前潟都窪の日記

2005年08月01日(月) 三村一族と備中兵乱6

 翌日の夕刻、宗親が粟田口の刀鍛冶の工房へ研ぎあがった刀を受け取るために、武者詰め所をでかけようとすると荘元資がどこへいくのかと興味ありげに問いかけてきた。
「粟田口まで研ぎに出した刀を受取に行こうとしとるんじゃ」
「ほんまに、刀をとりにいくのかのぉ。誰かいい女性(にょしょう)でもできたのじぁあないのけ」
「そんなんじぁあないけん。嘘と思うならついてきんせい」  
「そりゃあ面白い。そしたらついて行こうか、わしも退屈しとるけんのぉ」 「そりゃぁ有り難い。途中物騒な森を通り抜けていかにゃあならんけん、ぼっこう助かりますらぁ」
 二人は黄昏時を連れだって、粟田口の工房へ向かった。工房近くまできたとき元資が言った。
「俺は外で待っているけんお主、中へ入って用を足してこられぇ」
と心得顔で言った。
「そうか、それではお主ここで待っていてくれ」
と宗親もさからわない。宗親が工房の中へ入ろうとしたとき異様な殺気を感じた。
「この刀は渡すわけにはいかぬ」
と咳こみながら抗う男の声が聞こえた。
「ぐずぐず言わずにこちらへ寄越せ。さもないと娘を明国へ売りとばすぞ」とだみ声が続いた。
「娘に手出しをすると容赦はせぬぞ」
と再び咳こみながら抗う悲鳴に近い男の声が聞こえた。
「押し入りか」
と思いながら刀の鯉口に手をかけたとき、工房の中から刃を打ち合わせる金属音が聞こえた。
「行くぞ。元資あとへ続け」
と叫びながら宗親は工房の中へ飛び込んだ。その一瞬、覆面をした男がふりおろした刀が対峙している男の肩を断ち切り血飛沫が上がった。
「助太刀するぞ」
と叫びながら宗親が抜き打ちに刀を一閃すると覆面の男はのけぞりかえって倒れた。胴に入った一撃で男は絶命してしまった。覆面の男が右手に持っている血糊のついた刀は、まがうかたなく昨日研ぎに預けた国平である。
「どうした。大事ないか」
肩を切られて倒れた男に駆け寄るとその後ろには、昨日の刀研ぎの女がさる轡をはめられて後ろ手に縛られて転がされている。男の体をだきおこすと、喘ぎながら
「お助け下さって有り難うございます。私は刀鍛冶の吉正でございます。長年労咳を患っておりまして、刀を鍛えることもできなくなってしまい、生恥を曝しておりました。娘がお預かりした刀を研ぎ終わり神棚へ奉納したところへ押し込み強盗に入られ、情けない姿をお見せすることになってしまいました。若い頃剣術を学んだことがありますので、無我夢中で立ち向かっていきました。お預かりした刀を賊に奪われてはならないとその一心でした。この病と傷では助かりますまい。どうか娘のことを宜しくお願い致します」
と言った。その間に元資が娘の縄をといたので娘が父親にとりすがった。
「お父さん。死んじゃだめ。」
「奈々よ。兄のもとへ行け」
と喘ぎながら吉正は娘の顔をじっと見つめて言ったが、これが最後の言葉になった。がくりと頭を垂らして息を引き取った。
「お父さん。こんな姿にならはって。あんまりどす。わてもつれていっておくれやす」と号泣が続いた。
 宗親と元資はなす術もなくしばし娘の愁嘆場を見ていた。
 やがて、娘は我にかえって人がいるのを思い出し、今度はばったのようにぺこぺこ頭を下げた。
「お許し下さい。大事な刀を盗まれてしまいました。どうかお許し下さい」と哀願するのである。
「刀ならこの通り、取り返した。だが、この刀がお主の父親を殺したとはのぉ。因果なことじゃなぁ」
と宗親も慰める言葉もない。
「お主、身寄りは」
「兄が一人」
「近くにいるのか」
「いいえ」
「遠いところか」
「はい」
「何処にいるのだ」
「備前長船です」
「刀鍛冶か」
「へい昔は」
「それでは、今は」
「琵琶法師どす」
「眼が悪いのか」
「へい、8才のとき父の相槌を打ってはったときに鉄の火の粉が眼にはいりそのまま眼が見えなくならはったんどす」
「そうか。気の毒にのぉ。それで兄者の名はなんという」
「甫一と申します」
「なに、琵琶法師の甫一じゃと」
「なんぞ、お心あたりでもおますのか」
「甫一法師なら備中にもきたことがある。わしの館に泊まったこともある」 「あんれまぁー。それでは兄者の消息を御存じで」
「しらいでか。こたびの上洛にあたっては、八幡神社で戦勝祈願をしたとき琵琶を奉納して貰ったばかりじゃ」
「神仏のお導きか。どうぞ甫一兄者に会わせてくださいませ」
「お主、備中まで行く気があるか」
「父がこのような姿になってしまはったので野辺の送りを済ませましたらきっと備中へ参ります。どうぞ兄者に会わせておくれやす」
「よし。ほんじゃ、近く備中へ帰る者がいるけえその隊列に加わりんせぇ。手紙を書いてもたせてあげますらぁ」
「おおきに。ほんまにおおきに」
「ところで、お主名はなんというんじゃ」
「奈々と申します」



2005年07月31日(日) 三村一族と備中兵乱5

 「公家の 時代から武士の時代に変わったのじゃ。せぇなのに公家が経済的な基盤もないくせに権威だけ をかさにきて失地挽回を図ったのが建武の中興というわけじゃ。わしゃ、そう思うとるがのぉ」
と久次が言った。
「建武中興は時代の流れに逆行した政治ということになるのかのぉ」
と元資が言うと
「そうじゃとも、実力のない者が門閥、位階だけをたよりに威張ってみても誰もそんなもなぁ認めやせんのじゃ」
と宗親も漸く議論の中へはいつてきた。
「力の強い者が古いものを壊して新しいものを創りだしていくんじゃろうなぁ」
と久次がうなづきながら言うと
「今は、破壊の時代というわけじゃな」
と元資が言う。
「そうじゃ。だから、国が乱れた」
と久次。
「将軍が弱すぎるのじゃ」
と宗親。
「そうじゃ。時代は完全に武士の時代じゃ。
 まさに乱世じゃ」
と元資 
「乱世は力の強い者が勝つ時代じゃ」
と宗親
「下剋上の時代じゃ。主殺しでさえ通る時代じゃ」
と久次がエスカレートさせる。
「とは言っても、主殺しは忠の道に反しようが」
宗親は威儀を正しながら言った。
「そねえなことを言ようたら世の中の流れについていけんようになるぞ。時と場合によっては親でも殺す」
と久次
「親を殺す等は人の道に背くことに成ろうがのぉ。畜生になりさがってしまおうが」
と宗親は納得できないという顔付きである。
「例えばの話だ」
と久次。
「何故、武士が天下を統一できないんじゃろかのぉ」
と元資。
「圧倒的に力の強い武士がいないからじゃろうが」
と宗親。
「まてよ。今度は大内義興様が頑張りょんさるからなんとかなるのではないじゃろか」と久次が言うと
「義興様は管領になられて、幕府の重要な地位を占められたので乱世は終わりになるのじゃろか」
と元資も大内義興に期待しているらしい。
「将軍の権威が失墜してしもうたけぇ、命令が守られなくなっているからのう」
と宗親。
「ひょっとして、お館様は将軍にとって替わろうとしていなさるんじゃなかろうか」
と元資は自分の願望を述べる。
「これ、滅多なことを言うんじゃねぇ」
と宗親が唇に指をあてながら元資の顔を見る。
「尼子経久殿と大内義興殿とでは尼子経久殿のほうが実力がありそうに見えるんじゃがなぁ」
と元資が話題を変えた。
「尼子殿はもう年じゃけんのぉ」
と宗親。
「大内殿は雅びに走っしもうて、もののふの心を忘れとんさるけぇ、そう長くはないんじゃなかろうか」
と久次。
「それは言えるのぉ」
と元資。
「安芸の毛利興元殿は大内殿から名前を戴いたそうじゃな。羨ましいことじゃのぅ」
と久次が言った。
「いやいや、我等弱小国人は所詮は大内氏と尼子氏の間にあって要領よく生きていくのに汲々としているだけのことじゃろが」
と久次が言った。戦乱の時代に生きる地方の若武者達の談話はおのずと天下国家に及んでいくのである。都の一夜はこのようにして過ぎた。                                 



2005年07月30日(土) 三村一族と備中兵乱4

  四、洛中その二
                              
 宗親は備中青江の名工長谷国平が鍛えた刀を父の時親から元服の時、譲り受け、戦陣には常にこれを佩き幾多の戦功を上げてきていた。この度の遠征でも国平を持ってきていたが、機会があれば京の名工に研いで貰いたいと思っていた。また予備として京土産に良い刀を求めたいとも思っていた。聞けば、戦乱のただなかにある京であっても粟田口に名工吉光の弟子達が細々と刀を鍛えているというので、工房を訪ねてみることにした。
「御免せぇ。刀が欲しいんじゃがひとつ見せてつかぁさらんかのう」
と漸く捜しあてた刀鍛冶の工房へ宗親は入っていった。
「おこしやす」
と手をぼろ布で拭きながら出てきたのは小袖に裳袴をつけた歳の頃16〜17でがっしりした体格だが、肌はぬけるように白い女であった。見ると部屋の隅に火床とふいごが置いてあり、焼きをいれるための細長い水槽もあるが火床には火が入っていない。砥石の側には、研ぎかけらしい刀が一本横たえられている。
「吉光刀匠の在所はこちらでしょうかのぉ」
「へい。吉光刀匠はもうとっくの昔に亡くならはりましたが、うちが直系の弟子筋にあたります」
「そうか。それゃぁよかった。刀の良いのを見せてつかぁさらんかのう。都で一番といわれる刀鍛冶の鍛えた刀を買うていきたいんじ ゃが」
「それが、今は鍛えていまへん」
「どうしてじゃ」
「戦乱で腕の良い鍛冶達は皆西国へ逃げていかはりましたさけ、今はいいものはあらしまへん。情けないことどすえ」
「せぇじゃぁ、刀は全然作りょぅらんのかのぅ」
「へぇ。折角おこしやしたのにお気の毒なことどす」
「それは残念じゃのう」
と宗親が落胆するのをみかねて慰めるような口調でその女が言った。
「お侍さんはどちらの国からお越しやしたのどすか」
「備中からじゃ」
「それでは備前の福岡は近こうおすやろ。お国で買わはったほうが良いものが手にはいるのとちがいますやろか。父の弟子達もぎょうさん備前長船へ移っていかはりましたえ」
「そうか。それではどうして、お主も備前へ行かなんだんじゃ」
「父が病気にならはったからどすえ」
「そうか、親御の看病をしょうられるんかのぉ。感心なことじゃのう」
「これも定めですさかいに。父が早う元気にならはることを念じて、励んでいますえ」と明るい声で答えた。
「ところで、あそこに研ぎかけの刀が置いてあるがあれは誰が研ぎんさるんじゃろか」
「うちどす」
「ほう」
「研ぐだけなら女でも出来ます」
「もしや、お主、刀を鍛えたこともあるんじゃろか」
とそのがっしりした体躯をみながら宗親が尋ねた。
「へい。父さまが元気で働いてはった折りには、相槌を勤めたこともおますえ。しかし、父が病気になってからはよう造りません。うちが研ぎ師の真似ごとをして世を凌いでいるのどすえ」
「今は全然作ってないんじゃろか」
「へい。あいすみません」
「父さんが元気だった頃、父さんの作ったものはないじゃろかのう。できあがった物があれば、見せてつかあさらんかのぉ」
「ろくな物はあらしまへん」
と言っていたが宗親があまり熱心に頼むものだから、娘は奥から四〜五振りの刀を運んできた。
「父さまが糊口を凌ぐために泣く泣く作ったこんな物しかあらしまへん。お恥ずかしいことどす」
と娘は刀を宗親の前へ並べた。その中の一振りを取り出し宗親が懐紙を口にくわえ刀身の目効きをしていると娘が言った。
「お武家様、お腰のものをちょっと拝見させて戴くわけにはいきまへんどっしゃろか。うちら話に聞くだけの素晴らしい技物をお持ちのようなので」
「誰の作か判るかのぉ」
と宗親が佩刀を渡すと娘はおしいただいて受取り真剣な眼差しで目効きをしていたが、感極まったような声を出した。
「この刀は長船の名ある鍛冶が鍛えはったんどすやろ」
と言いながら刀に見惚れている顔には清々しいものが感じられた。
「ところが、ちょっと違うんじゃ。備中にも青江に名工がいていい刀をつくるんじゃ」
「何という名前のお方どすか」
「この刀は国平という刀鍛冶が鍛えたものじゃと、父上から聞いていますらぁ」
「ほう。国平どすか」
「そうじゃ。長谷の国平じゃ」
「お武家はん。今の京にはこれほどの刀を造れる刀匠は残念ながらいてしまへん。皆、戦を恐れて西国へ逃げていかはったんどす。悲しゅうおすえ。備前へはこの粟田口からもぎょうさんの名工達が逃げていかはりましたえ備前には福岡の市というのがおますさかいに鋤、鍬を鍛っても食べていけると言うてはりましたえ」
「どうじゃろう。この刀を研いでつかあさらんか」
「へい。有り難うぞんじます。このような名刀を研がして戴くのは幸せなことです。精一杯研がして戴きます。一晩お預かり致しますよって、替わりにこの刀をお持ち帰り下さい」
「それではお願いしますらぁ」
 宗親は刀を預けて室町の侍宿舎への帰路を急 いだ。道すがら刃先に見惚れている女の清々しい横顔が脳裏にちらついていた。宿舎へ帰りつくと部屋では元資と久次がしきりに議論をしている。
「おう、宗親よいところへ帰ってきた。お主も議論に加われ。それにしても宗親どこへ行っとったんじゃ」
と元資がかわらけを差しだし、瓠から濁り酒を注ぎながら言った。
「粟田口までじゃ」
「なんぞええことでもあったんか」
「刀を研ぎに出してきただけじゃ」
と宗親は平然さを装って言ったつもりだか、先程の女の横顔がちらつき顔が赤くなるのを自分でも感じた。それを見咎めた久次がからかった。
「お主、女と逢ってきたんじゃろ。顔に書いてあるぞ」
「いいじゃあねぇか。宗親も人の子だったということじゃ。せいぜい誑かされぬように気をつけんせぇよ」
と元資がわけしり顔でひきとった。
「そんなんじゃぁねぇ。ただ刀を・・・」
と宗親がむきになって抗弁しようとすると久次が矛先をかわした。
「それよりもさっきの話を続けよう。我等こうして、お館様に具奉して上洛し、都のありさまをみさせてもろうたが、一体世の中はどうなっていくんじゃろか。宗親よお主どう思う」
「権威と実力のある将軍がいなくなったので・・世が乱れているということじゃろうが・・・・強い将軍が出現しなければ、・・・・・世の中ますますひどくなっていくんじ ゃろうなぁ」
と宗親は注いでもらったかわらけの酒を口へ運びながらポツリポツリ言った。

ワインマーケットPARTY



2005年07月29日(金) 三村一族と備中兵乱3

  三、三村一族
                              
 三村氏の本貫の地は、信濃国洗馬郷(現長野県筑摩郡朝日村付近)であろうと言われている。太平記巻七の「船上山合戦事」に於いて、後醍醐天皇が元弘三年(1333)閏二月に、隠岐島を脱出して名和長年を伯耆国に頼り船上山に立て籠もったとき、天皇に加勢しようと馳せ参じた備中の武士達の中に三村の姓が出てくるので、三村氏はおそらく鎌倉時代の承久の乱の後に新補地頭として信濃から備中に派遣されたのではなかろうかと思われる。
 石清水八幡宮領の水内北荘(現総社市)の領地を弘石大和守資政の侵略から防いでくれるよう、三村左京亮に依頼した文書が石清水八幡宮に残されているが、その日付は貞治四年(1365)となっているのでこの頃から三村氏は高梁川流域に相当の勢力を持っていたことが窺われる。その後、明徳三年(1392〜4年)にかけて三村信濃守が天竜寺領の成羽荘を侵略しようと策動していたので備中守護の細川氏から荘園侵略をやめるよう圧力をかけられたこともある。その後約一世紀に渡って三村氏の動きは史書からは読み取ことができない。
明応三年(一四九四)に三村宗親が成羽に氏神として八幡宮を勧請した記録(成羽八幡神社旧記)が残されていることからすればこの頃、父祖以来念願の成羽入りを果して、これ以後鶴首城を築いたものと思われる。
 三村氏が根拠地とした鶴首城は標高338メートルの鶴の首のような形状の山上に築かれた山城であり、城の北側に成羽川、西に二つの谷川、南から東にかけては百谷川が流れている。天然の要害であり昔から備後と備中中部を結ぶ要衝の地でもあった。
「お館様は運の強いお方じゃ。こたびの上洛でもきっと、手柄をたてて来られるじゃろう」
と三村五郎兵衛は、主の三村宗親が神前に向かって柏手を打っているのを頼もしげに見やりながら隣に畏まっている郎党の三田権兵衛に話かけた。
「ほんまにそうじゃなぁ。星田の郷よりこの成羽の地へ出てきてから一年も経たないうちに難攻不落の鶴首城を築きんさっただけでもぼっけえことじゃと思ようたのに八幡神社の勧請をなし落慶までなし遂げられたんじゃけぇのう」と権兵衛が感極まった声で応じた。
「八幡神社は弓矢の神様じゃ。せぇがまた三村一族の氏神様でもあるんじゃけぇ余計に有り難いことじゃ。こんどの戦も必勝じゃ」
「年が若いのに信心深いことじゃ」
「そりゃぁ、尼子経久の殿を手本にしようとしておられるからじゃろう。尼子の殿は出雲大社やら日御碕神社に対する崇敬の念が強いお方と聞いているし現実に領地を次々と拡大しておられるけんのう」
「ほんまに、お館様は尼子方に組するおつもりじゃろうか」
「そこが、一番難しいところじゃろう。周防の大内義興殿を頼って都から公家衆がぎょうさん落ちていかりょぅるというけん、大内殿についたほうがええんじゃなかろうかとわしゃ思うとるんじゃがなぁ」
「こたびは、都へ将軍様が攻め上られるのにお供をされるのが大内義興殿じゃ。我がお館様は大内殿の傘下で上洛されるということじゃけえ、大内方ということじゃろうが」
「それはそうじゃが、三村の殿へも将軍から直々に檄の文が届けられとるからのう。尼子殿と大内殿と同じ扱いじゃ」
「お館様も面目を施したものじゃのう」
「都へは尼子の殿も上られるじゃろうから、戦振りを見てから決めてもよかろうと思うがのう」
「賢明な殿のことじゃ。そのへんのことはよう考えて決断されるじゃろう」 
「こたびの戦勝祈願は八幡神社の落慶も兼ねて執り行われるけんこのあと色々な催しがあるそうじゃのぅ」
「今度は、都でも有名な甫一法師の平家物語の奉納じゃ。滅多に聞けない名調子じゃけぇ耳の穴をようほじっといてからお聞きんせぇよ」
と五郎兵衛が言った。
「琵琶法師様は何処からこられたんじゃろうかのう。それにしてもお館様に輪をかけてまた若い法師様じゃなぁ」
とさっきから二人のやりとりを聞いていた山形作助が五郎兵衛に聞いた。
「年はまだ16とかで、童顔じゃが、声は美声で都でも一、二を争ったそうじゃ。こたびはお館様がわざわざ備前の福岡までお迎えに行かれて連れて来られたんじゃ」
「ここには何時までおられるんじゃろうか」
「さぁー」
「また、聞かしてもらえるんじゃろか」
「福岡まで行けば、聞かして貰えるじゃろうとおもいますらぁ」
「戦乱で混乱している都を逃れて周防の山口まで逃げて行こうとされとったんじゃが、何故か福岡が気にいられてそのまま福岡に住みつきんさったということじゃ」



2005年07月28日(木) 三村一族と備中兵乱2

 二、洛中
                          
「宗親よ、都の女性(にょしょう)にゃぁ、狐や狸のようなのが多いちゅうけん、誑かされんよう気ぃつけんせぇよ。都の女性は貢物だけ巻き上げてぇていつのまにかおらんようになるそうじゃけんのぉ」と久次が先輩面をして言った。
「そうだ。宗親は初(うぶ)で人がええけんのぉ」
と元資が同調した。
「わしゃぁ、女性(にょしょう)にゃぁ興味ねぇよ。それよりゃぁ折角都へ出てきたんじゃけん、良い刀でも捜して買うて戻りてぇと思よんじゃがなぁ」と宗親が生真面目な顔で応じた。
「刀なら粟田口へ行ってみんせぇ。腕のええ刀鍛冶がいる筈じゃけん。せぇにしても、街並みは随分荒れとるのうぉ。火事跡だらけじゃが。昔、朱雀大路のあたりにはぎょうさん店が立ち並んで賑わようたのにのう」
と元資が昔、都へ上ったことがあり、街の様子を多少は知っているのをひけらかすような口調で言った。
 周防国主・大内権助義興の京都における宿舎・大内館は、室町近くにあったが、その大内館の侍詰め所を根城として若武者達はそれぞれに羽を伸ばしていた。
 明応の政変(1493年4月将軍義材を廃立しようと、日野富子と管領細川政元が企らんだ事件)で足利義材は河内で虜囚となり、同年六月越中に逃亡した。1498年九月足利義材は朝倉氏の援助で越中に於いて京都奪回の兵を挙げるが成功せず、周防国の太主大内権助義興を頼って八年近い歳月を周防で過ごしていた。時の管領細川政元は新将軍足利義澄を擁立して、権力を掌握するが、永正四年六月(1507)家僕の香西元長、薬師寺長忠らによって入浴中暗殺された。この事件を奇貨として、再度威権を振るうべく、足利義稙(当初義材、改名し義尹、ついで義稙)は大内義興の援助を受けて山陽道及び西海道の国主へ檄を飛ばし入洛を企てた。これに応じて諸国の武将が永正五年(1508)六月に上洛したとき、義興麾下の備中の豪族達も、侍大将として義稙に具奉したが、その中に三村備中守宗親、荘備中守元資、石川左衛門尉久次がいた。
 彼らは血気盛りの若武者で、応仁の乱で荒廃していたとはいえ、都の夜を楽しんでいたのである。三人の中では宗親が一番若く、生真面目で備中の領国での小競り合いには常に勝ち抜き領地を次々と拡大し注目されている当節売り出し中の若武者であった。
 義稙が海路堺に到着し、堺から陸路入洛した日は六月八日で梅雨の雨がしとしと降っていた。
 備中の若武者達も相前後して京都へ入っていたが、その日、元資と久次は予て馴染みの白拍子を求めて賀茂川の川原へ繰り出したのである。宗親は都は初めてであるし、武者詰め所で無聊をかこっていた。
       



2005年07月27日(水) 三村一族と備中兵乱1

    三村一族と備中兵乱      
                            
  一、備中松山城
                                 
 備中松山城は臥牛山の上に築城された山城である。鬱蒼とした自然林に覆われた臥牛山は北から大松山、天神の丸、小松山、前の山の四つの峰からなっている。山頂には何れも城址がある。最高峰は天神丸で標高480メートルに及び、現存する山城としては、日本国内では最も高い所にあることで有名である。現存の城郭は小松山と前山とにあり、天神の丸と大松山にあるものは戦国時代以前の城址である。
 城の歴史は鎌倉幕府の二代執権北条義時から承久の乱の戦功で備中有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭職に任じられた秋庭三郎重信が仁治元年(1240)大松山に居館を築いたことに始まる。秋庭三郎重信は相模の国の三浦一族であった。大松山に居館が完成すると有漢の地から高梁の地へ移住し以後秋庭氏はここを本拠にした。
 その後、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げたのをきっかけに(元弘の変・1331年)、南北朝並立の動乱の時代が始まるが、天皇が幕府方に捕らえられて隠岐に流された年の元弘二年(1332)に松山城には、備後の三好一族の高橋宗康が入城し、城域を小松山まで広げ城としての縄張りは徐々に拡大された。その後、高橋氏が約25年間在城したのち正平十年(1357)高師泰の子高越後守師秀が備中守護として松山城を預かることになった。彼は家臣の秋庭信盛を執事として起用した。しかし師秀は生来猜疑心が強く施政の判断にも間違いが多かったため、信盛からしばしば諌言を受けたが聞き入れず次第に主従不和となった。正平17年(1362)に足利直冬ら諸国の南朝方が蜂起したとき、南朝方に帰順した山名時氏らの美作勢と備中の山名方の多治目備中守ら二千騎の軍勢を兵粮の蓄積された松山城へ引き入れたのが信盛であった。このため高越後守師秀はなす術もなく備前徳倉城へ逃げのびた。こうして再び秋庭重信の子孫の秋庭信盛が備中守護代として城主に帰り咲いたのである。
                                   
 応仁の乱(1467)以後戦国時代に入り秋庭元重が城主の時、1509年に毛利氏に攻められて敗北し秋庭氏の名前は松山の城郭史から消えることとなった。
 その後の戦国時代には将軍義稙の近侍上野民部大輔信孝の子である上野備前守頼久が鬼邑山城から入城し、以来上野氏、荘氏、三村氏と血に彩られた争奪戦が繰り広げられ、三村元親が最後の悲劇の城主として戦国時代に幕を閉じるのである。
 現在の「備中松山城」は天和元年(1683)に松山藩主水谷勝宗の手によって完成したものといわれており、天然の巨石を天守台として利用した木造本瓦葺、二層二階建の天守は、内部に岩石落としの仕掛けや籠城に備えた石造りの囲炉裏・落城の時城主の家族が切腹するための部屋である装束の間・御社壇等手の込んだ造りがなされている。
                          
       



2005年07月26日(火) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂42完結編

 文化十年には「平安人物志」に玉堂の名前が春琴とともに載った。これは当時の京都著名人の人名録である。既に春琴は流行画家として有名になっていたが、父子ともども京の芸壇に認知されたことは浦上家の慶事であった。玉堂は六十九才になっていた。この頃は柳馬場二条に定住して絵にかなりの時間を割いていた。
 本稿は南画の評論ではないので玉堂の作品を一々取り上げないが、その名品の多くが六十才以降に描かれている。
 田能村竹田は玉堂の絵について再び、「山中人饒舌」の中で次のように評している。
<余、紀の画を評して三可有りとす。樹身小にして四面多し。一の可なり。点景の人物極めて小にして、これを望むも猶、文人逸士なるを知る。二の可なり。 染皴擦深く紙背に透る。三の可なり。又、三称有りとす。人は屋に称(かな)い、屋は樹に称う。>

<私は玉堂の画を評して、三つの可なるところがあるとする。樹木の形が小さく四面に枝が多いこと、これが一の可である。点景の人物が極めて小さく、これは遠くから見てさえ文人逸士であることがわかる。これが二の可である。乾かしてまた塗る、擦りつける筆遣いは紙の裏まで通るほどである。これが三つの可である。また三つの釣り合いのとれた点があるとする。作中の人物は家屋とつりあい家屋は樹木とつりあい、樹木は山とつりあっているという三点である>

 <李日華言く、「絵事は必ずや微茫惨憺をもって妙境となす」と。昔人、その此の如くならざるを苦しみ、或いは再び滌ぎ去りてしかるのちに揮染し、或いは細石を以て絹を磨き、黒色をして絹縷(けんる)に著入せしめんと要(もと)むるに至る。その心を用うること知るべきなり。紀玉堂、稍、此の旨を解す。故に吾人この人を取るあり>
<明の画家・李日華は、絵画の極意は、模糊として薄暗く趣のある様子を優れた境地とすると言った。昔の人はこのような境地をつくることのてできないことを苦しみ、あるいは何回も絵絹を洗い去った後に描いたり、あるいは細かい石で絹をこすって、墨色を絹の中にしみこませようとしたりする。画家はこのように大変苦心しているのである。浦上玉堂はやや李日華の趣旨を理解しているので、私はこの点で玉堂に学ぶところがあるのだ>
 又、画僧・雲華は次のような詩で玉堂の絵と制作態度を評している。
   玉堂酔琴士 漫筆発清機 
   妙々洋峨趣 数人坐翠微
    玉堂は酔琴士なり、漫筆清機を発し妙々たる洋峨の趣、人をして翠微にざせしむ
 玉堂はよく酒を飲む。酔えば琴を弾く。まさに酔琴士である。しかもよく筆をとる。描けば活き活きとした精気を発っする絵ができる。琴といい、絵といい、洋々峨々の趣がある。青々とした山に靄が立ち込めて、その中にじっとしている自分を思わしめるものがある。
 旅を重ねて行く中で玉堂の心身からは俗世の垢は剥落していき、物欲俗情は削ぎ落とされて心身は自然と同化していくのであった。いつしか無為自然の老荘的な生き方になっていったのである。
    漁隠(後集)                           身与鶴倶痩 心将鴎共閑
   一生何活計 詩酒釣琴間
    身は鶴と倶に痩せ 心は鴎と共に閑かなり
    一生何の活計ぞ 詩酒釣琴の間
 身体はまるで鶴のように痩せ、心はあの大空を飛ぶ鴎のようにゆったりと静かである。いったいどのようにして生きているのかといえば、それはまさに詩と酒と釣りと琴の生活である。
 晩年には長旅はせずに京都で過ごした。自然の中に身を置いて感覚を鋭利に研ぎすましていく晩年の詩に次のものがある。
    嵯峨懐古
   嵯峨山下川潯大 懐昔幽 弾玉琴
   十二峰々明月夜 松濤深処有遺音
    嵯峨の山下、川尋(せんじん)大なり。
    昔に懐(おもい)をはせれば、幽○に玉琴を弾じたり。                       十二の峰々、明月の夜。松濤(しょうとう)深き処、遺音有り。
                                   嵯峨の山の下を巡って流れる川の淵は深くて水を豊かにたたえている。ふと昔のことを思い出すと、ここで門を固く閉ざして琴を奏でたものだ。嵯峨野周辺の多くの山々は冴えざえとした明月に照らしだされて黒々とその姿を横たえている。松の梢に吹き渡る風は海鳴りのように聞こえる。その遠く奥深いところに私は太古の調べを聞きとっているのだ。            杜門弾琴
   秋風来幾日 簫索入疎林
   心外無他事 杜門独鼓琴
    秋風来って幾日ぞ。簫索(しようさく)として疎林に入る。    心外、他事無し。門を杜(とざ)して独り琴を鼓す。
 秋風が吹くようになって幾日になったであろうか。疎らに立木の生えた山に冷たい風がものさびしく吹いて梢を鳴らしている。心の外には私を煩わせるようなものは何もない。門を閉ざし独り静かに精神を集中して琴を弾いていると自然に同化していく心地がする。
 文政元年玉堂七十四才のとき吉田袖蘭という十九才の才媛に       <古木寒厳、暖気無く、君に憑(よっ)ては 願わくば数枝の花を仮らん>という詩を贈っている。
 また同じ年に袖蘭と一緒に詩仙堂で琴を合奏している。この頃、袖蘭に請われて琴を教えいたのである。老いた玉堂の回春の戯れであった。脳裏には岡山の堀船で芸妓豊蘭と交わした一番弟子にするという戯れ言が蘇っていたことであろう。
 痩せ細った白髪の老人が赤色の鶴装衣に身を包んで妙齢の女性の手をとりながら指導している姿は微笑ましいものであった。
 後集の最後の詩は次のものである。
    客中秋夜
   秋来鴻雁渡天涯 夢後沈吟忽懐家
   千里郷関離別久 夜深消息卜燈花
    秋来、鴻雁(こうがん)は天涯を渡る。             夢後沈吟して忽(たちまち)家を懐う。                千里の郷関離別して久し。 夜深くして消息を燈花に朴う。

 秋がきて白鳥や雁の群れが、大空にさまざまな線形を描きながら暖かい地を目指して渡っていく。うたた寝から目覚めて、静かに詩などを吟じていると、渡り鳥の姿に触発されて家族や知己のことが懐かしく思いだされてくる。遠く生まれ故郷を離れて随分長い年月が過ぎていった。夜も更けて燈芯の先で揺らぎながら燃え上がる炎の形で家族や知己の安否を占ってみるのである。
 仁政実現という宿志を抱いて理想に燃えながらひたむきに走り続けた青年時代。
 やがて栄進して知った現実社会の醜さと汚さ。
 理想と現実の乖離に悩み煩悶しながらも俗世間に妥協できないままに疎外されて味わった挫折感。
 周囲から痴愚と見做されているのを承知の上で自己の価値観を堅持した挙措言動。
 意地を貫き通すための脱藩。
 心身から俗情と贅肉を削ぎ落として感覚を鋭利に研ぎあげていった放浪時代。
 喜怒哀楽につけ琴を友とし自然と同化して自分のために絵を描いた弾琴の画仙浦上玉堂の画才に対してブルーノタウトは次のように限りない賛辞を呈している。
<私の感じに従えばこの人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。彼は自分のために描いた。そうせざるを得なかったからである。彼は日本美術の空に光芒を曳く彗星の如く独自の軌道を歩んだ・・・この点で彼はヴィンセント・ヴァン・ゴッホに比することができるであろう。(ブルーノ・タウト 美術と工芸 篠田英雄より)>
 文政三年(1820)九月四日京都で没した。享年七六才であった。



2005年07月25日(月) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂41

 この詩の中で玉堂が「嗚咽愴苑」したのは三十才以上も年下の竹田が、自分と同じように藩から建言を受け入れられず、致仕して風雅の道に入り、今こうして私とともに起居しながら稽古をしている。境遇の似た者同志が気持ちを通じ合ってお互いを理解しあっている。そう考えると気脈の通じた嬉しさがこみ上げてきて、感情が爆発し嗚咽したのであるが、一旦爆発してしまうと若い竹田の境遇がかって苦労した玉堂の脱藩時の苦しみと重なってとめどなく涙がでてきたのである。
 竹田は、別にその著「竹田荘師友画録」と「山中人饒舌」の中で画家玉堂のフロフィールを次のように書き止めている。
<毎朝 早ニ起キ 室ヲ払イ 香ヲ梵キ 琴ヲ鼓チ 卯飲三爵ス 常ニ曰ウ 若シ天子勅アラバ 音律ヲ考正シ 我 焉(これ)トトモニ有ラン 必ズ其ノ力ヲ致ス >
 毎朝早く起きだして、部屋の掃除をし、香を焚いて、琴を弾き六時頃には杯三ばいの酒を飲む。もし天皇から勅命が下って、音楽のことを研究せよと仰せなら私は寝食を忘れて取り組み、必ず成果を挙げる自信をもっている。
<古人ノ書画ハ 飲興ヲ借リテ作レルモノアリ 紀玉堂 亦然リ 蓋シ酔中ニ 天趣有リテ 人ヨリ異ル為ナリ 紀ハ酣飲シテ始メテ適シ 落墨 尾々トシテ休マズ 稍 醒ムレバ則チ一幅ヲ輟(とど)メ 或イハ 十余酔ヲ経テ 甫(はじめ)テ 成ル 其ノ合作ニ至ルヤ 人神ヲシテ往カシメ 之ヲ掬スモ渇(つく)サズ 但 極酔ノ時 放筆頽然 屋宇樹石(おくゆじゅせき) 模糊トシテ 弁別スベカラザルナリ>
 昔の人の書画は、酒を飲んだとき沸き上がる興趣に基づいて作ったものがある。玉堂もそうである。酔っているときこそ天与の才能が発揮できるのだ。人よりこの辺りが異なっているところなのだ。玉堂は酒を楽しんで飲んでこそ始めて良い絵が描けるし、絵に墨を入れていくにしても飽きることなく続けられるのだ。酔いが覚めた頃には一幅の絵が出来上がっている。或いは十回程も酔ってからの方が優れた絵が描ける。合作する場合などには、心を失うくらいに飲んでもう飲めないというところまでいったほうがよい。もっとも極端に酔ったときには筆の運びもなおざりになり、酔い潰れて家も屋敷も樹木も石も弁別がつかないほど曖昧模糊としてくることもあるが、それがまた却って趣があって面白い。        
 田能村竹田は、玉堂の絵は形式などに囚われずに自由奔放に天稟の資質が赴くままに描いた方がいい作品ができると見ていたことが窺える。
 文化九年六十八才のとき、東雲篩雪図を描き上げた。
 筆者が始めてこの絵に接して感じた「なんと暗鬱で閉塞感の漂うやりきれない気分の絵であろうか。だが何故かとても魅きつけられる」という印象は磐梯山山麓で一冬過ごしたときに感じた玉堂の堪えがたい寂寥感がベースになっていたのである。
 モチーフを得てから既に十七年の月日が経っていた。十七年間胸中深く温め続けてやっと表出された玉堂の悲痛な叫び声であった。 この絵について久保三千雄氏は次のように解説されている。
<玉堂の状況に変化があったわけではない。依然として、自らの痴愚を嗤いながら鬱塞、沈鬱、寂寥を噛み締め堪えるのが日常であった。世の厳しい判断は筆をとる以前に既に明らかであった。筆をとれば手は慣いのままに動いたが、世に画人と認められたことなど一度もなかった。勿論、春琴のもとを訪れるような、画絹を持参して画を請う者など皆無であった。・・・・・弾琴であれば自らのすべてを吐露しようとも、胸奥の心象まで察知される危惧はないし、心象の複雑は却って音色に余情をもたらす効果を発揮したかも知れない。ところが、絵となるとすべてが誤魔化しようもなく顕れずにはいない。玉堂には剥き出しにするには憚られるものが多すぎた。画紙に向かうと苦衷が先に立って筆先をためらわせ、鈍らせてきた。それがすべての由縁を断ち切って、真に独立した模糊とした玉堂世界を描いた。頭を去らない会津での苦い記憶に正面から対して、行き処とてないままに一処に佇む己を客観視するには十七年の歳月が必要であった。筆をとるには勇気が必要であり、また胸奥での発酵を促す歳月の経過があって、初めて画紙に向かう気力が湧いたのである。この殆ど壮絶な雪景からは、誰にも訴えるすべもないまま、鬱塞に堪えて一処に足掻いていなくてはならない人間の悲痛な叫びが伝わってくる。東雲篩雪図は玉堂が初めて明らかにした己の心象の自画像に他ならない。(浦上玉堂伝 新潮社)>   



2005年07月24日(日) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂40

 文化四年には冬大阪の持明院で田能村竹田と四十日間同宿している。
 翌文化五年六十四才のとき奥羽への旅にでた。このときは江戸へ出てから五月に水戸の立原翆軒を訪ね、会津の秋琴宅へ立ち寄った。七月には飛騨の国学者田中大秀を訪ね、赤田臥牛と知り合った。飛騨高山には百日ほど滞在し酒造家蒲を訪ねて絵をかいている。
秋に飛騨を後にし金沢へ向かった。加賀では前田藩の寺島応養を訪ねこの地に百日ほど滞在した。十二月六日には加賀を発ち再び会津へ向かった。
 文化八年、あしかけ四年に及ぶ奥羽放浪の旅を終えて京へ帰り柳馬場御池上がるに仮寓した。七月には加古川、姫路への小旅行をしている。
 文化十年には「平安人物志」に玉堂の名前が春琴とともに載った。これは当時の京都著名人の人名録である。既に春琴は流行画家として有名になっていたが、父子ともども京の芸壇に認知されたことは浦上家の慶事であった。玉堂は六十九才になっていた。この頃は柳馬場二条に定住して絵にかなりの時間を割いていた。
 旅を重ねて行く中で玉堂の心身からは、俗世の垢は剥落していき、物欲俗情は削ぎ落とされて心身は自然と同化していくのであった。いつしか無為自然の老荘的な生き方になっていったのである。
                                      漁隠(後集)                           身与鶴倶痩 心将鴎共閑
   一生何活計 詩酒釣琴間
    身は鶴と倶に痩せ 心は鴎と共に閑かなり
    一生何の活計ぞ 詩酒釣琴の間
 身体はまるで鶴のように痩せ、心はあの大空を飛ぶ鴎のようにゆったりと静かである。いったいどのようにして生きているのかといえば、それはまさに詩と酒と釣りと琴の生活である。
 京阪では木村拳霞堂、浦上玉堂・春琴父子、岡田米山人、頼山陽等と交流した。
 この大阪持明院における合宿稽古場での二人の交歓の様子を竹田は「竹田荘詩話」の中に次のように書き残している。なお竹田は玉堂より三十二才年下であった。
<丁卯ノ冬 琴ヲ善クスル玉堂老人 余ト始クテ大阪府ノ持明院ニテ相見ユ 寝食ヲ同ジクスルコト四十日に殆シ 時ニ年六十余 毛髪尽(ことごと)ク白く 鬚(あごひげ)長キコト数寸 而シテ猶 童顔有リ 歌声円滑ニシテ 歯豁(ひら)クモ音を妨ゲズ 亦奇士ナリ 特ニ酒ヲ好ム 酔エバ則チ小詩ヲ賦シ 毎首スナワチ琴ノ字ヲ用ウ 又 小景ノ山水ヲ作リ 皴擦甚ダ勤メ 倶ニ俗ニ入ラズ頗(すこぶ)ル趣勝ヲ以テス 酔後ノ一絶ヲ記シテ言ワク>
   倦酒倦琴倚檻時 満園祇樹雪華飛
   雪華個々風吹去 不染琴糸染鬢糸
    酒に倦み琴に倦み 檻(てすり)に倚る時
    満園祇樹 雪華飛び
    雪華個々 風吹き去る
    琴糸を染めず 鬢糸を染む
 酒は飲み飽き、琴にも弾き飽きて、僧坊の手すりに寄り掛かって、寺院の庭を眺めてみると、折から降りだした雪が庭の木々に花のように舞い落ちている。風が吹くと雪片はあおられて飛び去っていく。琴の糸には雪も積もらないが 鬢毛には雪が付着した髭を白く染めていくのだ。
<余 偶(たまたま)客トナリテ 填詩(てんし)数首ニ余ル 老人 廼(すなわ)チ之ニ配スルニ 其ノ音ヲ階シ 嗚咽愴苑(おえつそうえん) 左右聴(みみ)ヲ聳(そば)ダツ 今 小令一○ヲ録シテ言ウ 紫燕飛ビ白燕飛ビ 飛ビ上リテ 紗窗越エテ女ノ機 双々別離無ク 天非トセズ 人非トセズ 只 是儂清ク思 微カナルニ因ル 檀郎 未ダ知ルヲ得ズ 爾後 萍ト梗ト遠ク離レ 音問終ニ絶ユ 東讃帳竹石山人徴ス 嘗テ玉堂詩集一巻ヲ揖シ刻ンデ世ニ伝ウ>
 私はたまたま玉堂の客となり、琴の曲目に合わせて詩を数首作った。玉堂老人は直ちにこの詩に合わせて琴を弾いたが、感極まって嘆き悲しみ泣き崩れた。私はびっくりして左右の耳を欹てて聞いていた。私はこの時の印象を次のような短い歌詞として記しておくことにしよう。
 自然界を観察すれば紫色した燕と白色の燕は、しきりに飛びかって絹張りした窓をすり抜け、春琴の新妻が機織りしている所へ集まっていくようだ。ここへ集まる燕達は心優しい新妻に可愛がられて、お互いに別れていくことはない。このような小鳥と人との交流は天も認めることだろう。ましてや人間であれば誰でも生き物を愛護する優しい気持ちは尊いものとみるだろう。私もこのようなほのぼのとした愛情のやりとりは清らかで好ましいものだと思う。それにつけても、新夫の春琴はこの優しい新妻の愛情にまだ気づいていない。今回の合宿が終わってしまうと浮き草のように放浪する玉堂と土塊のような私、竹田とは遠く離れて音沙汰もままならなくなってしまうのだろうか。東讃岐の長町竹石がこのやりとりを知っていてやがて明らかにするだろう。何故なら彼はかつて玉堂が詩集第一集を編集し出版したとき中心になって活動した人物なのだから。
                                        



2005年07月23日(土) 小説・弾琴の画仙浦上玉堂39

 十五.放浪そして画仙となる
                                  

 江戸へは三月三日頃到着して、長男春琴と再会したが訃報が待っていた。岡山藩士成田鉄之進に嫁いでいた長女之が前年六月に二十一才の若さで死去していたのである。
 秋琴が会津藩中屋敷へ出仕したのを見届けると、直ちに大竹政文を伴って京都へ向かった。
 自由の身になった玉堂は、京都に居を定めて、絵画製作に力を入れはじめた。
 寛政八年京都で開催された皆川淇園主催の書画合同展観には春琴とともに出品した。七月の中頃から八月のはじめにかけては大阪の木村蒹霞堂を七回訪問し、ここへ集う文人達と旧交を温めた。そのときたまたま上洛していた谷文晁と出会っている。
 寛政九年には京都で催された東山新書画会にも出品している。

 この頃「自識玉堂壁」を書いた。「自識玉堂壁」の一部は既に引用したが重複を厭わず再掲すると
<玉堂琴士 幼ニシテ孤ナリ 九才ニシテ始メテ小学ヲ読ミ 長スルニ及ビテ琴ヲ学ブ 他ニ才能ナシ 迂癖ニシテ愚鈍 凡ソ世ノ所謂博奕巴奕ノ芸ハ漕然トシテ知識ナシ 小室ニ日坐シテ手ニ一巻 倦ムレバ則チ琴ヲ弾キテ以テ閑吟ス 読書ヲ好ムモ古訓ヲ解セズ 以テ目ヲ塞グノミ 而シテ学ヲナス者ヲ恥ズ 好ミテ琴ヲ弾クモ 音律ヲ解セズ 以テ自ラ娯シムノミ 而シテ琴ヲナス家ヲ恥ズ 属文スルモ伝ウルニ足ラズ 意達スルノミ 而シテ文人タルヲ恥ズ 字ヲ作スモ 八法ヲ知ラズ 意ニ適ウノミ 而シテ書家タルヲ恥ズ 画ヲ写スモ 六法ヲ知ラズ 筆ヲ慢ルノミ 而シテ画人タルヲ恥ズ>

 このように述べて玉堂は琴、詩文書画の領域で、自分は素人であると主張しているが、その真意は弾法、文法、書法、画法等の法則に拘束されない自由奔放さが重要であると宣言したと解釈できる。

   玉堂鼓琴(後集第三詩)
   玉堂鼓琴時 其傍若無人 
   其傍何無人 荅然遺我身 
   我身化琴去 律呂入心神 
   上皇不可起 誰会此天真 

    玉堂 琴を鼓するとき その傍らに人無きが若し
    その傍らに何ぞ人無き 荅然として我身を遺(わする)ればなり
    我身は琴に化し去り 律呂(りつりょ) 心神に入る
    上皇 起たしむべからず 誰かこの天真を会せん

 自分が琴を弾くとき、傍らにまるで人がいないかのように弾く。何故ならば心身ともに脱落して我が身を忘れ、我が身は琴と一体となって琴の音が心神にしみ入ってくるからである。もはや太古の天子をいまの世に生かすことはできないのだから、誰が一体私のこの天から与えられた性を理解してくれようか。

   把酒弾琴(後集第五詩)
   琴間把酒酒猶馨 酒裏弾琴琴自清
   一酒一琴相与好 此時忘却世中情

   琴間に酒を把るに酒なお馨わし 酒裏に琴を弾ずれば琴自ずから清し
   一酒一琴あいともに好し この時世中の情を忘却す

 琴を弾く手を休めて杯をとると酒の香りが静かな部屋に満ちる。杯を置いてはまた琴を弾くと清澄な音色が五体をかけめぐる。酒を飲み琴を奏でる。こういう時が一番よい。この世の中の俗な気持ちをすべて忘れさってしまうことができるからだ
                                  
 これらの詩にみられるように京都へ暫く滞在して絵を描く傍ら琴を弾いては自然の中に同化し沈潜していく態勢を整えていくのである。
 文化三年(1806)九州へ旅したのをかわきりに放浪の旅がはじまる。熊本では細川家の儒者辛島塩井、高本紫溟に会い、帰路広島では頼春水、管茶山を訪ねた。


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