前潟都窪の日記

2005年09月01日(木) 三村一族と備中兵乱36

 明禅寺山は標高109 メートルでもと明禅寺という古い寺があったので明禅寺山と土地の者が称している古寺跡の山塊である。この城砦は備中から沼城目指して進撃してくる敵軍を俯瞰するのには最適の場所に位置していたし、備前の直家配下の諸城と連絡を取り合うにも好都合な場所であったが、直家の本当の狙いは別のところにあったのである。沼城へ進撃してくる三村軍をこの明禅寺山におびき寄せることであった。
 直家の予想では三村軍の動きは二通り考えることができた。ひとつは直家の狙い通り敵軍がこの城へ襲いかかってくれば、直家の本隊が沼城から後詰めに兵を出し背後から敵を挟み撃ちするのである。あと一つは、もし敵軍が沼城へ直接攻撃をかけてくれば、この明禅寺城から味方の兵が出撃して三村軍の背後を攻撃することが可能になるのである。
 諜者の報告により直家が明禅寺城を築いて三村勢の備前侵攻に着々と備えているということを知った三村家中では、軍議の席で主戦論が澎湃として沸きたった。
「家親殿の仇を討つために、決起した五郎兵衛達の忠心を無駄にするな」
と荘元祐が言うと石川久智がうなづきながら言った。
「城主元親殿の成人を待っていては宇喜多の勢力を強化するだけじゃ。宇喜多の汚いやりかたに家中全員が憤激している今こそ、好機ではないか。五郎兵衛達が善戦したのも、忠義の心が冷めないで燃え上がっていたからじゃ」
「岡山城の金光与次郎、舟山城の須々木行連、中島城の中島大炊等に命じて沼城攻撃の準備をさせ、この包囲網で宇喜多が動けぬよう圧力を賭けるのがよかろう」
と石川久智が提案した。
「あの連中はこうもりのように、ふらついているから油断はできないぞ」
と植木秀長が言った。
「彼らをわが陣営に縛りつけておくためにも、早く宇喜多を叩いておかなければならない」
と三村政親が尻馬に乗った。
 主君家親を卑怯な手段で謀殺した宇喜多直家憎し必ず仇を討つべしと復讐の鬼心に凝り固まった三村家中のものはことあるごとに国境を越えて備前領へ侵攻を進めていた。特に祢屋与七郎、薬師寺弥五郎は対宇喜多決戦に備えて、隙あらば明禅寺山城を攻撃し敵方勢力を削いでおこうと龍の口城に宿借りして虎視眈々狙っていたが、永禄十年(一五六七)春遂に好機が到来した。激しい風雨が荒れ狂った夜、予ての手筈通り精鋭百五十人で夜討ちをかけ沢田村を焼き払って、明禅寺山城へ攻め入ったのである。不意に寝込みを襲われた城兵達は敵味方の分別もできずなすすべもないままに散り散りとなって、南の山を越えて中川村へ逃れ漸く沼城へ引き揚げた。
 明禅寺山城が敵の三村方に渡ったことを知った直家は反間(はんかん)を放って備中勢の誘い出し作戦を開始した。
「従来、三村氏の傘下にあった岡山城の金光氏、舟山城の須々木氏、中島城の中島氏はいずれも宇喜多直家の調略に踊らされて宇喜多方へ寝返った。もし三村の軍勢が備前平野へ進撃してくればこれらの三城主は連携して三村軍を包囲攻撃するだろう」
という噂を言いふらさせたのである。
 これは直家が仕組んだデマの情報である。三村氏を後援している安芸の毛利氏が出雲の尼子氏を富田月山城で滅ぼしたあと、伊予の騒動に力いれして備前にまで手が回らないこの時期に、はやく三村氏を明禅寺山城におびき出し、打撃を与えておかなければならないと考えた直家の陰謀であった。
「宇喜多軍が岡山城の金光氏や中島、須々木の軍勢と提携してこの城へ押し寄せてくるという噂を耳にしました」
と諜者が祢矢・薬師寺の守将へこのデマ情報を報告した。小人数で強敵宇喜多氏と対峙している祢矢・薬師寺の両守将は過敏に反応した。疑心暗鬼が生じたのである。
「宇喜多攻略の橋頭堡として確保した明禅寺山城が危険に晒されています。至急援軍をお願いします」
という伝令が松山城の三村陣営に駆け込んだ。
 この祢矢・薬師寺両将による明禅寺山城奪取事件と備前の金光・中島・須々木三氏が敵方へ寝返ったという情報は、三村家中の主戦論に火をつけた。打倒怨敵直家で松山城内は沸きかえった。直ちに作戦会議が開かれ、沼城を西・北・南の三方から包み込むようにして、同時に攻撃する三面作戦がたてられた。
 総大将は三村元親である。総勢力二万人は辛川に結集して三軍に編成した。先陣は荘元祐の率いる七千余人で金光与次郎を案内者とし富山の南の野を斜めに押し進み、春日社の前の川瀬を越え、瓶井山沿いに明禅寺山への進出を図った。中軍は石川久智を指揮官として五千余人の兵員を従え、上伊福村の中道から岡山城の北にある瀬を渡り原尾島に進出して明禅寺山を攻める直家勢の背後を襲う手筈であった。


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2005年08月31日(水) 三村一族と備中兵乱35

 五郎兵衛は直ちに一族若党五十余騎の軍装を整えて出陣したので、道中話を聞いて加勢に参じた家親恩顧の国人達もあった。しかし総勢百騎にも満たない小軍団である。一同は一途に、討ち死にを覚悟して近くの禅院に赴き、松峰和尚に逆修の法事を依頼し鬼伝録に一同の名前を記してから焼香三拝した。
 三村五郎兵衛は宇喜多直家へ使者をたてて
「主君家親の無念を晴らすべく弔い合戦に出向いてきた。尋常に勝負せよ」
と挑戦状を突きつけた。
 手勢を二手に分けて、一手は矢津越えして直接沼城へ攻撃をかけさせた。もう一手は五郎兵衛が自ら率いて釣りの渡しより南へ迂回して進撃した。
 物見の兵から五郎兵衛の動きを聞いた直家は弟の七郎兵衛忠家を総大将に任命し、長船越中守、岡剛助、富川肥後守、小原新明等を配して三村軍を攻撃させた。
「五郎兵衛は三村家中でも最強の勇士であるから、彼を討ちとったら三村家の柱礎石を破壊したようなもので、その後の三村軍団の退治はたやすくなるのは必定。手柄をたてたいと願う者は撃って出よ」
と直家は下知した。

 宇喜多軍は総勢三千騎である。戦闘は最初に釣りの渡しより南へ迂回してきた三村五郎兵衛率いる五十余騎と長船・岡麾下の宇喜多軍との間で火蓋が切って落とされた。僅か五十騎の軍団ではあったが、忠義を死後の世界に残すのが武門の習いと死を覚悟した五郎兵衛の軍勢は強かった。五十余騎をひとつに纏めて、一番先に控えていた長船越中守の一千余騎の真ん中に撃って入り、暫く戦ったのちこの隊列を撃ち破り、二陣にいた明石飛騨守の隊列に切り込みをかけ、四方八方に奮戦した。さすがの宇喜多勢も浮き足たったが、やがて総大将の七郎忠家の率いる本隊が三村軍の横合いから攻めたて三村軍の背後に回り込んで攻撃したので、勢力を挽回し、さしもの三村軍も全員壮烈な戦死を遂げた。
 一方、矢津越より東進して沼城へ襲いかかった三村軍には富川平右衛門の軍勢がこれを迎え撃った。この戦いでも決死の三村軍の攻撃に宇喜多軍はたじたじとなり劣勢であったが、小原藤内の率いる後続部隊が後詰めに駆けつけたため態勢を挽回した。多勢に無勢で結局ここでも三村軍は全員はなばなしく戦死した。しかし、直家はこの合戦で家親亡きあとも三村軍は手強い相手であることを思いしらされた。戦闘に参加した宇喜多軍の将兵のうち小原藤内、高月十郎太郎、矢島源六、宇佐美兵蔵ら四十七人を失い、百余人の怪我人をだしたからである。
 近い将来、三村軍は勢力を養ってから備前平野に侵攻してくるに違いないと考えた直家は上道郡沢田村の明禅寺山に堅牢な城砦を築き始めたのである。

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2005年08月30日(火) 三村一族と備中兵乱34

 十二、 明禅寺合戦
                     
 備中の松山城では、家親の喪が明けた永禄九年(1566)四月重臣達が集まって家親の弔い合戦のことを協議した。家親には嫡男四人と庶腹の男子二人の他女子三人が残された。嫡男は長男元祐、次男元親、三男元範、四男実親である。他に庶子としては出家した河西入道と三村忠秀がいる。女子は長女が幸山城(都窪郡山手村西郡)城主石川久式の正室、次女が月田山城(真庭郡勝山町月田)城主楢崎元兼の正室、三女が常山城(玉野市字藤木)城主上野隆徳の正室となった鶴姫である。
 長男元祐は知勇兼備の将といわれた父家親の性格をもっともよく受け継いだ人物といわれ、父家親が猿掛け城の荘為資を攻撃したとき勝負がつかず、毛利氏の斡旋で荘氏の養子となり、永禄二年から猿掛け城主に納まっていた。毛利氏の戦いには数多く参戦し勇名を轟かせた。
 備中の松山城を相続したのは次男の元親である。元親以下三男、四男はまだ若輩であった。
「亡き殿の喪も明けたことだし弔い合戦をしよう。われら三村家は備中の名門である。亡き殿は備中の虎といわれ、その武名を天下に轟かせた智勇兼備で、有徳の名将でおわした。それにひきかえ備前の宇喜多直家は浮浪者あがりで岳父を騙し討ちして沼城主となった没義道な男である。まともに戦えば勝てないことが判っている家親の殿を卑劣にも鉄砲で闇討ちした男である。一刻も早く、備中へ攻め入って仇討ちをしましょうぞ」
と強硬に弔い合戦を主張したのは三村五郎兵衛であつた。 
「偉大な殿が亡くなられた今、徒に血気にはやるのは如何なものか。敵の思う壺じゃと思わぬか。ここは一族で結束を固め、若い元親元範、実親の三兄弟をもりたてていくことが肝要じゃ。御兄弟が成人なさってから一戦を交わえるべきじゃ」
と当主が若いことを理由に時期尚早論を述べたのは、元親の叔父孫兵衛親頼である。
 親頼は三村氏が松山城へ入城した後、成羽の鶴首城を預かっていたのであるが、バランス感覚には優れたものを持っており、家親の良き参謀役であった。
 意見は即戦論と時期尚早論に別れたが、並みいる家臣達の多くが親成の時期尚早論を支持した。
 軍議も意見が出尽くして終盤になった頃、五郎兵衛は立ち上がって言った。
「成るほど大方の諸君が言われるように若い三兄弟を育てあげてからことに当たるというのは正論じゃろう。しかしながら、私は皆も知っての通り、愚昧なため忠義だけで生きてきたような男じゃ。私が生き延びても御兄弟の育成には少しもお役にたてることはないじゃろう。さればこそ、死して亡き家親殿に忠義を励もうと決意したんじゃ。皆は生き長らえて御兄弟の養育育成に功績をたてんさりゃぁよかろう。今生の別れですらあ」
と言って深々と一礼すると軍議の席から退出した。



2005年08月29日(月) 三村一族と備中兵乱33

 美作興禅寺本堂で三村家親が何者かによって暗殺されたことは、事件からかなりの時が経過するまで世間には知らされなかった。三村家ではこれを秘事として厳しく箝口令をひいた。
 三村家親の庶腹の弟孫兵衛親頼は、家親が暗殺されたとき、三村家の重臣達と相談して家親の遺言通り、家親の死を隠し
「家親の体調がすぐれない」
ということにして美作から兵を引いた。
 智将で鳴る親頼はもしこの事実が世間に広まれば、家中に動揺が起こり、敵に乗ぜられると判断したからである。遠藤兄弟が事件後さしたる困難もなく逃げおおせたのはその所為であった。
 喜び勇んで報告にきた遠藤兄弟の話を宇喜多直家は、半信半疑で聞き、恩賞をなかなか与えようとしなかった。
 三村家では何時までも家親の不慮の死を伏せておきたかったのだが、家親の病気見舞いに訪れた家中の者達にも顔を見せることができなかったので、いつしか家中の噂となり、隠し通せるものではない状況がでてきたので遂に家親の喪を発表せざるを得なくなった。 これを聞いて、宇喜多直家は遠藤兄弟へ約束通り知行を与え浮田の苗字を与えた。
 暫くして、宇喜多家で遠藤又次郎と弟喜三郎という鉄砲の名人が高禄で召し抱えられたという噂が備中成羽城にも流れてきた。兄は一万石、弟は三千石という破格の待遇であった。このことから三村家では家親を狙撃したのは遠藤兄弟であろうと推測し、黒幕は宇喜多直家に違いないと考えるようになった。
 そして又次郎が三村家の弓衆として在籍したことがあり、鉄砲仕入れに堺へ出奔したまま帰ってこなかった男と判って、宇喜多家に対する憎悪を倍加させていった。

 三村家親が不慮の死を遂げたという報は美作の地を再び動乱の地と化した。
 第11代当主三浦貞勝が薬師堂で自刃してから野に潜んで再起の時を窺っていた三浦家の旧臣である牧管兵衛・玉串監物・蘆田五郎太郎らの各氏が三浦家第10代当主故貞久の末弟貞盛を擁立して永禄九年(1566)旗揚げしたのである。これに呼応して恩顧の国人たちも馳せ参じた。この動乱の時高田城の守将は津川土佐守であったが、蜂起軍の猛攻を受けて数十名の部下とともに壮烈な討ち死にをした。高田城は再び三浦一族の手に戻ったのである。
 この朗報は宇喜多直家の沼城で食客となっているお福のところへ牧管兵衛の使者によってもたらされた。
「お方さま、お喜び下さい。高田城が再び我等の手に戻りました。直ちにこの城を引き払い美作の高田城へ戻りましょう。牧管兵衛殿がお迎えの使者を寄越されました」
と郎党の江川小四郎がお福を促した。
「亡夫貞勝の怨敵三村家親を宇喜多直家殿が討って下されたし、もう一人の仇敵金田源左衛門はこたびの戦で三浦軍によって討ちとられたのであろう」
とお福が言った。
「いかにも」 
と江川小四郎が答えた。
「されば、もう三浦家に対する義理は何もない。お主達は貞盛殿をもり立てて下され。桃寿丸が高田城へ戻ると先々叔父にあたる貞盛殿との間がまずかろう。必ず争いの種になりましょう」
と言って沼城を離れようとはしなかった。
「お方様、我等を見捨てられるのですか」
「そうではない。家親殿の仇を討って下さった宇喜多直家殿への恩義もあるし、桃寿丸の将来は直家殿が面倒を見て下さるとのお約束じゃ。そのほうが桃寿丸のためにもいいし三浦家のためにも良いことだと思うのじゃ」
「それでは、お方様は直家殿の正室になられるという噂は本当なのですか」
「直家殿のお心次第じゃ」
とお福は頬を紅潮させながら言った。 
 その時、お福は三村家親が暗殺されたという知らせを受けた日に、直家に誘われるままに直家の寝所へ入ったときのことを思い出していたのである。
「のう、お福殿、そなたの怨敵三村家親はこの直家が確かに仇をとって進ぜましたぞ。今日は亡き貞勝殿への供養を兼ねて心ゆくまで祝杯をあげましょうぞ」
と言って杯を勧められた。
 勧められるままに気持ちよく杯を重ねているうちにいつしか酔いがまわっていた。
女盛りを空閨で過ごしてきた体が酔いの所為で行動を大胆にした。
「わしの亡き妻達は皆、女腹での七人も子を産みながら全部女児じゃった。そなたのような美しい女との間に生まれていればさぞ美人揃いであったろうに、わしの娘達はどれも皆ぶす揃いじゃ」
と直家が遠巻きに誘ったとき、
「私に生ませてみては如何でしょう」
と言ってしまったのである。

 あとは酔いも手伝ってか直家の腕の中に抱かれ、恥じらいも忘れて燃えに燃えた。それ以来お福は逞しい男の腕に抱かれる度に女としての歓びを感じていたので、沼城をでる気持ちはすっかり失せていたのである。それに桃寿丸はまだ三才なので高田城へ戻ったところで城主がつとまるわけがない。新城主は亡夫貞勝の叔父である。今更高田城へ舞い戻って家臣達の間に家督相続を巡っての紛争の種を蒔くことは賢明ではない。桃寿丸の将来のことは、直家に縋ったほうが後見人としては頼もしいし、三浦一族のほうも丸く納まるだろうと考えたのである。

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2005年08月27日(土) 三村一族と備中兵乱32

 本堂の座敷と濡れ縁を遮る障子の紙に穴を開けて家親とおぼしき人物に狙いをつけていた遠藤又次郎が明かりに照らし出された家親の顔をはっきり確かめて火縄銃を発射したのである。
 家親は床柱を背にして座っていたが、仰向けに床柱へ叩きつけられてから崩れ落ちた。 銃声を聞いて、本堂へ家臣達が殺到してきた。
「曲者だ。逃がすな」
「曲者はどこだ」
 大勢のわめき声が一段と大きくなり境内は何事が起こったのか判らないまま殺到した家臣達で混乱していた。
 軍議に参加していた親頼、親成、政親、貞親らが駆け寄って家親を抱きおこしたが、胸からは血が噴き出し手の施しようがなかった。
「医者を呼びにやれ」
と親頼が叫んだ。
「やめろ、親頼。騒ぐでない。今生の別れとなるやも知れぬが、決してわしの死を外部に悟られてはならぬ。密かに陣を払ってわしを備中松山城へ運べ」
と苦しい息で近侍の家臣に指図した家親はやがて昏睡状態に陥り、息を引き取った。
 家臣達は遺言に従って遺体と共に無念の陣払いをした。
 家親が崩れ落ちるのを見届けた又次郎は、心で快哉を叫びながら闇の中を破れ土塀へ突っ走った。弟の喜三郎も床下から飛び出し兄の後を追った。二人は破れ土塀を飛び越えると本堂裏手の藪の中へ駆け込み、草の茂みに身を隠し、いつでも発砲できるように鉄砲を構えた。しばらく様子を窺っていたが、急に騒ぎが静かになった。
「どうもおかしいのう。銃声がした後、蜂の巣をつついた程の騒がしさだった寺の中が急に静かになったのは腑に落ちない。兄者、間違いなく家親をしとめたのか」
「馬鹿言うんじゃない。見事命中して前へ崩れ落ちるところまで確かめてから逃げたのじゃから」」
「闇夜だから、人間違いをしてはいないだろうな。確かに家親だったのかいな」
「燭台に誰かが油を注いで部屋が明るくなった、時はっきり家親の顔をこの目で確かめた。まぎれもなく正面から家親だと確かめたうえで引き金をひいたから、万が一、人違いであるはずがない」
「今日の首尾を宇喜多直家様に報告して約束の恩賞を頂くのが楽しみじゃのう」
「本当に恩賞は呉れるんじゃろうな」
「起請文まで自ら言いだして書いたんじゃけえ、まさかとは思うがのう」
「それまで、この鉄砲は一時たりとも手放せないぞ。第二の刺客がわれらを狙っているかも知れんしのう」
「宇喜多直家様は狡いお方じゃから、用心せにゃぁのう」
と二人の兄弟は言い交わしながら、灌木や草むらをかき分けてもと来た道を三村勢に見つかることもなく無事引き返した。
 三村家親の暗殺は宇喜多直家に二つの結果をもたらした。ひとつは三村一族の激しい憎しみである。いまひとつはお福の愛である。



2005年08月26日(金) 三村一族と備中兵乱31

 三村家親が本陣を構えている下籾の興禅寺へ向かって、更に弓削から誕生寺川を下り上神目まで辿りついた時、三村家親の配下の兵が数人ずつ隊列を組んで巡回警備している姿を目撃した。いよいよ敵陣近く潜入してきたのである。
「兄者、これはぼっけぇ警備じゃのう。迂闊には近寄れんようじゃなあ」
と喜三郎が囁くと
「なあに、日が暮れれば目につきにくくなるわな。それまで動かずに隠れていよう」
と又次郎が囁きかえした。
 二人は灌木の中に姿を隠し、お互いの顔を見つめあった。これからやろうとしていることの難しさを改めて反芻したのである。このあたりは、猟場を求めてよく往来した所なので地理は頭の中に入っている。敵の監視の目をかいくぐって、じわじわと興禅寺近くまで辿りつくことができた。時刻はたそがれどきであり、身を隠すには都合のよい時刻と言えた。兄弟は寺横の竹藪の中に潜み巡回してくる警護の隊列をやり過ごしておいてから、土塀の破れより境内を窺ってみた。意外にも境内の警備は手薄のようである。定期的に二人一組で五組の足軽が交代で一定の間隔を置いて境内を巡回しているのが判った。
「これなら、暗くなるのを待って忍びこめば家親の陣屋へ潜りこめるかもしれんぞ」
「月の光も乏しいから夜になれば、勝機が掴めるかもしれんのう」
「そうじゃ、足軽の扮装をして警備陣に紛れこもう」
「うまい考えだ。こそこそやるより、敵の中へ飛び込むほうが却って怪しまれないで済むかもしれない。かけてみよう」
「逃げ道もよく調べておこう」
「夜は敵も警戒していることだから、十分気をつけるんだぞ」
 用意を整えた遠藤兄弟は月光のない二月五日、夜空のしたを、夜回りの足軽に扮装して土塀の破れから興禅寺境内へ忍びこんだ。
 草むらに身を隠して正面を見ると黒々と本堂が建っている。最初に来た警邏の足軽をやり過ごしておいてから、素早く本堂の床下に潜りこんだ。次に来た巡回の足軽を再びやり過ごしてから喜三郎を見張りとして床下に残し又次郎が本堂の濡れ縁へ上がった。縁側と座敷を隔てた格子戸に近づいて内部を窺うと軍議の最中らしい。又次郎には軍議の内容までは聞き取れなかった。
「お館様が興禅寺へ陣を張っておられるだけで、恐れをなして傘下に入りたいと誼を通じてくる国人衆もぎょうさんおります。大した御威光ですなあ」
と植木秀長が言った。
「金光宗高の岡山城、中島元行の中島城、須須木豊前守の船山城もわれらの手に落ちた今となっては、美作を平定してしまえば、都へ一歩近づいたようなものじゃ」
と三村家親が言うと 
「松田も先が見えたし、備前のことは宇喜多氏を叩ければ手に入ったも同然ですらぁ。浦上氏も宇喜多直家がいなければ、赤子も同然というものじゃろう。浦上宗景も最近宇喜多に手こずっていると諜者が報告してきておりますぞ」
と石川久智が浦上家の内紛を披露した。
「興禅寺で冬籠もりというのも無粋なものだが、兵を休養させるのも大切なことだ。たまには近くの温泉にでも漬かって英気を養っておくんじゃなあ。雪解けになったら一気に備前へ攻め入ろう」
と三村家親が言った。
「早く雪解けにならないものかのう。腕がなるわ」
と荘 元祐がいうと
「そうじゃ。わしゃ、じっとしておれん性分でな」
と植木秀長も髭をなぜながら言った。
「夜も更けたし、寒さも厳しくなった。寒さ凌ぎに一杯飲んでくれ」
と家親が言って瓠を回すと親成が杯で濁り酒を受け、おし頂いてから旨そうに口に含んで言った。
「暗いと酒が不味くなるので、明かりを大きくしましょう」
と燭台に菜種油を注ぎ、灯心をかきたてた。
 部屋の中が急にパッと明るくなった。この時一発の銃声が轟いた。
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2005年08月25日(木) 三村一族と備中兵乱30

 宇喜多直家は家臣の花房職勝と長船貞親を呼び家親謀殺の相談をもちかけた。
「三村家親とはいずれ一戦を交える時がこようが、今はまだそのときではない。謀略で家親めを密かにしとめるうまい手だてはないものかのう」
「忍びの者を放って暗殺するのが一策かと」
職勝が言うと
「警戒の厳重な家親の身辺近くまでうまく近づけるかのう」
と直家がこの策の難しさに言及した。
「されば、得物は鉄砲を使います」
と長船貞親が言う。
「家中の鉄砲隊の中に気の効いた者がいるか」
「そこが問題です。忍びの心得のある者でなければこの仕事はできません」
と職勝。
「心当たりはあるのか」
「一、二適当な者がおりますが、家親の顔を知りませぬ」
と職勝が困惑した顔で答えた。
「事前に忍ばせて顔を確認させれば良かろう」
「危険です。相手に気づかれては警戒されましよう。この計画は、失敗がゆるされません。一回でしとめねばなりませぬ」
と長船貞親。
「では、家親めの顔を知っており、鉄砲の使える忍びの者を探すしかないではないか」
「その通りです。私にある人物の心当たりがあります。呼んでみましょう」
との長船貞親の答に希望を繋いでその日の謀議は終わった。
「殿、この前お話した鉄砲の使えるよい人物を連れて参りました」
と長船貞親が言って一人の猟師を直家の前に連れてきた。
「遠藤又次郎です。今は猟師をしていますが、かつて三村家親殿にお仕えし、お顔も間近に拝したことがあるそうです。橋本一巴に鉄砲を習った鉄砲打ちの名人です」
と手短に紹介し又次郎を直家に引き合わせた。
 直家は近習達に人払いを命じてから言った。
「面をあげよ」
 鋭い目つきの男であった。
「他聞を憚る。もっと近う寄れ」
とその男を身近に呼び寄せた。
「そちは、備中成羽に住んで三村家親殿に仕えたことがあるそうじゃが、家親殿の面体は見知っているじゃろうな」
「はい。弓衆の一員として家親殿に仕えていましたけぇ、間近にお顔を拝し直接言葉のやりとりをしたこともありますらぁ」
「そうか。鉄砲は何処で習った」
「舎弟の喜三郎より堺で習いました」
「貞親は橋本一巴に習ったと言っているが」
「それは舎弟のほうですが。私は弟に学びましたけぇ、橋本一巴の又弟子にあたりますんじゃ」
「弓矢の名人林弥七郎と対決して勝った橋本一巴のことか」 
「そうです」
「もう一つ聞くが、その方美作の地理には詳しいか」
「はい。家親殿からお暇を頂いてから、鉄砲の腕を活かすため猟師を家業として美作、備前の山野を駆けめぐつていますけぇ、庭のようなものですらぁ」
と言ってから直家は又次郎の目を見据えた。又次郎はたじろぐことなく眼光鋭く直家の目を直視し、互いの視線が交錯して火花を散らした。
「心得ております」
「そのほう、三村家親が美作に出陣していることは知っていようの」
「はい。存じております」
「そちに頼みたいことは、三村家親の陣屋に忍び込み家親を得意の鉄砲で暗殺して欲しいのじゃ。恩賞はそちの望みのままとらせるぞ」
「・・・・・・・・・」
 さすがに、鉄砲の名手又次郎の顔色が変わった。身震いがした。備中の虎という異名を持つ知勇兼備の当時傑出した戦国大名の三村家親を暗殺せよという。しかも、かつては仕えたこともある主を闇討ちにせよとの密命である。
「どうした。怖じ気ついたか。秘密を打ち明けた以上、いやとは言わせぬ。心して返事をいたせ」 
「このような大役を新参者のそれがしに仰せ下され、恐悦至極でございます。確かに承知致しました。しかし、御依頼のことは難儀なことです。三村家親は用心深い人物で、いつも大勢の家来に護衛されている大将ですから、私一人で討ち取ることは至難のことでございます」
「何か頼みたいことでもあるのか。許すから申してみよ」
「二つばかりお願いしたいことが有りますんじゃ」
「許す。何なりと申してみよ」
「されば、このような大事、失敗は許されませぬ」
「よい心掛けじゃ」
「されば、万が一のことも考えて、私の弟喜三郎にもこの大役を仰せつけ下さいますようお願い申し上げます。私以上に鉄砲の名手にございますけぇ、私にもしものことがあれば、私に替わってやり遂げますらぁ」
「よかろう。そちひとりでは何かと心もとないであろう。成功の暁には喜三郎にも恩賞をとらせよう。後一つの願いは何じゃ」
「運悪く功を遂げずして落命した時には、残された妻子のことがきがかりです。今は一介の猟師ですから、妻子にまで累が及ぶようでは不憫でなりませぬ」
「そのことなら、心配いらぬ。妻子と縁者の行く末のことはこの直家が誓って責任をもって面倒みようぞ」
と言って又次郎の目を凝視した。又次郎の心の動きを探る鋭い目つきであった。又次郎は直家が新参者のだす条件を簡単に認めるので却って不安になった。ここまで秘密を知らされた以上断れば、直ちに殺されるであろうし、家親の暗殺に成功したとして本当に、恩賞が貰えるのだろうか、何しろ権謀術策でのし上がってきた直家のことであるから誓紙でも貰っておかなければ、安心できない。しかし、誓紙を書いてくれとも言いだしにくい。しばらく沈黙の時間が流れた後、直家が答えを促すように言った。
「どうじゃな。憎い家親めを見事うちとめたときには、そのほうに一万石を与えよう。この直家が信用できるかどうか思案しているのであれば、誓紙血判してつかわそう」
「恐れ多いことです。喜んでお引受いたします」
と言う又次郎の答えを聞くと
「よし。家族のことも心配ないから、思う存分働いてくれ。起請文を書いておこう」
と言って自ら硯を取り出し墨を磨って、筆をとるや熊野牛王に宛てた起請文を認めた。
 遠藤又次郎と弟の喜三郎は直家の密命を帯びて、美作の興禅寺を目指して沼城を出発した。吉井川を遡り、川沿いに美作の久米郡棚原を経由して栗子あたりまでやってきた。そこで鉄砲の手入れをしてから本山寺道を通って南下し右手に妙見山、左手に栗子山を仰ぎながら山狭の険しい獣道を抜けて久米南の弓削へ出た。

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2005年08月24日(水) 三村一族と備中兵乱29

「お福殿、そなた達親子を賓客として迎えようと思よんじゃ。この城は自分のうちだと思うて気儘に振る舞われりゃよろしいが」
「これはまた、勿体ないお言葉ですなぁ、有り難くうけたまわります」
とお福が深々と頭を下げるとまたして、芳香が流れた。
「それで、お福殿この直家が力になれることがあれば力を貸しますらぁ。なんなりと遠慮のう申されりゃぁよろしいが」
と慈父が愛娘に言うような口調で言った。
「お言葉に甘えまして」
「よしよし、はっきり言うてみられぇ」
「桃寿丸のこと、行く末が案じられるんです」
「そのことよ、間もなく兵を出し、高田城から毛利の軍勢を追い散らし、桃寿丸殿を城主として送り込んであげますらぁ。勿論この直家が後見致しますらぁ」
「有り難う存じます。そのお言葉を聞いて、心が晴れました」
と婉然と微笑む笑顔がまことに魅力的である。すっかり心を奪われた直家が、
「そのほかには」
と言うと
「亡き夫の仇を討ちたいと思います。一日も早く、憎き三村家親の首を討って夫の墓前に供えとうございます」
と美しい顔が憂いを帯びてくる。
「憎い金田源左衛門ともども、三村家親もこの直家が討ち取って貞勝殿の無念を晴らしてあげますらぁ。それにしても家親は手強い相手故、暫く時間を下され。何か良い思案はないものかのう」
「そこまでは・・・」
とお福が言いかけると目で制して激しく手を鳴らした。
「お福殿がお休みになられるんじゃが。誰か案内を」
 お福と桃寿丸とは沼城で過ごすこととなったが桃寿丸は幼く可愛いかった。お福は未亡人とはいえ若く美しかった。嫡男に恵まれなかった直家は桃寿丸をわが子のように可愛がった。自分の子のように慈しむことがお福への愛情を深めさせた。沼城が明るくなって、家臣達はいつしか
「お福殿が殿の後添えになられるのでは」   
と噂しあうようになっていた。

永禄九年(1566)二月初旬の寒い朝、物見から帰った江川小四郎が直家の館にお福を訪ねてきた。
「お方さま、三村家親がまた美作に兵を入れました。久米郡弓削荘の仏調山興禅寺に本陣を置いて、家親はここを宿舎にしています」
と江川小四郎が言った。
「三浦の遺臣だけで家親を討つつもりか」
とお福が聞いた。
「もとよりその覚悟です。しかしながら、中々用心深く、近寄ることができません。我等人数も少なく宇喜多の殿のお力を借りることができないかお方さまに相談に参った次第です」
「わたしからお頼みしてみましょう」 
お福は直家の部屋へ桃寿丸と小四郎を伴って伺候した。
「これは、お福殿と桃寿丸殿、それに小四郎殿もお揃いで何か急な御用かな。家親が美作で動きだしたことと関係がありそうじゃな」
と直家は親子の用向きに察しをつけながら言った。
「御意。興禅寺は雪が深く、家親は暫く滞在する気配ですらぁ。警戒も薄いようなので奇襲をかけるには絶好の機会かと考え、御加勢をお願いに参上致しました」
と小四郎が言えば、
「亡き夫の無念を晴らすためにお力添えを桃寿丸ともどもお願い申し上げます」
とお福が愁訴の眼差しで直家をみあげてから、深々と頭を下げた。
「お殿様、お願い致します」
と桃寿丸も母に習って頭を下げた。
 いずれは家親と一戦交え、雌雄を決せねばなるまいと考えていたし、お福に想いを懸けるようになっていた直家としては、潤んだ瞳で懇願されると無下には断ることができなかった。
「よし。判った。一臂の力を貸しましょうぞ」
この言葉を聞いてお福の顔に喜色が迸った。桃寿丸の手をとって何度も頭を下げた。
「ありがとう存じます。流石、備前にその人ありと噂の宇喜多様でございますわ。何と頼り甲斐のあるお殿様ですこと」
とすかさず煽てた。古今を問わず、女からのこの種のお世辞は男をして、有頂天にさせ、実のあるところを示さねばならぬという気持ちにさせるものである。相手に好意を抱いていればその効果は倍加する。
 お福は天性として男を虜にしてしまう話術と仕種を身につけていたのであろう。後年、豊臣秀吉が備中高松城攻略を前にして岡山城へ滞在したとき、お福の虜になったことからも、その天稟は窺える。

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2005年08月23日(火) 三村一族と備中兵乱28

「ところで、今日は虎倉から素晴らしいお土産を持参致しました」
と妹の梢が言った。
「ほう。何を持参致した」
「ご覧になってからのお楽しみ」
と梢が言って控えの小姓に目配せすると、次の間の障子が開かれた。そこには妙齢の婦人が三つ指ついて平伏している。
「ほう。女ではないか。面をあげい」
直家の声に応えて、女が静かに顔を上げて直家を正視した。色白で形のよい顔は鼻筋が通っており、ふくよかな頬の奥には人懐かしげな目がこころなしか潤んでいる。
「ほお。美しいお人よのう。名は何と言う」
直家は体の中を美しいものにふれた感動の波が走るのを感じていた。
「お初におめもじを得ます。お福と申します。美作勝山の三浦一族の者でございます」
「・・・・・・・・」
何か言おうと口をもぐもぐさせただけで直家は暫し言葉を失っていた。あまりの美しさに見とれていたのと、頭の中に蓄えられている近隣諸国の出来事の情報を組み合わせてお福の背景を考えていたからである。やがて
「この度の合戦では、貞勝殿が落命された由。お福殿にはご愁傷のことと思います。聞けば城内の裏切り者による内通が敗因とか。さぞ口惜しいことでござろう」
と直家が言うと
「・・・・・ 」
お福は頭を下げただけで言葉がでない。涙ぐむ様子がしおらしい。
「忠臣、舟津弾正に讒言により詰め腹を切らさせたことといい、三村家親へ内通したことといい、金田源左衛門めは八つ裂きにしても憎みたりないことであろう」
「お悔やみのお言葉かたじけのうございます」
「桃寿丸殿が成人されるまで、ゆるりと過ごされよ」
「重ね重ねの御配慮いたみいります。こたびは無念の最後を遂げた夫貞勝の忘れ形見桃寿丸ともども、御引見賜り、いままた逗留をお許し戴き有り難う存じます。お福御礼の申し上げようもござりませぬ」
「なんの、なんの。お福殿そちらは畳もござらぬ板間ゆえ、脚も痛かろう、もそっとこちらへお越しあれ」
初対面で心を虜にされた直家は、お福のほうへ立ち上がって行き、その手を取って直家の席の前へ導いた。
「あれま、はしたないことで」
と消え入りそうな風情のお福を労り、励ますように直家が囁いた。
「桃寿丸殿の将来のこととか、貞勝殿の仇打ちとか他聞を憚ることもあるので話は近いほうがよい。遠慮されることはない」
 伏目がちにしているお福の着衣から、微かに沈香の匂いが流れて、直家の鼻孔を刺激した。近くで見ると唇に引いた口紅が薄化粧した顔に映え形のよい顔容を引き立てていた。(これは噂に違わぬ絶世の美女だ。このようなたおやかな美女ならば、後添えにしても生活に張りがでるだろう)とこみあげてくるものがあるのを直家は抑えかねて言った。

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2005年08月22日(月) 三村一族と備中兵乱27

 宇喜多直家の正室奈美は沼城(岡山市沼)城主中山備中守信正の娘である。沼城は平山城ではあるが、備前の中央部に位置し屈指の穀倉地帯をその領地内に抱え、国人達の垂涎の地であった。天文18年(1549)直家は若干21才で新庄山城(岡山市角山)に城を築き、主君浦上宗景の命により、浦上家の財務担当の重臣・中山信正の娘を妻に迎えた。新庄山城は備前の東部盆地を北方に見下ろすことができ、盆地の南端を抑える要害の地であったから中山信正にとってこの縁談は政略的にも都合のよいものであった。中山備中守信正は当時上道郡東部盆地の大半を領有する大身であったから、遠く京都の公家にも名前が知られているほどの実力者であった。蝶よ花よと何不自由なく育てられた妻奈美は気位が高く、なにかにつけ実家のことを自慢する誇り高き女性であった。

 一方の直家は幼くして父を失い、流浪生活までして辛酸を嘗め尽くした上で成り上がってきた男だけに、名門の妻を迎えた喜びは大きく、束の間ではあったが、新庄山城で送った甘い新婚の生活は戦場往来の殺伐とした気持ちに安らぎを与えるものであった。従って気位の高い妻のわがまま勝ってな振る舞いも気に触るどころか却って、自分ももっと大身になって妻から尊敬されるようにならなければと闘志をかきたてさせるのであった。夜毎同衾して、乱れ狂う奈美の白い裸身の餅肌が桃色に変わり、切なく喘ぐ声は直家の征服感を満足させるものであった。それはまた誇り高い鼻をへし折られ、羞恥の気持ちを苛まれ歓喜の世界へ誘われるのを成熟した女体が待ちのぞんでいるという合図のようにも思えるのであった。そのような新婚生活の結果として直家と奈美の間に双子の女児が誕生した。長女を美代、次女を千代と名付けたが、二人の姉妹が11才になったとき、悲劇が発生した。

永禄二年(1559)正月天神山城へ伺候して、主君浦上宗景に年賀の挨拶をしたとき非情冷酷な命令を受けた。
「一大事が発生した。お主の舅、中山備中信正が首謀者として謀叛を企て島村観阿弥と結託しているという確かな情報が手に入ったのじゃ。この浦上宗景を亡きものにして、わしにとって替わろうという魂胆じゃ。信正は東大川と西大川とに挟まれた肥沃な穀倉地帯を領地に持っている。一方島村観阿弥は砥石城(邑久町豊原)にあって千町平野の肥沃地を領有しておりその収穫高は備前一だと言われている。この二人が提携して、備前を統一しようということらしい。お主の祖父の能家は島村観阿弥に弑いされて、砥石城を奪われたのであろう。お主の仇敵島村観阿弥とこたびの謀叛の張本人中山信正の征伐を命ずる」というものであった。

 古来、内外を問わず実力のない主君は、力をつけてきた家臣達を権力闘争に巻き込みお互いに覇を競わせて勢力を消耗させ、その均衡の上に立って自らの権威を維持しようとする。無理難題をふっかけられた直家は策略を巡らして二人を倒すしかないと決意した。

 直家は沼城の近くに茶亭をつくり狩猟にことよせてしばしば岳父の中山信正を茶亭に招待して供応したが、そのうち信正は城から茶亭へ遠回りするのが面倒になり、茶亭と城の間の沼に仮橋を架けるよう勧めた。内心喜んだ直家はおくびにも顔にださず、橋を架けその後もしばしば信正を招いて茶亭で酒宴を開いていた。

 永録二年(1559)の初秋、狩猟帰りに茶亭へ立ち寄った直家はその日獲物が多く酒宴が盛り上がり夜半に及んだので、信正に勧められるままに沼城へ宿泊した。深夜城中が寝静まったところを見計らって直家は突然信正の寝所へ襲いかかったのである。合図に従って直家の家来達は手筈通り、仮橋を渡って沼城へ雪崩れこみ信正を討ってこの城を奪取したのである。

 沼城に狼煙があがるのを見た島村観阿弥は砥石城から僅かの人数で急行したが、予ての打合せ通り出撃してきた浦上宗景の応援部隊と協同して一挙に島村観阿弥を討ちとってしまったのである。この事件によって直家は沼城の他に砥石城を手にすることになったのであるが、実の父親を夫に殺害された妻の奈美は双子の姉妹美代と千代を道連にして戦国の女性らしく自決したのである。この事件以来、直家は勧める人があっても決して後妻を娶ろうとはしなかった。 


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