前潟都窪の日記

2005年07月12日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂28

 この日から二日置いて伊勢長島の藩士で画家でもあった青木南湖が主命により長崎へ来朝中の清の画家、費晴湖に絵を学びに赴く途中、正午過ぎに玉堂宅を訪れた。

 江戸出府のおり友誼を結んで以来久しぶりに再会した青木南湖はとても懐かしかった。
「いやあ、お懐かしい。江戸ではよく小料理屋で飲みましたな。お互いに若かったがあの頃が懐かしい。あの頃の若い気持ちに立ち返って今宵は岡山の町を探索したい。どこかよい所へ案内して下さらぬか。なあに銭なら路銀をこのように沢山戴いておるから御心配には及ばぬ」
 と酒好きの南湖が懐を叩きながらしきりに玉堂を誘った。

 玉堂も南湖とはよく気が合ったので心行くまで飲んでみたいと思った。船宿「堀船」のことが頭にあったので、妻女の安が用意した遅い昼食をとってしばし談笑した後、頃合いを見て駕籠を呼んで出掛けることにした。
「玉堂先生、踏みつけて壊すといけませんからそのお琴はこちらでお預かりしておきましょう」
 と豊蘭が玉堂の前へきて七弦琴を預かり床の間の前へ置いた。
「まずは何はおいても一献どうぞ。今宵もまたあの素晴らしい琴の音色が聞かせて戴けるかと思うと今から心が踊ります。これこのように」
 と豊蘭が艶っぽい笑みを浮かべながら玉堂の手をとり自分の胸にあてた後お酌した。
「ほう、これはお安くないですね。玉堂先生、ここへはよく来られるのですか」
 と目敏くこの動作を見つけた南湖がからかうように言いながら、傍らに座った芸妓の酌を受けている。
「いいえ、先日司馬江漢先生と御一緒してからこれで二度目です」
 と初な玉堂は顔を赤らめながらどこまでも正直である。
「ほう、江漢先生も長崎へ行っておられるのですか。あちらで会えるかもしれませんね」と南湖。

「江漢先生と言えば地動説という新説を聞いて、大いに目を開かれました」 と玉堂は豊蘭に手毬を持参させ、先日聞いた話の受け売りをした後、オランダ式勘定も説明してから今日の払いはオランダ式にしようと提案した。
「ははあ、なるほどそれは煩わしくなくてよいですな」
 と南湖も意外に素直に同意した。
 このやりとりを聞いていた豊蘭が感心したように言った。
「最近稀に聞く清々しいお話しですこと。御家中のお侍に聞かせてやりたいですわ」
「そなたもそう思うか。地動説というのは面白いだろう」
 と玉堂が言うと
「いいえ、そのお話しは狐につままれているようでさっぱり判りません。わたしが感心しているのはオランダ式勘定方式のことですよ。最近のお侍さんは商人にたかることばかり考えているんだから。同輩同志できても相手に払わせることばかり考えているし、武士道も地に落ちたものですよ。全く。あら御免なさい、お二人もお武家さんでしたわね」
 と豊蘭が口元を両手で慌てて抑えた。その仕種に二人は苦笑した。
 さされるままに杯を傾け、積もる話に時間が経つのも忘れて話しこむ二人であったが、豊蘭に請われて玉堂は琴を弾いた。

 南湖は筆と硯と半紙を持ってこさせ、芸妓の姿絵を軽妙な筆さばきで描いて手渡すことのできる遊び上手であった。
「ありがとうございます。絵は難しくて真似はできませんが、琴なら弾けそうです。玉堂先生。わたしもお琴を習いたいのですが弟子入りさせては戴けませんか」
 と琴の音にうっとりして聞き惚れていた豊蘭が、酔いの廻った妖艶な顔で玉堂にせがんだ。
「宮仕えの身だからそれは出来ぬ」
「ではお役目を辞められたらお弟子にとって戴けますか」
「そのときにはよかろう」
「まあ、嬉しい。一番弟子ですね。きっとお約束ですよ」
「玉堂殿、致仕するお考えがあるのですか」
 と聞き咎めた南湖が心配そうに聞いた。
「なあに、座興でござる」
「まあ、憎らしい」
 と豊蘭がわざとしなを作って玉堂を叩く真似をした。
 玉堂の心に宮仕えを辞めて弟子をとり、琴三昧の生活もいいなという考えが芽生えたのはこの時であった。

 この夜は玉堂宅へ泊めて貰った南湖は玉堂の娘之(ゆき)が奏でる箏に耳を傾けた。そして翌日には玉堂も同道して備中屋安之助宅を訪問した。備中屋の藤田家は河本家と並び立つほどの岡山の豪商で代々風雅の道を好み当代の一流人士と幅広い交際があった。南湖は安之助の依頼に応じて違い棚や襖に山水図を描いた。玉堂とは余程肝胆あい照らしたと見えて長崎からの帰途再び南湖は玉堂宅を訪れている。
 寛政元年(1789)予てより準備を進めていた「玉堂琴譜」を京都の芸香堂・玉樹堂から出版した。二月には河本立軒のために琴を作った。
             



2005年07月11日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂27

 天明七年(1787)五月七日大目付役を突然罷免され、大取次御小姓支配役を仰せつけられた。これは閑職であり明らかに左遷であった。

 玉堂には左遷された理由はほぼ見当がついていた。昨年正月に本藩の藩主池田治政公にお目見えして以来、藩主の政直の態度がよそよそしくなり、玉堂を避けるようになっていたのである。しかし自分の信念を曲げて藩主におもねることはできなかった。玉堂は従前と変わることなく平然と出仕し、若い家士をつかまえては綱紀粛清の道理を説いて倦むところがなかった。


 そんなある日、赤穂屋喜左衛門が司馬江漢を連れて玉堂宅を訪問した。喜左衛門は大阪の木村拳霞堂とも商売や風雅の面で交流のある岡山の富商で玉堂とはよく気があい親密な交遊があった。たまたま司馬江漢が長崎へ蘭学の修業に赴く途中立ち寄ったのである。
 司馬江漢は江戸の人で、はじめ狩野派に学び浮世絵なども描いたが、後に平賀源内、前野良沢らと交わって蘭学を学んだ。天明三年(1783)日本で初めて腐食法による銅版画を制作し、洋画風の絵画も多く残した。西洋文化に深い関心を示し地動説を紹介した。また、封建社会の不合理を批判したり、人間平等論の萌芽も見られた。晩年には虚無的厭世的な傾向を強めた。著書に「西洋画談」「和蘭天説」「天地理譚」がある。
 玉堂宅では安が豆腐と蒲鉾に酒をつけてもてなした。

「どうです、今日は司馬先生の壮行会ということで、これから席を変えて中の島へ繰り出し、大いに楽しみましょう。玉堂先生、ご自慢の琴をお忘れなく」
 と、喜左衛門は供の者に言いつけて駕籠を呼ばせると二人を籠へ押し込んだ。
「これは、これは赤穂屋の旦那様いつも御贔屓にあずかりまして」

 女中に案内されて部屋へ通るとやがて主が挨拶に来た。挨拶に出た主の顔を見て玉堂は驚いた。先日、大目付就任祝いの挨拶に鯛と酒樽を持参した堀源左衛門なのである。堀源左衛門は赤ら顔の眉ひとつ動かさず素知らぬ顔で初対面を装っている。場なれした喜左衛門の計らいで芸技もあげて、三人は時に艶めく下世話な話題に、時に高尚な芸術論にと風論淡発した。喜左衛門は座持ちが巧く三味線にあわせて浄瑠璃の名場面を語ったりした。     
江漢は現在取り組んでいる銅版画について熱っぽく語り、長崎へ行くのはこの同版画を完成させるための文献を探しに行くのも目的の一つだと語った。玉堂にとって江漢の遊んでいる世界は初めて垣間見る物珍しい世界ばかりで大いに蒙を開かれる思いであった。とりわけ彼の話した地動説はあたかも太陽が西から昇り、東へ沈むかの如き驚きであった。
「ははあ、この世界は丸い球であって自らぐるぐる廻りながら更に太陽の周囲を廻っているのですか、そしてどこまでもどこまでも海山を越えて真っ直ぐに進んでいけば元の場所へ戻ってくるということですか」
 と玉堂は江漢が説明に使った手毬に印をつけてぐるぐる廻して眺めながら感嘆の声を上げた。 

「さようマゼランというポルトガルの船乗りは船で世界を一周してこの世界は円いものであることを証明しております」
 と江漢がその該博な知識を披露するのであった。

 玉堂は勧められるままに杯を傾け、請われるままに七弦琴を弾き仙境に遊ぶ思いであった。この船宿「堀船」は玉堂には始めてであったが、左遷された鬱懐を晴らすにはいい場所だと思った。機会があればまた訪ねてみようと秘かに思っていた。七弦琴を弾く玉堂の側に侍っている芸技の豊蘭はうっとりした表情で琴の音に聞き入っていた。

 やがて引き上げる段になったとき、玉堂はやおら懐から取り出した巾着を喜左衛門に預けようとして二人の間で口論が始まった。
「玉堂先生それはいけませぬ。手前の方からお誘いしたのですからここは手前の方で持たせて戴きます。それにこの店は手前どもの馴染みの店なので節気払いにしてありますからどうか御心配なく」
 と喜左衛門は巾着を押し返してくる。
「お気持ちは有り難いが、拙者は痩せても枯れても、鴨方藩の大目付のお役目まで勤めた身でござる。立場上からも家法を曲げることはできませぬ。ここは是非拙者にお任せ下され」
 と押し問答が始まってしまった。

「オランダではこのような場合、お互いに折半するのが習わしになっておりますぞ。如何かなオランダ方式になさっては。合理的だと思いませぬか。拙者は客人ということで御馳走にあいなりますがの、はっはっはっ」
 と江漢はどこまでも屈託がない。

「なるほど、それは巧い方法じゃ。理屈にかなっておりますな。赤穂屋殿、今日のところは江漢先生の大岡裁きにき従うことにしましょうぞ」
 という玉堂の提案でその場は収まった。このやりとりを見送りに出た船宿主の源左衛門の蔭に隠れて豊蘭がじっと見つめていた
                                         



2005年07月10日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂26

 このとき西山拙州が玉堂の弾琴に感銘を受けて次の詩を残している。

  君蓋玉堂琴 奇珍値万金
  峩洋償夙志 韶 想遺音
  誰熟更張法 能伝鸞鳳吟
  南薫何日奏 解慍正民心

    君玉堂琴を蓋(か)う。奇珍にして万金に値(あた)る。
    峩洋として夙志を償い、韶 (しょうかく)遺音を想う。
    誰か熟(よ)く更に法を張りて、能く鸞鳳の吟を伝え、
    南薫何(いず)れの日か奏して慍(いかり)を解し民心を正さん。

 君は玉堂琴を買った。類稀なる珍しいもので非常に高価なものであった。琴の音の響きはけわしい山のように高く、広い海のような拡がりを持っていて、君の早くからの志にかなうものであり、その楽曲には太古に理想の皇帝舜が奏でたものに通じるものがある。今の世の中でいったい誰が更によく、法の精神を徹底させ、徳ある君子の世にだけ現れて鳴くという瑞鳥のさえずりを聞かせてくれるのだろうか。民の恨みや怒りが解かれて天下がよく治まっている時、吹くという南からの薫ぐわしい風は何時ふいて太平の世がくるのだろうか。
                                  
 胸襟を開いて清談に耽りながら杯を酌み交わしているうちに、正月に玉堂が本藩の藩主に敢然として所見を開陳したことも話題になっていた。鴨方の田舎に身をひそめてじっと世の中を眺めていた拙斉には玉堂の言動と人柄に清廉潔白で端正なものを感じとり、琴の音に耳を傾けているうちに感銘をうけたのである。詩にはその気持ちがよく現れている。         
 この年五月には母茂が81才で天寿を全うした。
 安永四年に母の古稀の寿宴を催したとき大阪生まれの朱子学者中井竹山が既述のように寿詩を贈っており、その末尾の付記に「浦上氏幼にして孤、母氏実に義方の訓あり」と書いている。また「自識玉堂壁」の冒頭で「玉堂琴士幼にして孤、九才始めて小学を読み、長ずるに及んで琴を学ぶ。他の才能なく迂癖愚鈍、凡そ世のいわゆる博打、歌舞の芸、おろかにして知識なし」と自ら記している。このように幼くして父を失い、母の手ひとつで浮薄な道に走らないよう徳義を旨として育てられた玉堂にとって、天寿であったとはいえ精神的な支えであった母を失った悲しみは大きかった。
       



2005年07月09日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂25

 その一方で恩師の玉田黙翁が89才の天命を全うして永眠するという不幸もあった。なお玉田黙翁が健在であったこの年正月三十日付けの司馬江漢より浦上玉堂宛の書簡が残っていて 

「先達者玉田翁僊薬百目被遣 此代六○為持上候 御落手可被下候」
 となっていて玉田黙翁処方の薬を玉堂が司馬江漢へ仲介している。
更にこの書簡の追伸として 

「紅毛者色々出候得共 遠方故御目に懸難候」
 とあり、玉堂の好奇心の強さと交遊が多方面にわたっていたことを窺わせる。

天明六年(1786)正月、本藩の藩主池田治政へ初めてお目見えした。   
初のお目見えであるから藩主から特に下問のない限り、挨拶だけ言上して引き下がるのが通例であるが、この御目見えでは大飢饉についてどのように考えるかとの下問が特別にあった。知行合一を実践しようとしている玉堂は下問に対して臆することなく所信を表明した。

 先ず当面の飢饉対策としては、

 ・藩が米価の暴騰を利用して米の転売により利さやを稼いでいるのを即刻やめること、         
・商人から借銀してでも領民の救済対策にもっと力を入れること、
 ・当面年貢の税率を低くして困窮民の窮状を緩和すること、
 ・音物禁止令の適用を厳格にして儀礼的な贈答を全面禁止し贈収賄の絶滅を徹底して藩経費の節減を図ること
 を挙げ

 次に将来の対策として

 ・児島湾の干拓を積極的に推進し収穫高の増大を図ること
 ・甘薯の山地栽培を奨励し米麦の補完的な役割を持たせるようにすること ・藩財政の独立採算制を断行し本藩に頼らず自己の才覚で財政運用できる体制を作ること
 ・参勤交代制度を幕府に働きかけて廃止し、経費節減を図ること
 と主張し

 最後に上下ともに教導して良知を致し質実剛健で規律ある藩風を確立することが最も大切なことであると結んだ

 鴨方藩主政直と平生行っているやりとりと、同じような内容の繰り返しに過ぎなかったが、何時も煮え切らない態度をとる政直に対して、大きな影響力を持つ本藩の藩主に直接意見を開陳できたので、鬱屈する気持ちが晴れる思いであった
 しかしながら玉堂が受けた印象は、私淑する光政とも理想の君主として仕えた政香とも全く肌合いが違っており、政直と同類の凡庸な藩主であった。

 この頃琴を自作することも面白くなっていて、石室眷兄のために唐製琴の「雷かく」に模した琴を作って贈った。

 春の一日、予て交遊を結んでいた赤松滄州、西山拙斉、菅茶山、姫井桃源が玉堂宅に会合して酒宴を催し夜ふけて玉堂の琴に聞き入った。

 赤松滄州は播磨の人で医学に通じた儒学者で赤穂藩の藩儒となり、家老を勤めて治績を残した後、致仕してからは京都で儒学を講じていた。

 西山拙斉は鴨方の儒学者で、若い頃大阪で医学と朱子学を学び詩をよくした。この頃は郷里で欽塾を開いて育英に任じておりその高潔な人格を讃えられていた。
 菅茶山は備後の詩人であり、姫井桃源は岡山藩の儒官であった。
                                                                



2005年07月08日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂24

 天明三年(1783)には毛利扶揺が六年後に出版される玉堂琴譜の序文を脱稿しているからこの頃、玉堂は余暇に没入する世界では琴譜出版の準備に余念がなかった。

 毛利扶揺は豊後国佐伯侯の庶子で名は聚、字は公錦、図書と称した漢学者である。水戸藩の家老山野辺義胤に養子いりしたが後に離縁され以後は江戸で文墨一筋で過ごした。

 毛利扶揺の詩の中に玉堂との親密な交遊を窺わせる次のような詩がある。

  春日含輝亭ニ遊ブ 紀君輔琴ノ賦ヲ弾テ贈ル
  一唔空亭上 相知旧侶同
  江花薫酒溘 嶽雪照緑桐
  逐臭幽闌合 移情流水通
  曲中無限意 挙目送帰鴻

   一唔す空亭の上(ほとり)、相知ること旧侶同じ。
   江花 酒溘(しゅこう)を薫じ、嶽雪 緑桐を照らす。
   臭を逐えば幽闌(ゆうらん)合し、情を移せば流水通る。
   曲中 無限の意、目を挙げて帰鴻を送る。

 誰もいない含輝亭で偶然にも玉堂に出会った。一目会っただけで長年の友人のように親しみあった。そこは川のほとりで花は咲き乱れ、酒のにおいとともに芳しい香を放ち、山野の残雪は輝いて桐葉を照らす。じっと匂えばかぐわしい蘭のようなかすかな匂いが満ち、心は何のわだかまりもなく通じ合う。彼の弾く曲には無限の味わいがあり、じっと聞きすます私の目には、ねぐらに帰る鳥が空高く見える」
     
 天明五年(1785)家庭的には慶事があり次男の紀二郎(秋琴)が生まれた。又母親茂の八十才の祝いの年にあたり鴨方藩領内の儒学者が次のような寿詞を寄せている。

  浦上氏令堂八十初度ヲ寿ギ奉ル
  退食自公爰問安 南山唱寿坐団欒
  凱風翻奏瑶琴曲 愛日新成金鼎丹
  錫類何唯東閣望 平友況奉北堂歓
  歓声自是春難老 班綵蹲前帯笑看

   退食公(たいしょくおおやけ)よりし、爰(ここ)に安(あん)を問う
   南山唱寿(なんざんしょうじゅ)し、団欒に坐す
   凱風(がいふう)翻奏(はんそう)す、瑶琴(ようきん)の曲
   愛日新成(あいじつしんせい) 金鼎丹(きんていたん)
   錫類(しゃくるい)何ぞただ東閣を望まん
   平友(へいゆう)況(いわん)や北堂を歓び
   歓声この春より老い難し
   班綵(はんさい)の蹲前(そんぜん) 笑看を帯ぶ

 公より職を退いてここに母堂の安否をお伺いします。丁度八十才の誕生日を迎えそのお祝いに人々が多く集まっている。その喜びの中、琴を奏でる。不老不死の薬もあり、身を潔める錫もありこれ以上望むものはない。
                          



2005年07月07日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂23

「藩の収入が減っては体面も保てなくなるではないか。お前は政治悪だというが、必要悪ということだってあるではないか」
「非常時に体面を言っているときでしょうか。税を減らして収入の減った分は藩の出費を抑えるよう倹約につとめることです。例えば参勤交代を取り止めて経費節減を図ることを幕府に働きかけてみる方法だってあるでしょう」「そんな大それたことができる訳ないではないか。それこそ不忠になる」
「最初から諦めているのではなく、先ず行動してみることではないでしょうか」

「それは難しい。本藩の治政様だってそんなだいそれたことを幕府へ進言できる筈がないではないか」
「今すぐの対策としては間に合いませんが、児島湾の干拓事業にもっと力を入れて耕地面積を増やし収穫を上げることです。また米、麦の代用になる甘薯の山地栽培を奨励してみるのも有力でしょう。それにもっと基本的なこととして、藩財政を独立採算にして自己の才覚で財政運営できるよう制度を改定する必要があると思います」
「干拓事業と甘薯の山地栽培は確かにお前の言うように努力しなければならない課題だとは思うが即効性がない。そして藩財政の独立採算化は本藩から独立してしまうという意味合いがあり独自の組織を編成しなければならずそのためには人と経費が余計にかかるではないか。現実的ではないと思うし、大体本藩に対して謀叛の心ありと疑われる恐れだってあるではないか」
 と政直の反応はあくまで成り行きまかせで現状改革の意欲は微塵も窺えないものであった。

「経費節減について、もっと言えば儀礼的な慣行を見直して例えば贈答を厳禁することです。そもそも光政公が音物禁止令を出され、その後何回か禁止令がだされているにもかかわらず、これが遵守されません。綱紀粛清に藩主が率先して範を垂れ弛緩した綱紀を引き締めるのが最も有効な方法だと思いますが」
「幕府の要人に対する付け届けを惜しむと赤穂藩の二の舞になってしまうじゃあないか」        
「そこのところを将軍に道理を説いて、奸臣を追放し上から変えていく努力をなさるのが将軍の臣下たる藩主としてのお勤めであり、忠節を尽くし仁政を実現する道ではないでしょうか」
 と食い下がっていく玉堂であった。
「松の廊下の刃傷についてだって、幕府は吉良殿にお咎めなしの裁定をなさっておる。この事件は場所柄を弁えず私怨を晴らそうとした乱心行為だというのがその理由なのだ。浅野殿にもっと領民の幸せを願う慈しみの心があれば浅野殿の個人的な屈辱は我慢できたのではないか。それこそ不徳の藩主だったというのが公式の見解なのだ。更に四十七士の討ち入りにしろ幕府を恐れぬ不埒な行為として浅野家の再興は許していないし、首謀者大石以下全員切腹させられている。切腹ということで武士の面目をたてるようはからっているのだ。いずれにしても幕府に逆らうのは得策でない」
「それがしにはそうとは思えませぬ。四十七士は幕府の片手落ちのお裁きに異議を唱えて自ずからの良知に従い命をかけて理非曲直を世間に問うた義挙であると思っております」        
「馬鹿な世間の者はそのようにいうが、それは弱い者のいうことであって世の中そんなに甘いものではない。すべては強い者に道理があるのだ。強い者が黒いものを白だといえば白になるのが世の中だと儂は考える。お前はいつもそのように理想論ばかり言うが、人間きれいな空気ばかり吸って生きていけるわけがないではないか。あまりにも現実を知らなすぎる理屈ではないのか」
「それがしにはそうとはおもえませぬ。世の中が乱れてくればくる程、正義を主張して警鐘を鳴らさなければと思っております」

「学者がそう言って主張するのは仮によいとしても、お前は民を治める立場だ。もっと現実をよく見て時勢に順応していかなければ藩自体が幕府に睨まれてたちいかなくなることだってあるだろう。むしろそちらの方が怖いことだ。それに百姓・町民共は牛、馬よりは多少ましな生き物でおとなしく年貢を治めていればいいのだ。百姓達がいなくなってしまうと米が作れなくなって困るから、家康公も言われたように連中は生かさぬよう殺さぬよう絞りあげていくのが治世の要諦だと思うがのう。ましてや全国的な大飢饉のときは非常時なんだからどの藩だって、満足のいくような救済のできるわけがないではないか。餓死する者は運命だと思って諦めて貰うしかしようがないではないか。暫く成り行きを見守ろう」

 実りのない議論を終わって退出した玉堂は、例え愚だと言われ融通のきかない狷介な性格だと思われようが自分の良知を致し、繰り返し何度でも懲りずに主張し実践していくしかないなと観念する孤高の陽明学徒であった。


 ところで余談であるが、世の中には絶対的な究極価値は一つしかないという価値絶対主義の立場に立てば、自分と異なる価値観を主張する相手に対しては、これをあらゆる手段に訴えて説得し、同化させるか、相手を抹殺するしか方法がなくなってくる。これは最も先鋭化した宗教の立場とか例えばヒットラーの如き立場しかないことになる。
 これに対して、世の中には相対的な価値しか存在しないとする価値相対主義の立場にたてば価値観が異なる二人が対峙した場合、相手の立場を全否定はしないが、相手から自分の立場も全否定させないという態度をとることになり、お互いに価値観を微修正しながら折り合える場を探し求めていくことになる。もしも共存できる場が見つからない場合には袂を分かち、別の世界で暮らすしかなくなることになる。この立場はデモクラシーの立場である。こうした見方で観察した場合、玉堂は価値相対主義の立場をとっていたように筆者には思えてならない。



2005年07月06日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂22

 備前備中でも東北地方の如く飢餓民が人肉を食むというほどのものではなかったが前年に続き飢饉が発生した。

 玉堂は承応三年の大飢饉の時に光政がとった大救済事業に倣って、藩米の放出と有力町人からの借銀による窮民の救済を献策したが、今回の飢饉が全国的な規模のものであったせいもあって、地主や商人の買い占め売り惜しみとあいまって米価が暴騰し他藩から米を買いつけることは非常に難儀を極めた。本藩の岡山藩がこの大飢饉に際して取りえた領民の救済対策は天明四年に米一万俵と銀四百貫を飢餓者に支給するという程度のことしかできなかった。

 しかも幕府からは洪水で荒廃した関東の諸河川の川浚の賦役を課されたため藩財政は困窮の度合いを増していく一方であった。

 このような状況に対処して積極果敢な対策を実施していける英邁な藩主を本藩である岡山藩も支藩の鴨方藩も戴いていなかった。当時の岡山藩主は池田治政であり、鴨方藩主は池田政直であったが両者とも幕政随順型の凡庸な藩主であり幕府の田沼意次が行った賄賂政治の醸成した綱紀弛緩の風潮に危機感を持つ精神すら欠如していた。
「今回の飢饉は承応三年の飢饉を上回る規模の未曾有のものですから本藩と支藩合わせて一万石の救援米と四百貫の銀だけでは焼け石に水です。もっと有効な手を打たなければ餓死者が増える一方です」
 と玉堂は深刻な語調で藩主政直へ進言した。

「藩の米蔵は底をついたし、米価が高騰してしまい米商人から買い入れようにも金がないではないか。ましてや我が鴨方支藩の財政は本藩の岡山藩からの交付金で賄われているので、自らの才覚で臨時の予算を組むことはできない仕掛けになっておる。ない袖は振れぬのがものの道理じゃ。ここは成り行きに任すしか致し方あるまい。それともそちに何か良い思案でもあるか。あるなら申してみよ」
 と政直が応じた。鴨方藩の財政は藩成立当初から独立採算を基調とするものではなく、本藩に依存する傾向が強かった。即ち鴨方藩の領知高に本藩の平均税率を掛けたものが与えられ、この範囲で財政を賄う仕組みになっていた。赤字のときは本藩からの補助を仰がねばならなかったのである。

「金がなければ商人から借りてでも飢餓民対策をするのが仁政というものでしょう」
「金利が高騰しているし商人が貸したがらなくなっている」
「それがしの調べたところでは、本藩では藩財政の窮乏を救うために購入した備蓄米を転売して米商人に売り付けて利ざやを稼いでは、それを藩費に充当しているではありませんか。これは君子のとるべき施策ではなくて、悪政というものではないでしょうか。先ずこれを正して止めて戴くことです。次に税を軽くして領民達に当面の飢餓の危機を切り抜けさせることです」



2005年07月05日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂21

 十一.左遷
                                  
 天明二年(1782)38才の時江戸で選集された「大東詩集」に玉堂の詩、従軍行が一編だけ採録された。井上金峨の高弟である原狂斉がこの詩集には序を寄せていから、金峨の故縁を頼りに自作の詩を世に問うてみようと原狂斉らの編集者に採録を願って奔走した成果といえる。

  従軍行
  漢王推轂去 飛将向楼蘭
  不厭辺城苦 祇思社稷安
  陰風金鼓動 朔雪鉄衣寒
  欲払胡塵色 征人撫剱看

   漢王轂(こしき)を推して去り、飛びて将(まさ)に楼蘭に向わんとす。
   辺城の苦しみを厭わず、祇(ただ)社稷(しゃしょく)の安きを思う。陰風に金鼓動き、朔雪に鉄衣寒し。

 天明三年の天候は全国的な異常気象で土用に冬着を必要とするほどの冷夏であり全国的な大凶作となった。特に関東地方では、六月に発生した利根川をはじめとする諸河川の大洪水、七月に噴火した浅間山の「浅間焼け」による流出溶岩流、降灰等の天災も重なって未曾有の大凶作となった。冷夏の被害は東北地方へ行くほど甚大であった。天候不順は翌年以降も続いたため天明三年から八年にかけて全国的に大飢饉が発生した。

 天明大飢饉の様子を三河岡崎生まれで流浪の著述家、菅江真澄の紀行文「楚堵賀浜風」から覗いてみると次のように凄惨な地獄図であった。

<天明五年(1785)八月三日、出羽の境、木蓮寺の坂を越えて陸奥国津軽に入った菅江真澄は、海岸伝いに西津軽の村々を歩き、鰺ケ沢の湊をへて十日に床前という村に足を踏み入れた。陰暦の八月といえば、もう初秋で空気もうすらつめたい。村の小道を歩いていると、草むらに雪のむら消えのように、人間の白骨が沢山散らばり、ある場所では山のように積まれているのが目についた。しゃれこうべの穴という穴から、すすき・女郎花が無心に生え出ている。驚いた真澄が思わず「ああ」と嘆声を発すると、うしろからきた百姓が「これはみな餓死者の骨なのです」という。

「一昨年卯歳の冬から昨春にかけて雪中で倒れ死んだ人達で、そのときはまだ息のあるのも大勢おりました。積み重なって道をふさいでいるので、通行人もそれを踏み越え踏み越え歩くのですが、夜道や夕暮れなどにはうっかり死体の骨を踏み折ったり、腐った腹などに足を突っ込んだりしたものです。その悪臭がどんなにひどいものかおわかりにはなりますまい。わたしどもは飢えから逃れるために、生きている馬を捕らえ、首に縄をかけて梁に吊るし脇差・小刀をその腹に突き刺して、血の滴る肉を草の根と一緒に煮て食べました。そればかりではありません。野原を駆ける鶏や犬を捕まえて食べ、それが尽きると自分の生んだ子や兄弟、或いは疫病に罹って死にかかっている者を脇差しで刺し殺してその肉を食べたり、胸のあたりを食い破って飢えを凌ぎました。人肉を食べた者は眼が狼のように異様に光ります。いまもそうした人間が村に沢山おります。今年もこのあいだの潮風で作柄がよくないので、またまた飢饉になりそうです」こう言い残すと、その百姓は泣きながら別の道を去っていった」(中央公論社刊の日本の歴史第十八巻、北島正元著天明の大飢饉より引用)>



2005年07月04日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂20

 翌日致仕して隠居している前任者を訪問し音物の取扱について前例を確かめると、儀礼的な範囲のものであれば、音物禁止令があるにもかかわらず、例え大目付であっても役職就任祝いの挨拶の品程度のものは受け取るのが礼にかなっているという見解のもとに慣行化されており、このことが問題になったことはないという回答であった。そんなことは皆がやっていることだし殊更に取り上げて藩内に波風立てることもなかろうという意見であった。

 やがていつとはなしに藩内で今度の大目付は礼儀しらずで融通がきかないという噂が流布するようになった。


 大目付けに昇進したこの年愛用の七弦琴を見本にして漆塗りの琴を自作しているが、寸暇を見つけては琴の世界へのめり込んでいった。煩わしい職務を忘れて無心に琴を弾くと心が洗われて明日への英気が養われるような気持ちになるのであった。

 やっと、新しい仕事にも慣れ、見えてきた役人達の執務態度は、役得意識の瀰漫、依怙贔屓の傾向、慢心と上司を軽んじ侮る傾向、前例準拠の保身主義、責任回避のことなかれ主義であり、良致知を研ぎ澄まし知行合一を実践して仁政を目指そうという陽明学の行動規範からは許せないものばかりであった。特に、藩主の政直は亡き兄への反発があるのか陽明学を毛嫌いしており、賄賂の横行を容認しようとする性向があり玉堂の頭を悩ませるところであった。



2005年07月03日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂19

 光政公の再来と期待され、仁政実現の理想に燃えた清廉潔白な若き藩主政香に薫陶を受けた玉堂にとって、新しい役目は気の重い任務であった。政務監察の役目は藩政全般を大所高所から監査して、不審を明らかにし、不明を教化し、不良を改善し、不正を糺して藩務の効率化、合理化を図っていくことにあったが、真剣になって真面目に監察の目で周囲を見回せば賄賂、役得の横行がすぐさま目についた。年貢を納める領民の心はすさび、役人の無責任、無気力とそれとは裏腹の横柄な態度が蔓延していて社会の実態はほとほと目にあまるものばかりであった。現実の社会は玉堂の目指していた理想の政治とはあまりにもかけ離れ過ぎていた。それでも就任当初は正義感に燃えて、仁義の道を説き綱紀の粛正を目指して家臣の教化善導に力を注いだが、弛緩しきった家臣達の心に改革の灯を点じることはできなかった。

「殿様、船宿講の堀様がお見えですが」
 と安が奥の部屋で未完成の絵に筆を入れている玉堂へ取り次いだ。大目付の辞令を頂いて一両日経ち、退庁して藩邸の自室で寛いでいるときのことであった。
「はて、用向きは」
「大目付御就任のお祝いと御挨拶だと申されてこのような品を御持参になりましたが」
 と言って安がとれたてらしく、まだぴちぴち動いている大きな鯛の入った籠と朱塗りの酒樽を重たそうに運んできて見せた。
「はて、挨拶にしてはこのような大行なものを・・・とりあえずはお通ししてくれ」
 お茂に案内されて入ってきた男は小気味よく太った赤ら顔の男で、縞の羽織を着て揉み手をしながら愛想笑いを浮かべて入ってきた。
「お初にお目にかかります。手前、堀源左衛門と申しまして中の島で船宿を営んでおりまする。このたびは大役の御就任、祝着に存じます、何はともあれ中の島の船宿講の代表として御挨拶に参上致しました」
「これはまた、ご丁寧に。ところでこのような物を持参されては困ります。お定めにより挨拶に音物の持参は禁止されているのは御存の筈だが」
「まま、そう固いことを仰らずにほんのお近づきの印ですから」
「お役目柄それは困る」
「これはまた律儀なことを。殿様はお若いのでまだご存じないかもしれませぬが、大目付に御就任になれば先ず、船宿講で鯛と酒樽をお届けしてお祝い申し上げるのがしきたりになっております。前任の方もその前の方にも受けて頂いておりますので、これはもう受けて頂かなければ手前の立場がありませぬ」
「いやいや前例がどうあろうともお定めはお定めだから、取り締まる立場にある拙者としては受け取るわけにはいかぬ。気持ちだけは有り難く頂戴するがこの品は持ちかえって下され」
とこのような受けよ受けぬの押し問答が繰り返された後、堀源左衛門は首をかしげながら竹籠と酒樽を下男に担がせて引き上げていった。

 堀源左衛門を追い返してほっとしたのも束の間で、今度は鴨方の郡代がこれも酒樽と竹皮製で二つ折りの籠に包まれた大きな鯛の浜焼きを持って挨拶にきた。人目を憚って九里の夜道を馬を飛ばしてやってきたので遅くなってしまったと弁解した。備中鴨方は備前岡山の西方35・の地点にあり、ここへ郡代を置いて知行地の管理にあたられているのである。

 郡代の主たる職掌は鴨方藩の知行地に設けられた陣屋に常駐して、年貢の取立率を決定し、領地を巡回して農事を奨励し風俗の改善をはかり、村役人を監督して人柄の清潔な者を任命するとともに、宗門改め・諸法度の伝達などであった。郡代は領地の用水・普請・御林等の検分、高掛物の割当の取締り、加損改・作柄予想・新田の収穫量と年貢の見積もり等の時には、これらの実務に詳しい下役人の助言を受けて業務を執行したから鴨方藩の現地駐在最高責任者であった。

 こちらの方も道理を説いて持参した品は持ち帰らせたが、就任そうそう、いきなり思いもかけなかった二人の音物攻勢に兵右衛門は考えこんでしまった。
<禁止令があることと役目柄を理由に心尽くしの贈り物を受け取らず、二人ともつれなく追い返してしまったが儀礼の点から問題はなかったか。孔子は礼を教えの基本において特に重んじているから今回儂のとった態度はその点からいえば礼に反したことになるのではなかろうか。それにしても堀源左衛門の場合は市内だからまだいいとしても、郡代の場合は遠路鴨方からわざわざ祝いにきてくれたのに追い返してしまったのは気の毒なことをしたな。その労を多とする意味からも受け取っておいて後日同価値のものを届けるということでもよかったのではなかろうか。そうすれば儂には役得をしたいという私心のないことが判って貰えて相手に嫌な思いをさせなくて済んだのではないだろうか。いやいやそれはいけないことだ。最初は小さな単なる儀礼的な音物のつもりが次第に過熱して利益誘導の手段になり果てるということなんだろうな。音物禁止令の趣旨はそういうことに違いなかろう。それにしても彼等の魂胆は何だろう。堀源左衛門は船宿講の代表と言っていたな、すると講全体として何か企みがあるな、そうか運上金の率について匙加減をして貰いたいということか。それでは郡代の狙いはなんだろう。郡代は肝煎(きもいり、村の世話役)に対して年貢の取立率を決める権限を持っているから郡代と肝煎の間になにかいわくがありそうだな。それにしても重役就任の初日からこんな状態だから、藩内で利権の伴う役目のところへは、相当な賄賂が贈られていると考えてもいいのだろうな。これは余程心してかからなければ、誘惑に負けてしまいそうだな。この悪弊を直していくのは相当難儀なことだろうなあ、どうしたらいいのだろう>

 と兵右衛門は自問自答しながら重役に就任してから日を置かずして、綱紀弛緩の匂いを嗅ぎつけ前途に待ち受けている役目の難儀に思いを致すのであった。


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