2005年08月11日(木) |
三村一族と備中兵乱16 |
三村家親は鶴首城を拠点として毛利氏と提携しながら尼子氏と戦い備中に勢力を伸ばした。また美作への侵攻を繰り返しながらさらには備前へ進出の機会を狙っていた。
堺へ出てきた又次郎は異質な雰囲気を感じていた。何か人の精神を開放的にさせるものを町がもっていた。町に活気があった。しかも、それは何者にも束縛されないで人人が自分のために働いているのである。自立自尊の精神が横溢しているように感じとっていた。 町人達が戦国の動乱から町を守るために、濠を堀り、武装して自衛の態勢を整え、有力町人十人による会合衆によって町政を指導する自治体制を確立していた。永祿十一年(1568)織田信長の矢銭二万貫の要求に対してこれを拒絶するほどの力を蓄えていた。
又次郎は弟の喜三郎を探しだした。喜三郎は師匠の橋本一巴が美濃の織田信長に鉄砲指南役として召し抱えられたので堺の鉄砲鍛冶の工房へ用心棒を兼ねて鉄砲職人として奉公していた。 「兄者久しぶりじゃのう」 「お主も達者でなによりじゃ。お主は鉄砲鍛冶で奉公しているそうじゃが、田舎へは帰らんつもりかのう」 「鉄砲鍛冶に奉公しとるんは、鉄砲の腕を磨きたいからじゃ。腕を磨いたら田舎へ帰って猟師をしようと思うとるんじゃ」 「青江で鉄砲鍛冶をやればええが」 「それも考えて奉公しとるんじゃ。わしゃ根から鉄砲が好きでのう、猟師に早うなりたいと思もよんじゃ」 「そうじゃったんか。わしも猟師になろうかのう」 「何でそねえことを言うんじゃ、兄者は三村様の御家中で奉公していたんじゃろ。何ぞ落ち度でもあったのかいな」 「そうじゃぁねぇ。堺の町を歩きょうるとのう、誰にも束縛されない生活のことを考えさせられるんじゃ。自由な生活といゃぁ田舎では猟師ぐれえしかなかろうが」 「ところで堺へは何しにきたんじゃ」 「殿の御用で鉄砲を買いにきたんじゃが」 「何丁欲しいんじゃ」 「一丁か二丁でええんじゃがのう」 「金はぎょうさん持ってきたんか」 「百貫ほどじゃ」 「それじゃ、買うのは難しいじゃろうな」 「なぜじゃ」 「一丁や二丁ならぼっこう高けえからのう」 「ほう、なぜだ」 「出回っている数が少ねえけえ高こうなるんじゃ」 「鉄砲鍛冶の所へ行けば買えようが」 「それがまた難儀じゃ」 「どうして」 「よほどのつてがねえと売ってもらえねえんじゃ」 「それはまた何故じゃ」 「大名家が纏めて買ってしまう」 「どんな大名が買うんじゃろか」 「甲斐の武田では三百集めようとしているし美濃の織田では三千集めるという話じゃ」 「お主の奉公している鉄砲鍛冶ではわけて貰えねえかのう」 「そりゃ無理じゃ。織田家の注文をこなすのに汲々しているし、第一織田以外に売ったことがばれたら首が飛ぶ」 「困ったのう。なにかええ智恵はないもんかのう」 「一丁だけなら、わしが昔使っていたのがあるが」 「使い古しじゃ、殿に渡すわけにはいかんじゃろ」 「兄者が使えばええが」 「そうじゃのう撃ち方をわしも習いたいしのう。よろしゅう頼みますらあ」 「明日手ほどきしよう」 喜三郎から手ほどきを受けて鉄砲の扱い方は身につけたが、肝心の鉄砲が手にはいらない。そうこうしているうちに鉄砲を買うために持ってきた百貫の銭を旅籠で盗まれてしまって国へ帰れなくなってしまった遠藤又次郎である。
2005年08月10日(水) |
三村一族と備中兵乱15 |
遠征をしないときには、家親は鶴首城に家臣達を集めて会議を開いた。この会議は寄り合いと称し、領地の経営についても家臣達に智恵や意見を出させて自由に討議させた。農作方法の改善、武器武具の改良、輸送手段の改善、築城技術の改善等まで広範な領域にわたって家臣達の意見を広く取り上げた。現代の企業経営で従業員の参画意識を高め、やる気を喚起する方法として広く用いられているTQC的な発想を用いて領内の経営にあたったのである。
ある者が高梁川を利用した舟による交易を考え、積み荷を多くするため舟底の浅い高瀬舟を提案した。高梁川を南下すると玉島、水島を通過して瀬戸内海へ至る。高梁川の上流には良い品質の鉄鉱石が採れる千屋があり、成羽の吹屋では銅を産出したのでこれらの鉄や銅の一次加工品を舟で玉島まで運び水島灘を航行して下津井港に到り、ここに寄港する遣明船の帰り船に売り捌こうというアイデアである。帰り船は自由港堺へ向かうものであった。当時の堺は商人達が自治的な共同体組織を作り上げ、会合衆という数名から十数名の富裕な商人からなる機関が合議制で政治を取り仕切っていた。この堺の商人達は御朱印船に代わって遣明船を仕立てて対明貿易を行い、巨大な利益を得ていたのである。
そして、高瀬舟は積み荷を遣明船に売り捌くと瀬戸内海で採れる新鮮な魚貝類や沿岸地区で生産される塩を仕入れて帰り、内陸部の高梁地区の市で売り捌こうという着想としては優れたものであった。この高瀬舟の発想は家親によって取り入れられ実施された。この高瀬舟を更に発展させたのが備前の覇者となった宇喜多直家である。その宇喜多直家の客人として一夕高梁に遊んだ河村瑞軒が高梁川を往来する高瀬舟を見て感心し、後年京都に運河を開き高瀬舟を運河に浮かべて都会地への物資の大量輸送を実現したのである。
この寄り合いは天下の情報についての意見交換会の役目も果たした。その情報は安芸、出雲、備前、京都へもぐらせている諜者達からの報告を家親が解説する形で行われることが多かった。桶狭間で永禄三年(1560)織田信長が今川義元を討ち破ったこと、同年毛利元就が天皇家に対して即位資を献上したこと、長尾輝虎が皇居修理料を献上したこと尾張で永禄元年弓矢の名人林弥七郎と橋本一巴が鉄砲で決闘して鉄砲が勝ったこと等が話題となった。 「申し上げたいことがございます」 と弓衆の又次郎が寄り合いで家親に申し立てた。 「なんだ」 「お館様は鉄砲というものをご覧になったことがありますか」 「まだ、ない。しかし話によれば雷のような音がして弾丸が目にも見えない速さで飛び出し、的に命中させことの出来る武器だというではないか」 「よく御存じで。私は三村の弓衆には鉄砲を持たせたらいいのにと思っております」 「お主は鉄砲をどこで見た」 「福岡で見ました」 「堺まで行かねば見られないのによくまあ」 「実はわたしの弟が橋本一巴の弟子でして、師匠から貰ったのを持っています。それをみました」 「高いだろう」 「橋本一巴は一丁五百金で南蛮人から贖ったそうです」 「そんな高価なものは時期尚早だ」 「そうはおもいません。技術革新は早い程他に差別をつけて優位にたてると思います」 「よそで使い出してから様子をみてからにしよう」 「それでは、遅すぎます。こんなものは人に先駆けてやってこそ優位性がえられるのですよ」 「そうかそれでは試しに使ってみるか」 「御英断です」 「舶来品だというではないか。つてはあるのか」 「私におまかせ下さい。堺へ行けば手にはいる筈です」 「よし。それでは一丁見本に求めて来るがよい」 との家親の命令を受けて、又次郎は堺へ出奔した。
2005年08月09日(火) |
三村一族と備中兵乱14 |
七、雲州富田城攻め 周防国の太守大内義隆は、安芸、備後、出雲、石見の諸豪族ら13人が一味同心して出雲遠征を促したので、これに応えて山口築山の屋形を天文12年(1542)正月11日出陣した。養嗣子大内晴持を始め、陶隆房、杉重矩、内藤興盛の三重臣以下精兵約一万五千がこれに従った。途中安芸の国府で毛利元就らの率いる安芸・備後の兵と合流し、雲州富田城を目指した。先鋒は三月、出羽の二ツ山に陣をしき、石見の諸将らが此処で参陣した。 大内軍は最初の攻撃目標として赤穴の瀬戸山城を選んだ。攻撃の先鋒を命じられたのは毛利元就であった。この城は出雲、石見、備後の接するあたりに位置し尼子氏の戦略上の拠点となっているからである。雲州赤穴の瀬戸山城主赤穴左京亮光清は三千騎をもって城へ通じる道の難所に陣取り防戦した。
この時三村家親も備中成羽から郎党百騎程を連れて参戦していた。 「又次郎、遅れをとるな。この戦いは筑前、肥前、周防、長門、石見、安芸備後、備中の武者が手柄を競う戦いぞ。初陣の手柄をたてるのはこのときぞ。怯むな」 と家親は又次郎の背中を叩いていった。 「はい。おやかた様」 又次郎は武者振るいしながら応えた。
大内軍の三村家親、二階堂近江守、伊達宮内少輔、赤木蔵人、杉原播磨守、有地民部、楢崎十兵衛らの備後備中勢は六月先駆けして戦い赤穴光清を居城へ追い込んだ。 「血祭りにして軍神にささげよう」 と兵達は城の四方を取り囲んで弓矢を射かけて攻撃した。 赤穴光清は名将の誉れ高く、富田城からの援将田中三郎左衛門らとともに籠城し、四方に弓の名手を配置して石弓を使って決死の防戦をするので、手負い死亡するものも多かった。 寄せ手の大内方は城に突入することができないまま膠着状態が続いた。六月七日膠着状態に変化が現れた。 「おう、あの武者は」 包囲した武者達の視線を一点に釘付けにしたのは武者二騎。馬上で抜刀した刀剣を夕日にきらめかせた。 「安芸の熊谷直続ではないか」 「もう一人続いているのは」 「直純の傅人兄弟荒川与三だ」
城を取り巻く兵士達の衆人環視の中でそれは一際目だった行動であった。刀をふりかざすと突然大音声を張り上げたのである。 「我こそは、先の守護武田元繁の家臣熊谷元直の舎弟熊谷直続なるぞ。こたびの合戦では毛利元就殿の傘下で出陣そうらえども、元をただせば、室町幕府の七頭として栄し武田氏信の末裔なるぞ。そのまた元をたずぬれば、清和天皇の六代の末裔にして源の義光公こそは我等が先祖なり。赤穴の光清殿にはいでて尋常に勝負めされい」 と言い終わるや城めがけて突進したのである。これを合図に熊谷直続の手勢二百騎が直続の後を追った。 「又次郎よく見ておけ。これが礼法にかなった戦ぞ。近頃清々しい、戦いの作法よ」 「危ないですね。弓矢で射られたらどうするのだろう」 と又次郎が正直な感想を述べた。 「名乗りを挙げて、切りこむときは一騎討ちを求めているのだ。敵方の赤穴光清は出てきて熊谷直続と勝負するのが武士というものだ。者ども、射方やめー」 と家親が配下の兵に大声で怒鳴った。
暫く矢音が止み、城の大手門がひらきかけたので一騎打ちが始まるかと期待感が渦巻いたが、門は開かず、矢が一斉に飛んできた。熊谷直続の手勢の半分ほどが弓矢で射られ倒れたところへ門が開いて赤穴勢が一千騎程城外へ打ち出してきた。 直続は奮戦し目前の敵を討ち取ったが、多勢に無勢、だんだん追い詰められたところへ狙いすませて城の中から射られた矢を顔と喉へ射こまれて倒れてしまった。 「犬死にだ」 と又次郎は思った。 「家柄を誇り、出自の良さを自慢してみても死んでしまえばお終いだ。戦では必ず勝たねばならない。勝つことが正義だ。勝つためには弓矢の威力を十分引き出せるような戦術を考えださなければならない」 と呟いて自分に言い聞かせていた。 双方引かぬままに再び膠着状態が訪れたが7月27日未明、毛利元就は大内方四万の大軍で総攻撃を敢行した。
総攻撃では赤穴城のそれぞれの上り口に迫ったが、赤穴城からは小石が次々に飛んでくる。赤穴勢の必死の反撃に戦線を突破することができず、逆に退却した兵士も少なくなかった。合戦は長引くかと思われたが、まもなく赤穴城は陥落した。城主の赤穴光清が流れ矢に当たって無念の死をとげるというハプニングが生じたからである。総大将を失って戦意を喪失した籠城軍は光清の妻子を助けるという約束で開城し、その夜老幼合わせて三千人が月山目指して逃げていった。 この合戦での死者は双方合わせて千数百人に及んだと記録されている。
2005年08月08日(月) |
三村一族と備中兵乱13 |
尼子晴久は安芸の国へ侵攻する場合、備後国比叡尾城(現広島県三次市畠敷町)が尼子軍の通路を妨害していることになり、兵糧を送るのに邪魔になるからこれを打ち従えようと考えた。そこで、天文九年(1504)八月尼子久幸尼子清定らを先陣として五万六千騎を率いて、府野(広島県双三郡布野村)山内(広島県庄原氏山内)へ布陣した。比叡尾城の城将は、国人の備後三吉入道とその嫡子新兵衛であった。彼らは最初数か月はよく奮戦し防戦したが、なにせ多勢に無勢である。精鋭とはいえ少勢ではこの大軍を支えきれないと判断し大内家に応援を求めた。
直ちに大内家では幕下の国々へ廻文し、これに応じた侍大将達は備後三吉の居城へ後詰を行った。備中からは船で鞆の津へ石川左衛門尉らが六千騎の兵を率いて到着した。また陸路を三村家親、二階堂近江守、野山宮内少輔、赤木蔵人、上田右衛門、穴田伊賀の六千騎が駆けつけ、備後国東条と出雲横田を結ぶ大阪峠の難所に要害を築き、敵に備えた。
三村家親らの南備中勢は諜者を城へ忍ばせ味方が到着したことを告げ合図をまっていたところ、 「九月二日の深夜城兵が夜討ちにでる。城内で法螺を鳴らすので、一斉に尼子晴久の本陣に攻め込んで欲しい」 という知らせがあった。 「合い言葉をかけながら、深くせめいり、浅く引き、敵を打っても首は取らないことにしよう」 と約束ごとをを決めて丑の刻に尼子の陣へ押し寄せ鬨の声を挙げた。 寝耳に水の尼子軍が慌てふためいている所へ矢を射かけ、突きかかり多くの敵をうちとった。尼子晴久が旗や幕をうちすてて逃げるところを東条と横田の境目で待ち受けていた備中の三村家親が尼子晴久の旗本へ切りかかった。不意をつかれた尼子勢力は慌てふためいて道もない山へかけのぼり谷底へ雪崩落ちていった。中には自分の持っていた太刀に貫かれて死んだ兵も数人いた。
天文十年(1541)尼子晴久は再び山陰七か国の軍勢七万騎を率いて芸州へ出陣し、毛利元就の居城吉田郡山城を攻撃した。この合戦では大内義隆卿より派遣された援軍の深野平左衛門、宍戸左衛門尉、宮川甲斐守らが尼子晴久勢の背後を襲ったが大軍でありなかなか勝敗は決しなかった。 この時大内義隆から備中各国の麾下の侍大将に出された下知は 「尼子晴久は大軍をもって備中国をおしとおるので、各自の城を固く守り街道の要所には関番を置き雲州勢の陣所へ兵粮を送れないように妨害せよ」 ということであった。この下知に従い石川左衛門尉、二階堂近江守、高橋玄蕃上田右衛門、清水備後は荘庄太夫の居城である猿掛山城と石田の要害に立て籠もり、関か鼻をきりふさいで兵粮の通路を止めた。
三村家親、赤木蔵人、野山宮内少輔、秋庭大膳、鈴木孫右衛門は東条へ出陣し大阪峠に要害を構えて兵粮の通路を押さえ尼子勢の往来を止めた。尼子晴久は数ヵ月にわたって吉田郡山城を攻めたが、勝利を得ることができず引き上げた。元就からは備中の侍大将達に厚礼があった。
丁度この頃、日本の戦法に、革命的な変化をもたらすことになる武器が西洋から伝来した。ポルトガル船が種子島へ漂着し、鉄砲が日本へ伝わったのである。天文十二年(1543)のことである。
備中の虎として周辺の国人達に恐れられる程の武威を誇るようになった家親は、将来、中国地方の覇者となるのは誰だろうと尼子晴久、毛利元就、宇喜多直家、松田元輝等の器量を観察したところ毛利元就がもっとも有望であると考えて、その傘下に入ることを決意した。 使者として一族の三村五郎兵衛を元就の許へ派遣し親書を渡し口上を述べさせた。 「これまでは、どの陣営にも属さず独力で戦ってきましたが、今後は毛利の殿のお味方をして忠勤を励みたいと思います。殿は中国地方を平定され、ゆくゆくは都へも上られる器量のお方だと信じております。この家親、殿のお役にたてるよう身命をなげうってぞんぶんに手柄をたててご覧にいれましょう。そこで中国を悉く御平定なさった暁には、私が身命をなげうって切り取ったところは全て賜りたい。また天下を平定されたときは備前、備中、備後の三か国を賜りたい。家親が一人お味方につけば、殿の声望と相まって備後、備中の国人達は三年のうちに悉く我等の味方になるでしょう。そのためには先ず当面の敵である猿掛け城に籠もる荘を攻めほろぼすことが肝要です。荘が落ちたら細川、石川、伊勢の一族どもはやがて降参してくるでしょう。どうかこの趣旨を御理解願って早く援軍を賜りたい」 と申し上げたところ毛利元就は、 「家親が味方になれば、千人の味方を得たようなものだ。荘を攻める日時が決まり次第早速応援しよう」 と喜んで約束した。
2005年08月07日(日) |
三村一族と備中兵乱12 |
六、荘 一族 荘氏は源平合戦で活躍した武蔵七党の一つ児玉党の一員であり、荘家長が建久七年(1192)一の谷の合戦で平重衡を生けどった功により、源頼朝から備中四庄を恩賞として貰い、武州から移住してきて土着した。最初は幸山城(都窪郡山手村西郡)に拠ったが、延元元年(1336)荘左衛門次郎は足利尊氏が九州から東上した際、足利直義の旗下に加わり、備中福山城(幸山城と同じ山にあった)で足利軍が新田義貞を破った合戦に参加した功で猿掛城主になっている。
猿掛城は小田郡矢掛町と吉備郡真備町との境に位置する猿掛山(標高232m )の山頂にあって昔の山陽道 を眼下に見下ろす要衝の地であった。 その後、正平18年(1363)足利直冬のために、一時この城を追われるが、細川頼之が備中守護職になると応永年間(1394〜1428)に荘資政の代になって再び城主に復帰した。幸山城へは石川氏が入った。城主交代の背景には細川氏の政略的な意向がはたらいていたのである。 その後の荘氏は永享年間(1429〜1441)に備中守護細川氏のもとで猿掛城にあって幸山城の石川氏とともに守護代を務め勢力を伸ばした。荘孫四郎太郎資正、荘甲斐守資友、荘四郎五郎等がこの地を中心に多くの支城を築き城主となった。
応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱で備中守護職細川勝久は細川総領家の勝元の指揮下で東軍の有力な武将として戦った。この大乱を機に備中でも寺社領や公家領の荘園に対する土着武士の争奪戦が激化してきた。特に守護代荘元資の活動が目立ち、延徳三年(1491)には讃岐の香西氏と連携して守護細川方の軍勢と合戦し五百余人を討ち取った。 在京していた守護の勝久は翌年の明応元年(1492)に軍勢をひきつれて備中に入国し、元資を破って反乱を一旦鎮め元資と和睦した。 前に述べたように元資は永正五年(1508)大内義興が将軍義稙を奉じて上洛したとき石川久次や三村宗親らと共に船岡山の戦いに参加し武功をあげ、都の生活を経験している。
出雲の太主・尼子晴久は天文六年(1537)尼子の家督を継承してから、祖父尼子経久の志を継ごうと決意した。祖父の志とは上洛して天下に覇を唱えることであった。 尼子の軍勢は天文七年播磨に入り、播磨国守護の赤松政村を追い、八年十月には英賀城を攻略した。また赤松政村を応援するため備中に進出してきた阿波国守護細川持隆の兵を撃破して武威を高めた。伯耆・因幡・但馬の名族山名一族には既に昔日の力は無くなっていたし、今また尼子に敗れた赤松氏にはかって美作・備前・播磨を統治した名族としての権威も地に落ちたので、東部中国の諸豪族は顔色なく尼子晴久が天下の覇権を握る日は近づいていた。 しかしながら、大内義隆を後ろ楯に持つ毛利元就の勢力には侮り難いものがあったので晴久は安芸・備後を制圧して背後の心配をなくしてから東上しようと考えるに至った。 尼子晴久は天文八年(1539)一族と重臣を招集して軍議を開いた。
「伯耆・因幡・但馬の山名に力なく、東に赤松を破った今、上洛して天下に覇を唱える時期が近づいたが後顧の憂いをなくする為に安芸・備後へ遠征して毛利の拠る吉田郡山城を攻めようと思うが、各々思う所を聞かせて欲しい」 と晴久が言った。 「賛成でござる。先鋒は是非それがしに」 「いよいよ天下取りに向かって御進発ですかおめでとうございます」 と大半の出席者が賛意を表明して大勢は出撃という熱い空気が漲ったとき、突如冷たい空気が流れこんだ。今まで苦虫を噛みつぶしたような顔をして黙って聞いていた晴久の大叔父尼子久幸がやおら手を上げて発言を求めた。 「皆の意見は毛利討伐に固まっているようだが、最近の戦での勝利に奢って毛利の怖さに気がついていない。毛利の城は晴久傘下の城などとは違って、簡単に落とせる代物ではないぞ。毛利元就という名大将に立ち向かって遅れをとるようなことがあっては末代までの名折れになろう。わしは今回の毛利攻めには反対だ。皆の者、もう一度よく考えてこのたびの遠征は思い止まるほうがよい」 主戦論に水をさされた晴久は 「野州殿も歳をとられたらこうも臆病になられるものか。毛利が力をつけて強くなる前に叩いておくのが、戦略というものであろう」 と二十六才の血気に任せて諫止の言葉を押し切ってしまった。
当時、隠居して病床にあった経久は後日軍議の様子を聞いて 「久幸の判断は、私の気持ちによく合っている。小勢であるからといって毛利元就を侮ってはいけない。私の命は尽きかけているので私が死んだら久幸を私だと思い、軍事につけ政道につけ彼の諫言を尊重して領国を治めなさい。しかし、久幸も老年なので、新宮の国久を後見としなさい。新宮党を軍事の柱として一家が和合し、お互いに尊敬しあってことにあたれば領国の民が背くこともないであろう。そもそも家が滅びるのは一族の不和が原因である。よくよくこのことに思いを致して親類を労り、尊敬してわがままの驕奢を慎まなければならない」 と尼子氏の行く末を暗示するような訓戒を言い残している。
2005年08月06日(土) |
三村一族と備中兵乱11 |
家親の放った諜者中村家好を頭とする諜者軍団の活躍で上野伊豆守の嫡男鷹千代丸は無事家親の手元に届けられ、以後鶴首城で家親の子息達と同様に養育されることになった。
「鷹千代丸は奈々の方に養育して貰うたほうがええと思うんじゃ。奈々の方は人の情けがようわかるお人じゃ。鷹千代丸は親を不条理にも突然失って寄る辺をなくした悲しさにうちひしがれている。この悲しさを判ってやれるのは、同じ境遇にあった奈々殿しかおりゃあすまい」 と言ったのは家親である。 「さすが殿。人の心をよく読んでおられるものじゃ。こういう殿についていく限り三村家の団結は万全じゃ」 と三村五郎兵衛がうなづきながら賛意を表明した。 「この城で生活になれてきたら、母御前には礼法を手ほどきして貰うことにしようと思うとるんじゃ。上野家は室町礼式については格式の高い家柄じゃけえのう。その美しきよき流れは、受け継いで子孫へ伝えていかねばならんのじゃ。また、三村一族も何時までも備中式に固執していたんでは都へ上がったとき恥をかくけんのう。なんでも若いうちに稽古することじゃ。若い者は志を大きく持つことじゃ」 と家親は三村一族が天下に覇を唱える志のあることを仄めかした。 奈々の方の薫陶の甲斐あって鷹千代丸は情けのわかる武将に成人した。
鷹千代丸の元服式の日のことである。 「ようここまで成人された。本日より鷹千代丸より名を改め、上野隆徳と名乗られるがよい。祝いに常山城を預けよう。備前常山城は三村陣営の最南端で備前の宇喜多勢とは鋭く対峙する重要な城じゃ。心してまもられよ」 と家親が言った。 「ははあ、有り難き幸せ。実の親にも勝る御配慮いたみいります」 と隆徳が応えると 「なんの、備前勢の抑えとして、それだけお主に期待しているということじゃ。ついては鶴姫と祝言をあげるがよかろう。元親とは義兄弟ということになる。いざというときには元親を助けて欲しいのじゃ」と家親が言う。 家親の信念は、一族団結こそが乱世を乗り切る秘訣であると考えているのである。 「ははあ、有り難き幸せ。重ね重ねの御恩、隆徳終生忘れませぬ」 と隆徳が礼を言った。 「鶴姫は気が強くて男勝りじゃが、根は優しい娘じゃ。末永く可愛いがってくれ。鶴姫さあ隆徳殿に御挨拶せぬか」と家親が言うと 「不束ものではございますが、よろしゅうお願い致します」 と三つ指ついて挨拶してから家親に向かって言った。 「父上、私にもお祝いの品を戴きとうございます」 「なんなりと申してみよ」 と末娘の頼みだけに備中の虎も好々爺ぶりである。 「先祖代々相伝の長谷の国平が鍛えた名刀を所望したいのですが」 「まて、あの刀はお奈々の方の父上の血で汚されて以来、不吉な刀として相伝することは止めにしたのじゃ」 「私は逆に、あの名刀は刀鍛冶の血で清められたと考えとうございます。是非御祝儀の品として戴きとう存じます」 と鶴姫は強硬である。 「隆徳殿如何かな」 と家親が聞くと 「名刀国平は当家の御先祖様が佩いて幾多の戦功をあげられたと聞いております。私を育ててつかぁさったお奈々の方に研いで頂いたこともある、由緒ある刀とも窺っております。鶴姫殿の申される通り、汚れたと考えるよりは刀鍛冶の血によって清められ魂を入れられたと考えるべきじゃなかろうかと思います。魔除けとしても是非所望したいと考えます。どうか鶴姫殿へ御祝儀としてお贈り下さい」 と隆徳も懇願した。このようにして国平の名刀は鶴姫に相伝された。
2005年08月05日(金) |
三村一族と備中兵乱10 |
家親の父宗親は松山城へ将軍足利義稙の近侍として入城した上野信孝の妹須磨の方を正室としていたので鷹千代丸は従兄弟の子という縁戚関係にあったのである。 早速、鶴首城に重臣達が集められ軍議が開かれた。 「絶好の機会じゃ、お館様も荘と組んで松山城を攻められりゃぁ、備中制覇の夢が実現しますが」 と親頼が言った。 「荘為資の父親荘元資はお館様の父上、宗親様と京都船岡山の戦の折り、苦労を共になさった仲じゃ。荘に味方して上野を攻めれば、勝利は間違いない。いわば荘氏は三村と同族のようなものじゃ」 と政親が言った。 「今、荘に加勢すれば尼子方につくことになる。尼子につくことは、将来毛利と手を組むときの障害となる」 と家親が言った。 「松山城の上野伊豆守は殿の母御前を通じて縁戚にあたられるけぇ、攻めるこたぁでけんのじゃ」 と五郎兵衛が家親の苦しい胸の内を代弁した。 「五郎兵衛の言う通りじゃ。上野は縁戚じゃが荘は縁戚ではない。しかも将来戦わねばならない相手じゃ」 と家親が言った。 「戦国の世に親族も親子も関係はなかろうがな。今は何処でもそうじゃ」 と親頼が言うと 「世の風潮がどのようなものであれ、一族が 相争わず、協力してことにあたるのが、三村一族の行き方じゃ。一族団結こそが三村一族がここまで繁栄してこられた根本精神じゃ。この良き風習をわしの代でなくすことはでけんのじゃ。ここのところをよう判って欲しいのじゃ」 と家親が額の汗を拭いながら言う。 「なるほど、今までは確かにそうじゃった。しかし、何時までも古い観念に縛られていたらこの厳しい乱世に生き残っていかれんじゃろうと思うんじゃがな。好機きたれば、親でも殺す」 と親頼が言った。 「それは暴言じゃ。人の道を外すことは断じて許すことができない。三村家の棟梁として命令する。こたびは出兵しないでこの城をかためるだけにする。荘にも上野にも味方しないで様子をみることにする。皆のものそう心得よ」 と家親が断を下した。 「心得申した」 と一座の者が唱和した。 「もし上野が負けたら荘は松山城へ入るじゃろう。そしたら猿掛け城は手薄になる。そのとき一挙に猿掛け城を攻める。そして松山城も手に入れる。そのときは尼子と一戦構える覚悟が必要となる。物には順序と時が必要じゃ」 「なるほど、お館様のほうが一枚上手じゃわい」 と五郎兵衛が感心した口調で言った。
三村一族は鶴首城を固め、何時でも松山城へ出撃できる体制を整えたが結局動かなかった。家親が動かなかったので荘為資の松山城奇襲作戦は功を奏し、城主上野伊豆の守は植木秀長に首級を挙げられてしまった。
植木秀長について若干説明すると、彼は荘為資の甥であった。上房郡北房町上中津井にある佐井田城は、標高285メートルの山の上にあったが、この城を築いたのは荘為資の弟藤資の嫡男植木秀長であると言われている。藤資は上呰部(あざえ)の植木に館を構えていたので植木藤資と呼ばれた。彼は永正十四年(1517)以降に植木城からこの佐井田城へ本拠を移した。植木秀長は武勇の誉れ高く、若干18才で父藤資の代理として三好長基の軍に従い、大内勢と戦ったとき、一番槍を入れ敵を撃退している。
2005年08月04日(木) |
三村一族と備中兵乱9 |
奈々が鶴首城へ身を寄せてから間もなく、正室須磨の方の輿入れがあった。奈々は須磨の方お付きの侍女に抜擢された。奈々は影日向なく、常に真心込めて甲斐甲斐しく勤めたのでその明るい人柄は須磨の方にも気にいられた。都育ちであるということも都から遠く鄙びた土地へ輿入れした須磨の方には懐かしかった。何かにつけ頼もしく、頼り甲斐があったのである。献身的な奈々の接遇態度は人と所を選ばなかった。たまに戦場より帰還して息抜きをする宗親に対しては、恩義を感じているだけに誠心誠意尽くすので、宗親が側室にしたいと考えるようになるのに時間はかからなかった。 側室になって男子を産んでから奈々の悩みが始まった。虎丸と犬丸の関係をどのように調整していくのが二人のためになるのかということである。庶子とは言え、武家の男子として生を受けたからには、戦国の世にあっては肉親同志で殺戮しあわねばならない事態が発生することも覚悟しておかなければならない。犬丸の行動を見ていると肉親同志で争うことは悪であると思い込んでいるふしが見受けられる。子供心にそう考えているのが母親としてはいじらしくもあり切ないのである。犬丸はいずれ早い時期に出家させたほうがいいのかもしれないと奈々の悩みは続くのである。
家親が二十一才になったとき父の宗親は備中制覇の野望を抱きながら、ある朝突然脳溢血で倒れてしまった。 「成羽の地を足掛かりにして備中、備後、備前を制覇するのがわしの夢じゃった。しかも一族相争うことなく、力を合わせて一族が繁栄することじゃ。わしの見るところ尼子よりも毛利のほうが有望じゃ。毛利に加担してこのわしの願いを実現して欲しい」 というのが宗親の遺言であった。
家親は父の所領を受け継ぐと鶴首城を根拠にして備中、備後、備前の制覇に本腰をいれる決意を固めた。
家親は、親頼、政親という弟達のほかに親房、親重等武勇に優れた親族に恵まれたことも幸いして、いつしか小田、後月、阿賀、哲多、川上等の五郡を押さえ領内に三十にも余る枝城を構え「備中の虎」と恐れられるようになっていた。備前や美作へもしばしば侵略を繰り返し、伯耆から遠征してきた尼子経久の孫晴久としばしば衝突した。 家親が家督を継いだ天文二年(1533)のある日の朝、城内の庭の植木に水をやっている家親の前へ忍びに身をやつした中村吉右衛門尉家好という乱舞の芸者がやってきた。 家親が猿掛け城の動きを探る為に放っておいた諜者である。 「お館様、猿掛け城の荘為資が今宵、松山城を攻撃します」 「尼子の命令か」 「いかにも」 「上野の動きは」 「全然気がついていないようです」 「そうか。しかし、今尼子を敵に廻すことは得策ではない」 「上野を見殺しになさるおつもりか」 「止む終えぬ」 「事は急です。御指示を」 「その方の手下は何人いるか」 「五人は庭木の下に待機しています」 「ご苦労。密かに松山城へ入り若君の鷹千代丸を助けだして欲しい」 「心得えました」と諜者の家好は茂みへ消えていった。
2005年08月03日(水) |
三村一族と備中兵乱8 |
余談ながらこの寺は城主上野頼久の遺徳を讃え安国頼久寺と改称された。その後、慶長五年(1600)小堀新助政次が備中国に一万石余を領し、没後一子遠州が遺領を継ぎ、禅院式蓬莱庭園を作庭し国指定の名勝になっている。 京都への遠征から帰国した宗親は席の温まる間もなく伯州へ、或いは美作へと遠征してその度に武威を高めていた。この間三村一族の所領である川上郡成羽郷で正妻「須磨」の方との間にもうけたのが嫡子家親である。幼名を虎丸といった。一年遅れて弟親頼が生まれ犬丸と称したが、彼は庶子であり、母は京都から連れて帰って側室とした刀鍛冶の娘奈々である。 「母上、お父上は何時、帰られるんじゃろうか」 と虎丸が母の須磨に聞いた。 「お父上は伯耆の国の不動嶽のお城で戦をしておられるのじゃ」 「虎丸もお父上の所へ行って戦がしてぇな」 「子供が行ってもお邪魔なだけじゃ。それよりも、早う大きゅうなることじゃ」 「どうすれば早よう大きくなれるんじゃろかなぁ」 「好き嫌いを言わずになんでも食べることじゃ」と偏食の虎丸を諭すように言った。 「でも、人参はよう食べんが」 「犬丸をご覧なさい、人参だって美味しいと言ってよく食べますよ。貴方は嫡男じゃけぇ犬丸に負けてはおえんのじゃが」 と須磨の方が言う。嫁いできたときは、都言葉を使っていた須磨の方であったが、鄙びたところで都風を押し通すことには、さまざまな摩擦があっていつしか、備中言葉も身についてきていた。 「負けりゃぁせんが。何時も泣かしているもん」 と虎丸が抗議した。 「よろしい。侍の子は強いことが一番じゃ、じゃがのう、人の道に外れるようなことをしてはなりませぬぞ」 「人の道とはなんじゃろうか」 「忠と孝と礼と信じゃ。そなたも志を大きく持って、やがては都へ出て活躍せねばなりませぬ。そのためには礼儀作法というものが必要になりますぞ。そなたの伯父の信孝殿は将軍近侍で室町礼法を心得られたお方じゃ。伯父上にお願いしてあげますからよく習われるがよかろう」 と須磨の方は幼い家親の躾けには都風で臨むのであった。松山城から室町礼式に詳しい者を招き寄せて養育にあたらせた。 一方側室奈々はこれまた虎丸に負けない子を育てようと犬丸の養育に当たった。 「犬丸よ。乱世に生きるには強くなければなりませぬえ。親子、兄弟といえども敵として戦わねばならない時があるんですよ」 と奈々は明らかに虎丸と喧嘩して負けて帰ってきた犬丸を見る度に切なくなるのである。体は大きくて力もあるので、子供同志の喧嘩ではけっして負けることがないのに、虎丸に対してだけはいつも立ち向かっていこうとせずに勝ちをあっさり譲ってしまうのである。側室の子の立場を弁えて行動する犬丸の心情がいとおしくなる奈々である。 親兄弟、甥伯父という肉親が相争い殺戮しあうことは悲しいことである。できれば我が子にはそのような悲しい思いをさせたくないという思いは強い。 自分自身が混乱の都にあって、目の前で賊に父親を斬殺されるという地獄を見てきている。父の野辺の送りを一人寂しくひっそりと済ませてから、宗親が手配してくれた、備中へ帰る荷駄の隊列の中に加えて貰って成羽の鶴首城へ辿りついた。鶴首城では食客として遇されている兄の甫一にも再会することができたし、自分の身は雑役係ではあるが鶴首城へ置いて貰うことができた。これはひとえに宗親の人間味溢れる思いやりの深く優しい人柄のなせるところであった。
2005年08月02日(火) |
三村一族と備中兵乱7 |
五、船岡山 三村宗親は足利義稙に供奉して上洛したとき、船岡山の戦い(1511)で華々しい活躍をして、荘 元資、石川久次らと共に備中武者の名を高めた。船岡山の合戦は堀越公方足利政知の子義澄を擁立する細川澄元、細川政賢らの軍勢と足利義稙を推戴する細川高国、大内義興ら西国諸将の連合軍が京都北郊船岡山で激突し義稙軍が勝った戦である。この戦では尼子経久、大内義興が先陣を争ったが細川高国の斡旋で先陣大内、二陣尼子と決定し大内義興は先陣の名に相応しい働きをして面目を施した。即ち義興は船岡山の合戦の殊勲者として永正九年(1512)従三位に叙せられて田舎武士としては破格ともいえる公卿の座に列することができた。 一方大内の後塵を浴びることとなった尼子経久はこれを不服として戦に参加せずさっさっと兵を纏めて領国の出雲へ帰国してしまった。中国制覇の準備を始めるためである。 この戦には毛利元就の兄毛利興元も参戦しているが目だった働きはしていない。それにひきかえ三村宗親の働きは目覚ましいものがあり、義稙の近侍上野民部大輔信孝の目にとまるところとなった。 将軍に復帰し船岡山の合戦で細川政賢・澄元軍に大勝した義稙は幕府の威権を示すために永正九年三月(1511)全国の国主を集め年来の軍忠を讃え行賞を行った。このとき備中国に対しては近侍の二階堂大蔵小輔政行、上野民部大輔信孝、伊勢左京亮貞信を派遣することにし、備中の国侍達を懐柔し味方につけることが使命として与えられた。 将軍近侍の使者達が用いた懐柔策は官位を斡旋することと戦乱の都を嫌って西国へ都落しようとする公家達の子女との縁組みを仲介することであった。官位や身分の高い公家の子女と縁組みできるという餌は田舎の国侍達には魅力的であった。備中の国人達は競って彼等に誼を通じようとした。 上野民部大輔信孝は下道郡下原郷の鬼邑山(現岡山県総社市下原)に、伊勢左京亮貞信は小田郡江原村の高越山(現井原市西江原)に、二階堂大蔵少輔政行は浅口郡片島(現倉敷市、片島)の城に入り近隣の国人を従え領国に善政を敷いた。 上野民部大輔信孝はかねて宗親に注目し好意を抱いていたので備中鬼邑山へ入ると自分の妹「須磨」を都から呼び寄せて宗親の正室として娶らせるよう工作した。律儀者の宗親に異存のある筈もなく、家格が上がると喜んだ。 丁度この頃備中では北には出雲の尼子氏が西方には周防の大内氏が、東には播磨の赤松氏、南からは四国の細川氏と三好氏がそれぞれに勢力を蓄え領土を狙っていたので、備中の国人達は或いは尼子の旗下に加わり、或るものは赤松氏の麾下にはいり、細川や三好と誼を通じるものもあって国中が乱れていた。 上野民部大輔信孝は鬼邑山に砦を築いた後民心の収攬を図るため、年貢を少なくし、貧者や身寄りのない者を救済する方法として寺を活用し実効をあげていた。この頃中央においては管領細川政元の勢威が衰え大内義興が幕政を牛耳ったので、その命により上野氏は間もなく松山城へ移ることになった。信孝の嫡男上野頼久は備中の安国寺を改修して善政を敷いた。
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