である仏教をただちに受容することは天皇家の権威にかかわることであり、容易に決断出来る問題ではなかった。万物には神が宿るという考え方は皇室を始め一般民衆にいたるまで素直に信じられていた。

農耕の豊かな収穫は神の恩恵であった。穀物の霊も神と仰がれた。山の神、水の神、河の神、森の神、大地の神、神の憑り代としての樹木や岩石などが神として崇拝された。言葉にも霊が宿るという言霊思想も流布していた。神々は各氏族集団の祭祀の対象であり、守護神としての氏神になるものもあった。

 そもそも、日本の氏族には連姓を持つものと臣姓をもつものがあった。連姓は神話の世界である天上の高天原において、中臣、忌部、猿女、鏡作、玉祖という各氏族の祖先が天皇家の伴(とも、隷属者)として発生した。これらの伴は五伴緒(いつとものお)と呼ばれた。天孫降臨のとき護衛をつとめた大伴氏や、神武天皇にいちはやく帰順した物部氏は神代時代から天皇家の家臣であると位置づけられていた。

 五伴緒の鏡作、玉祖の二氏は祭具の製作に携わった。    

 中臣、忌部、猿女の三氏は司祭者であり、天皇家の伝統と権威の源泉である神宝を奉祭することで天皇に仕えた。是等の氏族は職掌柄他国神を受容することはできなかった。



2005年03月03日(木) 秦   河 勝 連載16

 聖徳太子の幼名は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれたがこれは母親の穴穂部間人皇女が、池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)の庭を散歩 中、にわかに産気づき厩戸の前で出産したので厩戸皇子と名付けられたという。

 穴穂部間人皇女の母は、堅塩姫の同母妹の小姉君(こあねぎみ)であり、ともに欽明天皇の后である。
聖徳太子の生まれた574 年(敏達天皇3年)といえば大和朝廷は内外とも
に、多くの難問を抱えていた。

 対外的には562 年(欽明天皇23年 この年秦河勝誕生)に新羅に奪い取
られた任那の奪回、百済の軍事的救援と百済や新羅の大和朝廷に対する朝貢
体制の維持強化が、最大の課題であった。

 国内的には大和朝廷内における天皇専制の確立であった。継体天皇の御代に中央権力の強化策として、政治組織は氏姓制から官司制へと、改革され ていたが、まだ天皇専制が確立されていたとはいえなかった。敏達天皇の朝廷には二つの中心勢力が拮抗していた。一つは天皇、一つは官司制の指導者蘇我氏である。

 天皇の意図する方向は天皇専制であるが、蘇我氏との間で幾重にも絡み合った姻戚関係はこれに制肘を加えていたのである。蘇我氏は天皇を上にい
ただきながら、朝廷のありかたとしては、豪族連合政権の性格を強く打ち出し、自分が連合政権の指導者になろうとしていた。連合政権を 固めるため波多、平群、紀、巨勢、葛城等の大和朝廷を構成する主要豪族は、自分と同じ祖先を持つ同族であるという系譜を作り上げようとさえした。そして帰化系氏族を配下に置き、官司制を掌握することにより連合政府の指導者として実権を握り天皇を飾りものにしようと画策した。その最たるものが蘇我稲目が欽明天皇に対してとった外戚政策である。即ち自分の娘である堅塩媛・小姉君という同腹の姉妹を欽明天皇の妃として送りこんだのである。



2005年03月02日(水) 秦   河 勝 連載15

 秦河勝と聖徳太子との関わり合いは河勝が12才になったときから始まる。
この年574 年(敏達天皇三年)聖徳太子が、橘豊日皇子(たちばなとよひのみこ・用明天皇)を父とし、穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)を母として誕生した。

「若様、そろそろ昼餉の時間です。あの桜の木の下で一休みしましょう」と馬で大原近くまで遠乗りをした河勝に供の下僕が言った。今日は河勝の十二才の誕生日を記念するために乗馬の訓練も兼ねてここまでやってきたのである。

「今日は天気もいいし、陽気もよくてよかったね。腹も減ったしそうしよう」
と河勝は馬から下りて手綱を桜の木の枝に結んだ。

「こんなに遠くまで来たのでさぞ腹もすいたでしょう。しっかり食べてください」下僕は竹の皮に包んだ握り飯を差しだしながら勧めた。

「ああ、美味しい。握り飯がこんなに美味しいと感じたのは今日が初めてだ」
と河勝は下僕の差し出す竹の筒に入った水を飲みながら言った。

「若様が、こんなに遠くまで出掛けられたのは今日が初めてなので、きっとお腹がすいたのでしょう。お腹のすいたときは何を食べても美味しく感じるものですよ」

「お米の神様に感謝しなければ」そう言うとと河勝は苗代にすくすくと伸びている緑の稲の苗に向かって手を合わせた。暫くお祈りをしていた河勝の顔つきが変わった。
 目はつりあがり口を尖らして、嗄れた声で喋りだした。憑依現象が始まったのである。

「汝に告げる。都で世継ぎの皇子が誕生された。汝はこの皇子に臣従すべし」

「ああ、若様に神様が憑いた」と下僕は地面にはいつくばり、頭を地面にすりつけて河勝を拝み出した。やがて、憑依現象は収まったが、河勝には臣従すべしとお告げのあった世継ぎの皇子の名前は判らなかった。しかし,河勝の心はまだ見ぬ主の姿形をいろいろ想像しては満たされた気持ちになるのであった。



2005年03月01日(火) 秦   河 勝 連載14

 この事件があってから河勝が神前で精神を集中して祈祷をすると、憑依現象がおきることがときどき見られるようになった。

河勝は自分に霊能者としての超能力があることを自覚すると、一族の支配統制のために最大限に活用した。

祭りと政は原始社会においては一体のものであり、分離されることなく祭政一致で統治されてきた。裁判はすべて神前裁判であり、処罰処刑も神意の発現としておこなわれた。

秦河勝の時代には大和朝廷の基盤も確立し、祭祀と政治は分離されていた。分離されていたとはいえ、その所管は何れも天皇家であった。

政治は天皇を中心とする大和朝廷がこれを司り、祭祀は天皇家が三種の神器を奉じて皇祖神を祭り、天神地祇を祭ることであった。但し、この頃になると朝廷内部の分業が進んだため、連の姓を持つ豪族に宗教的職分や特高警察的な職分はまかされていった。

前者をまかされたのが忌部氏や中臣氏であり、後者を任されたのが物部氏であった。氏族は天皇の臣下であり、各氏族固有の氏神を祭った。河勝に霊能者としての超能力が備わっており、彼が精神を集中して超能力を発揮するときは必ず憑依現象が発生したので、部民達は彼を一族の長として畏敬の念をもって仰いでいた。

秦人即ち秦部は大和、山城、河内、摂津、和泉、近江、美濃、尾張、若狭、播磨、紀伊、丹波、備前、讃岐 伊予、阿波、豊前と広範囲にわたって住んでいた。特に山城盆地にははやくから住んでおり大きな勢力を持つようになっていた。

日本書紀によれば欽明天皇元年に秦人、漢人ら諸蕃の帰化したものを国郡にそれぞれ定住させて戸籍を編んだところ秦人の戸数は7,513戸にのぼったと記されている。この頃秦河勝の大叔父大蔵掾秦大津父は秦伴造に任命されている。

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