前潟都窪の日記

2005年08月21日(日) 三村一族と備中兵乱26

  十一、興禅寺の暗殺
                      
 三浦貞勝が薬師堂で自刃したとき、お福は郎党の江川小四郎に三才の桃寿丸を背負わせ女とともに、山中を歩いて真庭郡の久世へ逃れた。その後、旭川を下り、備前領内の下土井村(現御津郡加茂川町下土井)の山中へ難を避けていた。
 遠藤又次郎は三村家中にあったとき、鉄砲隊を編成して装備を近代化するという提案を実現するため、見本の鉄砲を仕入れる目的で、堺へ行ったが、旅籠で資金を盗まれてしまった。これを機に三村家を離れ、堺で手に入れた鉄砲を頼りに故郷へ舞い戻り猟師生活をしていた。
 ある日、加茂郷の山中で猟をしていると笹の葉が揺れている。獲物の熊がいるのかと鉄砲を構えたところ、
「おなかが空いたよ」
という子供の声が聞こえた。
「若、お静かに、声を出してはなりませぬ。三村の者達が追ってきているかもしれませんぞ」
とたしなめる若い男の声が続いた。
「もうすぐ土井の婆(ばば)さまのところへ着きますからね。それまでの辛抱ですよ」と若い女の声に
「早く婆さまのところへ行こうよ」
と再び子供の声である。目を凝らして見ると笹の葉の合間から人影が見える。どうやら四人のようであるが武士は一人しかいないようである。
「こんな所で何しとる」
 遠藤又次郎は、鉄砲を構えて大声で叫んだ。
「何者だ」
不意に声をかけられて驚愕した若い武士が刀を構えて立ち上がった。
「動くな。動くと撃つぞ」
鉄砲に気がついて、若い武士は構えを崩さず言った。
「三村の者か」
「違う。この辺りを仕事場にしている猟師じゃこんなところで何しとる」
「敵に追われている。見逃してくれ」
「三浦家中の者か。落人だな」
「そうだ。拙者、江川小四郎と申す。土井一族と縁のある者じゃ」
「危ない所じゃったぞ。熊と間違えられて、ズドン」と言って笑いながら又次郎が鉄砲の構えを解くと江川も刀を下ろして言った。
「土井氏の館は近くか」
「もうじきじゃ。案内してやろう」
と又次郎が先頭に発った。
 この村の豪族土井氏を頼るためお福主従は土井までたどりついたところであった。お福の母方の里が美作勝山の三浦氏であったからその嫁ぎ先の縁故を頼りにしたのである。
「どうじゃ。この城で三浦の遺児達を匿うのは憚りが多い。そなたの兄の宇喜多直家は知恵者じゃから、沼城へ挨拶に伺候させては」
と虎倉城主伊賀久隆が妻の梢へ言った。お福主従に転げこまれた土井氏は、三村家親が探索している落人を匿っていると面倒なことが起こると考えて、いちはやく上司の伊賀氏のところへつれてきたのである。厄介者を虎倉城で預かってもらおうと、思ってのことである。
 一方、土井氏から相談をもちかけられた伊賀氏は、従来松田氏に服属し臣下の礼をとってきたが、松田氏の勢力の衰えとともに縁を切り宇喜多氏と誼を通じて、直家の妹・梢を妻として迎えていた。今、三浦一族の遺児を匿うことは三村、松田、浦上に対しても憚りがあった。できれば厄介者は宇喜多直家に預けてしまいたかったのである。結局、盥廻しさせられてお福は宇喜多直家の沼城へつれてこられた。梢が口をきいたのである。
「お兄さん、御無沙汰しておりました。お盛んなようでなによりです」
と梢が兄へ挨拶した。
「梢、久振りだな。久隆殿とは仲良うやっているか」
「はい。お蔭様で」
「子供はまだか」
「ええ、そのうち。ところで兄さんの方は後添えは如何なっておりますか」 「その話はまだ早い。奈美の七回忌も終わっておらぬ」
「何時までも奈美さんが忘れられないのね」
と言う梢の言葉に直家は表情を険しくした。



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2005年08月20日(土) 三村一族と備中兵乱25

 軍議を決めた三村家親は鶴首城を出陣し、永禄8 年11月(1565)陣山から高田川を挟んで三浦貞勝の拠る高田城に猛攻撃をかけた。
 作州高田城は、大総山と称する山に築かれた山城である。別名勝山城とも称し、標高322メートルの如意 山に本丸があり、その前の標高261メートルの勝山には出丸がある。両山とも鬱蒼とした常緑樹に覆われて いる。
 初代の城主は三浦貞宗で東国から地頭としてこの地に移って来て、南北朝時代が終結する頃、この地に築城した。遠祖は関東の豪族三浦大介義明である。
 三浦氏は室町時代、戦国時代にかけて、美作の真島、大庭両郡を支配し美作西部に覇権を樹立していた。しかし天文17年(1548)落城の悲運に遭遇した。同年9 月16日に第十代当主三浦貞久が病死したのを奇貨として、予て美作の地を狙っていた尼子氏が攻め入ったのである。貞久の跡を相続した第十一代城主は未だ10才の嫡子貞勝であったが、伯耆国日野郡より南下してきた尼子軍に攻撃され落城の憂き目にあってしまった。尼子軍の大将は宇山久信であった。城主の貞勝は家臣達に守られ城を捨てて脱出した。高田城の守将に選任されたのは尼子軍の宇山久信である。
 尼子氏は天文17年(1548)から永録2 年まで11年間高田城を占拠していた。落城後、備前や備中の山野に雌伏していた三浦一族は永録2 年3 月(1559)備前の浦上氏の援護を受けて高田城を攻撃し奪回に成功した。城の奪回戦に活躍した重臣の舟津、牧金田等の諸氏に助けられて、城主として返り咲いたのが貞勝であり22才に成長していた。
 貞勝は23才になったとき、15才のお福を妻に迎え桃寿丸という男子を設けた。お福は絶世の美女で三浦氏の庶族三浦能登守の娘であった。
 三村家親軍の猛烈な攻撃をうけながらも、三浦軍はよく抗戦し一ヵ月が過ぎた。攻めあぐんでいる三村家親の許へ諜者の総帥である琵琶法師の甫一から耳寄りな情報が入った。予て城へ潜入させていた諜者の一人から知らせてきた情報とは次のようなものであった。
「高田城主貞勝の妹・勝つ姫に重臣の金田源左衛門が懸想していたが、貞勝がお勝を舟津弾正という重臣に嫁がせたので、源左衛門は貞勝に恨みを抱いている」
「それだけか」
と家親が聞くと
「そればかりでなく、奸智にたけた源左衛門は、恋仇の舟津弾正を誣告して切腹させてしまった。このように、自分本意の邪悪な心を持った男だから、餌を撒けば食いついてきます。今、寝返るよう説得していますから、間もなく手引きするでしよう」
「餌は何を撒けばよいのか」
「命を助け所領を安堵した上に切腹した舟津弾正の所領を与えることです。如何でしようか」
「それだけで源左衛門は動くか」
「必ず動きます」
「何故分かる」
「欲の深い人間は餌が大きい程うまく釣れます。御決裁下さいますか」
「良かろう」
 やがて、隠密裏に示し合わせた三村軍は源左衛門の手引きによって城へなだれ込み城を落とした。
 貞勝は三村軍が城内に進入してくると妻のお福へ毅然とした口調で言った。 
「三浦一族は団結力を誇ってきた決死の強者揃いの軍団じゃ。しかし今度ばかりは難しそうじゃ。団結を破る内通者がでたからじゃ。浦上氏へも救援を頼んでおいたが間にあいそうもない。かくなる上は武門の意地を通して城を枕に討ち死にする覚悟じゃ。しかし福は女子じゃ。桃寿丸を護って逃げてくれ。血筋を残すのは女子の勤めじゃ。桃寿丸を無事に育てて、父の無念を晴らしてくれ」
 貞勝の反対を許さぬ厳しい言葉に促されたお福は桃寿丸を抱き、牧管兵衛、牧河内、江川小四郎ら僅かな近臣に護られて囲みを切り抜け城を脱出した。美作の国境を越え、備前津高郡下土井村まで落ちのびた。
 一方、貞勝は、敵の目を欺くために、自分達は反対側の急峻な崖を近習十一人と駆け降りたのである。そこは城の麓を西へ迂回して流れている高田川の川岸であった。
「ここまで来れば、陣山とは視界が遮られているので追手に見つかることはないでしょう川を渡れば組村です。そこまで行けば大丈夫だと思います」
と近習の一人が言った。
「組村から北の尼子領に入って暫く時節を待つことにしよう」
と貞勝主従が高田川を渡って、這いあがるところを三村の兵三騎に見つかってしまった。城主が脱出したと知った三村軍が先廻りしていたのである。貞勝は近習を指揮して戦い自らも槍を奮って敵を突き伏せた。漸く血路を開き組村へ入り、三浦谷へ逃げ込んだ。山や谷を伝って、尼子領へ逃れようと北を目指した。ようやく井原村蓬の薬師堂まで辿りつき疲労困憊した体を休めていたところを追跡してきた三村軍に襲われた。貞勝主従は最後の力を振り絞って血刀で防戦したが、運命の尽きたことを悟った貞勝は薬師堂に籠もって家臣達に言い残した。
「腹はわし一人が切ればすむ。汝らは逃げのびてくれ。必ず生きて三浦家の再興を図って欲しい。貞勝最後の頼みじゃ。逃げてくれ」
 貞勝は薬師堂で自ら腹を切り22年の生涯を終えた。

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2005年08月19日(金) 三村一族と備中兵乱24

 5月24日次郎四郎は愛宕精進のため、城の前の川に出て体を清めていたところ、三村の軍勢が繰り出してきたので、城に立ち帰り甲冑をつけて城をでた。その時既に城兵一人が先に立って敵方の三村軍の兵と槍を合わせていた。この立ち合いを目撃した別の三村兵が城兵の槍脇を狙った。それを見た次郎四郎は、弓を手に持った二人の敵に突いてかかった。あまりに距離が近かったので、敵は矢を放つことができず刀を抜いて切りかかって来たが、次郎四郎は手に持った槍で強くつきたてたので敵はかなわず逃げていった。また一人の敵が槍を持ってかかってきたので、次郎四郎はこの敵と槍を合わせた。はじめ槍を合わせた三村の兵が城側の兵との勝負を止めて四郎次郎の背後から突いてかかった。次郎四郎は前後の敵を一手に引受けることになったが、少し退き二人を相手に戦った。相手の隙をみてとった四郎次郎は敵の手にする二本の槍を一つに掴んで放さなかった。そこで二の敵が跪き倒れたところを取り押さえ首をとった。

 そこへ敵兵二、三人が駆けつけ、馬場の兜をとって引き倒そうとしたが、四郎次郎がそれを切り払い、更に切りかかっていったからその勇敢さに恐れをなして近づくものはなくなった。その後も小競り合いだけで合戦らしい合戦はなく矢文の応酬があった。
 三村方からの矢文の狂歌は
「井楼を上げて攻めるぞ三つ星を天神そへて周匝(すさ)いくひ物」
というものであった。
 歌意は
「井桁に組んだ櫓を上げてさあ攻撃するぞと三星城内の敵情を観察すれば、中は天神山城からの浦上軍の応援部隊が取り巻いているではないか。まるで蒸籠の中の混ぜ物入りの不味い食べ物のようなもので実力の程は知れたものよ」と相手を挑発している。
 一方、城方からは額田与右衛門が返歌を書いて三村の陣中へ射返した。
「天神の祈りのつよき三星をなりはすまいぞ家ちかに居れ」
 歌意は
「天の神が必勝を祈願して下さった三星城は決して落城することはない。浦上軍の応援もあることだし三村軍の総帥家親は諦めて帰り、自分の家でも守っていたらどうですか」というものであり、敵味方お互いに城の攻防を楽しんでいる風情が窺える。
 三星城攻めではさしたる戦果もなく、むしろ馬場四郎次郎に功名をあげさせるだけの結果に終わって、備中へ引き揚げた。
「東海地方で織田信長が暴れまわっているらしい。やがては都へ上るばかりの勢いだという。毛利の殿もいずれ上洛の意思を固められるときがこよう。そのときに通り道に立ちはだかる備前勢を片付けねばならぬ。いずれは一戦交えなければならなくなるだろう。その前に小手試しに美作に兵を入れ、地慣らしをしておかねばなるまい」
 三村家親は一族、重臣を集めた軍議の席で口を開いた。
「それにしても、三星城の戦いではぶざまな戦をしたものよ」
と嫡男の元親が言った。
「敵を侮ったのがいけなかった」
と親成が反省の気持ちを述べると
「今度は、総力を上げてかからねばならぬ」
と家親が一同を見回しながら、毅然とした口調で言った。
「次の目当ては当然高田城ということになるでしょう」
と次男の元親が父の考えを忖度して言った。
「出雲路は概ねかたがついているので、都を目指さねばなるまい。毛利の殿からはまだ命令を頂いてはおらぬが、殿は必ず都を目指される。今のうちに高田城を落として足場を固めておくのも御奉公というものじゃ」
と言うと列座の親頼、親成、政親、親重等主だった将に異存はなく、高田城攻撃が決まった。

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2005年08月18日(木) 三村一族と備中兵乱23

  十、 船山城攻め 
                    
 三村家親は毛利元就と同盟を結ぶと、伯耆の不動嶽に立て籠もり尼子勢と休む暇なく戦った。その後法勝寺(鳥取県西伯町)にあって武威を振るい伯州を鎮圧した。しかしながら長年の遠征で、自国の防衛に手がまわらなかった。そこへ備前へ放しておいた諜者から浦上氏、宇喜多氏、松田氏の動きについて情報が入った。
「浦上宗景と松田将元が和議を結びました。裏で糸を引いているのは宇喜多直家のようです」
「証拠は」
「浦上宗景とは犬猿の仲だった将元自身が、宗景の居城天神山城へ出仕するようになったし、直家の二人の娘のうち一人を将元に嫁がせたことです」
「それだけか」
「さらに直家はもう一人の娘を美作の三星城城主後藤勝元へ嫁がせました」
「後藤勝元は尼子の傘下だった筈だが」
「そこが直家の老獪なところで、後藤を尼子から離脱させ浦上と同盟を結び北の脅威をなくしておこうという魂胆です」
「狙いは」
「備中へ侵攻してくる準備かと」
 当初は自国の勢力を維持するだけの目的で尼子氏と結んでいた備前の松田氏であったが三村家親の不在を狙って備中に手を出して領地を侵犯しはじめた。知らせを受けた家親は尼子氏の勢力が衰え僅かに出雲の富田城一つを維持するに過ぎなくなったことでもあるし家親が伯州に留まっている必要もなくなったので暫く本国へ帰って領地を固め、松田氏を討って備中から尼子の勢力を駆逐したいと毛利元就に願い出た。
「尾張の織田信長が今川義元を桶狭間で打ち破り(1560)美濃をも攻略して、都を窺っています。殿も早く都を目指して下さい」
「都を目指すには、備前と播磨を攻略して置かねばなるまい」
「備前攻めはお任せ下さい。存分にお役に立ってご覧にいれます」
「頼もしく思うぞ」
「ついては、備中へ帰国することをお許しください」
「あい分かった」
 許されて備中へ帰ってみると松田氏は今まで敵対していた宇喜多直家と和睦し浦上宗景の麾下として備中進出を企てているということが分かった。浦上氏の家中では、宇喜多直家が新興ではあるが最大の実力者になっていた。浦上氏の意向もあって松田氏は直家と同盟し、三村氏に対抗しようとしたのである。 金川城主松田元輝の嫡男元賢と宇喜多直家の娘との結婚はこのような背景のもとに行われた政略結婚であった。
 帰国した三村家親は、電光石化の如く備前に進出して金光与次郎の拠る石山城(1563)を攻めこれを一気に落とした。次いで船山城(1563)を攻撃してこれも難なく落とし、須々木豊前らを降参させて備中へ引き揚げた。 
 永祿八年(1565)五月三村家親は美作へ出陣し、後藤勝元の三星城を攻めた。後藤氏の三星城は現在の英田郡美作町明見にあった山城で梶並川と滝川の合流点の西側に位置していた。城主の勝元は、金川城の松田氏と同様これまで尼子氏の支配下にあったが、尼子氏の衰退に伴って離脱し、西の三村氏に対抗するため東備前の浦上氏と結んで、東美作の地を浦上氏と分けあったのである。また勝元は宇喜多直家の娘婿でもあったから宇喜多直家は三星城への応援として馬場次郎四郎に足軽を添えて美作へ行かせた。

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2005年08月17日(水) 三村一族と備中兵乱22

 義辰は世に聞こえた大剛の武将だったので手勢僅か三百でよく抗戦し家親、光景の軍勢をてこずらせた。しかしながら兵糧も尽きて残す所十日分ほどになったので、籠城の兵に最後の決戦を促した。
「三村軍には加勢があるので、いつもより兵の数は多く見える。城はすっかり取り囲まれたので、一人の命も助かる見込みはない。後は兵糧が尽きて身は疲れ力は落ちて、敵と太刀を交えることも出来ず、むざむざ飢え死にするだけだ。まだ精気が残っているうちに撃って出て、一方をうち破って落ちていこうと思う。もし敵が強くて切り抜けることができない時は、皆で枕を並べて討ち死にしよう」
「いざ戦おう」
「もとより覚悟の上」
と一族郎党は口々に決意を示し意気軒昂であった。
 翌日四月六日全員二日分の兵糧を持って、大手門の門を開くと、なんの名乗りもせずに三村の陣へ切ってかかった。
 これをみた三村勢は
「さあ、吉田が撃ってでたぞ。漏らさず討ち取れ」
としきりに命令して戦った。しかし、不意をつかれた三村軍は陣型を立て直すこともできず、軍旗は乱れ、弓は前後に混乱して撃てなかった。
 敵が怯んだところを吉田義辰は
「孫子十三篇にいう、虚実の二字あり。敵の備えの虚なるところを撃ってこそ、必勝の術である。者ども続け」
と一文字に切って入った。
 これに対して、真先に立ち向かった三村親房はここを破られてはかなわないと必死に切り結んだが、深手を負ってしまった。それを見た兵は気を削がれてしどろもどろになり、ついに五百騎の備えが崩れてしまった。
 三村勢が引くのに替わって香川光景の兵三百騎が戦った。吉田義辰はここを破れば取りあえず切り抜けて落ちることができると考えて、ひときわ激しく戦った。
 そこへ三村家親の隊一千騎ばかりが押し寄せ横合いから切ってかかった。戦死を覚悟した吉田が一歩も引かず戦っているうちにどうした弾みか、一隅を打ち破って、吉田は落ちていった。
 これを見た三村家親は
「吉田軍は僅か二三百の勢力であったのに、上下ひとつとなって死を覚悟して戦うので我が大軍にもかかわらず逃がしてしまった。味方は多勢を頼み死を恐れたためにこんなぶざまなことになってしまった。どんなことがあっても負けるわけにはいかないのじゃ」
と怒りを爆発させた。
 これを聞いて三村の郎党が我先にと追いかけると吉田義辰は引き返して戦った。はじめは七八十名程の兵が従っており、主人を討たせてなるものかととって返して戦い討ち死にするものもあり、或いは逃げ延びるものもあって、最後は西郷修理勝清ただ一人になってしまった。西郷勝清は主人をなんとか落ちのびさせようとして、数回敵に立ち向かい切りむすんだが股を二カ所突かれて、倒れもはやこれが最後かと思われたとき、吉田義辰が相手の敵を追い払い勝清の手を引いて落ちて行った。
 勝清は主人に向かい、
「自分はたとえ、郷里に帰ることができてもこのように、深手を受けているのでとても療養できるものではありません。ましてや、前後の敵を打ち払って逃げることは難しいことです。どうか、私を捨てて、殿一人でも国へ帰られて晴久公にお仕え下さい。臣下を救うという義のために主君への忠節をおろそかにすることは、勇士や義人の本意ではありません。早く落ちて下さい」と再三諌めた。
 しかし義辰は
「わしは戦場で討たれて、死にかけたことが何度かあったが、お前が身命を捨てて危ういところを助けられた。そのお蔭で度々功績を立てて名を上げることができた。この恩に報いないわけにはいかない。死ぬなら一緒ぞ」
と言って、手をとって肩に引っかけて落ちて行った。
 そのうちに武装した土地の百姓達が、落人があると聞いて、馬や武具を奪い取ろうとして七八百人があつまり、逃げ道を遮った。義辰は大太刀を奮って切り払い、漸く川辺まで逃げ延びた。
 一息ついて川の対岸をみると武装した百姓達二三百人が、弓矢をつがえて待ち構えている。後ろを振り返ると三村親宣が五六十騎で追いかけて来ている。 「勝清、こうなっては網にかかった魚と同じでもはや、逃れる術はない。自害しよう。お主死出の旅路の供をせよ」
と義辰が言うと
「私を打ち捨てて落ちれば、その機会は十分あったのに、自分を助けようとして敵に取り込まれるのは残念でなりません。自分の身がまともであれば、ここを打ち破って落として差し上げましょうに、却って足手まといになることが口惜しいことです。しかしながらその御志の有り難さは七世まで生まれかわっても忘れることはできません。どうか早く首を打って下さい」
と言って勝清は首を差し出した。義辰は太刀を振り上げて勝清の首を打ち落とした。そこへ義辰に縁のある禅僧が走ってきて
「まず、自分の寺に入りなさい。手だてを考えて落としましょう」
と言ったが義辰は
「命を助けようと思えば予ての謀も有りましょうが、勝清と共に死のうと決心したのでこのように敵に囲まれてしまいました。そのため貴僧にまで迷惑をかけるわけにはいきません。御志は有り難いと思いますが、どうかここは死なせて下さい。お情けあるならば一門の者へ自分の最後をお伝え下さい」
と前後の様子を詳しく語って、川中の石の上に腰を掛け大音声を張り上げた。 「吉田左京亮義辰という剛の者が切腹するのを見ておき後世の物語にせよ」と叫んで腹を十文字に掻き切り、太刀を取り直して自ら喉を押し切り、川の中へ飛び込んだ。これを見て周囲の敵の感じいった声は、しばし鳴りやまなかった。
 三村親宣は義辰の首を取って帰り、主人の家親に見せたところ、家親も
「義辰は勝れた勇士である。懇ろに葬ってやれ」
と命じて、松月和尚という曹洞宗の僧を招き寄せて義辰の供養を懇ろに執り行った。
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2005年08月16日(火) 三村一族と備中兵乱21

  九、松山城へ家親入城
                             
 松山城には上野氏を滅ぼした荘為資が猿掛け城から移ってきていた。この時期の荘氏は尼子氏と結んでいた。毛利元就と結んだ三村家親との二回に及ぶ戦いで決着のつかなかった猿掛け城攻防戦では、三村家親の嫡男を養子に迎えるという屈辱的な和睦を余儀なくされて猿掛け城は養子の元祐に譲って隠居したが、松山城も嫡男高資に譲っていた。猿掛け城が実質的に三村氏の支配下にはいった今、備中地方で尼子氏にとって最後の拠点となった松山城の守りを強化するために、吉田左京亮義辰が守将として派遣されていたが、城主の高資と折り合いがよくなかった。
「お館様、荘為資が死にました」
と諜者の家好が家親に報告した。
「死因は」
「卒中のようです」
「松山城の様子は」
「高資と義辰の仲がよくありません」
「不和の原因はなんだ」
「高資が備中の宇喜多直家と結ぶよう画策しているからです」
「若造め、背後から攻めようという魂胆か」
「宇喜多に対する備えをお忘れなく」
「憮川城を築城中じゃ」
「さすが、お館様。手のうちかたがお早い」
「高資は城にいるのか」
「いません」
「何処へ行った」
「備中の宇喜多に隠まわれている疑いがあります」
「為資が卒し、高資が城をでた今が攻撃のチャンスだな」
「御意」この情報を入手した家親は直ちに、琵琶法師の甫一を使者として毛利元就の許へ派遣した。知らせを聞いた毛利元就は直ちに香川光景と三村家親に出陣命令を下した。
家親は備中、備後の国人を集め、三千騎で永禄二年(1559)三月中旬松山へ撃って出た。

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2005年08月15日(月) 三村一族と備中兵乱20

 一方、荘ではこのことを夢にも知らず鶏が暁を告げたのを合図に先陣、後陣の順で撃ってでた。荘が敵陣五、六町まで進んだとき、隊列の中ほどへ両手を広げて飛び出してきた百姓の風体をした若い男がある。
「止まられえ。とまられえ。お館様に御注進じゃ。一大事じゃ」
「何者じゃ」
と誰何するものや槍を突きつける兵の動きで隊列の動きが乱れた。
「なんだ、お主、庭番の小田崎ではないか。慌てふためいてどげぇした」
と騒ぎに気付いた荘為資が言った。
「今宵の夜討ちの計画は敵に漏れて、敵はいろいろ先手をとって待ち構えておりますらぁ。夜討ちはおえません。おやめんせえ。危険ですらぁ」
と小田崎が答えた。
「お主誰から聞いたのじゃ」
「わたしの長年の知人が、成羽におりますのじゃが、先ほど密かに私のところへ訪れて夜討ちの事が三村方に漏れていると知らせてくれたんですらぁ」
「そうか。よく知らせてくれた。それでは敵の気がつかないうちに引き揚げよう」
と下知をだし、行吉を殿にして静かに諸軍を引き返した。
 荘軍の動きに気付いた三村の物見の者が急いで馳せ帰り家親に報告した。
「なんでそのようなことがあろうか」
と再度物見を出したが同じ報告であった。
「敵は夜討ちを止めて引いている。一気に追って攻めよ」
と家親が下知すると、一千騎が鬨の声を一斉にあげながら荘軍をおいかけたので、五郎兵衛、三徳斉らもこれを聞いて追撃に加わった。孫兵衛、松山、水落末田などの後詰隊も荘軍の横合いをついて撃って掛かった。
 攻撃を受けた荘 為資は
「一方を討ち破って引き揚げよう」
と言って兵士を一か所に集めて様子を窺っていた。
「お館様はここを引いて下さい。先方の敵の数は鬨の声からすると僅かなものだと思います。殿(しんがり)はそれがしが仕りましょう」
と為資に向かって行吉が言って引き返そうとしたとき藤井四郎次郎もこの場に駆せ寄ってきて両勢合わせて七百騎が死を決して進んで行った。家親軍がこれを迎え討ち、孫兵衛、熊谷、天野らが藤井、行吉軍へ前後左右から襲いかかり大激戦となった。荘為資も三村孫兵衛と渡りあったが次第に押されて、荘軍は引いていった。
 村田掃部助は先陣の方からの鬨の声が近くに聞こえたので心配になり物見を出した。
「味方は、敵に押されて引いているところです」
という報告なので、
「お館様のもとへ」
と叫んで馬に鞭を加えて為資軍と合流しようとした。そこへ、藤井、行吉が散り散りになって逃げてきた。為資は集まってきた藤井、行吉、村田らの荘軍と共に反撃した。両軍が切り合い、突き合いの激しい戦いとなった。しかしながら暗夜の戦いなので、敵味方の区別がつきにくく、名乗りを挙げる声や合言葉を頼りに走り廻りながら討ちあった。
 三村軍はかねて打合せた通りの戦いができたが、荘軍は不意の戦いであったから次第に押されて負けるところとなり退いた。
 家親は勝ちに乗じて逃げる者をしきりに追ったので行吉は為資を逃がすために取って返し、激しく切り結んで壮烈な討ち死にをした。
 藤井四郎次郎は大小三カ所に傷を受け郎党に助けられながら逃げのびた。為資の手の者は散り散りになってしまい為資一騎のみでようよう猿掛け城へたどり着いた。
「勝って兜の緒を締めよじゃ。戦いはこれまで。深追いするな」
と家親が言って引き返した。
 討ち取った首を改めてみると、村田掃部助行吉某、池上七郎四郎、加藤十兵衛らの大将首をはじめとして百七十余あった。
 荘為資は家親の謀略によって戦に負けたので、もう一度戦って鬱憤を晴らしたいと思った。しかし、冷静に考えてみると夜討ちをかけるという謀りごとが敵に漏れたのは内部に密通者がいるに違いない。内部を固めてからにしないとまた、負けるかもしれないと考えるようになった。
 一方の三村家親も今回は為資を討ち取ることができた筈なのに、彼が途中から引き揚げたのは、味方の兵が敵に情報を与えたからに違いないと思うようになり自重して戦を仕掛けようとはしなかった。
 為資は尼子の力が衰えてきたいま、三村と戦うことは毛利を敵に廻すことであり、いずれ家を潰してしまうことになると考え、人質を出して和睦した。
 その後毛利元就の斡旋で三村から家親の長男元祐を養子に貰い受け為資は家督を譲って隠居した。



プライズ・プライズ!




2005年08月14日(日) 三村一族と備中兵乱19

三村家親は今回の戦では吉川軍の井上河内守の弓矢の加勢によって危うく難を逃れたので吉川元春の陣屋 へ御礼の挨拶に伺候した。
「この度、敵を侮って一戦を仕損じたのは私の不覚でした。もう一度猿掛け城へ押し寄せて挑戦し荘を討ち破らなければ家親の名がすたります。どうかあとは家親にお任せ願い元就公には陣を払ってお引き揚げ下さるよう申し上げてつかあさい」
と家親が言った。
「そうか、それではその旨わしからよく伝えておこう。お主の今後の働き振りはこの元春が引き続き在陣してしかと見届けようぞ」
「有り難きしあわせ」

 元春への挨拶を終えた家親は、中村家好を呼んで
「三村家親は荘との戦で負けてしまい、面目を失墜したので次の戦には玉砕する積もりで掛かってくる準備をしている」
という噂を猿掛け城内で広めるよう指示した。

 緒戦から二か月後の四月三日、三村家親の千五百騎が、先陣として先に進発し、元春が熊谷、天野ら二千余騎を従えて後陣に控えそれぞれに井原へ布陣した。

 このことを聞いた荘為資は
「家親は先日の合戦で負けた無念を晴らすため、撃ってでたのだろう。必死の覚悟ができているから今度は手強いぞ。味方は普通の戦いをしたのでは勝ち目がない。井原へ夜討ちをかけよう」
と言って次のように下知した。
「わしは七百余騎で三村家親の陣を討つ。元春は三村の陣が夜討ちを受けたと聞いたら必ず援兵をだすであろう。藤井四郎次郎は五百騎で手薄になった元春の陣中へ駆け込んで不意に戦をしかけよ」
「村田掃部助は三百騎を率いて遙かかなたの後陣に控え、もし夜討ちに失敗した兵が引き退いてきたら、備えを固くして待ちうけ諸勢を引き取れ」
「行吉は二百騎で為資の後陣から三町ほど引き下がって備え、夜討ちが難儀のようであるならば合図を待って交代せよ。合戦は五日の丑の刻とする」
 三村家親の陣へ諜者の座頭が馳せて来て
「荘の陣では今夜、夜討ちをかける準備をしようると聞きましたけん、用心してつかあせい」
と告げた。
「そうか。噂に騙されて動きだしたか。願ってもないことよ」
と家親は言って三村五郎兵衛、篠村三徳斉、三村孫兵衛らを呼んで次々に下知した。
「五郎兵衛と三徳斉は三百騎を率いて、八町先の井谷の茂みに隠れて待機せよ。夜討ちの兵が引き揚げる所をさえぎって襲え」
「孫兵衛は松山勘解由、水落甲斐守、末田勘解由、末田縫殿助らと三百騎を従えて二町下がった民家の傍らの竹林に待機して、夜討ちの戦いが半ば頃になったら後詰めをせよ」
「熊谷、天野、香川は荘が夜討ちにでてくるところを取り巻き四方からかかれ」
 家親は千余騎で荘の本陣へ切り掛かろうと待ちうけていた。

プライズ・プライズ!



2005年08月13日(土) 三村一族と備中兵乱18

 猿掛け城の城代は荘一族の荘実近であったが急を聞いて松山城から駆けつけた荘為資は世に聞こえた猛将だったので勇みたって城兵に下知した。
「敵に城下を焼かれるのを遠くから見ようるわけにはいかんじゃろう。すぐに撃って出て家親を追い散らし、元春と直ちに勝負を決しようぞ。まず、千余騎を従え、為資が自ら三村家親の手勢を攻撃する」
 ついで藤井四郎次郎に向かって
「お主は五百騎で三村の後陣をうつように見せかけて元春の本陣へかかれ」と命じた。そして
「自分は家親を追い散らしてすぐに元春の陣へ切ってかかる。前後からかかれば元春がいかに勇猛であろうと備えが乱れて戦にはならんじゃろう。しかし三村家親の兵が引かないうちに元春に襲いかかってはおえんぞ。引く敵と一つになつて追いかけ、不意に懸かって切り崩すんじゃ」
と作戦を立て合図を決めて敵の様子を窺っていた。

 陽もやがて西へ沈みかけたので家親は士卒に向かって
「兵法にいう鋭く迫ってくる敵は避けて、緩んできた敵は討つべしとは、今のような状況の時のことじゃ。さあ、かかるぞ、ものども続け」
と下知して、自ら千余騎を率いて撃って出た。そして味方陣営の田治見、石賀伊達などには
「兵五六百騎を率いて右の永田山に上がって、元春の本陣へ懸かるような態勢をとるよう」
指示した。

 為資は三村勢が兵を引く後をつけて、射手を先行させて追いかけたところ家親は作戦を見破って、とって返し応戦した。
「日が暮れた。夜になってはたとえ一戦に勝ったとしても、引き退くことが難しい。敵から離れて引き揚げることにしよう」
と家親が考えていると藤井四郎次郎が半月の指し物に緋縅の鎧を着て黒い馬に跨がり五百騎ばかりの集団を率いて一挙に襲いかかった。家親も対抗する術がなく、
「ひけ、ひけ」
と下知して屋陰を目指して引き揚げた。

 吉田から出張ってきた志道次郎四郎、椿新五郎左衛門、臼井藤次郎、桜井某らは三村軍に加わっていたが、
「味方が敗北するのは口惜しい。おめおめ逃げては吉田勢の面目がたたぬ」ととって返し抗戦し四人は華々しく討ち死にした。

 藤井四郎次郎の軍勢はいよいよ勝ちに乗じて鬨をあげ、やがて元春の旗本を目指して進んできた。元春はこれを見て二千騎を二手に分けて陰陽の備えをとり射手を左右に進めて「吉川元春これにあり、恐れて逃げるか、悔しかったら引き返してきて我と戦い討ち死にせよ」
と大音声を張り上げた。この頃中国地方では大猛将として名高い元春に目の前で名乗られると藤井軍は怖じ気ついて、突撃をやめ馬を一所において徒に鬨の声だけをあげているだけであった。そのありさまは、ちょうど獅子が一吼えすれば百獣が慌てふためくようなものであった。

 このとき家親軍を援護するため河原毛の馬に打ち乗り鍬形打った甲に黒具足を着けた武者がただ一騎、道の小高い所へ馬を乗り上げ
「井上河内守はここにあり、井上の者共はここへ集まり来るべし」
と呼ばわったので源五郎、源三郎、与三右衛門、右衛門大夫、玄蕃をはじめとして五十騎ばかりが井上の周りに集まった。いずれも弓の上手であったので、鏃を揃えて散々に発射した。この井上の手ごわい反撃にたじろいで、追手の藤井四郎次郎の一団も深追いすることなく引き揚げた。緒戦はこのようにして日没引き分けとなった。



2005年08月12日(金) 三村一族と備中兵乱17

八、猿掛け城攻め
                           
 毛利元就と誼を通じた三村家親は備中の城を殆ど制圧し、一族の豊富な人材を配置して武威を誇っていたが、荘為資の拠る猿掛け城と松山城だけが自分の意のままにならない尼子方の城であった。中国地方はいずれ、尼子と毛利の決戦で雌雄が決まると考えた家親は尼子攻略の手始めに猿掛け城を攻撃することとし、再び五郎兵衛を元就の許へ派遣し応援を頼んだ。これに先立ち荘の領地内へは中村家好を頭とする諜者団を密かに潜入させた。

この時代は謀略の時代であった。多くの紛争は合戦で決着がついたが、それは結果であって直接武力が激突する前に諜報活動が密かに繰り広げられ、諜報・謀略戦で敵方にダメージを与えておくことが、合戦の帰趨を左右した。勝つためには諜報・謀略を用いることは卑劣なことでもなく恥ずべき行為でもなく、相手の裏をかいたり奇策を用いる作戦が知謀・利巧として高く評価された。汚い手段を用いて卑怯と非難されても、恬として恥ない図太さを戦国大名達は備えていた。和睦と離反、懐柔と背信、連合と裏切りが日常茶飯事の如く、起こるこの時代においては、疑心暗鬼に陥り必要以上に用心深くなり、かえって罠にはまりやすくなることがあった。
 家親が猿掛け城に放っておいた諜者団には、琵琶法師や乱舞の芸人などがいた。また、芸州仏通寺の沙門が托鉢するのに紛れて出家を数人作りたて敵国へ潜入させもした。彼らの情報を分析して、猿掛け城を攻撃する時は今だと判断し、応援依頼の使者を派遣したのである。
 家親の依頼をうけた毛利は盟約に従い、元就、隆元、元春の親子三人で、天文23年(1553年) 二月初旬芸州吉田を出発した。元就隆元の二人は、備中国伊末井原に陣を張った。猛将として知られた元春は自信満々備中猿掛け近くまで打ち出した。
 三村家親は先陣として千五百騎を猿掛け城下近辺の屋陰へ繰り出し、村々に放火して相手方を挑発した。


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