前潟都窪の日記

2005年03月31日(木) 秦   河 勝 連載43

 このとき、後継天皇候補としての有力者は三人いた。敏達天皇の子で早くから太子の地位にあった押坂彦人皇子、用明天皇の嫡長子である厩戸皇子、敏達天皇と炊屋姫皇后との間に生まれた竹田皇子の三人である。

河勝としては、皇位継承問題がこじれずに厩戸皇子が即位するためには、次の次をねらうのが得策であると判断していた。このとき厩戸皇子は19歳であったからただちに即位するには若すぎるであろう。三人の中で一番年長者である押坂彦人皇子がまず即位し、病弱故に治世は長くないであろうからその次に厩戸皇子が即位するのが理想的と考えていた。問題は、竹田皇子との関係である。英明なことでは厩戸皇子のほうが勝るが、長年皇后の地位にあり発言力の強い炊屋姫は自分の腹を痛めた竹田皇子を即位させたいであろう。
秦河勝は厩戸皇子の所へ駆けつけた。
「皇子いよいよ天皇御即位のチャンスが到来しましたね」と河勝。
「私には政治をしたいという欲望はない。願わくば御仏の教えをひろめることに力を注ぎたい」
「勿体ないことでございます。皇子のように聡明なお方が天下をしろしめされなくて誰ができましょうや」
「世間は虚仮。唯仏是真」と聖徳太子。
「難しい言葉ですね。世間が虚しく仮の姿であったとしても、御仏の教えを広めるためにも即位される必要があるのではないでしょうか」と河勝。
「機会に恵まれれば即位しても構わないがその時は、捨命と捨身は皆是死也という心境で統治してみようと思う」



2005年03月30日(水) 秦   河 勝 連載42

このような謀議があって駒の手によって天皇は殺された。秦河勝はこの儀式に天皇を警護する役割で陪席していたが、瞬時の出来事であった。河勝が異変に気づき、駒を取り押さえようと倒れた天皇の側へ駆けつけたときには一足早く、駒は戸外へ飛び出し待たせてあった馬に乗って逃げ去ってしまった。
群臣の面前で天皇を殺害したことは蘇我馬子の権力と威厳を示すのに役だった。天皇の遺体は殯宮が営まれることもなく即日倉梯岡陵に葬られた。この時代の天皇で殯宮も営まれずその日のうちに葬られた例はないから庶人並の扱いを受けた存在感のない惨めな天皇であったといえよう。

 崇竣天皇暗殺の衝撃は大きかった。秦河勝のうけた衝撃もまた大きかった。
天皇の護衛につけた駒が天皇を弑逆するとは考えてもみなかったことである。
群臣達の間からも駒を処罰すべしとの声が高まった。流石の独裁者蘇我馬子も群臣の面前で天皇を暗殺した駒を庇うことはできなかった。駒を天皇暗殺の下手人として糾弾しさらに、その妃を盗んで妻としたことを臣下としてあるまじき行為だと宣言して兵を差し向け駒を殺させた。駒を処刑したことで日本史にも稀にしか例のない天皇暗殺の責任は首謀者である馬子に対して問われることもなくうやむやのうちに不問にふされることになってしまった。
この事件のため任那への外征は中止となったが、馬子は筑紫に派遣されていた将軍達に急使を派遣し、内乱のために外事を怠るなと言って動揺を静めた。

二万の軍隊は筑紫に滞留したままで推古朝を迎え595 年(推古3年)に大和へひきあげることになる。
崇竣天皇が暗殺された現場に居合わせた河勝は蘇我馬子の凄腕を思いしらされた。

 天皇から馬子謀殺の謎をかけられたとき、冷静に逃げたことは一族存続の為にも賢明な対応であったと秘かに胸をなで下ろした。猪を献上したとき 天皇の暗示にうっかり乗って馬子に立ち向かっていたらいまごろは命がなかったであろうと冷や汗をかくのであった。駒の軍団を警護に派遣したのは賢明な判断であつたと思った。駒が犠牲になって蘇我氏対秦氏の紛争を未然に防止することになったのである。

 それにしても天皇を弑逆することを思いつくとはとんでもない悪玉だといまさらのように馬子の悪辣暴虐振りに思いを致すのであった。
同時に彼の心従する厩戸皇子にも皇位継承のチャンスが到来したと秘かに喜んだが即位の時期が問題であると読んでいた。



2005年03月29日(火) 秦   河 勝 連載41

小手子の使者は馬子に訴えた。
「天皇の許へ猪を献上する者がありました。天皇は猪を指さして(猪の頸を切る如くに、いつの日か私が憎いと思っている人を斬りたいものだ)と言っておられました。どうか懲らしめてあげて下さい。それに何をお考えなのか東漢直駒の兵を宮城へお集めになっております」

密告により、天皇が馬子を憎み攻撃しようとしていると判断した馬子は、直ちに東漢直駒を呼んで素知らぬ顔で相談した。
「駒よ。天皇が私に兵を向けて戦を仕掛けてくる用意をしているようだ。どうしたらよいか」
「そんなことがある筈はありません」
「何故判る」
「秦河勝様より要請を受けて天皇の身辺警護のために手勢のものを配置したばかりです」と東漢直駒は何がなんだか判らずに目を白黒させながら答えた。
「そうか。秦河勝の指図で動いたのか。他に何か命令されていないか」
「主上を警護奉れと言われただけです」
「実は天皇が私の首を切りたいと言っていると密告してきたものがいるのだ」
「誰ですか」
「皇后だ」
「ははあ。私が貢物を河上嬪にしか持っていかないので、つむじをまげましたか」
「天皇が私を討つためにお前に兵を集めさせているとも言った」
「それは違います。私は軍政官の秦河勝の指示に従っただけです」
「そういうことか。お前は軍政官の秦河勝と私とどちらが大切だと思うか」
「勿論大臣です」
「それなら、何故宮城へ兵を配置した」
「秦河勝に言われて天皇の身辺をお守りし忠節を誓うためです」
「お前の気持ちは判った。改めて命令する。策は秘なるがよい。兵をいますぐ引き上げよ」
「それはまずいでしょう。天皇に気づかれると騒ぎが大きくなりますし、秦河勝が疑いをもちます」
「成るほど。秦一族を敵に廻すと面倒なことになるな」
「御意」
「天皇を弑逆奉る決心をした」
「恐れ多いことです。逆賊になりますよ」
「私が天皇になるのだ」
「本気ですか」
「本気だ。こんなこと冗談でいえることではない」
「そこまで覚悟されているなら、天皇に気づかれぬことが肝要です。私の兵はそのまま警備させておいたほうがよいでしょう素早く手練を使って一人で行動することが肝要かと思います」
「なるほど。よく判っているな。その役はお前が果たすのだ」
「恐れ多いことでございます。私が逆賊になってしまいますが」
「私は司法権も掌握している。お前を罪人にすることはない」
「どのようにして天皇に近づきますか」
「十一月三日に東国より調を奉納する儀式を催すことになっている。東国は天皇の所領の多い所だから必ず天皇は出席なさるであろう。そこでお前は天皇が着席なされたら、直ちに刀を抜き喉元を突いて弑逆奉ってくれ」
「承知致しました。殺し屋は私の得意とするところです。ところで報酬には何を戴けますか」
「天皇の嬪河上娘をお前の妻にしてもよい。宮城から略奪しても構わない」
「本当ですか」
「本来なら、お前の一族は帰化人だから皇室と縁組することはできない。だが河上娘は我が娘であり皇后ではないが妃であり身分も高い。やがて私が天皇になれば、お前は天皇の娘を妻にもつことになる。帰化人のお前の一族がこの国で繁栄していくためには格もあがることになるのだからよい報酬であろうが」
「有り難き幸せでございます」



2005年03月28日(月) 秦   河 勝 連載40

河勝としては19歳の厩戸皇子が皇位につくためには、崇峻天皇にもう2〜
3年在位していて貰わなければ困るのである。そのためには、強い武力を持った東漢直駒であれば、馬子に命じられた暗殺団が襲撃しても防戦し、天皇を守ることができるであろうという思いと場合によっては天皇を奉じて豪族を糾合し、馬子を征伐できるチャンスが生まれるかもしれないという思惑もあった。

秦河勝の脳裏には天皇家と姻戚関係をもちたがっていた父国勝の遺志が稲妻のように駆けめぐった。今天皇を奉じて蘇我一族に立ち向かったらどれだけの豪族がついてくるだろうかとも考えてみた。現在の兵力、経済力を比較したとき秦氏と蘇我氏とどちらが優位だろうか、経済力では秦氏が絶対的に優位だが兵力では蘇我氏に劣るかもしれない。さればこそ、軍政官の地位を苦労して手にいれ諸豪族に多少睨みが効くようになったのだが、諸豪族は秦氏の実力をどこまで評価しているのであろうか。そこが問題だが、諸豪族を糾合できればあるいは蘇我氏を征伐できるかもしれない。もし蘇我一族を征伐できたら、その時には彼が尊敬してやまない厩戸皇子を皇太子に擁立して、崇峻天皇の次の天皇に推挙するのである。厩戸皇子が即位すれば自分の立場は現在の蘇我馬子のように朝廷のあらゆる実権を掌握できるかもしれない。ここは慎重に冷静に対応しなければならないと心に言い聞かせるのであった。
「私の命令はなんでも素直に聞くだろうか」
「それは忠義一途の者ですから、お上の命令ならなんなりと仰せつけ下さい」と河勝は答えたが、天皇はもしかすると駒に命じて蘇我馬子の謀殺を企んでいるのではないだろうか、そうであれば蘇我一族を征伐するきっかけが出来ると心臓の動悸が高まるの禁じえなかった。
「あの時の先鋒隊か、雨のように飛んでくる矢をものともせずに、血路を開いた働きは見事であった。そのものを配置してくれ」と崇峻天皇は言われた。
 河勝は伝令を飛ばして東漢直駒の手のものを配置した。
 秦河勝と天皇のやりとりを聞いていた妃の大伴嬪小手子は、蘇我の馬子大臣に訴えて、天皇を懲らしめて貰うには絶好の機会だと単純に考えた。小手子は早速馬子の許へ使いを遣わした。



2005年03月27日(日) 秦   河 勝 連載39

 591 年(崇峻天皇四年)天皇の詔によって任那再興軍の派遣が決まり、紀臣男麻呂・巨勢臣猿・大伴連噛・葛城臣烏奈良らを大将軍としてその他の諸氏からも兵を集め、二万余の軍勢が筑紫へ出兵した。ここに名を連ねた各氏族はその殆どが物部守屋との戦で馬子を支援しているので、遠征軍は馬子の呼びかけに呼応したものであり、詔も馬子に勧められて下されたものであった。秦河勝も九州の秦一族に号令して任那再興軍に参加させていた。
崇峻天皇は統帥権さえも大臣蘇我馬子に握られている傀儡政権であった。

592 年(崇峻天皇五年)の冬、秦河勝は飛鳥の橘宮へ厩戸皇子を表敬訪問
した後葛城山の山奥で捕獲した猪を天皇に献上した。
 献上された猪を見て天皇は
「元気のよい猪だね、どこで捕れたのか」と河勝に聞かれた。
「葛城山の山中でございます」
「葛城は蘇我大臣馬子の本貫の地ではないか」
「御意」
「今宵の夕餉には久しぶりに膳部に命じて猪肉の串焼きをつくらせよう」
「光栄至極でございます」
「それにしても、いつの日かこの猪の首を切るように憎い人の首を切りたいものだ」と漏らされた。
「おそれながら、お心のうちは、お漏らしにならぬが賢明かと存じ上げ奉ります。それがし、只今のお言葉、聞かなかったことに致します」河勝はいまただちに厄介な事件に巻き込まれるのは御免だという思いをこめて言った。心の中では天皇は蘇我馬子を成敗したいと考えて、私にそれとなく謎をかけて唆せているなと受け止めていた。
「ところで、筑紫の国へ沢山の軍勢が出征しているので、宮城の護衛の兵士の数が少なくおぼつかない。身辺警護の兵を増やしたいが精鋭の部隊を派遣しては貰えぬか」と天皇もさりげなく河勝に言った。
「東漢直駒という戦上手の帰化人がおりますがその手のものでは如何でしょう」と秦河勝は天皇の腹のうちをさぐるつもりで答えた。
「どのような素性の者か」
「お上も御記憶にあろうかと思いますが、物部守屋の討伐戦の時、新しい武具で装備し、先鋒隊を務めた騎馬軍団の首領が東漢直駒です。武力だけが取り柄の人間ですが、お上に忠義を尽くしたいと日頃申しております」と河勝が答えた。



2005年03月26日(土) 秦   河  勝 連載38

 物部一族が討伐されて間もなく、8月2日炊屋姫と群臣達は泊瀬部皇子に勧めて天皇即位の礼を行った。同じ月に倉梯に柴垣宮を造営したが現在の桜井市から多武峰街道を寺川沿いに遡った山峡にある倉梯の集落は、視界を妨げられる山ふところに位置しており、山々に囲まれたその場所からは、大和朝廷の心の故郷である三輪山の姿は全く見ることが出来ない。まさに幽閉の場所であった。

 崇峻天皇は即位した翌年春三月に大伴糠手連の女小手子を立てて妃とした。 即位したものの、政治の実権から切り離され、馬子の采配によって政治が進行し、異母姉の炊屋姫からは皇太后の立場を楯に何かにつけて、口出しされるので、政治を傍観するしかなく、馬子と炊屋姫に対する反感が鬱積していった。
妃に立てた小手子の父の大伴糠手は連姓の氏族であり、本来皇后を立てられる氏ではない。今では大連の地位からも外され、蘇我氏の手足となることに甘んじている二流の氏族であり、大臣蘇我馬子に対抗していくだけの実力もなく頼りにならなかった。小手子は天皇との間に一皇子、一皇女をもうけたが、次第に天皇の寵愛が薄れて馬子の娘である妃の蘇我嬪河上娘に移っていくのを恨んでいた。それに蘇我嬪河上娘のところへは舶来の香料・衣等の貢ぎ物が頻繁に届けられるのに小手子のところへはそれが無かった。足しげく貢ぎ物を運んでくるのは東駒直という帰化人でいろいろ半島の風俗・習慣等の話を面白おかしくしているらしいと侍女達から漏れ聞くのも癪の種であった。小手子は親の実力の相違がこのように、貢ぎ物にまで影響を及ぼし、天皇の愛情にまでおよぶものかと慨嘆してだけはいられなかった。親に力がなければ皇后という立場を利用して、機会を見すまして実力者である大臣蘇我馬子に命じ、天皇をいさめて貰おうと考えていた。



2005年03月25日(金) 秦   河 勝 連載37

「これは縁起がよい。白膠木は勝軍木ともいい、霊木じゃ」
「おお、それは縁起がよい」と周囲の者も喜んだ。
「司馬達等を呼んでくだされ」
「はい。御前に」
「仏師は参戦しておらぬか。四天王の像を彫ってもらいたいのだが」
「生憎、仏師は参戦しておりませんが、それがしにも仏像作りの心得はあります。やってみましょう」司馬達等が言った。
「非常の時だから、簡単なものでよい。形が出来ただけでよい」

 厩戸皇子は、出来あがった四天王の像を束髪の上に乗せ誓いを立てて言われた。
「この戦は仏法を護るための戦です。持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王よ、我が軍を守り勝利を与え賜え。もし自分を敵に勝たせて下さったら、必ず護世四天王のため寺塔を建てましょう」
 このとき秦河勝も皇子と一緒に願をかけたが、憑依現象は起きなかった。厩戸皇子の超能力の方が秦河勝のそれを凌駕していたものであろう。

「諸天王・大神王たちが我を助け守って勝たせて下さったら、諸天王と大神王のために、寺塔を建てて三宝を広めましょう」と蘇我馬子大臣も誓いをたてて言った。
誓いを立て終わって、士気の高揚した馬子軍は、武備を整えなおして進撃を開始した。

跡見首赤寿が狙いをつけて物部守屋に矢を射かけると見事命中した。榎の木股から落ちてきた物部守屋の首を秦河勝が打ち落とした。これによって物部軍は自然に崩れて兵士は四散した。この戦で物部氏は没落し渋川の邸宅、難波の管理事務所や、支配していた田荘は全て没収された。物部氏が滅亡してはじめて蘇我氏および崇仏派は自由に活動することが出来るようになったのである。

 仏教の興隆を志す馬子は、飛鳥の真神原に本格的な寺の建設を始めた。法興寺(飛鳥寺)である。これより後、飛鳥時代の仏教の中心的存在となる寺である。



2005年03月24日(木) 秦   河 勝 連載36

 泊瀬部皇子を筆頭とする諸皇子の他に、紀、巨勢、膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸豪族が蘇我馬子側についた。大和、河内の主要な豪族うち揃っての軍団編成であった。とりわけ先鋒隊をつとめた大和檜前の東漢氏の軍勢は、優秀な武器・武具で装備された精鋭部隊であった。

これらの軍勢は蘇我氏を中心とし、諸皇子や紀・巨勢・膳・葛城の諸氏から
なる主力軍と大伴・阿倍・平群・坂本・春日の諸氏からなる第二群とに分かれて進軍した。

 主力軍は、飛鳥で勢揃いし奈良盆地南部を西進してから、逢坂越えをして国分から船橋へ出て物部氏の軍に攻めかかった。第二軍は大和川北辺を通る竜田道を越えて信貴山西麓の志紀の地に出て、一気に渋川の物部氏の本拠を横あいから急襲した。

 物部守屋は稲を積んで砦を作り、子弟と奴からなる軍を率いて防戦したが、不意をつかれたために、渋川の本拠を放棄して、北方の衣摺まで後退して戦った。このあたりは泥深い沼のある地帯で馬子軍も攻めあぐんだ。大連の物部守屋は、大きな榎の木に登って馬子軍を俯瞰し、泥沼で足を取られ動きの鈍い馬子軍に雨の如く矢を射かけたし、よく訓練されて戦上手の物部氏の兵達が頑強に戦ったので、馬子軍は三度も退却しなければならなかった。

 厩戸皇子は瓠形の結髪をして馬子軍の後方に従っていたが、味方が三度も退却するのをみて何となく不安になった。厩戸皇子の側には秦河勝と跡見首赤寿(とみのおびといちい)が従い護衛していた。
「大勢がよくない。何か手をうたないとこの戦は負けるかもしれない」と厩戸皇子が言われた。
「仰る通り形勢は、我が軍に不利のようでございます」と跡見首赤寿が同意した。
「この戦に負けると仏の教えは広まらない。仏教を守護する四天王に願をかけよう。誰か、仏像を彫る木を捜してきて欲しい」
 河勝が近くの山へ入ると直ぐ目の前に身丈程の白膠木(ぬりで)が生えていたのでこれを切り取ってきて捧げた。



2005年03月22日(火) 秦   河 勝 連載35

 穴穂部間人皇后はこうして用明帝の喪も明けないうちに義理の子つまり用明帝と蘇我稲目の娘石寸名との間に生まれた多目皇子の妃として嫁がされ佐富女王を生むことになるのである。
詔勅は秦河勝を使いとして佐伯連丹経手・土師連磐村・的臣真噛等の氏族に届けられた。彼らは炊屋姫の詔勅を奉じて両皇子を攻め殺してしまったのである。

馬子に先手をとられ、肝心の穴穂部皇子を失ってしまった物部守屋は孤立
してしまった。これに対し馬子は、物部守屋を攻めるのは今がチャンスと秦河勝を使って、朝敵穴穂部皇子に加勢した物部守屋一族を討伐しようとの檄をとばした。檄に応じて、泊瀬部皇子をはじめとして敏達天皇の子の竹田の皇子等が参戦した。

 秦河勝は馬子の檄文を携えて飛鳥へ赴き厩戸皇子と出会ったときのことが忘れられない。
「物部守屋討伐の檄を預かって参じました」と河勝が言った。
「このたびの戦の大義名分は何か」と厩戸皇子は質問したが、14才とは思えない風格があり、威容辺りを圧する荘厳さを備えていた。
「伯母上にあたられる炊屋姫が出された、穴穂部皇子を討伐せよとの詔勅でございます」
「穴穂部皇子は征伐されたではないか」
「御意。しかしながら朝敵に加担した大連物部守屋が討伐されておりませぬ」
「皇位継承の争いが原因か」
「御意。もう一つ崇仏か排仏かの争いに決着をつける意味もあります」
「大連物部守屋は排仏を唱えているのであったな」
「御意。仏法の教えを広めるためにも大連物部守屋は討伐せねばなりませぬ」
「おことは崇仏か排仏か」
「内国神も認めた上での崇仏の立場でございます」
「仏像を拝観したことがあるか」
「ございます」
「それは何時のことか」
「子供の頃と、つい最近のことですが蘇我大臣の向原のお屋敷で二度程拝観
したことがございます」
「それでは仏の教えの神髄は何か」
「恥ずかしながら判りません」
「一つだけ教えよう。捨命と捨身とは皆是死也」と厩戸皇子が言ったとき、河勝には言葉の真意は分からなかったが、厩戸皇子の姿が神々しくみえ思わず手を合わせた。この時河勝に憑依現象が起こった。手足が震え顔がこわばると、耳の奥で声が聞こえた。それは遠い昔、大原の桜の木の下で聞いた先祖霊の言葉と同じ声音であった。
「汝の臣従すべき皇子が今姿を現された」と

 



2005年03月21日(月) 秦   河 勝 連載34

物情騒然となってきた中で物部守屋側には物部一族の他に大市造・漆部造の一部等が加わってきた。一方蘇我馬子側には大伴比羅夫が手に弓矢と皮楯を持って馬子の身辺警護にあたった。このように緊迫した状況の中で、用明天皇の病気は進み豊国法師らの懸命な治療と祈祷の甲斐もなく587 年(用明2年)4月に崩御した。天然痘の業病であったので早々に磐余池上陵に葬られた。

次の天皇は用明天皇の甥であり皇太子である押坂彦人皇子が有力であった。

しかし皇室に関しては兄弟相続が過去にも例が多かったので、堅塩媛系の用明天皇の次は小姉君系の皇子を支持する氏族も多かった。この空気を察して守屋は小姉君系の穴穂部皇子を擁立して即位させよう調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここにまた堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。

この動きに同調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここにまた、堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。

蘇我馬子が物部守屋に勝って権勢を保持するためには、崇仏の念の強い姪の炊屋姫に取り入って穴穂部皇子の失脚を狙わなければならなかった。その妙案が穴穂部皇子の同母弟にあたる泊瀬部皇子を皇位継承者として擁立し小姉君系の結束を揺さぶり、分裂させることであった。

「皇太后には兄上の先帝がお隠れになってお寂しゅうございましょう。心よりお悔やみ申し上げます。ところで穴穂部皇子が皇位継承者として大連物部守屋と共謀し兵を集めているのをご存じでしょうか」と大臣の蘇我馬子が眠ったような顔をして言った。

「聞いています。またあのづうづうしい皇子が性懲りもなく画策しているのですか。宅部皇子までが同調しているというではありませんか、困ったものです。竹田皇子はまだ幼少で帝には無理だろうし、厩戸皇子も聡明とはいえこちらも幼すぎるし」と炊屋姫が言う。

「そこでございます。あの目立ちたがり屋で、粗野な穴穂部皇子が天皇になれば、後は小姉君系の皇子に皇位は盥回しされて、竹田皇子や厩戸皇子が成人されてもそのチャンスは失せるでしょう」と馬子が唆す。

「何か良い方策はないものでしょうか」と炊屋姫
「私に妙案があります」と馬子
「是非聞きたいですね」
「穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅を下して戴くことです」
「理由は」

「皇太后に対して不敬の振る舞いがあったということと、先帝の寵臣三輪逆を物部守屋に命じて殺害させたということで十分でしょう」
「それでは、次の天皇は誰にするのですか」
「泊瀬部皇子です」
「小姉君の皇子ではありませんか」
「竹田皇子や厩戸皇子が大きくなられたときのためです」
「厩戸皇子は小姉君系でしょう」と炊屋姫

「いかにも、しかし同時に堅塩媛系でもあります」
「判りました。用命天皇が亡くなられて、穴穂部間人皇后はまだお若いのにお気の毒です。多目皇子の妃として輿入れさせようではないですか」と炊屋姫が澄ました顔で言った。心の中では美貌の誉れ高い穴穂部間人皇后にこれで辛い思いを味わわせることができるのは痛快なことだと思っていた。
「少し残酷ではないでしょうか。多目皇子は穴穂部間人皇后の義理の子にあたられるのですよ」と馬子

「多目皇子は亡き用明帝にそっくりの顔形をしておいでです、穴穂部間人皇后の寂しさを紛らわすのには良い考えだと思いますわ」

「成るほど。厩戸皇子が成人した時の用心のため、皇太后としての力を蓄えておかれるおつもりですな。穴穂部間人皇后には私から話しましょう、その代わり穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅は戴けるのでしょうな」

「そうしましょう」
 


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