2005年07月02日(土) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂18 |
十.昇進
天明元年(1781)37才のとき、1月11日御前で新知行90石を下され大目付役を仰せつかって同月15日には御折り紙を頂戴した。藩政監察を主要任務とする重職に就任したのである。大目付の職掌は江戸幕府の例でみると礼式、訴訟、諸士分限、服忌、日記、鉄砲改め、宗門改め、道中奉行であったから鴨方藩においても類似のものであったと思われる。
この時の藩主は池田政直で夭折した政香の弟であったが、兄政香のような理想に燃えて仁政を実現していこうという覇気が感ぜられず、時勢隋順型の凡庸な人柄であった。藩主が凡庸であれば次第に士風が頽廃していくのは世の常であるが、玉堂が大目付に就任した頃には規律が相当弛緩していた。
翻って本藩である備前岡山藩の士風の変遷を振り返ってみると、始祖池田光政が治世に当たっていた頃の政治理念はすぐれて文治主義的な仁政理念に貫かれたものであったが、その一方では強権を発動して厳しく統制を加えていくという武断的な要素も多分にみられたので、江戸表でも「備前風」と評判になるほどの質実剛健な規律ある士風が保たれていた。しかし光政が隠居して綱政に家督を譲った頃から士風弛緩の萌芽がみられた。家督を譲った嫡男綱政の性格には父光政と対照的なところがあり、不作法、気隋、向女色の性向に加えて文学(特に和歌)、芸能(特に能楽)を愛好し仏道の信奉と幕政随順の態度が顕著であった。 勿論武技も修めたがどちらかといえば文人的要素が強い藩主であった。このため「公私の典故」は綱政時代に大いに完備されたが無責任な気風が芽生え時代を経るにつれ綱紀は次第に弛緩していった。六代斉政の頃には役務に関して「音物(いんもつ)」「振舞」の横行が目にあまるようになった。贈賄した町人とともに、収賄した不徳義の役人を厳罰に処するという法令をわざわざ重ねて、出さなければならない程の綱紀の乱れが生じていた。貨幣経済発達による町人勢力の増大という趨勢に加えて、幕府で田沼意次が側用人として起用され賄賂政治を行った悪風が備前藩にも次第に浸透してきていたのである。本藩の士風が弛緩してくれば統治機構が共通であった支藩の鴨方藩にもその悪弊が及んでくるのは当然のことであった。
2005年07月01日(金) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂17 |
九.玉堂清韻との出会い
宝暦七年(1778)兵右衛門34才のとき江戸で時疫を患い病床に伏した。病臥にあることを知った玉田黙翁が老体をひきさげて、江戸藩邸へ逗留して親しく兵右衛門の脈をとって処方調剤をした。兵右衛門が従喜の涙を流したことはいうまでもない。 宝暦八年(1779)35五才のとき兵右衛門は江戸出張を命ぜられ上府の途中、大阪の木村蒹霞堂を一月と二月に二回訪問した。訪問の目的はその膨大な収集品である万巻の典籍、書画、博物標本、古器古銭を閲覧させて貰うとともにここへ集う文人画家達と厚誼を結ぶためであつた。木村蒹霞堂は代々造り酒屋であったが若い頃より本草学を学び花鳥画や山水画も修め、財に任せて集めたコレクションは希望する閲覧者には快く公開していたので文人、画家、書家の出入りが多く、当時の大阪における芸術サロンとなっていた。 この年江戸出府中、兵右衛門は明の大学博士顧元昭が造った七弦琴を手にいれた。この琴には朱文で「玉堂清韻」と琴銘が記されていたので、名品を手にいれた記念に以後兵右衛門は自らを玉堂琴士と号することにした。この年五月に留守中岡山で長男紀一郎が誕生しているが号を春琴と名乗らせている。
玉堂が琴について初めて記述した「玉堂琴記」をこの年8月18日脱稿しているがその中で名器「玉堂清韻」入手の経緯を認めている。 これによると 「この琴は、長崎の通詞劉益賢の言うところによれば、明の大学博士顧元昭が造ったものであり、清の李子福という人物が持っていた。彼は、寛文年中にこの琴を携えて長崎に渡り、彭城某に贈呈した。彭城某はこれを劉益賢に贈り、劉益賢は長崎鎮台の某に献じた。それ以来百有余年、何人に渡ったか不明であった。その後、玉堂が江戸で日向延岡藩主の内藤政陽公に弾琴法を教授しているとき内藤公が中国製の琴を手にいれたいと思っているが心当たりはないかと尋ねられた。玉堂はかつて散楽人北条某の家に小倉侯から賜った古い琴があると聞いたことがあったのでそれが中国製であると思うと答えた。すると内藤政陽公は北条なら懇意にしているので借りてみようということになり、玉堂も一緒に見ることができた。その後玉堂は岡山へ帰り、内藤政陽公も他界されたのでそのまま幾年もの歳月が流れた。再度玉堂が江戸詰めとなったとき、溝口子 が人にこの琴を持たせて寄越し、これは北条某の持ち物であるが、かつて玉堂が琴を好むと聞いたことがあるので、玉堂に贈りたいと言った。その理由は玉堂の手元にあれば自分の所にあると同じことで、末永く世に伝えて貰えると思うからであるということであった。こういう経過をたどって玉堂の持ち物となった。子孫は永くこれを宝として欲しい」とその由来が記されている。 この頃の玉堂は35才であり、政務にも油が乗り人柄にも円熟味が加わって職務以外の趣味に関する領域にも幅広く関心を広げていった。そして名器玉堂清韻を得てからは弾琴の世界へのめりこんでいく自分を制御できなくなると共に仁政実現一筋の気持ちをますます固めていくのであった。 この琴を入手して間もない時期に作った次の詩の中でこの琴にかかわる感慨を述べている。
俸余蓄得許多金 不買青山却買琴 朝坐花前宵月下 磴然弾散是非心
俸余蓄え得たり許多(あまた)の金 青山を買わずして却って琴を買う 朝には花前に坐して宵には月下に 磴然として弾じ散ず是非の心
自分は宮仕えする身だが、戴いた俸祿を大切にしていると随分多くの蓄えができた。悠々自適するための美しい山を買って墓地も用意するのが普通だろうが、代わりに琴を買った。朝には花の前に座り、夕べには月光の下にすわって琴を奏でるのだ。心を虚しくし忘我の境に浸って弾くとその音色が五体にしみ入り是非に悩む心等は吹き飛んでしまうのだ。 ここで是非の心という意味は一般的には善悪の心ということであるが、この頃の玉堂の心境を推し量って解釈すれば仁政が行われるべき理想社会の姿が善であり、人間の欲望が渦巻き汚れた現象ばかり目立つ現実社会の姿が悪なのである。そして善に赴こうとするが悪に妨げられて煩悶している心を是非の心と言っているのである。 琴こそ理想実現への志を高揚させてくれる友達だと観じてますます琴を慈しむ気持ちに拍車がかかるのである。
また絵画の面でも当時江戸で高名な中山高陽等との交遊を通じて文人画に関心を示しその気韻、風雅を楽しむようになっていた。中国製の文人画などの出物があれば買い集めるようになったのもこの頃からであり、数多くの絵を見ているうちに「目利き」の目も次第に養われていった。そして、安永九年安房へ漂着した清の画家方西園が幕府の命で長崎へ回送される途中描いた「富嶽図」を習作のつもりでこの頃模写している。
2005年06月29日(水) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂16 |
翌安永四年には岡山へ呼び戻されて、御供頭を仰せつかり官吏としての出世街道を驀進するのであるが、勤務の傍ら江戸で開眼した琴、絵画の道にも閑暇をぬすんでは精進するのであった。ここで感じられる兵右衛門の姿は効率的に業務をてきぱきと処理していく真面目な能吏でありながら、琴や絵画にも輝きをみせる才人というイメージである。 この年は家庭的にも充実した日々で母親茂が古稀を迎えたので祝宴を催しているし、長女の之が誕生している。 母親茂の古希の祝いに大阪の中井竹山は寿詞を贈っている。 備藩浦上氏母七十寿詞 行子帰養至自東 寿筵杯盤和気融 黄備城辺春鎮在 碧桃花下楽亡窮 錦衣併為班衣舞 因見当年断機功
行子 帰養するに東より至る。寿筵杯盤 和気融(やわら)ぐ。 黄備城辺 春 在に鎮まる。碧桃花下の楽しみ 窮まることなし。 錦衣 併せなる、班衣の舞。因りて見る 当年 断機の功
旅人は郷里に東より帰って、母の古希のお祝いをする。このめでたい席に多くの人と祝いの酒杯をかわし、和気あいあいたるものがある。吉備の城下もまさに春たけなわ、美しい桃の花は咲き誇り、楽しみは極まるところがない。酔うほどに舞うほどに着衣が翻る。 この年にあたり、母親の子を思う孟母断機の教えを今更ながら痛感する。
2005年06月28日(火) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂15 |
多岐藍渓(1732〜1801)は幕府の医官で氏は丹波、通称安元、号は藍渓、字伸明で医学生を養成する私学の躋寿館を主宰した。和漢の伝統医学の研究と教育に努め、医学界における多岐氏の地位を不動のものにした。琴をよくし藍渓の師は小野川東川、東川の師は幕臣の杉浦琴川である。そして琴川は水戸光圀の招きによって明から渡来した曹洞宗の僧心越に本格的な琴を学んでいるので江戸時代に普及した琴道の正統派であった。従って江戸在府中の短期間であったが兵右衛門は正統派の弾琴の手ほどきを多岐藍渓から受ける幸運に恵まれたのである。多岐藍渓から琴の手ほどきを受けた兵右衛門は生来の資質の良さもあってめきめき腕をあげ、次回出府した折りには日向延岡藩主の内藤政陽公に招かれて教授するまでになっていたのである。 また高知出身の南画家中山高陽との交遊もこの頃始まっている。このように良い師、良い友に出会ったことは兵右衛門の幸せであった。儒学、医学、琴、南画、と多方面にわたって貪欲に吸収していく兵右衛門の向学心の旺盛さは類稀なものであったが、それにも増してこれらの技芸を短時日に吸収消化していった天賦の資質の高さに驚かされる。後年花開く琴と絵画の基礎作りは今回の江戸出府が大きな契機になったのである。
この頃、玉堂が浅草鳥越の鴨方藩江戸藩邸で文人墨客と交流した状況を彷彿とさせる次のような中山高陽の詩がある。
「浦君輔の邸舎に岳子陽 松有年 山文熙 石太乙の諸子邂逅し、余に画を求む。各々詩有り、賦して答う」と前おきしてある。 朱門邸舎緑雲端 野老誰期此共看 独笑顛狂生故態 還欣邂逅有新歓 揮毫何更問山影 剪灯猶能坐夜闌 諸彦騒懐湧如酒 冷瓏満几碧琅扞
朱門の邸舎 緑雲端(うんたん)、野老誰か期す 此に共に看る。 独笑顛狂(どくしょうてんきょう) 故態を生じ、還(また)邂逅を欣び新歓有り 揮毫して何ぞ更に山影を問わん、灯を剪(き)り猶(なお)能く夜闌に坐すが如し諸彦騒懐(しょげんそうかい)湧くこと酒の如し、冷瓏几に満つ碧琅扞
朱色に門柱が塗られた邸舎は緑に囲まれ、人里離れて雲さえ往き来している。田舎の老爺のような雰囲気を漂わせている玉堂を囲み、こんなに多くの仲間が集まろうとは誰も予想できなかった。久しぶりにただ笑いころげ狂態をさらけ出している。過去を懐かしみ将来を楽しみに共に遊ぶのだ。今更筆を揮って山水画をかくこともあるまいに。灯を消して暗闇で共に語りあおう。皆でわいわいがやがややっていれば仮に酒がなくても酒を飲んで騒いでいるようなものだ。そういう中にこそ玉のように美しい物がある筈だから。
2005年06月27日(月) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂14 |
黙翁の次に兵右衛門が江戸在勤中、彼に多大の感化を与えた人に多岐藍渓がある。 一日、黙翁の使いで、下谷で塾を開いていた漢学者井上金我のもとを訪れた。金我は経書を講じて日毎に賃銭をとる売講の元祖として有名であるが、神田に創立された私立の医学館躋寿館の学頭をつとめたこともあり、門下生も沢山いた。この時の世間話で話題がたまたま琴のことになり、兵右衛門が琴に興味を持っていることを知り、躋寿館時代の同僚多岐藍渓を紹介したのである。
「浦上氏は備前岡山のお生まれでしたな。拙者も岡山藩の儒官井上蘭台先生に古文辞学を学びましてな、岡山とは縁があります。備前藩といえば陽明学でしたな。貴殿は陽明学についても相当造詣が深かろう。その精髄を聞かせては戴けないであろうか」 と金我が言った。 「いやいや、さほどのことはありませぬ。藩祖光政公が熊沢蕃山先生を重用された頃は確かに陽明学では天下に冠たるものがありましたが、万治元年に中川権左衛門先生が病没されて以来、藩校の教授陣は朱子学者に代わり正規の藩学は朱子学に代わりました。今では陽明学は熊沢蕃山先生の徳を慕う家臣の間で細々と行われているにすぎませぬ。それがしは致良知を説き知行合一を目指す実践的な陽明学に今でも魅力を感じておりますが、難しい理屈は抜きにして孔子、孟子の時代に立ち返って人の道、君子の道、聖人の道を素朴に考えていくことのほうが大切なのではないかと考え始めてております」
「それでは古に帰れということですか」 「まだ模索の段階ですからなんともいえませんが孟子、老子、荘子に興味を感じはじめているところなのです」 「そうですか、それは心強い。実は、拙者も儒学は古義学から入りましたので、朱子学が本然の性=理として、仁、義、礼、智が人間に内在するとする考え方に疑問を持っており、これら四つの徳目は心の外にある客観的な規範だと思うのです。そのために古の原点に立ち返って考究する必要があると考えております。まだ研究の段階ですが老子が天地には自然に一定の秩序があり、日月も星辰も鳥獣も樹木もそれぞれに自然の秩序を保っていると説いているのに興味を持っているのです」 「なるほど、仁義を捨ててその自然の秩序に身を委ねるのが無為自然ということですね」 「左様、人それぞれの個性を認めて自然にさせ無理矢理型にはめ込まないということですから資質の高い人には理想的な考え方だと思いますよ」 「大変勉強になりました。それがしの夢ですがそのような世界で琴を弾き、詩を作り、絵等を描いて晴耕雨読の生活ができれば素晴らしいでしょうね」「ところで貴殿は詩はお作りになりますかな」 「田舎流ではありますが少々嗜みます」 「それでは拙者の弟子の原狂斉というのを紹介しましょう。いま諸家の詩を集めて詩集を出版しようという計画がありましてな、原が中心になってやっています。作品があれば持っていかれたらどうでしょうかな」 「ありがとうございます。拙くて人様にお見せできるようなものではありませぬ」 「絵のほうは」 「特に師はなく我流ではありますが少々」 「それではそれがしの友人に文人画家で中山高陽というのがおりますから紹介致しましょう」 「それはかたじけない」 「琴はどの程度おやりになりますかな」 「恥ずかしながら岡山は田舎でございましてな良き師がおりませぬ故、多大の関心はもっておりますが全然心得がありませぬ」 「ほうそれでは、これまた良い人を紹介致しましょう。多岐藍渓という医家がいましてな。それがしが躋寿館で教えていた頃同僚として切磋琢磨した仲でござるが、琴について造詣が深く江戸の文人の間で最近盛んになっている七弦琴を巧みに弾きますのじゃ」 と言って世話好きな金我は早速、原狂斉、中山高陽、多岐藍渓宛の紹介状を次々と達筆で認めた。
2005年06月25日(土) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂13 |
八.江戸在勤 兵右衛門三十才の時江戸在勤となり、ほぼ一年間にわたり都会の闊達な空気に触れ儒学の面、医学の面、琴弾の面で数多くの刺激を受けた。 先ず播磨の儒者玉田黙翁に師事して聖学を学んだ。玉田黙翁は名を信成、通称記内、別号適山、また虎渓庵とも称した。播州印南郡東志方村細工所の生まれで大庄屋柔庵玉田義道の嫡子である。山崎闇斉門の三宅尚斉の門人で程朱の儒学に於いて一家をなしていたうえに医学にも造詣が深く、弓馬槍剣の術にも秀で、産業経済についても見識を持っていた。しかし名声を求めることはせず、自ら天地一閑人と称し播州の僻地に住み天命を楽しみながら質素な生活を送っていた。ところが領主である大久保侯が、黙翁の晩年にこれを聞き是非所説を拝聴したいと招請したが固く辞退していた。度重なる熱心な懇請に折れて74才の時に二回、78才の時一度江戸へ出て大久保侯に講義をした。運良く玉田黙翁が江戸逗留中に兵右衛門が江戸在勤となったので、勤務の合間を見つけては黙翁の旅宿を訪問し、三か月間だけではあったが師の教えを乞うことができた。
玉田黙翁は生活態度を反映するが如くその学問においても厳粛でかつ敬虔であった。君を敬し、己を修め、民を安んずることが治世の基本であることをさまざまな例を引きながら繰り返し力説した。兵右衛門は大久保侯が黙翁を招請するに当たってとった礼の厚さについて感激し、大久保侯が黙翁を迎えた態度は蜀の劉備が諸葛孔明を草盧に三顧して迎えたり、楚王が賢者を迎えるに当たっては醴酒を醸して与えたり、燕王が賢者を招いた時には黄金台を築いて迎えたという故事に悖とらない、とその著「賓師の礼」の中で述べている。そして孟子が仁義を説いて君主の心の非を糺したように黙翁はそれをなされたが、大久保侯はこれを謹んで受け入れようとしたとその修学態度に感心し、これこそ君子と賢者との理想的な姿であると感じとっていた。
次に黙翁からは医学の知識を伝授された。この面でも師弟関係が発生し多大な感化をうけた。後年、玉堂は司馬江漢に黙翁が調剤した仙薬を送ったりしている。また、親友の鴨方藩の儒学者西山拙斉に手製の十一味地黄という薬を送っているし、玉堂の遺品として残されたものの中に薬草採取袋や計量器や薬草の断片が現存しているのである。
2005年06月24日(金) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂12 |
七.結婚
「兵右衛門よ、そなたもそろそろ身を固めないとお役を勤めていくうえからも都合が悪か ろう」 と母の茂が夕食のご飯を茶碗によそいながら言った。 「いいえ、まだまだ勉強しなければならないことが沢山ありますし、旱魃の影響で領民は大変難儀をしておりますので人の上にたつ者、そのような時に我が身のことを構っているようでは仁政ができませぬ」 と兵右衛門は上の空で答えた。この頃(1770年〜1771年)、全国的な旱魃があり飢饉の救済対策に日夜奔走しており、とりわけ義捐米を不正流用する小役人の悪事が露顕してその処置に心を痛めているときであった。政香逝去後まもなく発生したこの不祥事に仁政実現の道のほど遠いことを思いしらされていた。 「そなたがお役目大事に励んでおられるのは頼もしいことだし母としても誇りに思っております」 「今暫く、身辺の雑事に係わることなく御用大事で励みたいと思っておるのです」 「そうは言われてものう、私も歳だしいつまでもそなたの世話を続けることはできませぬのじゃ。それに浦上の姓を継ぐ子も早く設けねばのう、御先祖様に対しても申し訳なかろう」 「それはそうですが・・・・・」 「そなたさえ、その気になればすぐにでも話は進むようになっているのじゃが。親孝行すると思って考えてみては下さらぬじゃろうか。どうじゃろう、市村孫四郎盛明様の娘御、安殿を妻に迎えては」 「あの市村様の安殿ですか」 「そうじゃ、市村様なら六拾石四人扶持で多少扶持が少ないという不満はあるが、家系はしっかりしており浦上家が嫁に貰っても決して不釣り合いにはならぬ良縁じゃと思いますがの。それに安殿は見目よくしっかり者との評判だし、年は二十二才というからそなたには丁度お似合いだと思っておりますのじゃ」 「母上がそのように仰るのなら宜しくお願いします」 と兵右衛門は結婚する意思を表明した。市村家の娘安は器量よしで貞淑であると評判の娘であったし、年老いてきた母にいつまでも身の廻りの世話を頼むのも孝道に反すると考えたからであった。 安永一年(1772)兵右衛門28才の時母の勧める市村孫四郎盛明の息女安を娶った。 安は武家の娘としての躾けは十分できており、当時の武家の子女の嗜みとして箏を爪弾くことができた。母親茂との折り合いもよく、兵右衛門はこころおきなく御用に励むことができるようになった。そして夕食後に寛いだ気分で安が奏でる四季の曲に聞き入るのは忙中閑暇、至福の一時であった。 「儂にも弾かせてくれぬか」 と兵右衛門がある夕べ箏を弾きおわって爪を外している安に言った。懸案の義捐米流用事件の処置も終わったので、気持ちも寛ぎ酒を過ごして気持ちがおおらかになっていたのである。 「お殿様、箏は女の嗜むもので、殿方の弄ぶものではございません」 「座興じゃ。今宵は多少酔った故、陶然として精神が高揚しておる。この昂りをもっと高めてみたいのじゃ」 「兵右衛門、安の言う通りじゃ。箏はわが国では女の嗜むものと決まっておる。男が弄ぶとすればそれは盲というものじゃ。そなたは五体満足で生まれてきたのにやめなされ。そなたが箏等弄んでいると噂にでもなれば、この母の面目がたちませぬ」 「母上、確かにそうです、我が国では箏は盲でなければ男はこれを用いません。しかし、中国では琴と言って七弦のものが昔から聖人や詩人から愛され弾かれておりました。我が国でも奈良時代には和琴が盛んに弾かれたものです。琴を弾くことは心を調和させるのに最も適した手段だと考えられ、人間の精神を高揚させてくれると信じられていたのです。最近聞いた話では明の心越という僧が水戸光圀公に招かれて来日し、出府してから江戸では七弦の琴が文人の間で流行していると聞きます。私も機会があれば聖道をめざす者の嗜みとして、琴を習いたいと思っているのです。琴も箏も弦の数が違うだけで音を出す仕掛けは同じです。琴の代わりに今日は箏を試してみたいのです」 「そういうことであれば、座興としてならよいでしょう。安さん貸しておあげなさい」 と一人息子の言い分には一も二もなく甘い茂であった。 安から爪を借りて暫く調音していたが、天性音感が良かったのであろう、見よう見まねでやがて曲を奏でだした。毎日の夕餉の後、安の爪弾きを観察しているうちにいつの間にか演奏法を呑み込んでいたのである。 「まあ、お上手なこと。私などよりも上手ですわ」 「そうかい」 「今回限りですよ。安さんも変に煽てたりしないで下さいましよ。何と言っても岡山では箏はまだ女の嗜みですから。男が弄ぶものではありません」 と世間体を気にする茂であったが、この日をきっかけとして兵右衛門の琴への開眼がなされたのであった。
2005年06月23日(木) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂11 |
六.理想の藩主夭折 明和五年(1768)心服していた藩主政香が東武より帰国して間もなく腫病に罹り、病臥に伏して数日後の八月五日に夭逝した。 兵右衛門の受けた衝撃は大きく筆舌に尽くしがたいものであった。悲嘆にくれる兵右衛門を慰めてくれたのは母親の茂であった。 「覚えておいでかい。17年前の雪の降る夜、病の床で父上が盛者必衰、会者定離は人生の定めと言われたことを。お前は幼くして頼るべき柱石を失ったにもかかわらず、ここまで立派に生きてきたではないか。何時まで嘆いていても致し方あるまい」 「その頼るべき柱石を失った今は、暗い夜道に提灯を失った気持ちです」 「その気持ちはよく分かるが、今のお前は立場が違う。殿の信頼を得て治世の一翼を預かるまでになったではないか。今では領民から頼られる柱石の一つになっているのだ。その柱石が嘆いているばかりではこれを頼りにしている領民は何にすがればよいのじゃ。殿がやり残されたことをなし遂げていくことこそが殿の御無念を晴らすことになるのではないのかえ」
政香の葬儀は御葬儀の件諸事取計らいを命じられた兵右衛門が取り仕切る中を粛々と挙行された。 葬儀を無事終えて兵右衛門の脳裏を駆けめぐるのは生前政香と忌憚なく仁政実現の理想に燃えて語りあった日々のことであった。退庁してはそうした言行をかきとどめていた日誌を繙いては、ありし日の政香の姿を偲んでいたが、藩主の言行を出版してその理想を明らかにし遺志を実現していくことが最大の供養になるのではないかと考えた。
10月に出版した「止仁録」は生前の政香の言行を記したものであるが、その序で兵右衛門は次の趣旨のことを書いている。ここでは佐々木丞平氏の口語約の名文を引用させて戴く。
「君子には君子たるべき根本となるものがある。国家を平らかに治めるにはいくら智が長けていたところで、根本のものが備わっていなければ、たとえ枝葉が美しく見えてもそれは本物ではない。その根本となるべきものは、 <大学>に謂う所の「為人君止於仁」である。即ち、天は万物を生み出したが、夫々にその止まる所、止まるべき職分を与えている。我が君は幼きより学問を好み、その身を修め、政治を行う道は、決して古の聖人の教えに違うことがなかった。ただ単に智に長けているだけでなく、真に天より与えられた職分としての仁職を知り、実に国家を治める根本をひたすらに目ざして務めていた。しかし我が君は短命にして逝ってしまわれた。悲しいことだ。実にいたましいことだ。その後君の書き遺された物を数多く見たが、一つとして政道のために益にならぬことはなかった。とりわけ烈公(光政公)の徳行を慕い、その教えの数々をみずから記しておられた。私はかつて君のおそば近くに侍していた時、君が語られる言葉、その中に秘められた情熱や理想が我が心に伝わってくるたびに、私の心はいつも躍っていた。退庁して、暇にまかせてそのことを書き記して置いたが、この頃、ふとそれを思い起こしたので、君の御言行の幾つかを書き加え、止仁録とした」
止仁録の「止仁」の意味は人の上に立つ君主たる者は仁に安んじ、仁を把握し、自らその虜にならなければならないという古い言葉からきているのであり、政香の言行はこの言葉にぴったりのものであった。
止仁録に盛られている思想を要約すれば、君・臣・民という三者構成の社会の中において修身・斉家・治国・平天下という理想を実現することであった。そこには人間は学問によって聖人になりうるという信念が盛り込まれており、その学問は単なる博識者になることではなく、聖人となって政治と道徳の一致を実践するものでなければならなかったのである。 七.結婚
2005年06月22日(水) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂10 |
明和五年(1768)5月16日政香は江戸から帰館したときに久しぶりに会った兵右衛門に対して次のように言った。 「儂は道中の駕籠の中で論語を読んでいた。その中の子路の編に君主たることの難しさを認識することこそ国を興す本である、ということが書いてあった。ここの意味を考えていると儂はわが身につまされて嘆かわしくなってしまった。よく考えてみると我々は旱魃が続き作廻りがよくないことで難渋しているがそのことはちっとも憂いとするには足りないことだということに気がついた。とにかく修学の根本とするところのものが未だ備わっていないのが憂なのである。その根本とするところのものが備わっていさえすれば、作廻りのこと等は枝葉末節のことである。君主たることの難しさを知って、自らを戒め慎み、常に自分のしていることに恐れおののく気持ちを忘れずに持っていること、これこそが学問をし修行することの根本である。この根本を忘れず常に学ぶことを忘れなければ小々の困難等は憂いとしない」
なかなか難しく判りにくい言い回しであるがここで政言が言っていることは現実世界での農作物の多寡などという政治の実効性よりもむしろ統治に当たる藩主の「真の君主性」とでもいうべきものの精神的優位性を主張しているのである。
そしてまた次のようにも言った。 「若い時は一度しかなくて二度とは巡ってこないものである。従って近習の者は皆若いのだからいずれも文武に励むべきである。世間では大名は学問がなくてはならないというがこれは当然のことであってこういう言い方では不十分である。大名に限らず一般の人々も学問がなくてはならない。そうでなければ各々が持っている役目、務めが全うできないものだ」 と奨学にかける熱意を常に語っている。
兵右衛門が政香に仕えてこれらの言説を聞き、心を打たれたのは若き藩主の情熱と生来備えているロマンチストとしての性格であり人柄であった。そして言葉の端々に迸り出てくる、領民一人一人の幸せを常に願っている仁の心であった。また日常生活の中で観察される端正な立ち居振る舞いと清潔感溢れる生活態度や人生を真剣に生きて行こうとするひたむきな姿勢が見習うべき理想像として兵右衛門の心に刻みこまれていった。
2005年06月21日(火) |
小説・弾琴の画仙浦上玉堂9 |
「孟子は人間には誰でも人に忍びざる心つまり他人の不幸を見過ごすことのできない同情心があるとして性善説を唱えています。そしてその理由としては、よちよち歩きの幼児が井戸に落ちようとしているのを目撃したら、誰でもじっとしていられない惻隠の心にかられて助けるために駆けだすであろうということを挙げています。そしてこれは自然な行為であり、幼児の親と交際したいからでもなく、村の仲間から褒められたいからでもなく、助けなかった場合の非難を恐れてからでもないと言っているのです。これが出来ないものは人間でないと言っています。それがしもこの設例ではその通りだと思います」 「そうだね、そして彼はこの事例から類推して惻隠の心、羞恥心、謙譲心、善悪の分別心のない者は人間ではないと言っている。更に惻隠の心は仁の端であり、羞恥心は義の端であり、謙譲心は礼の端であり、分別心は智の端であり人々は自然に備わっているこの四端を拡充するように努めなければならないと述べているのだね。身近な事象から立論していくところは流石に優れた学者だね。誰にでも納得できる理屈だと感心するよ」
「殿は性悪説ですからそこで感心されていては困りますよ」 「そうだったな。荀子は人間の本性は悪であると言って次のように説いている。人間の善さというものは偽、つまり後天的な矯正の結果なのだ。人間の本性は生まれつき利益を求める傾向があり、これに引きずられるから譲りあうことなく奪い合いが起こるのである。生まれつき妬み憎む傾向があるため人を害して誠心の徳がなくなるのである。生来美しいものを見聞したがる耳目の欲望があるから無節制ででたらめになり、社会規範も社会秩序も失われてしまうのである。こういうことだから人間の生まれつきの性質や感情にまかせると必ず奪いあって社会の秩序が破られることになって、世界が混乱してしまうものである。そこで教師による感化や社会的規範による指導があって始めて社会の安定と世界の平和が保たれるのである。こう見てくると人間性の本質は悪であることは、はっきりしている。人間性が善に見えるのはあくまで後天的な矯正の結果なのである。このように性悪説を述べて具体的な日常の行為を次のように説明しているのだ。つまり人間は腹が減ると腹一杯に食べたいと思い、寒いと暖まりたいと考え、疲労すると休息したいと思うのだがこれは人間自然の性状なのである。ところが、今ある人が腹の減っているのに年長者より食事を先にとろうとせず、疲労していても休息しようとしないのは誰かに譲り、誰かに代わろうとしているからである。このような子供が父にかわり、弟が兄に譲るという行為は人間生来の自然の本性ではないのであって、後天的な教育の結果なのであると」
「荀子は人としての道を踏み外さずにおれば、天も禍害を加えることはできないと言っていますし、天道と人道との分別をはっきり知っていれば、最高の人物といえるとも言っています。更に天を偉大だとしてその恵みを慕っているよりは、自分で物を蓄積して処理していくほうがまさっている。天に従ってそれを褒めたたえているよりは、与えられたものを処理していくほうが勝っているとも述べていますね。荀子は天と人とを分離して考えているわけです。荀子にとって天は純粋な自然現象以上のものではなかったのですが孟子は天には道理があると考えている点で違いがあるようですね」
「孟子の性善説に対して告子の批判があるのを知っているとは思うが、彼は次のように言っているね。人間の性は善でも悪でもない。生命そのものが本性である。食欲と性欲が本性である。従って人間の本性は善行もできれば悪事も働ける。だからこそ文王や武王のような聖王のときには民衆は善を好んだが、幽王や霊王のような暴君のときには民衆は乱暴を好むようになったのだ。また聖天子の堯の時代に兄の舜を殺そうとした象のような男がおり、瞽叟のような悪人の子に舜のような聖人が育ったのは人間の本性は善でも悪でもないからだ。つまり人間の本性は価値判断の伴わない生き物としての現象にすぎないと言っているわけだから天は自然現象だとする荀子と似通った理論構成になっているね」
「孟子だって人間の内心には外界の刺激にひかれて悪にも向かうような自然な欲望が存在することを人間の本性として認めて、次のように言っていますよ。うまいものを食べたい、美しいものを見たい、よい音色を聞きたい、よい香りをかぎたい、体を安楽にしたいというのも人間の本性である。しかしそこに運命がありそれが得られるかどうかはままならない。そこで君子はそういうものは人間性とはしない。親子の間に仁愛が行われ、君臣の間に義理が行われ、主客の間に礼が行われ、賢者の身に知性がつまれ、天の道の上に聖徳が輝くというのはままならぬ運命である。しかしそこに人間性がある。そこで天子はそれらを運命とはしないのであると。ちょっと論理的には弱い気がしますね。孟子が強調したかったのは人間の本性は鳥や獣と違って高貴なものであるから道徳的なものでなければならないという価値判断が暗黙のうちに前提としてあって、性善説を主張したというふうに思えるのですが」「非常に難しい理屈になってしまったが、纏めてみると孟子は人間の内心にある高貴な道徳的欲求を重視してそれだけを性と称したのに対し、荀子は利益を追求する感覚的な欲望を重視してそこから性の概念を構成したと言えると思うよ。だから論理的帰結として性悪説になるわけで性そのものの見方については根本的な立場の相違があった。しかし孟子と荀子では本性論では全く正反対の立場にたったが目指したところは共通のものであった。彼らはあるべき人間の姿を道徳的なものへと導くための学説として本性論を展開したわけで両者とも仁を実現していくために修養の重要性を説く点では同じであった。儂は治世を行っていく上ではやはり光政公がそうであったように孟子の説く仁義礼智の徳は外から自分を修飾するものではなく自分が生まれつき持っているものだという考え方を支持したいと思っているし、これからも善なる性に磨きをかけるようますます修養しなければと思っているよ」
|