前潟都窪の日記

2005年06月20日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂8

明和五年(1768)24才のとき五月には御手許御用奥詰めを仰せつかり、御留方を加役された。政香と兵右衛生門の水魚の交わりはいよいよ深まり、理想実現に向かっての二人の議論はしばしば行われ、時には難解な哲学論争に及ぶこともあった。
「兵右衛門よ、人間の本質をどのようなものとしてとらえるか、とりわけその本性をどのようにみるかについて議論してみようではないか。その見方次第によっては治世のやりかたが変わってくると思うからだ」
 と政香が日頃の勉学の成果を復習するつもりなのか今日はいつもと口調が違っていた。        
 兵右衛門は改めて人間の本性はと問われると性善説とも性悪説とも決めかねるところがあった。ただ人間の本性は善でもなければ悪でもないとする告子の説に最近興味を持っていたので主君がこの難しい哲学的な課題に興味を示したのをよい機会と捉えて主君自体の考えを確かめておこうと思ったし、このさい性善説と性悪説について復習しておくのもよかろうと思った。
                                                                    「つまり性善説か性悪説かということですか」
「そうだ。そちはどちらの立場をとるのか聞いてみたい」
「それがしは時と場合によって、ある時は性善説であるときは性悪説です」
「それでは議論にならないではないか」
「人の性は半分が善であり半分が悪だと思っております」
「お互いの理解を深めるために今日は儂が性悪説にたつからそちは性善説の立場にたって勉強の成果を試してみようではないか」
「殿がそう仰るなら仮に性善説の立場にたつことにいたしましょう。殿も仰ったように諸氏百家の学説の復習を兼ねて理解を深めるということで論じますから殿が既にご存じのことを喋ることもあると思いますが本日の討議の趣旨から御容赦願います」
「勿論望むところだ」
                                                                    



2005年06月19日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂7

「人事にまで下の者の意見を反映させようとなさったのですね。とても勇気のいることだと思います」
 と磯之進は家臣達の性を善とみる光政公の人間観に今までにない斬新さを感じるのであった。

「孝道と義道の実践を奨励するため村々で評判の孝子や烈婦を推薦させて彼らに褒美を下されてもいる。実に光政公はきめ細かなところにまで心を配っておられるのじや」
「領民の心をせき立てて徳ある行為に赴かせようとされているのですね」
 と領民の動機づけまでを考えている光政公に理想の君主のイメージを見る思いで磯之進は政香の熱弁に聞き入っていた。
 またこのときの話の続きとして次のようになことも政香は言った。
「ある人が備前には光政公の教えが残っていないと言ったそうである。だが何をもってそう言うのだろうか。備前には閑谷校という藩校もある。祖先を祭る芳烈祠もある。その上閑谷校で行われている学問は正統なもので他藩の及ぶ所ではない。最終的に光政公がお考えになっていたのは家中の者が単に博識者になればよいなどということではなかった。人の踏み行うべき正しい道を知り、人の人たる道理を十分に弁えて良い藩士・領民になって欲しいと願っておられたのだ。だから藩校の教育方針も世間でとやかく言われているほど中国趣味に片寄ったものではない。聞くところによるとあの有名な足利学校でさえ、今では僧侶が全てを取り仕切っているらしい。そうであるならこれは本来の学問が歪められていると言わざるを得ない。つまり学問は何も仏教界のみのためにあるのではなく、道理を知って人の人たる道を尽くして良き士となれと願う、儒教の根本理念を実現するものとして存在べきものであろうと儂は考えている」

 別の日の夜、磯之進他の側近の者に次のようにも語った。
「そもそも人間は万物の霊長であって、天と地と並んで三才と呼ばれているものであるが勝手気儘をして、人の踏み行う正しい道を知るための学問をしなければ禽獣と同じだ。我々鴨方支藩の者が不肖の身で二万五千石の領国を先祖より受け継ぎお預かりしているのは分に過ぎた事である。しかし、一旦こうして一国を預かっている限りは光政公の言われたように、領民を飢えさせてしまっては死罪になっても贖いきれないという言葉を一時も忘れてはならない。だからよく学問をし明徳の道を明らかにして光政公が手本を示された通りのことをしなければならないと考える」

 このような藩祖光政の経世済民の実学を基本として善政を敷こうとした情熱は熱い血潮となって蘇り、若い藩主政香の体内を経由して磯之進へと流れ込みその心臓の鼓動を昂らせるのであった。いわば兵右衛門の宿志となって心の中に大きな位置を占めるようになっていった。
                          



2005年06月18日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂6

五.理想実現に向けて若き藩主を補佐                                                          
 宝暦11年(1761)磯之進17才のとき藩主の政香が従五位の下に叙せられ、内匠頭に任じられたのは磯之進にとっても嬉しい慶事であり、政香の仁政実現の理想にますます共鳴するのであった。

 翌12年には正月に御前で頭分を仰せつかり主君のために忠勤に励まなければと更に決意を固めたのだがこの年より、主君に倣って我流ではあったが絵を描く勉強も始めた。主君と同じ心境になって治世を補佐するためには主君のなされることはすべて経験する必要があると判断した結果である。このように全身全霊を傾けて主君に忠勤を励もうとする磯之進であった。

 明和三年(1766)十月十二日藩主政香は磯之進はじめ近習に次のように語った。
「儂は光政公を敬慕しているので、最近その考え方を勉強しているのだが光政公は治世のありようの基本を次のように考えておられるようだ。将軍は日本国中の人民を天から預かり、藩主は一国の領民を将軍から預かっている。家老と家士とはその藩主を補佐してその領民が安んじられるように計らなければならない。一国内の領民が安んじて生活できるか不安を抱いて生活するかの責任は一にかかって一国の藩主にある。たとえ一人であっても領民を困窮させるようなことがあると、結果的には将軍一人の責任となる。藩主は決してそのようなことにたちいたらせてはならない。そのようなことにでもなれば、将軍に対しては不忠となり、領民を困窮から救えなかったという点で不仁になる。このことによる藩主の罪は死をもってしても足りない位重いものである。だから学問をして自己を修め、民を安んじせしめることを実行しなければならない。もしも自分に悪いところがあれば、遠慮なく諌めて欲しい。怠慢だと見えたら激励して欲しい。皆を頼りにしていると仰ったの だ。儂はこの光政公のお考えを肝に命じて治世にあたりたいと思う」

「素晴らしいお考えだと思います。ところで光政公の治世の中で具体的な施策にはどのようなものがあったのでしょうか」
 と磯之進が聞いた。
「例えば承応三年(1654)の大洪水の時の藩を挙げての大救済事業がある。この洪水は藩始まって以来未曾有の大災害であった。災害の規模で言うと、流失、倒壊、破損した家屋は士屋敷、徒・足軽屋敷、町家、農家合わせて3739九戸、冠水により荒廃した田畑の石高一万1360石、流死者156人、流死牛馬210匹という大きなものであった。これに続いて引き起こった大飢饉で餓死した者は3684人にも達した。
 このとき光政公が処置された緊急対策は先ず第一に藩の米蔵を開放して一粒の米も残らないように放出されたことである。次に不足の分は他国米を買い入れたり大阪蔵屋敷の藩米を取り戻して一国の内一人たりとも困窮する領民がないようにと手を打たれた。更に第三の対策として藩役人の手で飢人調査を実施し、できる限りの米銀を支給された。この対策で翌年の一月から四月までの間に一人一日あたり一合の基準で支給された飢扶持の人数は20万6752人にのぼり、その扶持米は一日当たり206石に達した。
 復興対策としては、先ず普請及び救済用の経費として銀一千貫を上方町人から借用された。次に義母である天樹院の斡旋で幕府から金四万両を借用された。このとき復興のために要した夫役は約九十万人にものぼる大事業であった。更に洪水の予防対策として百間川を開窄された。この御仁政は未だに領民の間で語り継がれている」

「家臣や領民の苦しみを自分の苦しみだと受け取っておられたのですね。領民を慈しむ君主としての仁徳が偲ばれる事例ですね」
「その通りだ。更に凄いと思うのは、この時救済された農民に対して忝じけながらせることを厳禁し、藩主として当然のことをしたまでだと言われたことだ。この例を聞いただけでも儂が光政公を手本にしたいという意味が判るだろう。また寛文八年(1668)には百姓が代官に盆、暮れに付け届けをする慣行を禁止されるとともにその他一切の付け届けも禁止された。本来、贈答の品というのはお世話になった人へ感謝の気持ちを形として表すという意味から発生したもので、礼儀にかなっているものであるが、最近では本来の意味が失われて利益誘導のための手段として用いられるようになった。悪い心の者は自分の為に利益になるように年貢を少なくして貰いたいと思って代官に過大なお歳暮やお中元を贈ることになるし、貰う方でも贈り者の多い方へ有利な取扱いをするようになる。このような悪しき行為が行われないように付け届けを禁止されたのだ。人情の機微にまで立ち至って、不正、不公平の出来ない仕組みを作ろうとされたのだ」

「なるほど、人の心の奥底までも読み取られて不正や不公平の原因となりやすい贈り物という習慣を禁止されたわけですね」
「天和二年には人身売買を厳禁し年季奉公の期間を十年以内に制限して弱い立場にある領民を保護しようとされている」

「領民の内から一人でも不幸な者をださないという仁政理念の発露ですね」
「その通りだ。まだまだ沢山事例はあるが、凡人ではなかなか思いつかない例を幾つか拾いだして要点だけをあげてみることにしよう。その一つは仁政を実現するためにはどのようにすればいいかを藩士に提案するよう求め、意見を書き上げさせるというような思い切ったこともなされたことだ」

「藩士の考えを汲み上げて治世に生かしていこうというお考えですね。これは自らの考えの足りない所は藩士の助けを借りようというお考えですから、無能のくせに権威ばかりを重視するような為政者にはとても真似のできない英断ですね」
 と磯之進が相槌をうつと
「そう思うだろう。儂は自分も余程修業しなければそこまでの境地になれないのではないかと身の引き締まる思いで光政公の偉大さを感じている。また次のようなことまでなされている。藩政を任せるのに適任だと思う者を藩士に投票させてこれを選任されたりもしておられるのだ」
 と政香の説明にも次第に熱気がこもってくる。



2005年06月17日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂5

 年齢が一才しか違わないという親近感もあったであろうし、真面目に人生に立ち向かっていこうという意気込みがお互いの琴線を刺激しあったのか二人の間には水魚の交わりの如き関係が発生した。

「磯之進、儂は若くして藩主になった。まだまだ勉強しなければならないことが沢山あるが、堯・舜の時代のような理想的な治世をしたいという夢を持っておる。それには先ず治世の根本理念を大学に言う所の修己、治人に置かなければならないと考えている。そのためには明徳を明らかにし、民を新たにし、至善に止まるよう励まなければならないと思うのだ」
 と、政香は御側詰めを仰せつかって初めて出仕した磯之進へ所信を表明した。
「はい。新しい藩主に対して領民達は仁政を期待していると思います」
「そこで、身近な手本として藩祖光政公の治世の理念と事跡を手始めに勉強してみるのがよかろうと考えている。それは光政公が僅か八才で因幡、伯耆両国の領主に封じられてから国を治める要諦は何かと苦慮された末、儒学の勉強をされて、仁政以外に術がないとの結論を得られたからじゃ。事実光政公は仁政を施され優れた実績を挙げられているからその跡を辿ってみるのは有意義なことだと思っている」
「仰る通りだと思います」

「光政公が五才のとき家康公にお目見えしたときの逸話を聞いたことがあるか」
「いいえ、不勉強でございまして未だ・・・・・」
「家康公が光政公を膝元近くへ召して引き出物に脇差しを与えられてから髪を撫でながら<三左衛門〔輝政〕の孫よはやく成長されよ>と言葉をかけられたそうじゃ。そのとき光政公は拝領した新藤五の脇差しを取り上げすらりと抜いて、じっと見つめてから<これは本物じゃ>と言われたという。このとき家康公は<あぶない、あぶない>と手ずから鞘におさめられて光政公が退出されてから<眼光のすざまじき、唯人ならず>と感嘆されたという逸話が伝わっておる」

「天性明敏な資質をお持ちだったのですね」
「更に光政公が十四才のとき儒学を始められたがそのときの逸話を聞いたことがあるか」
「いいえ、恥ずかしながら存じません」
「光政公が夜、寝所に入っても寝つかれず睡眠不足が続いているので、近侍の者が心配してその理由を聞いたが返事をなさらなかった。ところがある夜から熟睡されるようになったので再びそのわけを聞くと、次のように答えられた。< 先祖から大国の統治を任されたが自信がなくどのようにして領民を治めればいいのだろうかと考えを巡らせているとどうしても眠ることができなかった。ところが昨日板倉勝重から論語の進講を聞いているときに大国の領主としては特に寛仁の徳が必要だと諭された。自分でも心に奮い立つものを感じて〔君子の儒〕となって領民の教導・安定化を計ろうと決意した。それからは熟睡できるようになった>ということなのだ」

「基本理念を模索されたのですね。そして非常に固い決意を持たれたのですね」
「それから、また次のような話も伝わっているのじゃ。十五才のとき京都所司代の板倉勝重に治国の要道を尋ねられたことがある。そのとき勝重は四角な箱に味噌を入れて丸い杓子で取るようにすればよかろうと答えた。すると光政公は暫く考えられて箱の隅にある味噌へ杓子が届かないのをどうすればよいかと不審を抱かれた。そこで勝重は光政公のような明敏な君主はおそらく国中を隅々まで罫線をひきつめたように統治しようと思われるだろうが、大国の政治はそのような厳密なやり方だけでは収まらぬと考えて先程のように答えたが、予想通り不審を抱かれた。国事は寛容の心をもって処理せねば人心を得ることは難しいものであると諭して勝重は落涙したというのじゃ」「寛容の心の機微についても悟られるところがあり、寛仁の徳を実践しようと決意されたのですね」
「その通りだ。それからの光政公は正月の書き初めにも好んで儒道興隆、天下泰平の八文字を書かれるようになった」

「現在の藩学は表向きは朱子学になっておりますが、光政公も始めは陽明学だったと聞いておりますが」
「その通りだ。光政公は日本で最初の陽明学者中江藤樹先生に私淑され、中江先生をお迎えしようとしたが果たさなかった。しかし手紙の頻繁なやりとりで議論をされ参勤交代で上府の折り大津の旅宿へ先生をお招きして清談を交えておられるし、先生の長子中江左右衛門、次子弥三郎を初め熊沢蕃山、泉八右衛門、中川権左衛門、加茂八兵衛門が来藩して光政公の陽明学修業は奥義を究めるまで進んだのじゃ。そして池田藩の陽明学は天下にも有名になった。特に熊沢蕃山先生を重用され治世にも実績をあげられた」

「光政公は何故そのようにまで陽明学に惚れ込まれたのでしょうか」
「陽明学の説く心即理、知行合一、致良知という考え方が魅力的だったからだと思う。つまり万物存在の根本は心にありとする心即理の一元論を基本として理論を組み立て、人間の心には先天的に是非善悪を判断できる作用すなわち良知が備わっており(致良知)、まず行ってしかるのち知るべきことの必要(知行合一)を説いているから、朱子学よりも実践的だと判断されたのだろう。それに対して朱子学は性即理、先知後行、格物致知という考え方であり、今一食い足りないものを感じられたのではなかろうか。つまり天地万物は気によってなっているが、万物を正しくあらしめるものは理である。自然法則も道徳規範も同一の理であり(性即理)、この理を窮めることによって事物の本体、人間の本性が明らかになり(格物致知)、かくて精神の修養も倫理の実践もできる(先知後行)と説いているのだ」

「いずれの学派でも修養によって聖人の域に近づき仁政を行うことを目標にしていることではたいして変わりはないと思うのですが」
「どちらかといえば朱子学が合理的客観性を重視するのに対して陽明学は心の内的契機と実践性を重視しているということが言えると思うよ」

「ところで、光政公は藩学を何故陽明学から朱子学へ変更されたのでしょうか」
「光政公の熱心な陽明学修業に対して謀叛の下心ありとの風評が立ち政治問題になったことがあるのだ」
「そんな馬鹿な」
「ところが世の中には妬みや嫉みがつきもので、大老の酒井忠勝様が自分ではあまり学問が好きでなかったものだから、光政公の篤学の評判を苦々しく思い大勢の陽明学者や家臣を集めて派手に研修会を開くのは如何なものかもう少し控え目になされてはと警告してきたり、京都所司代の板倉重宗が光政公の政治的立場を心配して研修活動の自粛を忠告してくるということがあった」

「世の中はなかなか難しいものですね」
「そんなことで信念を曲げられるような光政公ではなかったが、悪いことにたまたま江戸で浪人別木庄左衛門一党の陰謀が露顕するという事件が発生した。詮議の過程で謀叛心を抱く大名として紀伊、尾張、越後、相模、筑前の諸公の名前とともに、光政公の名前も入っていた。特に光政公に対しては逮捕された一味の一人が光政公の陽明学については表向きは儒者を装っているが内々では謀叛心を抱いていると讒言したのだ」
「悪い奴がいるものですね。それで結果はどうなりました」
「光政公に代わって子息の備前藩主綱政様と弟の播磨宍粟領主恒元様が閣老の訓戒を受けただけでそれ以上の嫌疑をかけられることはなかった。しかしこの事件がきっかけとなり酒井大老や御用学者の林道春らの干渉が厳しくなってきた。そこで光政公も事態が切迫してきたので、表向きは藩学としての陽明学を禁止したが家老達の自主的な修学は例外として意地は通された」

「御自分で修学された陽明学の信念に基づき仁政を敷こうとされる強い意思をお持ちだったのですね」
「ところがこのような幕府の陽明学に対する抑圧にあって、時勢随従型で見識のない家臣達の間に陽明学を見放して朱子学に転向する者が続出してきだした。そんなとき、たまたま熊沢蕃山先生が落馬して右手を怪我して軍務に耐えられなくなって致仕し、備前を立ち去るということがあった。この間備前にいた陽明学者達が次々病没したりしたこともあって備前の陽明学の担い手がなくなってしまった」

「それで朱子学者達が来藩して朱子学に代わってしまったのですね」
「それに蕃山先生の意見が光政公と次第に合わなくなってきていたことも見逃せない。蕃山先生は致仕後も藩政に対する様々な批判や諫言を綱政様へ手紙で書いてきておられるが所論に反して言行不一致があったり、高慢になってきて光政公が不信を抱くようになってきていたことが窺えるのだ。そんなことで光政公が従来の方針を変えて朱子学を藩学として認知されたということではなかろうかと理解している」
「御賢察だと思います。陽明学によろうと朱子学によろうと領民を教化して堯・舜の理想的な仁政を行う事を両派とも最終的な目的としているのですから」
意気のあった理想に燃える若い二人の会話は時間の経つのも忘れて続く。



2005年06月16日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂4

四.藩主政香と水魚の交わり


 浦上玉堂は延享二年(1747)、前述のように父浦上兵右衛門宗純が54才で母茂が40才のときの第四子として岡山市石関町天神山の鴨方藩邸で生まれた。父は鴨方藩主池田政倚に仕える家臣であり、母は三百五十石取りの岡山藩士水野七郎左衛門の娘茂であった。幼名市三郎のち磯之進を名乗った。鴨方藩は独自の支配統治機構は持たず屋敷を岡山に置いており、備前鴨方には領地だけがあった。

 宝暦元年二月五日、父宗純は60才で岡山市内の鴨方藩邸宅で静かに黄泉の国へ旅立った。あとには市三郎と母親茂の二人だけが残された。市三郎は七才であった。家族としては母子二人だけの寂しい野辺の送りを済ませると市三郎は家督相続を藩に申請し三月に許可された。と同時に初代藩主池田政言の側室お常の方が市三郎の大伯母にあたるという特殊な姻戚関係が配慮されて御広間詰めを仰せつかった。

 市三郎は出仕すると公務が執り行われる表御用部屋の片隅に控えて、なにかれとなく雑務を言いつけられては走り廻っていた。名前を呼ばれたときには大きな声で返事をし、目を輝かせて命令を受け復唱してから、きびきびした物腰で走り去る小さな後ろ姿には気品さえ感じられた。言いつけられたことは直ちに実行し、例え小さなことであってもその結果を必ず快活な口調で報告する態度は礼儀にかなっており、並みいる大人達をしばしば感心させていた。その立ち居振る舞いには賢い母親の躾けが偲ばれた。初学者用に編纂された小学という礼儀、修身の書を九才のときに初めて読んだと後日述べているように母の教えを自らも学問的に深めていこうという向学心が旺盛な少年であった。

 先ず、学問についてみると、10才のとき藩校への入学が許され学問に励んだ。言わば働きながらの就学であったが、真面目に学業にも勤務にも励んだ優等生であったことが「備陽国学記録」の記述によっても窺い知ることができる。即ち、14才のときには平生行儀のよい学生だけが出席できる夕食会に選抜されているし、15才のときには詩を学んでいる。そして16才のときには既に大生となっている。23才では平生怠りなく授業に出て聴講し勉学に精勤した者として表彰されているのである。

 次に、勤務についてみると、宝暦七年(1757)僅か13才の年少であるにもかかわらず、三番町にある吉田権太夫跡の家屋敷を拝領できるほどの働き振りを示している。
 宝暦十年(1760)16才のときには、藩主政方逝去の跡を三月十日政香が襲封したのであるが、その年七月九日磯之進(この頃には市三郎から磯之進に名乗りを変えていたと思われる)は新藩主に初のお目見えをした。同年九月二日には前髪を切って元服し翌三日から御広間御番として出仕した。そして九月二十一日には御側詰めを仰せつかって藩主政香に近侍することになった。このとき磯之進16才であり、政香は17才で主従共に純情多感な青年であった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    



2005年06月15日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂3

 三.家系

「儂がもの心ついた八才の時に父宗明は亡くなったのだけれど、丁度今儂がお前に話しているように病床の枕頭で儂は父から浦上家の系図を渡され、先祖のことを聞かされたのじゃ」

 翌日市三郎が母とともに宗純に呼ばれて枕頭へ正座すると一巻きの系図を手渡してから父の宗純はこう切り出した。

「遠く遡上れば浦上家の始祖は竹内宿弥(たけしうちのすくね)なのじゃ。この方は第八代天皇孝元天皇の皇子、比古布都押之信命(ひこふとおしまことのみこと)と山下影比売(やましたかげひめ)の間に生まれた御子で長寿を全うし、景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に忠実に仕えられたそうじゃ。この方の末裔に紀貫之がおられる」
「あの三十六歌仙の歌人ですか」

 歌の心得のある茂が興味ぶかそうに口を出した。
「そうじゃ。土佐日記の著者としても有名な御仁じゃ」
「それでは学問がよくできるように紀貫之にあやかって、市三郎にも紀姓を名乗せてもいいのでしょうか」
「差し障りはなかろう。むしろ紀貫之も前途有為の末裔が出てきたものじゃと喜ばれることだろう」
「この紀貫之から二十二代の裔にあたる七郎兵衛行景が播州浦上庄を領した時、当時、播磨、美作、備前三国の守護であった赤松則祐に仕えたそうだ。赤松則祐は室町幕府でも侍所の所司となり四職家の一つとして重きをなした名門の武家なのじゃ」

「それでは、その頃浦上の姓がうまれたのですね」
「そのとおりじゃ。行景以降代々浦上氏を称して室町時代末の戦国時代に備前和気の天神山城に拠って備前、美作、播磨三国に武威を奮った浦上宗景という優れ者が出たのじゃ」
「その後はどうなりました」
「ところが、弱肉強食で下克上の戦国時代の中で、家臣の宇喜多直家が力をつけてきて、浦上家の家臣の中で筆頭の地位をしめるようになったのじや。そのうち、野心家の直家が権謀術策を弄して謀叛を起こし、天正五年(1577)には天神山城を攻撃してきたのじゃ。ところが、直家の調略によって宗景の重臣であった明石飛騨守景親父子、延原弾正忠景、岡本五郎左衛門龍晴らが主家を裏切り直家方についたので数日間の攻防の末あっけなく落城してしまったのじゃ。宗景様の無念が偲ばれよう」

「宗景様はその後どうされたのですか」
「一旦は播磨へ逃れ何回も再興を画策されたが成功せず、最後は頼っていた黒田官兵衛の転封に従って筑前へ下って80才の天寿を全うされたのじゃ。この宗景様のあと浦上小二郎、浦上備後守宗資と続き、浦上松右衛門宗明が黒田氏の庇護を離れて姉の常女と共に江戸へ上り昨日話した経緯を経て池田藩へ仕えることになった次第なのじゃ。名前に宗がつくのは宗景様の武勇にあやかりたいという意味があるのじゃ」

「紀之貫といい浦上宗景といい歴史に残る先祖を持っていることを誇りに思います」
「お前には於繁、於千代という二人の姉と富太郎という兄があったが、於千代と富太郎は生まれて間もなく死んでしまった。長女の於繁はお前も知っているとおり昨年、22才の若さで流行り病に罹って逝ってしまった。儂が死んだら後には母上とお前だけになってしまう。これも運命だから致し方なかろう。そこで母上の教えをよく守り、体を鍛え勉学に励み、主君に忠義を尽くさねばならぬ。そして名門の浦上家の繁栄を図って名を残して貰わねばならぬ」

「お言葉しかと肝に命じます」
「お茂も残るのは市三郎だけになるが幸いこの子は体も丈夫だし利発な子のようだから、学問に励ませ政香様のお役に立つ人物に育てて欲しい。後をよろしく頼む。儂らの若かった頃は武芸第一じゃったが、時代が変わりこれからは学問で身をたてる世になると思うからくれぐれもそのことだけは心して励んで貰いたい。儂がお前達に最後に言いたかったのはこのことじゃ」



2005年06月14日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂2

 二.池田家との関係

「市三郎、儂はもう長くは生きられないと思うのでこれから話すことは父の遺言だと思ってよく聞くがよい」
 と父の浦上兵右衛門宗純が吸呑みの薬草湯を飲んだ後、仰臥のまま窶れはてた細い両手を胸の上で組みながら言った。宗純は胃癌を患って三月ほど前から病床にあった。宝暦元年(1757)一月、後の名は浦上玉堂で幼名を市三郎といい、歳は7才、父宗純は60才で、雪の降る寒い日のことであった。

「何を仰いますか。精のつく物をたんと召し上がって養生を続けられればきっと快復なさいますよ」
 と病人の枕元に正座していた市三郎は慰め言を口にしたが、心の中では父の死期が旬日に迫ったかと愕然とし、父の話を一言も聞き漏らすまいと畏まっていた。
「いやいや、儂にはお迎えが近くまで来ていることがよく判る。盛者必衰、会者定離はこの世の定めなのだ。決して悲しいとも無念だとも思っていない・・・・・・・・・・・ところでお茂」
 と傍らに座っている妻お茂の方へ視線を移しながら言った。
「はい。病は気からと申します。気を強くお持ちなさいませ」
 と夫の容態を気遣いながらお茂は言った。このときお茂は47才であったから市三郎は両親が年とってからの所謂恥かきっ子であった。
「市三郎は親の欲目から見ても利発な子だと思う。しかしまだ7才でなにしろ幼い。儂が死んだらお茂には苦労をかけることになるかと思うがこの子をよろしく頼む。さて、お前達に話しておきたいことが三つある。最初に藩主政言様に対する御奉公のことじゃ。次に浦上家の先祖のことじゃ。最後にこれからのお前達の行く末についてじゃ」
 と言って静かに目を閉じると諭す口調で語り始めた。

「前の藩主池田政倚(まさより)様は私の甥にあたるので、とても可愛がって頂いて非常に大きな御恩を受けた。御恩返しをしなければと影日向なく忠勤に励んだつもりだが、浅学非才のため殿様の御期待に応えるだけの充分な御恩返しができないままに殿は四年前の元文三年(1747)に亡くなられた。殿は晩年に嫡子の政香様が御幼少だったので池田由道様の次男政方(まさみち)様を養子として迎えられ、政香様の後見を託された。殿御逝去と共に政方様への家督相続が幕府に認可された。そして現藩主政方様は政務の傍ら政香様の後見をしておられるが、お気の毒なことに病弱であらせられる。恐れ多いことではあるが万一のことがあれば政香様が家督を譲られることになろう。政香様はお前よりは一才年上で、英邁な方だから優れた藩主になられるであろう。ゆくゆくはお前はこのお方に忠勤を励んで藩の発展を図らねばならぬ」
「父上が前の藩主池田政倚様の叔父にあたられるとは存じませんでした」
「前の藩主池田政倚様の実母であらせられる於常の方は儂の父宗明の姉、つまり儂の伯母にあたる方なのじゃ。そなたからは大伯母にあたられる」
「そうでしたか。ちっとも知りませんでした」
「私もこのことはまだ市三郎には話しておりませぬ」
 とお茂は弁解するように言った。
「さればこそ、儂の命あるうちに二人の前で言い残しておかねばならぬ」
 と言いながら胃の腑が痛むのか顔を顰めた。

「儂の父浦上宗明とその姉の常女の二人の姉弟が筑前黒田藩の庇護を離れて江戸へ上がってきたとき、鴨方支藩の始祖池田政言様は池田光政様の嫡出の次男でまだ部屋住みの身であったが父君が参勤交代で上府されたときお供されて江戸屋敷で武芸に励まれていたのじゃ。世話する方があって姉の常女は江戸池田屋敷の奥女中として奉公にあがったのだが、生来賢く美貌で性格の良かった常女は政言様に見染められて側室になられたという次第じゃ」
「その縁でお祖父様の宗明様も池田家へご奉公することになったのですね」「結果としてはそうなったが、それには時間がかかった」
「何故ですか」
「藩祖の光政様が英明な藩主で勤倹奨学を旨とし新規の召し抱えは厳禁されたからじゃ。それには慶安四年(1651)の由井正雪の乱も納まって天下は安泰になり幕府の威光が全国津々浦々まで行き届くようになったということもある」
「尚武より奨学ということですね」

「その通りじゃ。兵乱に備えて浪人を召し抱えるよりは陽明学を奨励し知行合一の実を挙げていくことのほうが大切だと考えられたのじゃ。更に光政様が寛文七年(1667)に日蓮宗不受不施派を厳禁されたこともお召し抱えが遅れた理由の一つじゃ」
「それはまた何故ですか」
「浦上家では不受不施派ではないにしろ、先祖代々日蓮宗であったから、姻戚関係があるとはいえお祖父様の宗明を例外的に扱うわけにはいかなかったのじゃ」

「不受不施派とは何ですか」
「不受とは法華宗の寺や僧が他宗からの布施供養を受けないということであり、不施とは信者が他宗の寺や僧に布施供養を捧げないということなのだ。このことを絶対守らなければならない教えとしている日蓮宗の一つの宗派のことなのじゃ。この教えをつきつめていくと天下人といえども法華宗を信仰する信者の気持ちを曲げることはできないということになり、そこのところが藩政にとっては具合がわるいのじゃ」
「なるほど。そのことは判りました。では何時から浦上家は召し抱えられたのですか」
「新藩の鴨方藩が出来て寛文12年(1672)に政言様が初代藩主に分封されたときからじゃ」

「お祖父様は改宗されたのですか」
「いや、そうではない。光政様が隠居なさって家督を綱政様に譲られると同時に次男の政言様と三男の輝録様に備中墾田をそれぞれ二万五千石、一万五千石ずつを分与され鴨方支藩、生坂支藩を創設されて表向きの治世には口出しをしなくなられたからじゃ」
「つまり政言様が新藩主として新しくお祖父様の浦上宗明を召し抱えることについては、隠居だから支藩のことにまでは口出しされなかったので改宗しなくて済んだ」
「そういうことだ」

「それまでお祖父様の暮らし向きはどうだったのですか。難儀をされたことでしょう」
「浪人の生活は決して楽なものではなかったと思うよ。町人の子供達を集めて手習いを教えたり傘張りの内職をしたり道場へ通って師範代として稽古をつけたりして暮らしておられたと聞いておる。いずれにしても浦上家は池田家鴨方支藩に仕官できるようになったのだから忠勤に励んで御恩返しをしなければならない。お前は若いのだから政香様に御奉公することになると思うが、その時に備えて勉学に励みなされや」
「はい。陽明学を究めたいと考えております」
「それはちょっと差し障りがあるからよく考えたほうがよかろう」

「何故ですか」
「それは幕府が朱子学を重視し、藩もそれに倣ったからじゃ」
「されど岡山藩は光政様が熊沢蕃山先生を登用されて以来、治世に実績をあげられ陽明学の本拠地として学者の往来も多く、藩学としても大いに栄えたではありませぬか」
「確かに熊沢蕃山先生が正保二年(1645)に再来されて明暦三年(1657)に致仕されるまでに上げられた実績が大きかったのは事実だ。しかしそれも光政様の後楯があったればこそなのじゃ。ところが明暦三年以降、光政様は方針を変えられて次第に陽明学から朱子学に傾斜していかれた。市浦清七郎、三宅可三、林文内、小原善助、中村七左衛門、窪田道和先生等を次々と招かれて藩校の教授陣は全て朱子学者に入れ代わってしまった。今では藩学は完全に朱子学になってしまった。特に、朱子学者の林信篤が元禄四年(1691)に幕府の大学の頭に任ぜられて以来、陽明学は藩としも幕府に対する手前憚られるようになっている。密かに蕃山先生の徳を慕って陽明学を学んでいる者は藩内にもまだ沢山残っている。しかしここが肝要なところだ。幕府や藩の御政道に逆らうようなことをするのは謀叛と見做されお前のためにも先々良いことはない。時流を的確に読み取りそれに順応していくことは処世上最も大切なことじゃ。ここのところはよく思案するがよい」        
「はい。よく判りました、よく思案してみたいと思います」
「今日は疲れたのでこれで終わりにしよう。明日は浦上家の祖先のことについて話さねばならぬ」
 と言うと鼾をかいて眠りだした。
                      



2005年06月13日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂1

 一.東雲篩雪

 昭和45年4月、当時私は日本の高度成長を担う勤続10年目の中堅企業戦士として兵庫県高砂市で昼夜を分かたず懸命に働いていた。本社で会議があって上京した折りに東京三越本店で浦上玉堂名作展が開催されていることを知り休日に会場へ足を運んだ。

 玉堂の代表作の一つとして古くから紹介されており、一度や二度は美術全集などでその写真判を見たことのある「東雲篩雪」の前へ立った時、暫くその場から動くことが出来なかった。

「なんと暗鬱で閉塞感の漂うやりきれない気分の絵であろうか。だが何故かとても魅きつけられる」というのがその時強烈に受けた印象であった。写真判でみたときも暗い感じのする雪景色だなと思って見てはいたが、心にしみとおるという程の感じではなかった。

ところがどうだ。今実物を見ていると小さく描かれた粗末な茅屋の中の読書する高士が「どうだい、雲も凍ったように動かなくなってきたよ。重く垂れ込めた空から粉雪が音もなく降りしきっていて、やがて木々も渓谷も埋めつくしていくだろう。そんな閉ざされた寂莫の山中で、孤り自然と同化し且つ対峙している私の心境が理解できるかい」と呼びかけているように見えたのである。

 目録の年譜を見てみると備中鴨方藩を50才の時脱藩し、春琴、秋琴という二人の息子を連れて諸国を放浪。この絵が描かれたのは60才後半頃と考えられるとあった。士農工商の身分制度が確立されてあらゆる自由が束縛されていた江戸時代の封建社会にあって士分を捨てて、敢えて琴と絵の世界へ飛び出していった心境はどんなものだったのだろうとその厳しい決断に思いを致すと、この絵に仮託されて滲みでている玉堂の、雪路を行き悩む煩悶と憂愁が理解できそうだと思ったものである。

 更にこの絵に纏わる次のようなエピーソードがあるのを知った。
 この絵はもとは近江長浜の柴田家が所蔵していたのであるが、第二次世界大戦終了後の混乱期に財産税で難儀をした同家が手放したらしい。そうとは知らない作家の川端康成はこの絵に魅せられていたので是非譲って貰おうと本能寺にある玉堂の墓へ詣でた後に柴田家を訪問した。しかし、時既に遅く柴田家では手放した後だったので手にいれることができなかった。その後、この絵は当時買い手がつかないままに、愛好家や画商の間を転々としたらしい。買い手がつかなかったのは「この絵をかけていると気が滅入る」というのがその理由のようであった。

 ところが暫くして、たまたま広島の原爆の被災地の視察に赴いた川端康成が帰りに京都に立ち寄ったところ、さる画商がこの絵を持っていることを知った。早速見せて貰ってますます気にいり値段にかまわず所望した。大金の持ち合わせがなかったので大阪へ行き、朝日新聞社に借金を申し込んだ。翌日金を届けて貰って予て念願のこの絵を自分の物にすることができたという因縁があるのである。価値観が変わってしまい執筆する意欲も失せて閉塞感に苛まれていた川端康成の当時の心境にフィットするものをこの絵は持っていたのであろうか。

 今、私は企業戦士としての戦いを終え、時間にも仕事にも拘束されない自由の身になって、旅をしたり読書したりと気儘に過ごしているのだが、ある日、図書館で美術全集を繙いていて「東雲篩雪」に再会したのである。繙いた美術全集には佐々木丞平氏の次のような解説が載っていた。

「渇筆で樹の幹の輪郭線が描かれる。幹から幾つにも分かれ出た小さな枝は縮れたように短く冬枯れの風雪の厳しさを思わせる。樹木の陰に更に一層淡く梢や枝が見え隠れする。いかにも繊細な筆の運びを見せている。このかすかな筆の運びが、雪と寒さのかもしだす透明でかつ震えるような大気の厳しさを見事に描きだしている。また、藍を含んだ墨色が山の背後の暗澹たる空間を表現し、その冷気が山膚にまでしみ通るようでもある。山の中腹では不安定に立ち上がった塔やおしひしがれそうな茅屋が見る者に一層心の緊張を強いる。またその周辺に色鮮やかな朱が散りばめられ、冷徹な大気を更にひきしめている。近景の岩間に架かる板橋上には傘をさした一人物が今まさに岩蔭に隠れようとし、岩山の後方の茅屋内では高士の読書する姿が円窓を通して見える。この冬枯れの凍てつくような自然は玉堂自身の心象風景でもあったろうし、散らつく雪の中で橋を渡り終えようとする人間、窓が開け放たれ、冷気を全身に受けて読書する人間に、自らの姿を投影させていたのかも知れない。50才にして脱藩し、放浪の中に身を置く玉堂が旅の中で得た自然に対する痛いほどの共感を表現した絵といえよう。70才に近い、最も充実した頃の制作になる玉堂画の代表作である」

 東雲篩雪の実物を見たあの日から30年弱の年月が流れ、私の人生にも喜怒哀楽の種々相があった。この間の経験の功により、玉堂の心境がもっと深く理解できるようになっているのではないかと思うようになった。またここ10年続いた平成不況は八方塞がりの重苦しく鬱陶しい気分を社会の隅々に充満させた。このような閉塞感のある環境に呻吟している今だからこそ玉堂がこの絵に託した気分を理解できるのではないかと思った。そんなわけでこれから琴弾の画仙、浦上玉堂がこの絵を書くにいたった心のうちを追ってみようと思う。



2005年06月06日(月) 水蜜桃綺談12完結

荘常陸兼祐は軍使を足利直義に派遣し、難攻不落の堅城を無血開城したと見せ掛けて敵を安心させた。その上で城に火を放って天皇方を混乱に陥れ、足利方に勝利を導いたのは手柄であるから、その手柄に免じて所領を闕所とすることなく,安堵して欲しいと懇願した。           
5月15日から18日までの3日間の激戦であった。この福山合戦では荘左衞門の三人の子供太郎太、次郎太、三郎太も参戦した。三郎太は捜し求めて、裏切り者の荘常陸兼祐の首を打った。
「降参半分の慣習があるとはいえ兼祐殿あまりにも、信義にかけましょうぞ。武家は忠こそを尊びたきもの。雪姫殿とのことは破談にしてくだされ。御免」
と涙ながらに刃を走らせたのである。

荘常陸兼祐の首は高梁川の河原に曝された。           

円念は雪姫を密かに城外へ連れだし長船村の刀鍛冶景光のところへ保護を頼んだ。
いちはやく幸山城に布陣した荘左衞門はこの福山の合戦での功を認められて猿掛城の城主に封じられ、以後小田庄も知行地に加えることになった。           

垂光は福山の合戦のあと、仏門に仕えたことのある者として城内で討ち死にした荘常陸兼の首のない遺体や大江田氏経軍兵士の夥しい数の死体を弔った。

福山の合戦のあと大江田氏経の求めに応じて鍛えた一振りの刀は転戦する大江田氏経の手元へ届ける術もなく、暫く垂光の許にあった。           

1338年新田義貞が越前藤島の戦いで敗死し、大江田氏経も戦死したという便りが垂光の耳に入った。

無常を感じた垂光は刀の武器性が嫌になり刀鍛冶を辞めた。そして、桃作りに専念しながら荘常陸兼祐と大江田氏経軍兵士達の菩提を弔った。 

 雪姫は円念に助け出されたあと暫く長船村の景光鍛冶のところで庇護をうけていたが、荘三郎太との婚約も破談となり、失意の日々を送っていた。

 円念の世話で水光の女房となり彼と共に桃を作るかたわら父と兵士達の菩提を弔った。

 後年垂光の作る桃はまるで蜜のような味のすることからいつとはなしに「水蜜桃」と呼ばれるようになった。水蜜桃の名だたる産地は福山城と幸山城のあった山手村と清音村である。(平成5年1月4日脱稿)

    注 本作品は同人誌「コスモス文学」で新人賞受賞




2005年06月05日(日) 水蜜桃綺談11

このような密約に助けられて大江田氏経が福山城をなんなく攻めて落としたのは延元元年4月3日(1336年)九州にいた足利尊氏が西国武将を結集し上洛を開始したときであった。
福山城に布陣した大江田氏経は山陽道のこの要衝の地を天皇方の第一線とし、荘常陸兼祐と飽浦信胤との降参兵を天皇方に加えて大江田氏経軍兵士達の士気は大いにあがった。

この時の模様は太平記に次のように述べられている。
『新田左中将の勢、すでに備中、備前、播磨、美作に充満して、国々の城を攻むる』

この当時所領は嫡子分割相続で細分化しており、所領を増やすには荒野を開拓するか戦争で勝ち敵方の闕所(没収地)を分配して貰うしか術がなかった。元来武士は武芸をもって支配階級に仕える専門職能集団であったが、支配階級が分裂すれば彼らも分裂するのは必然の成り行きであった。恩賞を貰うためには勝つ側に加勢しなければ意味がない。恩賞の貰えない戦には参加しないほうがよい。当時降参半分の法という慣習があり降参人は所領の半分ないし三分の一を没収されて許されていた。 従って、降参や寝返りが多く後年の江戸時代の武家社会の慣習とは大きく異なっていた。去就の自由があり主従関係は恩賞次第という即物的なものに左右された。荘常陸兼祐と飽浦信胤の裏切り行為と同じようなことが行われるのも珍しいことではなかった。

九州で陣容を立て直して、軍勢を海陸の二手にわけ東上を開始した足利勢は尊氏が5月に児島下津井に千余隻の水軍で到着し吹上に3日間陣を張った。

 一方山陽道を東上した弟の足利直義は福山城を延元元年(1336年)5月14日三方から取り囲んだ。足利直義の軍勢は30万にのぼった。対する大江田氏経は城内に僅か1,500の兵力であった。
早くから足利方に加勢していた荘左衞門次郎はこのときも足利直義軍の旗下に参じ裏切り者の荘常陸兼祐を打ち破ろうと先鋒隊を買って出て福山城を攻めた。

しかしながら城に籠もった大江田氏経直轄の城兵は士気が高く常に奇襲戦法で足利の大軍を悩ました。その勢いで本陣をつき足利直義に迫って、彼を討ちとらんばかりの勢いであった。しかしその後は膠着状態が続き勝敗の帰趨は予想すべくもなかった。裏切り者のこういう局面での決断には常人では考え及ばないものがある。荘常陸兼祐の判断も異常であった。戦況を観察していた荘常陸兼祐は一旦は天皇方に味方したものの勢力を盛り返した足利軍の方に勢いがあると見て再び裏切った。手兵に命じて密かに城内の数箇所に火を放ち火災を発生させたのである。この火事が引き金となって、城内は大混乱に陥り、足利方の軍勢の総攻撃にあい城兵500騎が討ち死にした。氏経は400に減ったにも関わらず、26回にも及ぶ逆襲をし、ついに三石城にいた新田義貞軍と合流した。                           


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