前潟都窪の日記

2005年03月20日(日) 秦   河 勝 連載33

用命天皇は即位後、僅か二年で病に倒れた。天然痘であった。蘇我の馬子は用命天皇の叔父にあたるので、一年前仏に帰依して病気平癒した馬子にあやかり天皇も仏に帰依しようと決意した。
「朕は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思うので、卿らも承知して欲しい」と侍仕する群臣に言われた。

 仏教伝来以来初めて天皇が自らの意思で仏教を受容したのである。
「畏れ多くも、三種の神器を奉安し天照大皇神を司祭する立場にある天皇が国神に背いて他国の神を敬う等ということが許されてよいものでしょうか。このようなことは前代未聞でございます。お立場をお弁え願わしゅう存じます」と大連物部守屋と連中臣勝海が口を揃えて言った。
「天皇の御意思は尊重すべきであると存じます。臣達はすべからく詔に従って御協力申し上げるべきだと存じます」と蘇我馬子大臣は誇らしげに言った。
穴穂部皇子は早速豊国法師をつれて天皇の元へ伺候したので、これを見た物部守屋は穴穂部皇子の後ろ姿を睨みつけながら言った。
「実にけしからん」心の中では、用明天皇の対抗馬として皇位を争ったとき世話になっておきながら、また私が仏教に反対しているのを知っていながら、法師を連れてくるとは何と恩知らずな皇子であろうかと悔しい思いをしていた。

 排仏派の雄であった物部氏も天皇が自らの意思で仏に帰依すると表明してからは立場が苦しくなった。身の危険を感じた物部守屋は本拠である河内の渋川に引上げ軍勢をあつめて警戒体制に入った。排仏派の有力者中臣勝海も兵を集め物部支持の準備をし更に太子押坂彦人皇子と竹田皇子の人形をつくって呪詛した。彼らは次期天皇候補として第一、第二順位に位置していたからである。

 穴穂部皇子を擁立するためには、これらの皇子達は邪魔になるのである。ところが中臣勝海は物部側の形勢が悪くなったと気がつくと寝返って、押坂彦人皇子の水派宮に司候した。
舎人の跡見赤寿は無骨者であったが、忠義一筋の武辺の男であったから、変節漢の中臣勝海を許すことができなかった。中臣勝海が押坂彦人皇子のもとから退出するところを狙って切り殺してしまった。



2005年03月19日(土) 秦   河 勝 連載32

 大三輪逆は炊屋姫の寵臣として秘密を知っていたので穴穂部皇子を殯宮に入れることは断じてできることではなかった。
怒り心頭に達した穴穂部皇子は、蘇我馬子と物部守屋の両名を呼んで大三輪逆は皇子に対して無礼な態度振る舞いをしたので、切り捨てたいと言うと二人とも「御随意に」と言った。

 炊屋姫の寵臣大三輪を穴穂部皇子に殺させるのは蘇我馬子の策謀であった。炊屋姫の穴穂部皇子に対する怒りを増幅するためである。

 一方、穴穂部皇子は、協力者の支援を取り付けて次期天皇になろうと企んでいたので、何かと邪魔をする大三輪逆を口実を設けて殺そうと考えていたのである。大臣と大連の同意を取り付けた穴穂部皇子は、物部守屋と共に兵を率いて大三輪逆を討つべく磐余の池辺を包囲したが、大三輪逆は本拠地の三輪山に逃れた。形勢不利とみた大三輪逆は夜陰に乗じて、炊屋姫の海石榴市宮に保護を求めた。炊屋姫のかねてよりの寵臣として姫の信頼を受けているという自負と殯宮では、穴穂部皇子の毒牙から姫を守った功績が大三輪逆の拠り所であった。

 それに皇位継承に関する故敏達天皇の遺命を書き記した詔勅を炊屋姫へ渡さなければならなかったからである。ところが何時の世にもあることであるが、窮地に陥った人間の足を引っ張って、手柄にしようという輩が現れるものである。大三輪逆の一族の白堤と横山が大三輪逆の居所を物部守屋へ内通したので、物部守屋の兵に捕まり斬り殺された。

 寵臣の大三輪逆を失った炊屋姫は穴穂部皇子と物部守屋に対する恨みを心の中に蓄積した。



2005年03月18日(金) 秦   河 勝 連載31

大三輪逆は敏達天皇が生前皇后の炊屋姫と皇位継承に関して交わした次の会話を先帝の遺命であると心に刻み日記に記録したことを今思い出していたのである。
「朕の崩御後は、皇位継承の古来の慣行に従い兄弟相続を第一原則とし、第二原則としては兄弟が老齢で激務に耐えないとき若しくは幼少のときは先帝の直系の皇子に皇位を継承することにしたい」と敏達天皇が言われた。
「そうしますと次期天皇候補者はお上の異母弟の橘豊日皇子になりますね」と炊屋姫が質問した。
「その通りだ。そなたの同腹の兄上が、天皇になれるのは喜ばしいことであろう」
「お上のご配慮に御礼申し上げ、感謝致します」
「母親の格、本人の年齢からいえばこれが一番納得できる選択だと信じているよ」
「その次はどのようにお考えでしようか」と炊屋姫は自分が腹を痛めた竹田皇子の顔を瞼に描きながら質問した。
「橘豊日皇子がそんなに早く亡くなるとは考えたくないが、もしそのときは、年齢、母たる皇后の格からいって第二原則を適用して押坂彦人大兄皇子が適任であろう」
「第二原則の時、竹田皇子は如何ですか」
「チャンスはあるが押坂彦人大兄皇子のほうが年長者だから第二候補ということになる」
「でも押坂彦人大兄皇子は病弱ですわ」
「押坂彦人大兄皇子が亡くなれば竹田皇子と厩戸皇子が有力だ」
「第一原則適用の時、穴穂部皇子はどうですか」
「橘豊日皇子が長命であれば、穴穂部皇子のほうが押坂彦人大兄皇子よりだいぶ若いからチャンスはあるだろう」
「でもあの皇子は下品だから駄目ですわ」
「そのときには泊瀬部皇子か宅部皇子がいる」
「母親が小姉君ですわ」
「欽明天皇の妃であったから格式では問題がない」
「小姉君の系統が天皇になるのは我慢なりませんわ」
「堅塩姫と小姉君は同腹の姉妹だよ」
「女の姉妹は対抗意識が男より激しいものですわ」
「そういうものかね。それではその時はそなたが先帝の皇后として即位すればよい」
「女が天皇になった先例はありませんよ」
「それでは第三原則を作っておこう。第一原則、第二原則でも選定できないときは先帝の皇后が即位するということだ。このことは、私の遺命として大三輪逆に記録させておこう」



2005年03月17日(木) 秦   河 勝 連載30

穴穂部皇子は異母妹にあたる炊屋姫にかねてより想いをかけていたが、炊屋姫が敏達天皇の后として入内してからは、相聞歌を贈ることもかなわず片思いに終わっていた。殯宮で悲嘆に暮れている炊屋姫にお悔やみを述べ、慰めるとともに長年の思いもぶつけてみたいと考えた穴穂部皇子は使いを出して、弔問の意を伝えようとしたが、大三輪逆の手のものが、粗野な野心家で通っている穴穂部皇子の下心を見抜いて取りつがなかった。使いの者から門前払いの扱いを受けたとの報告を受けた時、皇子のプライドはいたく傷つけられるとともに疑心暗鬼を生じた。自分が皇位継承で破れたのは炊屋姫が反対に廻ったからだという思いにかられ、憎悪が嵩じた。

 用命天皇の次の天皇候補者は敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子にいくであろう。そうなると小姉君系の皇子が天皇になるチャンスは薄くなる一方である。ここで一騒動起こして、世の注目を引いておかなくてはならないという思いも心の隅に潜んでいた。殯宮に押し入りやるかたない憤懣をぶちまけるとともに長年の思いを遂げようと行動に移した。

 穴穂部皇子は自ら手兵を率いて殯宮に赴き、門衛の兵士に尋ねた。
「この宮門を守っているのは誰か」
「大三輪逆がお守りしています」と門衛は答えた。
「門を開けよ。私は皇子の穴穂部皇子だ。殯宮の庭で誄(しのびごと)を読み上げ皇太后にはお悔やみを申し上げたい」
「主命により開けられません」
「主とは誰か」
「大三輪逆です」
「臣下のくせに皇子に対して無礼であろう。早く門を開けよ」
「開けられません」
 このような押し問答が七回も繰り返されたが、門は遂に開かれなかった。炊屋姫の寵臣大三輪逆が敏達天皇の遺命を帯して護衛の兵士達に殯宮の門を固めさせたからである。



2005年03月16日(水) 秦   河 勝 連載29

敏達天皇には皇子が何人かおり広姫を母とする押坂彦人大兄皇子(おさかひこひとおひねのみこ)が母の身分も高く、最年長でもあったので次期天皇としては有力な候補であった。しかし、古代の天皇家では皇位は兄弟相続で継承されることが多く、有力な弟がある場合には弟に皇位が譲られるのが普通であった。

 敏達天皇には異母兄弟が多く、堅塩姫を母とする橘豊日皇子と小姉君を母
に持つ穴穂部皇子が皇位を争うことになった。堅塩姫、小姉君はともに蘇我稲目の娘であり欽明天皇の后であると同時に蘇我馬子の姉と妹であった。橘豊日皇子の同母妹にあたる炊屋姫は故敏達天皇の后であった。このような複雑に血筋の絡み合った人脈の中では、皇位の継承は天皇家内部の問題に止まることが出来ず、崇仏・排仏論争とも関係して豪族層も巻き込んだ政治問題となっていた。

 橘豊日皇子は母の身分も高く天皇の兄弟の中では最年長であったし予てよ
り仏教に関心を寄せていたので敏達天皇の后炊屋姫と大臣蘇我馬子との支持を得て対抗馬である穴穂部皇子を蹴落とし磐余の池辺雙槻宮で即位することができた。用命天皇である。

 穴穂部皇子は皇位への希望を絶たれたあと次の機会を待って排仏派の有力者である大連物部守屋に接近し皇位争奪の秘策を練っていた。

 当時天皇が崩御するとその死を悼んで、葬送の時まで遺体を安置する殯宮(もがりのみや)が営まれる習わしであり、敏達天皇の殯宮は広瀬(奈良県北葛城郡)に造営された。后の炊屋姫は殯宮に侍して悲嘆にくれていた。



2005年03月15日(火) 秦   河 勝 連載28

崇仏派の雄、大臣蘇我馬子は584 年(敏達天皇12年)に鹿深臣が百済からもち帰った弥勒石像一体と、佐伯連が百済から将来した仏像一体を二つとも貰い受け、石川の自宅に仏殿を造って安置し法会を営んだ。これと前後して司馬達等の娘嶋(善信尼、出家当時11才であったという)・漢人夜菩の娘豊女(禅蔵尼)・錦織壺の娘石女(恵善尼)の三人を出家させ彼女らに法衣を供し仏像を祭らせた。

このようにして馬子は仏教の受容を積極的に勧めた。

 ところが翌年(585 年)再び疫病が大流行した。排仏派の物部守屋と中臣勝海は疫病が発生したのは馬子が異国の神である仏像を拝んでいるせいであると主張し敏達天皇に仏法の禁止を奏請した。敏達天皇は疫病の蔓延を阻止するには仏法を破断するしかないと判断し、大連物部守屋に仏法の処断を許可した。

 守屋は中臣連磐余等を率いて、大野丘の北の仏塔を切り倒し蘇我馬子が建てた石川の仏殿を焼き、再び仏像を難波の堀へ棄てた。善信尼ら三人の尼は法衣を奪われ、海石榴市に監禁され尻や肩を笞うたれた。このようにして破仏は実行されたが疫病は終焉しなかった。そればかりでなく,仏像を焼き、尼を罰したことが仏の祟りとして現れ、疫病をますます流行らせる原因となったというう風評が流布した。また、敏達天皇が破仏を許可したことも非難の対象となった。そのうえ敏達天皇と蘇我馬子とが相次いで疱瘡に冒され床についた。

 馬子は自分の病は重く、仏の加護を受けなければ治らないと思うので仏法に帰依することを許可願いたいと天皇に懇願した。天皇は譲歩してこれを認めたが馬子一人だけに許すので他の人には認めないという条件がついていた。三人の尼も馬子に返された。

 馬子の病気はまもなく快癒したが天皇はやがて崩御した。馬子の病気回復は仏の恵みであり、天皇の崩御は排仏の祟りであると当時の人々に思われた。こうして他国神の威力が国神を圧倒することが証明された。
大臣の蘇我馬子が卜占せしめたところ、父稲目が祭った他国神(仏)の祟りであることが明らかとなった。その神は12年前に難波の堀に流されて以来、ずっと祭られておらず、いま自己の祭祀を要求したのである。仏の要求をいれて祭るなら国内の災禍は消えるであろうと。



2005年03月14日(月) 秦   河 勝 連載27

 国勝が亡くなって半年ほど経った頃玉依郎女に初潮があった。
玉依郎女の乳母からこの報告を受けた河勝は赤飯を炊かせて玉依郎女が大人になった祝いの宴を一族で営んだ。祝い膳が終わって食器を屋敷の前を流れる桂川で女達が洗っていた。玉依郎女も女達に混じって手伝いをしていた。族長の娘ではあるが大人になった証明として家事の手伝いをしてみせるという一種の通過儀礼であった。その時玉依郎女の目の前を丹塗りの矢が上流から流れてきた。

「あれ、姫様、丹塗りの矢ですよ」と乳母が言った。
「はやくお拾いください」と別の女が言うのも待たず玉依郎女はいち早く矢を右手で掴んでいた。
「この矢は御寝所の入口に突き刺して今宵はお休み下さい」と乳母が教えた。

この丹塗りの矢は夜這って来ていた鴨氏の嫡男に玉依郎女から渡されて鴨一族と秦一族の絆が発生したのである。丹塗りの矢は河勝が密かに手下に命じて河の上流から頃合いを見計らって流させたものであった。



2005年03月13日(日) 秦   河 勝 連載26

「仮に入内がうまくいったとしても、皇子が生まれるかどうか判りませんよ」
「秦一族の場合は女で子を生まなかった者は今まで一人もいなかった。とにかく入内することが、今一族にとって一番大切なことだ」
「父上、玉依郎女を入内させて、皇子が誕生したとしてもその皇子が天皇に必ずなれるという保証はないのですよ」

「それはそうだが、入内できなければ何事も始まらない。経済力では蘇我氏にも物部氏にも決して劣らない。ただ官位だけが不足しているのじゃ」
「父上、官位が欲しいお気持ちは分かりますが、考えてみて下さい。大伴氏や物部氏等の連姓の氏族は、天地開闢以来天皇家の臣下であることが運命づけられていますから、彼らの娘達は皇后や后にはなれなかったでしょう。我等秦氏は帰化人だから土着の豪族蘇我氏とは格が低いと見做されているのですよ。とても玉依郎女が入内出来るとは思えませんがね」

「なに、秦氏の先祖は秦の始皇帝にまでたどりつくのだ。帰化人とはいえ、格からいえば天皇家に匹敵する筈だ。ましてや、地方の一豪族であった蘇我氏よりも由緒ある氏族だと思うよ。だからこそ、秦氏の実力を認めさせるためにも、秦氏から皇后や后を出して、天皇家の外戚にならなければならないと思う。
私の代で実現できなければ子孫の代には是非実現してもらいたい。これは、私の悲願であり、子孫に語り継いで貰いたい一族の目標であると思ってくれ」

「お言葉を返すようですが、私は秦一族は政治には関与しない方が賢明であろうと考えております。政治に関与するとどうしても皇位継承権を目指して血生臭い争いの中に巻き込まれてしまいます。政権争いに負けると一族全員が破滅するか地獄をみることになると思います。葛城氏、平群氏、吉備氏、大伴氏等不幸な例は沢山あるでしょう。むしろ政治には直接関与せず、経済の面で力を蓄え、祭祀を司るほうが、子孫の繁栄に繋がると考えます。そしてお寺を建てて、仏教を広めるのです」

「お前は未だ若いのに闘争を恐れてどうする。農耕、養蚕、機織、醸造、土木とあらゆる分野において、第一の力を蓄えている秦一族が何で政治の面でも第一人者となれないのか。挑戦してみるがよい。私の言いたいのはそういうことだ」

「父上のお考えはよく分かりました。御期待に添えるように努力してみたいと思います」
「それにお前も、深草の大叔父の勧める娘を早く娶って私の目の黒いうちに孫の顔を見せてくれ」
「承知しました」

河勝と国勝親子の間でこのようなやりとりがあってから、数日後に国勝は流
行病に侵されて死亡した。



2005年03月12日(土) 秦   河 勝 連載25

「そりゃ何時頃のことですかのう」と機織りが聞いた。
「もう十年以上も昔のことじゃそうな」と河勝が答えた。
「随分執念深い神様じゃのう」とさきほどの機織りが慨嘆するような口調で言った。
「その仏様とやらいう他国の神様を祭ったから、逆にこの国の神様が妬んで祟りをなされたのではなかろうか。わしはそう考えますがな」と年寄りの百姓が言った。
「どだい、お姿が見えないから神様なので、人間の顔をした神様なんかはいかがわしいと、わしゃ思いますがの」と信心深い籠作りが言った。
「わしら、祟りさえなければ、神様でも仏様でもお祭りしますがな。のう、皆の衆、そうじゃろうが」と壺作りが言った。
「そうじゃ」
「そうじゃ」

 秦河勝は父の名代として用事を済ませたのでその報告のため、病床に父を見舞った。
「父上、只今帰りました。蘇我馬子大臣には、父上の贈り物をお渡しし、お願いもしてきましたが、大臣はただ聞いておくといわれただけで、特にどうしろという御指示はありませんでした」
「そうか。玉依郎女にも、そろそろ月のものがめぐってこよう。それまでに入内の話が決まればと考えているのだが」と国勝は病床から河勝の報告を聞きながら言った。
「丹塗りの矢が流れてくるまでに決まればよいですね」と河勝は松尾神社で受けた先祖霊の託宣のことを思いだしながら言った。
「そのことよ。わしも、最近鴨氏の若い衆が夜、通ってきては、機織女達にちょっかいをかけているので、変な虫が玉依郎女につかなければよいがと心配しているところなのだ」と国勝が言った。

「鴨氏の嫡男が最近、夜這ってきているそうですね。玉依郎女が狙われているかもしれませんよ。私はあてにならない入内の機会を待っているよりも、鴨氏の嫡男を婿にして、賀茂神社の祭祀権を握ったほうが将来得策だと思いますがね。そうすれば、葛野と北山背を支配していくのに良い条件が整うと思うのです。仏教がこれから主流になるでしょう。しかし内国神を疎かにすることはできません。 我々氏族には先祖霊がついており、氏神として祭ってきたのです。秦一族の氏神は深草に稲荷神社、葛野に蚕の社、松尾に松尾神社として祭られているのですから、今、鴨氏と縁戚関係ができれば、山背国全体を覆う祭祀を主催できることになるわけです」
「それはそうかもしれないが、やはり天皇の后を狙うべきだと思う。それだけの力は養ってある筈だから」と国勝は娘入内の希望をすてきれない。



2005年03月11日(金) 秦   河 勝 連載24

 583 年(敏達天皇11年)都に疫病が蔓延した。秦河勝は、23才であった。
この年の夏、父国勝が体調を崩して床についたので、河勝は父国勝の名代として大和の要人のところへ貢物を届けて、葛野の里へ帰ってくると、村人達が集まって噂をしている。

「深草の里では病が流行って、沢山人が死んだそうじゃ。熱が出て腹を下し物が食べられなくなるそうじゃ。この里にもやってくるかもしれんぞ」
「水を飲むと腹をこわして下痢が止まらなくなるそうじゃ。熱くても水は沸かしてお湯にして飲んだほうがよいそうじゃ」
「何でも都では人間の顔をした神様をお祭りしなかったため祟りで、病が流行りだしたということじゃ。若殿、都の様子はどうですか」と中年の百姓の男が河勝に聞いてきた。

「腹が痛くなり、下痢をする病が流行っているのは確かじゃ。人も沢山死んでいる」と河勝は道端に転がっていた乞食の死骸を思いだしながら言った。
「人間の顔をした神様なんてものがあるのじゃろうか。神様のお姿はわしらの目には見えないものじゃと思うとりましたがのう」
「私は子供の頃、父に連れられて蘇我稲目大臣の向原のお寺で初めて仏様を拝ませて戴いたが人間の顔をしておられた。それは清々しいお顔じゃったという印象をうけたものだが、この度も拝ませて戴いた。心が洗われるような気持になったよ」とその時の光景を思いだしながら河勝は言った。
「わしらもどげなお姿なのか見てみたいものじゃのう」
「将来、私も仏様を迎えてお寺を建てたいと思っているよ」と河勝が言った。
「その時には是非とも拝ませて下さい」
「いいとも」
「海の向うから渡ってこられた神様は御利益の多い神様のようじゃな」
「御利益が多いからこそ粗末に扱うと祟りが大きいそうじゃ」
「祟られるようなことを誰がしたのじゃろうか。若殿は遠出されることが多いから何か知っておられるじゃろう。教えてくださらんか」と機織りの男が言った。

「都で聞いた噂では大連の物部守屋様が蘇我氏の屋敷を襲って仏様をお祭りしてある仏殿を焼き払い、仏像を堀に流されたのでその祟りがでたということじゃ」と河勝は最近仕入れた情報を公開した。


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