前潟都窪の日記

2005年07月22日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂38

 宿舎は磐梯山南麓に与えられ、猪苗代湖が一望できる風光明媚の地であった。ここへ逗留中に次の詩を作った。これは後集の第一詩である。

   卜居
   吁是琴翁子 心破絶知音
   超然去汚世 卜居会山峰
   魔室四席半 後有小竹林
   西園果桃実 東圃種薬岑
   携酒同友至 抱琴与月吟

    ああ是の琴翁子 心破れて知音を絶つ
    超然として汚世を去り 居を会山の峰に卜す
    魔室四席半 後に小竹林あり
    西園に桃実(とうじつ)果(みの)り 東圃に薬岑(やくぎん)を種(う)う
    酒を携えて友と同じに至り 琴を抱きて月とともに吟ず

 ああ琴人であるこの私は、仁政を実現しようと燃え立っていた気持ちも破れてしまい、友人との消息も絶ち、この世の汚さに超然として会津の山に居を定めることになった。部屋は四畳半で家の後ろに小さな竹林があり、西の庭には桃が実り、東の畑には薬草の苗が植えてある。時には訪ねてくれる友とともに酒を飲みつつ、月光の下で琴を弾いて嘯そぶくのである。
                                  
 この詩では「心破れて」と、かつて抱いていた夢が心の隅をよぎってはいるが、絶望感や敢えて自分を痴とか愚と言い聞かせようとする姿勢もなくなっている。あるがままの自分を受け入れて世捨人として生きていこうとする決意の表明と読み取ることができる
 寛政八年三月一日、玉堂は江戸の会津藩邸へ赴任する秋琴と和学修業のために初上洛する大竹政文を伴ってまだ雪の残る会津を旅立った。
 江戸への道中の途中、小仏峠を越えて諏訪神社の参詣を済ませて矢島家へ立ち寄った。
 ここで催された雅宴では請われるままに扇面に詩を賦し自製の琴を贈った。

 矢島家へは次の詩を残している。

   春行吟入白雲深 金沢青楊酔心易 
   一段別情詩酒外 片心解贈七弦琴

    春行 吟じ入り 白雲深し、金沢青楊(きんたくせいよう)酔心易し
    一段の別情 詩酒の外、片心解けて七弦の琴を贈る

 詩を吟じながら会津から信濃へやってきた。空には白雲がかかり、湖はきらきらと金色に輝き青い柳はすくすくと伸びてうっとりする眺めである。人との別れということになると酒ばかり飲んで平然と詩をつくるだけでは済むまい。また別な感慨なども催してきて七弦の琴を贈りたくなった。
 伸び伸びとおおらかに自然の風物を楽しみ、酒酌み交わしながら詩を作るなどして風雅の道を楽しんでいると、気持ちが通じあい大事にしていた自製の琴を記念に贈りたくなったとはしゃいでいる玉堂の姿が彷彿とする詩である。鬱屈した気分はもう感じられなくなっている。



2005年07月21日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂37

 その後、又、御小姓の望月志津馬、田中兵七も入門を仰せつけられ、皆段々に修業を積み、文之助はその後、玉堂の住居へ引き移っての、昼夜の稽古であった。彼は会津へ帰る前に再び訴えを出した。即ち、志津馬、兵七両人は御用の暇々での修業であるのでなかなか及び兼ね、その上、全体に、神楽歌、催馬楽等は、古来諸国の大社などで伝えてこられたものであるが、数百年来、都市部においても田舎においても共に断絶してしまったのでその調べは一向に耳慣れない為、昼夜を分かたず稽古してさえなかなか容易ではなく且つ、神楽歌は呂律の黄声で楽器に合わさねばならず、歌方二人、和琴一人笛一人、都合五人が、昼夜合奏して練習しなければなかなか整うものではない。所が、最早、日にちもあまり残ってはいない。その上、私共は稽古してそこそこまで出来上がったとしても、国へ帰って、見弥山の楽人へ伝えようとした所で、私自身の稽古が付け焼き刃で、未熟なものなので、気がつかないうちに音律を間違えて教えることもあろう。そうなっては神に対して恐れ多いことである。且つ、せっかくそろっている楽人達へうまく伝えられないということになっては全く無駄なことになってしまう。その上、色々と江戸では物入りであるので、いっそのこと、玉堂を会津へ呼んで頂き、楽人共も玉堂共に一緒に取り組めば、万事うまくゆき、この秋のご祭礼には必ず再興できるのではなかろうか。

 ところで玉堂は三月中旬には上洛する予定であるし、又、尾州徳川家からも招待されているように聞いている。今、稽古の半ばで離れてしまってはこれまでの折角の修業が水泡に帰してしまう。京、尾州へ上がられるのをお止めすることが、見弥山御社御神楽の再興にもつながるので、何とぞ会津へ下っていただくよう勧めなければならない。百年来、諸国で絶えていたものをこのたび再興しようという思し召しこそ、国中どこにも例がなく、これも御仁政のおかげであり、且つ土津神社の御余光であることを肝に銘じ、寝食をも忘れ、労費も厭わず、稽古にはげみたい旨を申し出た。大竹喜三郎からも玉堂は松島を一見したい希望があるようなので、そのついでに会津へ立ち寄っていただくようお勧めすれば来てもらえるだろうということなので、年が改まったら私共の処へ来ていただき、決して負担をかけないよう取り計らい滞留中に指南を受けられれば、一番よいことであり、見弥山の御神楽役人達も願っているので、五十日ばかりの滞留でもよい旨の申し出があった。   この話しは上からの申し出ではないので、ことさら引き立てて取り扱うよう申しつけたが、馬の貸主等の件については話しを通さなければならず、このような取扱については内々は上から差し下されることになっているのもよくわかっているので、とりあえず支度金として文之助へ十両くらい渡して済むのかどうか老職方との協議があった。・・・ ついては内々必要な経費を渡し、文之助が同道の上で、是非会津に立ち寄り指南して欲しい旨申し上げた処、聞き入れて頂けた。

 玉堂は長男紀一郎を江戸町家に置き、今年九才になる二男紀二郎をつれ、四月二十八日江戸を立ち、五月初め福良に到着した。藩からは賄い方の者を遣わし、一汁五菜、酒肴吸い物を出し、次の日は滝沢村の郷頭宅で丁重にもてなされ、宿でも料理がだされ、町人佐治吉左衛門の別荘に落ちついた。そして、日向衛士が麻の上下姿で出迎えて挨拶などをし、その後料理などを出し、十三日には荒井文之助が御使いとして御樽代金五百疋と鯛三枚が届けられた。(佐々木承平著 浦上玉堂、小学館刊日本の美術五十六より引用)>
 このように手厚く処遇された玉堂は昼夜を分かたず指南に精を出した。そして傍ら、神楽再興のため、高田伊佐須美神社や塔寺八幡等の調査や藩文庫の古文書の調査にも携わった。

 玉堂の誠心誠意の努力に対し、格別の取り計らいで玉堂父子を祭礼以前に藩公へお目見えさせることが計画され、八月二十二日実行された。
 八月二十五日には見弥山御社の祭礼が挙行され神楽の再興は見事に成功した。
 玉堂の労に対して藩から銀子三十枚、二十匁掛け蝋燭百挺、御肴一種が贈られ秋琴には別に両絹二疋、肴代二百疋が下賜された。宿舎には特別の料理が用意され長期間にわたった玉堂父子の労がねぎらわれたのである。

 会津藩の行き届いた扱いに感動した玉堂は秋には江戸に戻るつもりであったが、予定を変更して翌年の春までの逗留を願いでて許された。また、手厚く律儀な会津藩の家風に触れて、まだ幼い秋琴を教育するには理想的なところだと考えるにいたり、和学兼神楽師範の大竹政文、御小姓の望月志津馬の二人に秋琴を藩の卑役にでも登用して欲しいと懇願した。大竹、望月の二人は早速玉堂の願いを家老に取り次いだところ、家老のほうからは少ない扶持でも永く勤める意志があるかと望月を通じて尋ねた後、取り合えず秋琴に出入り扶持七人分が下されることになり出仕が許された。

 会津藩が秋琴を召し抱えるにあたっては備前岡山藩へは脱藩浪人の子息を召し抱えるについて不都合がありやなしやの照会をおこなう念の入れ方であった。
 やがて扶持十人分に加増された上で、御役目は「若殿様御供方の次 御厩別当の上」と決められ末座ではあるが若殿様の近習にとりたてられたのである。このことは江戸詰めであり玉堂にとってはこのうえの願いはない恩情あふれる取扱であった。
 脱藩の決意を固めて以来最も玉堂の頭を悩ませていたのは、まだ幼い秋琴の将来のことであった。それが会津藩の士分として仕官がかなって後顧の憂いなく、密かに心に描いていた隠者の生活へ踏み出して行くことができるようになった。そのお礼奉公の意味もあって、玉堂は冬から春にかけて雪深い会津の地で約半年間過ごして、引き続き楽人達へ神楽習得の指導にあたったのである。
                                         



2005年07月20日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂36

 十四.大阪、江戸を経て会津へ                                      

 三月半ば過ぎまで城崎で過ごした玉堂は、岡山への脱藩届けを知り合いの者へ託送してから四月の初めには大阪へ到着していた。大阪を拠点にして詩集「玉堂琴士集」出版の準備をするのが目的であった。また木村拳霞堂を訪問してその豊富な収蔵品を鑑賞するとともにここへ集う文人達と交誼を取り結び、且つ鴨方藩の探索動向についての情報を得ることも目的の一つであった。宿屋に旅装を解くと拳霞堂へは四月四日には子供の中の一人を、六日には春琴、秋琴二人の子供を、十六日には春琴を訪問させておいて、自分は京都まで足をのばした。皆川淇園に序文を依頼するとともに京都詩壇の雄、村瀬栲亭、六如上人等には巻頭に寄せる言葉の寄稿を依頼して歩いた。このあと大阪へきていた片山北海から跋文を受け取ると讃岐へ急いだ。「玉堂琴士詩集」へ載せる名士達の原稿を讃岐の版元へ渡すとともに、讃岐の雅人池小村、山田呆々、後藤漆谷、山田鹿庭、長町竹石等からも巻頭に寄せる言葉の寄稿を依頼するためであった。

 玉堂が「玉堂琴士集」の出版にあたって学界、詩壇の錚々たる顔ぶれを揃えたのは、文雅の道で今後生きていこうとする意気込みを天下に宣言する意味をもっていたし、冷遇された鴨方藩主に対する決別宣言の意味を持つものでもあった。
 このあと再び大阪へ戻り五月二十七日、六月六日、六月二十八日、八月末日に木村拳霞堂を訪れてから江戸へ向かった。

 鴨方藩では玉堂の脱藩についてお構いなしの扱いにしたという情報を得てから初秋にはいって江戸で琴の教授所を開いた。

 入門者はたちまちのうちに増えて、繁盛し風雅の町人や諸藩藩士が多かった。
 やがて会津藩徒士荒井文之助が入門してきて、玉堂父子は会津藩へ手厚く招聘されることになる。この間の経緯について会津藩の記録である「家政実記」につぶさに記録されているところを見てみると

<寛政七年四月二十八日、見弥山御社御神楽御再興の為、備前浪人浦上玉堂江戸より罷り下らるの条。
 見弥山御社の御神楽は、その草創の初、城州八幡之神官、紀斉院という者が下向して曲節を伝授した。神楽歌は吉川惟足並びに杉沢彦五郎という者の詠作で、斉院がその音節を付し演奏したと伝えられているが、後世になって常に略奏で既にとりおこなわれ、その後ますます楽歌は絶えてしまったというように聞いている。

 ところで、玉堂は備前侯末家池田信濃守様の御家来で、浦上兵右衛門と申し、御用人を相勤めていた者であるが神楽、催馬楽、東遊歌、諸国の風俗、今様歌並びに管弦、鼓搏の調奏まで詳しく、江戸在勤の時には御家中へ指南もしていたが、今から十年(本実記編集当時から)ほど前に引退し、当時、頭髪を長く伸ばして束ね、鶴装衣という鶴の羽毛で作った毛衣を着、まるで中国の隠者のような恰好で江戸に住み、和漢の詩や音楽等、広く指南し、大名衆や旗本にも罷り出て教授していた処、会津藩の和学大竹喜三郎の門弟で供方を勤めていた荒井文之助という者を、寛政六年の秋、本番勤番の為江戸に登った際、旗本中沢彦次郎の紹介で玉堂の下に入門させ、見弥山奏楽の事をも玉堂に語り、音楽の稽古等をさせていたけれども、勤務に多忙で、音楽の修業はなかなか思うにまかせず、大変であることを藩の和学大竹喜三郎に訴えでた。

 見弥山の御神楽は、以前は完備していたが、今では楽歌や本末唱和の事をも絶えてしまい、その訳をすら知る者がいないようになってしまった。鳳翔院様、徳翁様の大いなるご賢慮を以て定めおかれた御神式の内、奏楽の件は全く不備となり、長年の間嘆かわしい事と思われていたが、このたび、荒井文之助が玉堂に入門して学んでいる内、本務を免じてもらいたく、且つ諸経費もいることなので送金してもらいたいこと、又、太鼓、和琴、横笛等も学ばなければ不完全であるので、一人ではとても及び兼ねるので、扶持方の組付、上崎辰六郎の弟芝三郎を江戸へ差し向けられ、二人で学びながら、一通りのことは会得したい旨を申し出てきたので、御家老とも協議の結果、見弥山神楽歌等の再興の為にもなることでもあるので、訴えの通り、文之助を御供方の勤めから免じ、彼の跡は当座誰かを雇うことにして、稽古に専念するように仰せつかった。且つ芝三郎を江戸へ登らせたついでに、御供方安恵雄蔵がかねてから雅楽を嗜んでいると聞いたので、江戸詰めを終えて帰る所であるから、彼の本務を繰り合わせ、稽古をするよう申し添え、その通り文之助、雄蔵両人へ申しつけた。



2005年07月19日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂35

 その意味するところは単に、勤めをおろそかにし、琴や花に明け暮れするそんな玉堂の姿の現象面だけを言っているだけでなく、そうならしめた原因も含めて、郷愿(きょうげん)の目から見れば、陽明学を信奉したことのある玉堂の言動を痴と見、愚と言っているという意味に解釈したい。

つまり、孔子が「郷愿(きょうげん)は徳の賊」と言っているように、<郷愿とは謗ろうにも非難しようにも、まるで尻尾のつかまえどころがなく、流俗と歩調をあわせ、汚れた世と呼吸をひとつにし、態度は忠信に似、行為は廉潔に似、誰からも愛され、自分でも正しいと信じている・・(石田一良 東洋封建社会のモラル 平凡社 思想の歴史六巻)>小人のことである。

 また「陶令は遇うべからず、己(や)みなん、予を起たしむるもの無し」と詠じているのも世間には郷愿がいかに多いと感じているかという心情を吐露したものと解釈したい。

 寛政九年以降に出版された詩集「名公妙評玉堂集」(後集)の中に次のような詩があり五十才で出奔することを予め心の中に決めていたと読みとれる。

   五十年来一嘯中 荷衣衲々鬚瓢蓬
   烟霞深処人声絶 麋鹿群間搏尺桐

    五十年来 一嘯(いっしょう)のうち
    荷衣(かい)は衲々 鬚(しゅ)は瓢蓬(ひょうほう)
    烟霞深き処 人声絶え 麋鹿(びろく)の群間に尺桐を搏つ

 人生五十年、過去を振りかえると、あの腹から息を出して口笛を吹くように一笛の夢のような気がする。衣服はつぎはぎだらけのものとなり、髪は風に吹き飛ばされる枯れ蓬のようにはかない。人声すらない山中に、わたし独り自然と共に暮らしている。鹿の行き来するこの山中に桐の木でも植えようか。
                                  
 人生の節目とされる五十才を機会に転身を図り、世間に向けては人生を終わった者の行動であると宣言した詩だと読み取れる。



2005年07月18日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂34

   万金奇鳥困羅孚 千里名駒閙馳駆
   菽麦不分傍袖手 生来吾自守吾愚

     万金の奇鳥、羅孚(らふ)に困(くる)しみ、
     千里の名駒、馳駆に閙(さわ)がし。
     菽麦(しゅくばく)分たず、傍らに手を袖にす。
     生来、吾れ自ら吾が愚を守るのみ。

 万金に値する珍しい鳥は捕鳥網から逃れるのに苦労するし、一日千里を駆ける名馬は人を乗せて慌ただしく走りまわる。それに比べ無能の私は菽(まめ)と麦の区別もつかなくて袖に手を入れて珍鳥や名馬が活動しているのを傍らで眺めているだけだ。私は生来のこの愚かさをひたすら守って行くだけでよいのだ。

   梅花暗綻旭江春 独酌独吟懶益真
   唯有竜山峰上月 夜深来照鼓琴人

     梅花暗(ひそ)かに綻ぶ旭江の春。
     独酌独吟懶(らん)益々(ますます)真なり。
     唯だ竜山峰上に月あって、
     夜深くして来たって鼓琴の人を照らす。

 ここ岡山は旭川のあたりにも春が訪れ梅の花がひそかに綻びだした。独り酒を酌み独り琴を弾いては吟じていると、私のこのなげやりな生き方はますます本物になっていくようだ。旭川の向こうに遠く見える竜山の峰の上にかかった月だけが夜が更けて琴を弾いているこの自分を照らしてくれている。                                
   万銭買一琴 千銭買古書
   朝弾幽窓下 暮読寒燈余
   有衣聊換酒 有宇足求魚
   時或得佳客 論心歓何如
   酔歌忘日夕 襟期一清虚
   陶令不可遇 己矣無起予

     万銭もて一琴を買い、千銭もて古書を買う。
     朝には幽窓の下に弾じ、暮れには寒燈ののこりに読む。
     衣有りいささか酒に換え、宇(いえ)有り魚を求むるに足る。
     時に或は佳客を得、心を論(かたっ)て歓び何如(いかん)ぞ。    

 酔歌して日夕を忘れ、襟(むね)に期すひとたび清虚ならんと。陶令は遇うべからず、己(や)みなん、予を起たしむるもの無し。

 莫大な銭で琴を買い、多額の銭で古書を買った。早朝に人気のない静かな窓の下で琴を弾き、夕暮れには僅かに残った灯火の下で古書を読む。酒のないときは質入れして酒を買うだけの衣服はあるし、ちゃんとした家だってあるから、魚を買って調理することもできる。ときには気のあう客を迎え、胸襟を開いて語り合う歓びは、どれほどのものであろうか。酔い歌っていると昼夜を忘れ、まずは清浄虚静の境地に至ることができる。五斗の米のために阿ねるのを嫌って彭沢令の職を辞した陶淵明のような人物に出会えることももうあるまい。ああ悲しいことだが私の心を奮い立たせてくれるものはないのだ。
   
 これらの詩の中には脱藩前の玉堂の姿と心理がよく表現されている。この心理の動きを時の流れに従って柴田承平氏は次のように見事に読み取っておられる。
<若い生真面目な藩士であった玉堂にも宿志・・・・・・・・・つまりかねてからの希望が心の中で燃えていたのであるが、それも、いつのまにか、成らざることを認識するようになる。いわゆる希望から挫折へと落ちこんでゆくのであろうが、こうした精神的転換の中に、むしろ本来的な文人のパターンがあるともいえる。宿志成らずして、やがてその生活態度にも大きな変化がめだつようになり、それに気づきはじめた周囲の人々は、彼の行動、考え方、そして人間そのものを痴と見、愚と呼ぶようになる。そう呼ばれることを知っていた玉堂は、志をとげえなかった挫折感から、痴、愚と見られる境地にみずからを追いやらざるをえなかったのであろうが、そこには、やはり悔恨の念も去来していたようである。しかし、やがて、人が自分の痴愚を笑い、それを甘んじてうけ入れ、愚であることを自ら積極的に守ろうとするまでに心境は移行してゆく。これが脱藩時の頃までの玉堂の心の自然な流れであったとみてよかろう。(佐々木承平著浦上玉堂 小学館刊日本の美術56巻より引用)>



2005年07月17日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂33

 寛政六年(1794)四月二十一日城崎より出した脱藩届けが岡山へ届いた。
 斉藤一興の書いた「池田家履歴略記」にはこの間の事情が次のように記録されている。        
「池田信濃守家士浦上兵右衛門、同紀一郎・紀二郎、父子三人同道して、但州城崎の温泉に浴しけるが、彼地にて一分立ちがたき子細出来ぬとて、彼地より直に出奔せしよし書付を以て岡山に達しける。此書付四月二十一日到来せり、此兵右衛門、性質隠逸を好み、常に書画を翫び、琴を弾じ、詩を賦し、雅客を迎え、世俗のまじらひを謝し、只好事にのみ耽りければ、勤仕も心に任せずなり行き、終には仕をやむべきと思ひ定めしふるまひ、何ともなく形にあらはれ、人々いかがと思ひ居りけるが、今度出奔せしにて思ひ合わせし、城崎にて身のたたぬこと出来しといふは言をかまへたるにて、実は家を出しよりかく成るべき積もりにてぞありける」

 この文章からは同僚達にとって玉堂の脱藩は予測できた行動であり深刻には受け止められていないことが読みとれる。

 ところで玉堂の著作として二冊の漢詩集が現在に残されており、「玉堂琴士集」と称されている。前集と後集とがあり前集には六十一首、後集には七十八首の漢詩が収録されている。後集には刊行の年代が記されていないが、前集には甲寅年刊との記載があり寛政六年に讃岐で刊行されたことが判る。この前集に皆川淇園が四月九日付けの序文を書いているのでこの詩集には玉堂が城崎から脱藩状を岡山へ送りつける以前に作られた詩が搭載されていることになる。

 この詩集から何首か拾いだして玉堂の心境を追ってみることとしたい。

   磊萱生涯寄酔吟 劣能学得古般音
   到頭祉咲吾痴着 無一詩中不説琴

     らしょたる生涯酔吟に寄す。
     劣(わずか)に能く学び得たり古般の音。
     到頭祉(ただ)咲(わら)う吾が痴着を。
     一詩として中に琴を説かざるなし。

 あまりぱっとしない自分の生涯は、ただひたすら酔っては歌うことであった。
多少なりとも学び得たものと言えば古風なしらべだけである。
結局は自分の愚かさかげんをあざ笑うだけだ。
ただひたすらに琴の世界に耽り、詩を作れば何時も琴のことばかりを主題にしている。

   病中寓嘆
   病来愁白髪 夢断欲三更
   紙窓残月入 梧井宿鴉驚
   旧書展不続 宿志遂無成
   富貴何須問 痴愚畢此生

     病み来たって白髪を愁う。
     夢断たれて三更ならんと欲す。
     紙窓残月入り梧井(ごせい)宿鴉(しゅくあ)驚く。
     旧書展(ひらい)て読まず。
     宿志遂に成る無し。
     富貴何ぞ問うことを須(もち)いん。
     痴愚もて此の生を畢(おわ)らん。

 病床に臥して以来すっかり白髪が増えたしまった。夢が断たれて目覚めると真夜中だった。明かり障子からは残月の光が差し込んでいるなあと気がついた時、井戸端の青桐に止まって寝ていた鴉(からす)が何かの気配で騒ぎだした。寝つかれないままに愛読書を開いてみたが読む気がおこらない。ずうっと抱き続けてきた志も遂に成就できなかった。財産や地位など問題にすることもなかろう。自分は愚か者のままで一生を終わることだろうな。

   衰老身宜甘数奇 那論挙世笑吾痴
   春来聊有清忙事 唯是花開花落時

     衰老の身は宜しく数奇に甘んずべし。
     那(なん)ぞ論ぜん挙世吾が痴を笑うを。
     春来聊(いささ)か清忙の事あり。
     唯(ただ)是れ花開き花落つる時。

 年老いて体力の衰えた身では不遇の境遇に甘んじておくことを潔しとしよう。世間の人はこぞって私の愚かさを笑うであろうがそんなことは問題にすることではない。それよりも春になってからはいささか俗事に関わりのないことで忙しい。花が開き花が落ちるのを追っているだけで精一杯なのだ。

                            



2005年07月16日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂32

十三.脱藩
                                  

 寛政六年(1794)玉堂は五十才の年を迎えた。何回も何回も自問自答を繰り返し決意した脱藩決行の年を迎えたのである。節分までを家で過ごした玉堂は、仏前に座って母茂、妻安に脱藩決行の決意を秘かに報告した。

 藩に対しては立春とともに、心身疲労のため湯治にでかけたいからと休暇を願いでた。閑職であったから願いは直ちに聞き入れられ、玉堂は二人の子供春琴、秋琴を連れて但馬城崎へ湯治にでかけた。春琴、秋琴の二人の子供も父親と一緒の旅は始めてであったし、湯治も始めてのことだったので自炊用の薪木を拾いに山へ行ったり、魚の買い出しに浜へ漁師を訪ねたりと物珍しい体験に嬉々として過ごした。父にならって景色の写生をしたりして倦むところがなかった。山陰の風光は山陽とは異なった趣があった。海の幸も瀬戸内海ではみられない蟹や鮑などがあり食欲を増進させた。

 流石に長い逗留に飽きてきたのかある日、春琴が父に聞いた。
「既に一月近くになりますが、まだお帰りにはなりませぬか」
「そろそろ岡山が恋しくなってきたか。帰ってもお前達を可愛がってくれる母はもういないぞ」
「それでも父上のお役目があるのでは・・・」
「儂はもう岡山へは帰らぬ」
「えっ。何故ですか」
「脱藩するのじゃ。儂は国を捨てた」
「何故脱藩なさるのですか」
「儂の信念と意地を通すためじゃ」
「父上の信念とはどのようなことでしようか」
「儂は陽明学を信奉しているから、良知を致し知行合一を実践して仁政を実現しようと努めてきたが、こと志に反してもうこの藩では、儂の宿志は受け入れられなくなってしまった。そして個人的な生活信条も今の勤めを続けている限り守れなくなってきた」
「父上の生活信条とはどのようなものでしょうか」

「第一に威張らないこと。第二に嘘をつかないこと。第三に人を侮らないこと。第四に人を謗らないこと。第五に人を貶めないこと。この五つだ。お前達もうすうす気づいていたとは思うが儂の今までの挙措言動はこのような原則に基づいて行ってきたつもりだ。世間の俗物どもは、やれ融通がきかないとか頭が固いとか、贈り物もしない礼儀しらずだと言って非難をした。しかし、それは人それぞれの見方だから、謗られようと侮られようと儂は意に介しないで心の中になんのやましいこともなく生きてきた。人に後ろ指を指されるような反社会的な行為も悪事もしたことなく、ひたすら愚直に生きてきた。よくきれいな空気ばかり吸って生きていけるわけがないとか、世間の裏を知らなすぎるとかいかにも世の中の辛酸をなめつくしたような言い方をする人がいるが、人生や世間に対する態度が不遜に過ぎ、物の考え方が薄汚いと言わざるを得ないと思う。規範意識が乏しく倫理感の欠乏した人間ほど悲しくも哀れな存在はないと言えよう。私腹を肥やすために違法行為を行い、発覚すると藩のためにやった必要悪であり、それがお家のためには正当な行為であったと強弁し、たまたま露顕したのは運が悪かったのだとぐらいにしか捉えられない破廉恥な人間が藩内に増えてきていることは悲しいことだ。権力の頂点にいる者やそれに追随する者に規範意識がなく自ら禁則を破っておいて、下の者に対しては規則を守れと説いてもそれは通用しないということは経験則からも判っていることだろう。権力の頂点にいるから人は命令には従うかもしれないが腹の中ではせせら笑っているのが実情だろう。面従腹背ということだ。とかく愛想がよく弁のたつ人間には嘘つきが多く、ぶっきらぼうに見える口下手に誠実な人が多いというのが世の中なのだ。お前達がどのような考え方で生きようとそれはお前達の勝手だが、反社会的な行為と自分の良心に恥じる行為だけはしないようにして欲しい。多少くどくなってしまったが、これが儂の生活信条だ」

「お父上のお考えはよく判りました。それで、この次はどちらへ行かれるのですか」
「諸国を流浪する。とりあえずは大阪へ近いうちに行ってみようと思っている」
「岡山へはお立ち寄りにはならないのですか。藩へのお届けは」
「辞表を書いて送っておくだけで十分じゃ」
                   



2005年07月15日(金) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂31

 この年暮れには近江の歌僧海量が来訪して暫く玉堂宅へ逗留して年越しをした。
 海量は歌僧、学僧としても知られ近江国犬上郡開出今村の一向宗覚勝寺に生まれ二十余才で寺を甥に譲って全国を行脚し、江戸で歌を賀茂真淵に学んだ。このとき次の詩を賦している。

 玉堂ニ二児アリ 兄ハ十有四 弟は八共ニ書ヲ読ミ書画ヲ善クス 亦琴ヲ弾ク  

    此ヲ賦シテ贈ル
  京畿昔日共相知 今日山陽再会期
  千里川原嚢裡偈 満堂書画床頭詩
  更驚童稚弾琴妙 堪賞丹青絶世奇
  海内風流実不乏 能留飛錫作遊嬉

   京畿にて昔日共に相知る 今日山陽にて再び会期す
   千里の川原 嚢裡の偈 満堂の書画 床頭の詩
   更に驚く童稚の 琴を弾くこと妙なり 堪賞丹青 絶世の奇
   海内の風流実に乏しからず 能く飛錫を留めて遊嬉を作す

 その昔京畿で厚誼を結んだが、今日山陽路で再会し旧交を温めた。背中の袋の中にはありがたい仏の教えを説いた教典を入れて千里の道のりを歩いて来た。旧友の宅で揮毫して与えたり画を描いて貰ったりまた詩を作りあったりして楽しい時を過ごした。更に驚いたことに幼い児童が琴を弾いて聞かせてくれたが驚くほど上手であった。画に用いられている赤色や青色の使い方は実に鮮やかで世にも素晴らしい。天下の風流まさにここにありという趣である。行脚の足を休めて逗留しとても楽しく過ごした。
                                  
 翌年三月三日には讃岐の青山雲隣が主催した古書画展(陽春楼書画展観)へ淵上旭江と共に赴き、秘蔵の中国書画四点を出品した。この高松で開かれた書画展は長町竹石、後藤漆谷、梶原藍渠等が鑑査し青山雲隣の陽春楼が会場となった日本で最初の大規模な中国書画展観であり、八十二点が出品された。玉堂が出品した作品は次の四点であった。

 金碧仙山楼閣図・・・林寧      雪渓漁艇図・・・・・唐寅
 楚江春暁図・・・・・謝時国     草書・・・・・・・・陳献章

 そして玉堂は陽春楼書画展観目録の序に代えて次の詩を寄せている。

  維年在癸丑 至集陽春楼
  峻嶺金中鼓 茂林筆底収
  叙情文字飲 合契蘭亭遊
  俯仰為陳迹 感慨酌忘憂

   維(こ)れ年癸丑(としきちゅう)に在り、集めて陽春楼に至る
   峻嶺金中(しゅんれいきんちゅう)の鼓、 茂林筆底(もりんひって                 い)収る。
   文字に叙情して飲み、合して蘭亭の遊を契る
   俯仰して陳迹(ちんせき)を為し、感慨酌みて憂いを忘る

 この年寛政五年三月三日は丁度王羲之が蘭亭に人を集めた日であるが、ここは蘭亭でなくて陽春楼である。琴を弾き、鼓を打ち、そして絵筆をとりあくことがない。峻嶺といい茂林といい、蘭亭そのままといっていい。書き、歌って酒を飲み、ともに心で契りあう。 
 上を向き下を見てはここがその記念の土地となることを思い、さまざまな感慨を込めて酒を飲んで憂いを忘れようとする。
                                  
 四月四日には書家、儒者として有名であった細合半斉が来訪し、翌日には二人の子供を連れて半斉を訪問した。
脱藩の意志を固めた玉堂は積極的に文人墨客との交流をするようになり、いつこれを決行するか時期を窺っていた。繰り返し反問しているうちに、玉堂の内心では年齢五十才、妻の三回忌に当たる年というのが次第に目安として固まっていった。
 妻安の死後、この頃までに長女の之は岡山藩士成田鉄之進へ嫁いでおり、女手のなくなった身辺はにわかに寒々しくなり寂寥感もいやましていった。 閑職のためこの頃には表むきの御用は殆どなくなっていたし、若い藩士達もいつしかそれとなく玉堂を敬遠するようになっていた。                                     



2005年07月14日(木) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂30

 寛政三年(1791)五月に庭瀬の松林寺で開催された雅宴に招待され、釧雲水、淵上旭江、長町竹石らが合作した「山館読書図」に求められて七言絶句一首を賛し琴を弾じて参会者から絶賛の拍手を受けた。同年九月には求められて斉藤一興著の「九宛斉韻譜」のために序文を書いた。

 寛政四年(1792)七月八日、玉堂48才のとき最愛の妻安が病没した。
<思えば、姑の茂に口答えしていさかいを起こすこともなく、常に物静かな態度で従順に仕えてくれた。使用人達にもよく慕われて、家事育児のきりもりにも筋を通していた。家事の合間に嗜んだのは大和風の和歌や和琴であったが、その発声にはえも言われぬ品格があった。身だしなみは常に清潔でよく整っていた。二年も患ったが病床にあるときでも身だしなみを乱すことはなかった。いよいよ最後だとわかるとせがんで箏を弾いた。弾き終わるとそれが別れの挨拶だったかのように安らかな顔をして旅立って行った。本当に良妻賢母の典型だった>
と野辺の送りを済ませて帰ってきた玉堂は、独り新しい位牌に向かって手を合わせ、妻の在りし日の面影を偲ぶのであった。

 妻安の墓碑にはその人と為を大原翼の撰で次のように印刻されている。
「・・・・人となり寡言貞静、姿儀端麗、能く婢僕を愛し、家政倫(みち)あり、旁ら圀風(こくふう)を好み吟ずるところみな韻あり、罹病二祀(二年)未だかつて、一日も褥に臥すも漱梳(そうそ。口をすすぎ髪をくしけずる)を廃せず・・・・箏(十三弦の和琴)を鼓し歌詠しおわりて偃然(えんぜん。やすらかに)として逝く。婦にして敏捷その徳を捐(あたえ)る、敏にして慎重は古の則・・・」

 玉堂琴士集後編には安女の死に関して次のような詩が収録されている。

  夜雨書感
  新鼓荘盆独抱憂 長嗟人事逝如流
  旧来親友曽黄土 夜雨灯前涙不収

   新に荘盆を鼓して独り憂を抱く
   長く嗟(なげ)く 人事の逝く流れの如きを
   旧来の親友はかつて黄土
   夜雨灯前(やうとうぜん) 涙収まらず

 今、盆を鼓ちつつこのうえもない悲しみの中にいる。孔子が逝くものはかくの如くか昼夜をおかずと言ったがまさに逝く川の流れの悲しさがある。もはや帰らぬ人となってしまった。今夜屋外は雨で、私は灯火の下でただ涙を流しているのである。

 36年間苦しいにつけ嬉しいにつけ、影のように付き添ってきた妻の逝去は人生の無常を感じさせ、藩政からの疎外感ともあいまって寂しさが心にしみわたるのであった。と同時に脱藩の意志がますます固まっていくのをどうしようもなかった。

<自分の信奉する価値観が受け入れられないのなら、そんな所に何時までも義理立てする必要もなかろう。人生五十年とも言うし、五十才になったらけじめをつけよう。ちょうどそれは、妻の三回忌の年にあたる筈だ。その年から別の世界で生きるのだ。その年まで耐えていこう。せめてそれまでは慣れ親しみ、苦楽を共にしたこの家で供養してやらなければ仏も浮かばれまい。 世間では儂の最近の振る舞いをとやかく言っているようだがもう少しの辛抱だ。今の勤めは世を忍ぶ仮の姿なのだと自分に言い聞かせて辛抱しよう>
と毎朝仏壇に向かうとき玉堂は思うのであった。
                                         



2005年07月13日(水) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂29

 十二.寛政異学の禁
                                  

 寛政二年(1790)幕府により異学が禁じられた。野望実現のため将軍家治の世子、家基を毒殺したのではないかという噂のあった老中田沼意次が家治の病気に際して、またもや将軍毒殺を企てたことが露顕し、天明六年老中職を罷免された後を受けて登場した老中松平定信が行った寛政の改革の一貫として行ったものである。世に寛政異学の禁と言われている。

 ここで江戸幕府の文教政策を振り返ってみると、幕府は開幕当初林羅山を召し抱え、林家とは特殊な関係を結び、また朱子学者を幕政に参与させることもあったが、朱子学を正学と定めたことはなかった。ただ既述のように、熊沢蕃山の影響による備前藩内における陽明学流行に難色を示したり、古学者山鹿素行が「聖教要録」で朱子学を批判し赤穂に配流されたという先駆的な事例はあった。その後林家に人材を得ず、けい園学派、折衷学派など在野の学派が清新な学風の展開を見せたため林大学頭に朱子学を正学とし、異学を禁じ正学講究を奨励する諭達を出した。同時に林家の私塾であった昌平黌を幕府の官学として直轄し、そこで朱子学による官吏採用試験を制度化した学制改革である。

 この寛政異学の禁は伊予国川之江出身の儒学者尾藤二州が朱子学擁護論を唱え、その義弟にあたる頼春水等が同調して幕府の儒官柴野林山、古賀精里等に異学の禁を建言したことがこの措置発令の端緒となった。また鴨方藩領の西山拙斉は「吾程朱の道は孔孟の道、孔孟の道は堯舜の道、堯舜の道は久しかたの道・・・・」とする建白書を柴野林山に送り異学の禁発令に与かって力があった。赤松滄州は柴野林山に対しこれは学問の封鎖であると激しく攻撃した。玉堂の交際していた友人がそれぞれ反対の立場にたったわけである。          
 この異学の禁により、玉堂も出入りしていた「経誼堂」が藩により閉鎖された。経誼堂は河本一阿の先代巣居が万巻の蔵書を保管していた書庫で、これを受け継いだ一阿が多くの陽明学者に開放し、子弟を集めて陽明学の講義を行わしめていたのである。一阿は謹慎して備中井山の宝福寺へ隠遁することになった。

 玉堂はこの異学の禁に本藩が素早く反応して経誼堂を閉鎖し幕政随順の態度を示したことに少なからぬ衝撃を受けた。弾圧を逃れるため河本一阿が謹慎の態度を表して備中総社へ隠棲したことも処世のあり方として大いに考えさせられるところがあった。また西山拙斉が異学の禁を建白したことも玉堂の驚きであったし気の滅入るできごとであった。これ以後西山拙斉とは厚誼が絶えてしまうのである。

<陽明学を信奉している限り、もうこの藩では自分の存在価値がないのではないか。現実に左遷という仕打ちを受けている、やがてこれが弾圧に変わってくる恐れは大いに予想されるところである。かといって手の掌を返すように朱子学への転向を声明して俗吏、俗官どもに媚びへつらっていくことなど性格的にもできるわけがない。この藩ではもはや行政の面で自分の理想を実現していく可能性は全くなくなってしまった。価値観が異なってしまった以上この藩には見切りをつけて去っていくしか方法は残されていないのではなかろうか。礼記の中にも、もし父が間違った行為をしたときには子たる者三度諌めて、それで聞きいれられないときには、号泣しつつそれに従うが、君に対しては三たび諌めて聞き入れられなければ、去るという風に書いてあった。何度も進言しそれでも受け入れられず左遷の憂き目にあわされているのだから、仮に去っていっても不忠にはならない筈だ。こんな道理の通らない藩主や薄汚い世界には潔く決別して、新天地を求めたほうがいいのではなかろうか。幸い自分には琴がある。絵もある。詩作もある。医学もある。琴で弟子を取っても食っていける。その時にはあの豊蘭が一番弟子になることだろう。それも悪くはないな。絵の目きき料でも食っていける。琴を作って売っても食っていける。もっと描きこんでいけばそのうち絵だって売れるようになるかもしれない。子供達にもあまり手がかからなくなってきている。煩わしい世事や拘束から解放されて好きなことを気儘にやりながら過ごすのも悪くない気がする。だが何時これを決行するかが問題だ。時期については慎重に考えなければならない。まだ暫くは今までと素振りは変えずにいよう。ただ口は災いの本というから寡黙に徹することにしよう>

 このような思いが頭の中を駆けめぐるようになった。

 異学の禁発令以来、玉堂の琴や絵のために費やす時間が目に見えて増えてきたし、文人墨客の往来も頻繁になってきた。


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