前潟都窪の日記

2005年09月11日(日) 三村一族と備中兵乱46

 備中動乱の最後の戦いとなった備前常山城への攻撃は6月4日から始まった。それまでは隆景の分遣隊と宇喜多直家軍が包囲していたのである。攻撃の主力となったのは富川平右衛門秀安で毛利軍の案内役も買っていた。
 備前常山城の城主は自刃した松山城主三村元親の妹婿上野隆徳あった。松山城が陥落して孤立無縁となった常山城の唯一の頼みは阿波三好氏からの来援であったが、毛利軍が大挙来襲すると姿を現さなかった。たまりかねた家臣が
「いっそ海を渡って四国へ渡り、三好の応援を得て、城奪回の機を窺うのが賢明かと思う」
と家臣の一人が進言したが隆徳は
「お主達の言うことはもっともであるが、毛利に弓引くように強く勧めたのはこの隆徳じゃ。その張本人が女々しく生き永らえることができようか。命の惜しい者は逃げてくれて結構じゃ。咎めはせぬ」
と城を枕に討ち死にする覚悟を披瀝した。
 これを聞いて思い思いに駆け落ちする郎党達もいた。小舟を浮かべて逃げだした者もいた。彼らは逃げる途中で敵に追いかけられ殆どのものが討ち取られてしまった。
 城の周囲を蟻の出る隙間もないほど包囲されて逃げ場を失った城兵は全員討ち死にを覚悟した。
 六月六日の暮れに小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝が城の下に旗を掲げ先陣の兵数千人が二の丸へ攻め入り太刀を閃かし、靱を鳴らして鬨の声を上げた。
「助かろうと思う者程鬨の声に驚くものだ。明日の巳の刻(午前八時)には大矢倉で一類みな腹を切り名を後世に残したい」
隆徳は少しも騒がず静まりかえっていた。
 翌七日の明けかた、城内から酒宴の声が流れた。多くは女性の声で互いに今生の名残の杯を交わしていた。
 七日辰の刻(午前八時)に敵軍へ向かって
「一類自決する」
と告げると一類の人々が我先にと集まってきた。
 隆徳の継母は57才であったが先ず一番に自害した。
 自害するとき彼女は
「この世にあってこのような憂き目を見るのも前世の業が深かったためであろう。隆徳が腹を切るのをみると目を廻し気絶し、見苦しい姿を見せるのも口惜しい。暫時後に残るよりも先に自決したい」
と言って縁の柱に刀の柄を縛りつけそのまま走り掛かって胸を貫いたところに、隆徳が走り寄って
「五逆の罪は恐ろしいが止むを得ない」
と言って首を討ち落とした。
 嫡子源五郎隆透は15才であった。父隆徳の介錯をしかたいと思ったが、少年でもあり未練が残ると思ったのか
「逆ではありますが先に腹を切りたい」
と言うと
「愚息ながら神妙な奴だ」
と扇を開きあおぎながら、つくづくと顔を見て
「生かしておきたいが、後生の障りともなるであろう」
と暫く涙を流し、袖を濡らしていた。
 隆透は俯いて涙を押し留め肌を脱いで、腹十文字に掻き切りうつ伏せになるところを
隆徳が首を打ち落とした。
 隆徳は8才になる隆透の弟を傍らに抱え心臓を二突きして殺した。
 隆徳の妹に16才になる姫がいた。安芸の鼻高山の親戚の許へ落ちていくように勧めたが
「思いも寄らぬことです」
と言って、老母の縛りつけていた刀で乳のあたりを貫き自害した。
 隆徳の妻鶴姫は三村元親の妹で、日頃から男に勝る勇気と力を持っていた。
「私は女の身であるが、武士の妻や子が敵の一騎も討たずむざむざ自害するのは口惜しい。女であっても、ひと戦しないわけにはいかない」 
と鎧をつけ、上帯を締め、太刀を佩き、長い黒髪を解いてさっと乱し、三枚兜の緒を締め紅の薄衣を取って着て、裾を引き揚げて腰で結び、白柄の薙刀を小脇にに挟んで広庭へ躍りでた。
 これを見た春日の局やその他の青女房、端下の者に至るまで三十余人は
「思い留まって静かに自害して下さい」
と鎧の袖を掴んだが、
「貴女達は女性の身だから敵も強いては殺しはすまい。いずれの地かへ落ち延びるか、もし自害するならよく念仏を唱えて後生を助けて貰われるがよい」
と袖を振り切って出て行った。
春日の局らは
「さては自分達を捨ててしまわれるのか。どうせ散る花ならば、同じ嵐に誘われて、死出の山、三途の川までお供しましょう」
と髪を掻き乱し、鉢巻きを締め、ここかしこに立てかけてあった長柄の槍を携えて三十余人が駆けだした。
 これを見た長年恩顧をこうむった家僕達も一緒に死のうと、83騎が揃って駆け出した。
 寄せ手はこれを見て 
「敵は妻子を先に立てて降伏してきたな」
と思っていたところ、女性軍は、喚声をあげながら、小早川の先鋒浦野兵部丞宗勝の七百余騎の真ん中目指して突っ込んだ。
 女を含むとはいえ、決死の勇士が死を恐れず突きたてたので、寄せ手の兵は足並みを乱し、傷を受け死ぬ者百騎に及んだ。慌てふためくのを見て隆徳の妻は腰から銀の采配を抜き、真先に進んで 
「討ち取れ、者共」
と大勢の中へ割って入った。多勢に無勢、構えを建て直した敵に追い詰めら討ち取られて味方の兵はいなくなった。
 隆徳の妻は浦野兵部丞宗勝の馬の前に立ち止まって、大音声を張り上げた。
「どうした。宗勝、西国屈指の勇士と聞いている。私は女の身ではあるが、一勝負致したい。いざ」
とわめき叫んで、薙刀を水車のように廻して攻め寄せた。
「いやいやそなたは鬼ではなく、女である。武士が相手にできる人ではない」
と身を引くと、傍らの兵五十騎が攻めかかってきたので薙刀で七騎を薙伏せた。
 自分も薄手を負ったがまた大音声を張り上げた。
「女の首をとろうとなさるな。方々」
と呼ばわり、腰から三尺七寸の太刀を抜き、
「これは、わが家相伝の、国平作の名刀である。この太刀は父家親が相伝されて、特に秘蔵していたが、故あって、私が戴いた太刀である。父親だと思って肌身離さず持っていた。三村一族が滅亡する今となっては、相伝する者もない。わらわの死後には宗勝殿に進呈する。後生を弔って賜え」と言い捨て城中へ馳せ入った。
 こうして西に向かって手を合わせ、
「夢の世に、幻の身の影留まりて、露に宿借る稲妻のはや立ち帰る元の道。南無阿弥陀仏」
と念仏を唱え、太刀を口に含んで臥し、自害した。
 隆徳も西に向かい
「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れ元親、久式、元範、実親と同じ蓮台に迎え賜え」と念仏を唱えながら腹を掻き切った。
 備中兵乱の悲話の中でも最も涙をそそる出来事である。



2005年09月10日(土) 三村一族と備中兵乱45

 天正三年(1575)4月7日から備中松山城の攻撃は開始された。この城は天下に知られた名城であったから、急に落とそうと思っても徒に人力を費やし、矢数を失うだけであった。ただ兵糧の道を断つことは効果のある攻め方だったので、小早川隆景は諸方の麦田を薙ぎ捨てにしようと考えた。
 四月七日松山城のうしとらの方向にあたる河面(高梁市河面町)寺山という古寺の跡に陣を移して古瀬(高梁市巨瀬町)近郷の麦を薙ぎ捨てた。
 松山城からは麦薙ぎを防ごうと兵を出したが隆景は少しも応対せずに、陣を白地(高梁市落合町福地)へ再び移して麦薙ぎを続け、28日成羽へ討ち入った。このため、近郷の百姓達は迷惑して、毛利方へ心を通じて城中への夜討ちなどの手引きをする者が多かった。だが城中の兵に捕らえられて獄門にかけられる者も多く、その数は落城までに318にもなった。
 隆景は諸氏に命じて陣が長引くように仕向け、何処へも出向かず櫓などの増設や修理だけをさせた。これを見て松山城の男女は退屈を覚え、下端の者達は月夜に抜け穴をくぐって城外へ出る者も多かった。
 重代恩顧の者達は
「城内には兵糧や塩は沢山あり一、二年の籠城には差し支えない。このうえは織田信長に味方して後詰めの勢力をお願いする」
として少しも怯む様子はなかった。
 こうして日が経つうちに何時の世にもあるように裏切り行為をするものが出てきた。竹井宗左衛門直定、河原六郎左衛門という浪人は元親から数えきれないほどの厚恩を受けていながら、隆景の術策に踊らされて、一時の利欲に惑わされて信義にもとることをしてしまった。両人は石川久式が守っている天神丸をとろうと思い、久式に会って
「我等について、世間では逆心の噂がたっているが迷惑なことである。このことについて小松山へ行って元親殿にお目にかかり申し開きをしたいと思います」
と言った。久式もその志を感心して5月20日、留守中の諸門の警備を厳重に命令して、宝福寺の雄西堂とともに小松山へ同道した。
 そこで両人の手の者は、予て計画の通り、野菜などを台に乗せて、天神丸の法印様に献上すると偽って開門を願った。門の守備兵も顔見知りの人なので怪しむことなく門を開いた。そこで大槻源内、小林又三郎はすぐ門の中へ入り、奥の座敷へ急行しそこにいた石川久式の妻子を捕らえた。続いて土居、工藤、田中、蜂谷、肥田、土師、神原など数百人が押し寄せてあちこちに火をかけた。このようなことがきっかけとなって、松山城は落城した。
 三村元親の自刃をもって松山城攻撃が終了すると隆景は将兵を率いて備前常山城へ向かった。
 松山城から落ちのびて父家親の墓がある頼久寺へ辿りついた元親は今回謀叛を起こした顛末を述べた輝元宛の書面を認めた後、辞世の句数句を残した。介錯は粟屋与三左衛門尉元方に依頼して検視の武士達が感嘆する見事な振る舞いで切腹した。
 ・年来の馴染み細川兵部小輔宛に
   一度は都の月と思ひしに
        我待つ夏の雲にかくるる
 ・都に住む一族の武田法師宛に
   言の葉のつてのみ聞て徒に
        この世の夢よあはて覚めぬる
 ・歌道の師大庭加賀殿宛に
   残し置く言の葉草の影までも
        あはれをかけて君ぞ問うべき
 ・老母宛に
   人という名をかる程や末の露 
        消えてそ帰る本の雫に



2005年09月09日(金) 三村一族と備中兵乱44

 道理を説かれて言葉に詰まった元親は強権を発動した。
「三村家の家長はこのわしじゃ。家長の決断に逆らうのは謀叛と同然じゃ。成敗してくれる。それへなおれ」と激しい剣幕で刀に手をかけた。
「もはやこれまで。後悔なさるなよ。御免」
と一礼して孫兵衛親頼と嫡子孫太郎親成は親宣とともに退座した。
 列席した重臣と諸侍は何とかして親頼と親成を席に連れ戻し、一家の和睦を図らなければないと意見したが元親兄弟は頑として聞き入れなかった。心ある人は
「和睦して欲しい。和睦できないなら親頼と親成父子は討ち捨てるべきだ。元親は親頼父子のこれまでの忠誠心に甘えてたかをくくっている。親頼が本気だということに気がついていない。大将としての器が小さいな」
と内心思ったが口にだすものはいなかった。
 元親の打倒仇敵直家の執念は胸の内でますます燃え盛り、反対する親頼、親成、親宣を殺してでも信長との盟約を実現して直家を倒そうと決意して討っ手を鶴首城へ差し向けたのである。元親が討っ手を出したという情報をキャッチした親頼は
「これは思いもしなかったことになった。我が身の浮沈はここで決まる。将軍に注進して身の難をのがれよう」
と天正2年(1574)11月の夜、鶴首城を脱出して鞆の津へ馳せつけ、将軍足利義昭へ元親が謀叛を起こしたことを注進した。
 これを聞いた義昭公は驚いて、
「私が都へ帰還しようと謀をめぐらして準備 をしている時、足元に敵がいるとは思いもかけなかった。これはどういうことだ」
と早速三原の小早川隆景へ使者を走らせた。
 小早川隆景は使者から知らせを聞くと直ちに毛利輝元と吉川元春へ使者を立てると同時に
「将軍が御帰洛の計画を練っている時に、将軍家を侮り、毛利家を軽んじ敵に加担する無道者は直ちに誅罰せねばならぬ」
という将軍の御内書に自分の廻文を添え、山陰、山陽四国、九州までも早馬を走らせた。 鞆の津の将軍の許へ馳せ参ずるよう陣触れをしたのである。
 同年11月8日には小早川隆景、口羽・福原・宍戸・熊谷の歴々が馳せ参んじ翌日には輝元も出陣した。まもなく笠岡の浦に到着した。追々諸卒も加わりその軍勢は八万余騎に達したという。
 攻撃は毛利軍が本陣を置いた備中小田の北方にある国吉城から始められた。
 作州月田山城には元親の妹婿の楢崎弾正忠元兼が在城していた。元兼は元親謀叛の知らせを聞き、急に心を翻して、元親の縁者であると疑われないうちにと宇喜多直家の軍勢を城内に引き入れ、松山城の元親に加担していないことを示した。
 荘勝資がすぐ山王へ兵を出し佐井田城を攻めると叶わないと思ったのか三村兵部之丞をはじめ城内の者は松山城へ逃げ込んだ。
 小早川隆景を先鋒とする毛利軍の備中三村氏攻撃は電撃的に行われた。そのため天神山城の浦上宗景も宇喜多直家も毛利軍による備中三村諸城攻撃には殆ど加担出来なかった。
 直家が毛利軍へ協力出来たのは備中動乱最後の常山攻撃だけであった。



2005年09月08日(木) 三村一族と備中兵乱43

 天下布武を目的として都に入った信長と第15代将軍義昭の親密な関係は長くは続かなかった。将軍とは名ばかりで実権の伴わない傀儡だと気がついた義昭は全国の豪族に檄をとばし打倒信長を画策した。
 この呼びかけにいち早く応じて、天下に覇を唱えようとしたのは甲斐の武田信玄であった。彼は天正元年4 月(1573)三万の大軍を率いて西上の途についたが、志半ばにして信長と干戈を交えることもなく病没した。
 信玄なきあと天下を統一するのは信長であろうと目されるようになっていた そのころ山陽路では安芸の毛利備前の浦上と宇喜多、備中の三村といった新旧勢力がこの地方に覇権を唱えようとしのぎを削っていた。この中で信長の力を頼んで上洛したのは浦上宗景だけであった。元亀二年(1571)信長に伺候して備前、美作、及び播磨の一部を安堵するという朱印状を賜った。
 天正二年(1574)四月から備前の各地で浦上と宇喜多が熾烈な戦闘を始めた。明禅寺合戦で有名になり、浦上家を凌ぐ勢力を蓄えてきた宇喜多に浦上が難癖をつけたことが一つの原因であった。
 信長に追われ毛利輝元を頼って都落ちした足利義昭は備後鞆津の地から全国の豪族に対して檄を飛ばし、打倒信長を煽動していた。
 信長からの密書を受け取った三村元家は重臣を集めて評議した。
 小躍りせんばかりの口調で元親が長々と発言した。
「これは願ってもないことだ。三村一族は宇喜多直家とは戦場で敵としてしばしば戦ってきた。戦いにはまだ決着がついていない。それはそれとして、宇喜多直家はわれらにとっては父子二代の怨敵である。父家親は興禅寺で卑怯な手段で闇討ちされ、佐井田城の合戦では長兄荘元祐が戦死なされた。それなのに毛利殿は三村一族の感情を逆撫でするかのように、直家と同盟し怨念を忘れて一緒に奉公せよといわれる。はからずも、このたび織田信長殿から同盟を結び前の将軍義昭と毛利氏とに対抗しようという申し入れがあった。信長殿は最近盛名を得て行く所不可はないほどの実力の持ち主じゃ。組む相手としては不足がない。毛利氏と同盟を結んだ宇喜多氏を成敗するためにはこの方法しかない。願わくば織田殿の援助を得て浦上殿と力を合わせ、宇喜多を攻撃し年来の鬱憤を晴らしたい」
「お尋ねしたい。長年誼を通じてきた毛利殿に背くということか」
と三村親頼が尋ねた。
 孫兵衛親頼は元親の叔父にあたり、その母は奈々の方である。
「致し方ない。仇敵直家を討ち取るためには止むを得ぬ」
 と元親。
「毛利の大軍に勝てる自信がおありかな」と
今度は親成が尋ねた。成羽の鶴首城の城主で三村家の重鎮である。元親とは従兄弟にあたる。
「織田殿だけでなく、豊後の大友氏、阿波の三好氏も応援してくれる手筈になっているから心配無用じゃ」
「しかし、織田信長という人は狂気の人だという噂が多い。恐ろしい陰謀を企む人だともいうので彼と組むのは危険が多い。毛利氏にあくまで忠誠を誓うべきだ。ましてや大友三好の援軍は遠すぎる」
と親頼は強硬に反対する。親頼はバランス感覚に優れた智将で家親なきあとの三村一族を纏めてきた柱石ともいえる人物である。積極的に表面へ出ようとはせず、常に若い元親を押し立ててよくこれを補佐し、三村一族の団結を影で支えている縁の下の力持ち的な存在でありその燻し銀のような人柄は家中の絶大な信頼を一身に集めていた。滅多に元親に異を唱えたことのない親頼が今日は顔色を変えてあくまで強硬であった。しかしながら、怨敵直家憎し、打倒直家の執念で凝り固まっている元親には冷静に客観情勢を分析して年配者の助言を謙虚に聞いてみるだけの度量が失われていた。舎弟の宮内小輔元範、上田孫治郎実親らも元親に同調して孫兵衛親頼に感情的な反論をした。
「当家の運を開き、年来の本懐を遂げる好機が到来したと喜んでいるのに、同じ一族の身でありながら、怖じ気ついてしり込みするのは卑怯じゃろう。孫兵衛殿も耄碌したか」と孫兵衛を悪しざまに罵った。
「父の恨みを晴らすのに何故人の力を借りなければならんのじゃ。およそ武士の道は忠孝と仁義が基本じゃなかろうか。たとえ主君が主君らしからぬとも家臣は家臣らしく仕えるのが武士というものじゃ。信長ははじめ、将軍に頼まれ、その御威光を後ろ楯にして五幾内を討ち従えた。しかし後には逆心を起こし遂に将軍を都から追い出し我儘に振る舞っている。これは人倫にもとる所業じゃなかろうか。このような信長を大将と仰いで何の益があろうというのじゃ」
と孫兵衛はたじろぐこともなく、醇醇と説いた。                          



2005年09月07日(水) 三村一族と備中兵乱42

 輝元は安国寺恵瓊から将軍からの下し文を受け取ると急遽本陣に元春、隆景、福原貞俊口羽通良、熊谷信直、桂元延らの重臣を集めて軍議を開いた。
「宗景と直家が度々、和睦を請うてくるからには当家としもうっちゃっておくわけにも行かぬ。この際、将軍の顔をたてて有利な条件で和睦してはどうかと考えている。皆の意見を聞かせて貰いたい」
と輝元が口をきった。
 色々活発に意見がでたが総括すると
「四囲の客観情勢は当方に極めて有利であるから、これまで直家が備中において手にいれた諸城と領地を全て毛利に割譲すること。もしこの和睦条件が飲めないと言うのであれば兵馬を動かし徹底的に叩きのめす」
というものであった。
 和睦条件を示されると、全面降伏に近いものであったが、直家は止むなくこれを受け入れた。浦上宗景には既に戦意がなく宇喜多単独で戦うには相手の実力が遙に自軍を凌駕していて勝算は千に一つもないと考えたからである。
 宇喜多直家の西進政策は挫折した。
 しかし転んでもただで起きないのが直家のしぶといところである。直家は胸の内で色々と天下の情勢について思案した。
「信長が天下布武を唱え上洛したが、彼の強さは運だけではない。兵力も違えば装備も違う。隣国が互いに力を合わせて結束しておかなければ信長は山陽路へもやがて攻めてくるだろう。その時提携する相手は誰か。浦上は織田に尻尾を振って所領安堵の紙切れを貰って喜んでいるからもはや目ではない。三村はこのわしを家親の仇だと公言しているから組める相手ではなかろう。そうすると毛利しかいないことになる。織田が攻めてくる前に三村を潰しておかねばなるまい。そのためには毛利と盟約を結ぶことだ。わしが毛利と手を握ったと知ったらあの若造め血が頭にのぼって、毛利を飛び出し織田と結ぶだろう」
 直家は、早速角南如慶に恭順の意を表して毛利の麾下に入りたいという「親書」を持たせて安芸郡山へ輝元を訪問させた。
 この親書を受け取った毛利輝元は直ちに軍議にかけた。
「まことに怪しからん。宇喜多が首を洗って出てきても、三村と同席させるわけにはいかん。宇喜多は三村の仇ではないか。ぬけしゃぁしゃぁと宇喜多の神経がわからん」
と激昂したのは吉川元春であった。
「三村一族は代々、長年にわたり毛利に忠勤してきた信頼のおける家臣ではないか。それなのに宇喜多を今、毛利の麾下に組み込むことになれば、三村は毛利を離れざるを得なくなるではないか」
と毛利隆景も反対した。
 しかし、輝元はこの反対を無視して、宇喜多が毛利の麾下にはいることを認めてしまった。
「こともあろうに、三村家にとっては父家親兄元祐二代にわたる仇敵直家と同席せよ言われるか。つい先日までわれらの懇請により、宇喜多征伐の出陣をなされたではないか。毛利殿は父子二代にわたる献身的な忠節を弊履の如く捨てられるのか」
と三村一門の者は絶縁状を輝元に叩きつけて退場してしまった。
 このことを浦上宗景の放った間諜から聞いた信長はほくそえんで、密かに使者を元親の許へ派遣した。
「この度、前将軍足利義昭は毛利と結託して謀叛を企てるとのことであるが、もし貴殿がこの企てに加わらず、この信長に味方されるならば貴殿に備中、備後の両国を進呈するであろう」 
というのである。


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2005年09月06日(火) 三村一族と備中兵乱41

 元亀二年(1571)9月、出雲戦線から帰国した三村元親の軍勢が再び総師毛利元清の率いる八千騎の先鋒 として佐井田城に攻撃をかけた。このとき直家は主君の浦上宗景と提携して毛利軍に立ち向かう共同戦線を結成していたので、佐井田城の中には浦上宗景の武将岡本秀広と宇喜多直家の武将河口左馬進及び原二郎九郎の三人が城兵を率いて籠城していた。この年毛利元就は黄泉の国へ旅立っている。僅かな人数の尼子残党が宇喜多氏の加勢を得たからとはいえ、備中の諸城を攻略できたのは、毛利の偉大な指導者が死去して新体制が整備できていないという毛利の弱みにつけこむことができたからであり、三村氏が明禅寺崩れで大きな打撃を被っていたからでもある。 
 佐井田城に滞留していた尼子残党は勝久の尼子再興軍が滅亡の危機に瀕していると聞いて出雲へ帰って行った。
 9月4日、三村・毛利連合軍と浦上・宇喜多連合軍との間で決戦の火蓋が切って落とされた。浦上・宇喜多連合軍は佐井田城中から城門を開いて撃って出て、城外で白兵戦が展開された。
 三村元祐は二千余騎を率いて攻撃に参加していたが、敵の凶刃に倒れてしまった。毛利元清の陣中でも長井越前守が宇喜多軍の片山与一兵衛によって討ち取られた。三村・毛利連合軍は完敗して退却した。
 三村・毛利連合軍が備前の浦上・宇喜多連合軍に破れたことは名門毛利輝元の面目を失うものであると同時に宇喜多直家の西進への野望に自信を持たせるものであった。
 当時浦上宗景は直家と諮って豊後の大友義鎮や阿波三好氏の武将篠原長房と提携し西と南に毛利氏の包囲網を張り備中の毛利領の蚕食を始めていたので、毛利陣の先鋒三村元親は一刻も早く毛利軍が総力をあげて浦上・宇喜多連合軍を撃滅するための討伐軍を派遣するよう懇願した。
 元亀三年(1572)6月毛利輝元は軍議を開き、元春、隆景の両将及び重臣達の賛同を得て7月16日に大挙して備前、備中遠征に進発すると内外に宣言した。
 標的とされた浦上・宇喜多は本格的な毛利軍の攻撃宣言を耳にして慌てて特使を京都へ派遣し将軍足利義昭に毛利氏との講和斡旋を要請した。しかし毛利輝元は将軍義昭の講和斡旋を拒否して7月26日備前、備中 遠征の途についた。南北の毛利軍を糾合し、先鋒は隆景が受け持った。8月15日備中笠岡に着陣し9月から東備中の城を攻撃して備前領内へ侵入を開始した。
「今までの毛利軍と違って今回は本気のようじゃな」
と浦上宗景が言うと
「さよう。伊予で大友軍と戦っていて全力を投入できまいとたかをくくっていたら、大友軍が撤退してしまったので、伊予派遣軍までが参戦しているようです」
と直家。
「まともに向かって勝算はあるか」
「無理でしょう。このままでは滅亡あるのみです」
「なんとかうまい手はないものか」
「もう一度将軍義昭様に和睦の斡旋をお願いするしかないでしよう」
 再度、急使が京都へ派遣され義昭に調停を懇願した。織田信長の援助で将軍位に復帰したものの、信長としっくりいっていなかった義昭は喜んで斡旋の労をとった。東福寺退耕庵の蔵主安国寺恵瓊を呼んで輝元宛ての将軍からの下し文を手渡すよう命じた。浦上宗景宇喜多直家と和睦するよう説得した書面である。安国寺恵瓊は将軍下し文を携えて直ちに輝元の本陣へ赴いたが、義昭は毛利が自分の新しい保護者になるよう打診させることも忘れなかった。

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2005年09月05日(月) 三村一族と備中兵乱40

 十三、 毛利方に決別
                        
 明禅寺合戦で三村元親に大勝した宇喜多直家は余勢をかって、備中国を切り取ろうと目論見、永禄11年(1568)8月に舎弟七郎兵衛忠家を総大将として九千余騎で侵攻を開始し、佐井田城を包囲した。毛利元就が 麾下の備中勢を率いて、九州大友氏征伐のため出陣した留守を狙っての作戦であった。城を守っていた植木秀長は、毛利方の備中松山城主三村元親や猿掛け城主荘元祐に救援を要請したが、彼らは九州の立花で大友氏と交戦中であったため、援軍を送ることができなかった。やむなく植木秀長は妻子や一族の安泰をはかるため膝を屈して、宇喜多陣営に加わった。
 これに対し、毛利元就は翌年毛利元清を総大将として一万余騎で備中国へ反撃を開始した。九州遠征の留守を突かれた元就が奪われた備中の諸城を奪還するためである。九州から帰還した三村元親が先鋒を務めた。元親と穂田実親らは植木秀長の籠もる佐井田城を包囲したが、宇喜多の援軍を得た籠城軍がよく奮戦した。そのうえ城は地の利を活かした要害であるためなかなか落ちそうになかったので元清は兵糧攻めを開始した。植木秀長は巧みな用兵でしばしば城を打って出て包囲軍を悩ませたが、食料が底をついてきたので峰木与兵衛を沼城の宇喜多直家の許へ走らせ更に援軍を乞うた。
 直家は一万騎を従えて自ら出馬し、佐井田城の東方一里近く隔たった丘に陣を構えて毛利軍の背後を突いた。ところが毛利軍の猛将熊谷信直と桂元隆の率いる軍勢が裏をかいて宇喜多軍の更に背後から攻撃した。敵に前後を挟撃されて宇喜多軍は130余人を討ち取られた。戦局は長引き長期戦の様相を呈した。戦局の膠 着状態に業を煮やした籠城中の宇喜多勢が
「あと二、三日で食料が尽きる。無為に籠城して餓死するよりは、敵と渡り合って討ち死にした方がよい」 
と戦死を覚悟で一斉に城門を開いて突撃し迎え撃つ毛利軍との間で凄絶な白兵戦が繰り広げられた。
 局面が変わったのは宇喜多軍の誇る勇将花房助兵衛が毛利軍の侍大将穂田与四郎と槍を合わせてこれを討ち取ってからである。気勢を削がれた毛利軍は総崩れとなった。猿掛け城の穂田実近が戦死し松山城の三村元親も深手を負ってしまったので元清はやむなく退却した。この時宇喜多軍が討ち取った敵の首級は680に 及んだ。
 永祿九年(1566)11月月山富田城が毛利元就の手に落ち滅亡した尼子氏は遺臣達が諸国を流浪しながら尼子再興を目指して活動していたが、山中鹿之介幸盛、立原源太兵衛久綱らが新宮党の遺児尼子勝久を擁立して旗揚げした。永禄12年(1569)6月のことである。
 勝久は反毛利の宇喜多氏と提携し、秋上三郎左衛門綱平を大将として備中へ兵二千余騎を派遣した。尼子・宇喜多連合軍は幸山城(都窪軍山手村西郡)、呰部(あざえ)城を攻め、佐井田城へ迫った。城主は植木秀資で秀長の跡を継いで毛利氏に服属していた。秀資は松山城の三村元親や猿掛け城の荘元祐に援軍を求めたが、折悪しく元親は毛利輝元に従軍して出雲へ出陣中であった。猿掛け城からは荘元祐の援軍が駆けつけ秀資もよく戦ったが、結局元亀元年(1570)冬白旗を掲げ、尼子軍を迎えいれた。
 労せずして佐井田城を手に入れた秋上三郎左衛門綱平は尼子式部、大賀駿河守を残して出雲戦線へ復帰した。
 尼子式部、大賀駿河守の両備中派遣軍は宇喜多軍の応援を得て、備中鴨方の杉山城、備中酒津村の酒津城、備中幸山城(都窪郡山手村)を次々に落とし、城主中島大炊守元行の経山城(総社市黒尾)を攻めた。中島大炊守元行は塹壕を掘ったり矢蔵門道に陥穽を設けたり或いは橋を引き落とす工夫を施したり、農民兵を組織するなどの策略を用いて尼子の備中侵略軍を撃退した。この経山合戦で尼子軍は376人の将兵を失って いる。尼子軍は大きな犠牲を払って佐井田城へ退却した。
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2005年09月04日(日) 三村一族と備中兵乱39

 左翼の総大将三村元親はこの日の朝、巳の刻に釣りの渡しを越えて、中島大炊の先導で湯迫村より四御神村へ出た。ここから土田、古都宿を突破して沼城を襲う計画であった。 ところが、四御神村までやってきたとき、右手の明禅寺山に火煙があがっているのが見えた。さらに中央軍の石川勢は宇喜多軍に攻撃されて敗走しているという伝令が駆け込んできた。
「敵より四倍も多い兵力がありながら敗退するとは。信じられない」
と元親は絶句した。
 後続部隊では歩速が鈍り、動揺が起こったようである。背後から襲撃されるのではないかと逃げ支度を始める者もでる始末である。付近は湿地帯であったから、泥田に足を取られるものが多くなり、隊列は混乱し乱れ始めた。さすがに先頭の旗本精鋭部隊は少しも備えを乱さなかったが、後陣の乱れはひどかった。このまま当初の計画通り沼城へ進撃すれば、守備兵の少ない沼城を落とすことができたかも知れないのに、味方の敗走を見て若い元親は判断を誤った。作戦を変更したのである。
「作戦を変更する」
「これより明禅寺山へ向かい、敵の本陣小丸山を攻撃する」
と侍大将が下知を大声で伝達して廻った。
「皆のもの、急げ、遅れをとるな」
 隊列は方向を変えて明禅寺山目指して動きだした。これを小丸山から眺めていた直家は勝利を確信した。もっともおそれていた三村本隊による沼城襲撃が回避できたのである。「こわっぱ目、罠にかかったか」
と直家は口笛でも吹きたい気分であった。
 元親を迎撃するために直家は白兵戦の陣立てを敷いた。最前線には備前軍の中で最強を誇る岡剛助と明石飛騨を置いた。後陣にはついいましがた国富村で荘元祐の軍勢を叩きのめした富川、長船、延原の部隊を配置した。
 元親にとってこの合戦は父親の弔い合戦であったから、溝も畝も構わず一直線に明石、岡の備えに切り込んだ。捨て身の覚悟の突撃に明石も岡も斬りたてられて崩れ始めた。元親は今が勝機とばかり一挙に直家の旗本へ斬りかかろうとした。ちょうどそのとき、富川長船、浮田、延原の軍勢が鉄砲を撃ちながら横合いから元親軍の旗本勢へ攻めかかった。 援軍に力を得て岡、明石の兵も戦列へ復帰し三方から元親勢を攻めたから元親勢は狼狽して総崩れとなってしまった。
 元親は悲憤に堪えず 
「今こそ討ち死にする時ぞ」
と覚悟を決めて敵陣へ突入しようとしたとき、家来が馬の口をとり西へ向けて思い切り鞭をくれたので馬が狂ったように走りだした。大将が敵に背を向けたから左翼の軍勢もまた総崩れとなって竹田村の北まで引き揚げた。
 宇喜多勢はこれを追跡し三村軍の首を多数討ち取った。
 元親と石川久智は釣りの渡しを越えてほうほうの態で備中へ引き揚げた。この日の戦いを「明禅寺崩れ」といい、宇喜多にとっては躍進の三村にとっては衰退の契機となった、この時代備中地方最大の合戦であった。
 明禅寺の合戦は備前の宇喜多氏と備中の三村氏が二年間にわたって綱引きをした大合戦であった。勢力人望ともに三村氏が勝っていた。それなのに僅か四分の一にも満たない勢力の宇喜多氏が勝利を得るとは誰も想像しなかった。宇喜多方の大勝利に終わったので、いままで三村方についていながら宇喜多に内通していた金光、中島、須々木等の西備前の城主達は直家に降参した。
 この年織田信長は滝川一益を大将として伊勢の諸城を落として後、越前朝倉義景の許に身を寄せていた流浪の将軍足利義昭を美濃の立政寺に迎えて会見し多数の贈り物をして足利義昭を手厚くもてなした。義昭も信長の処遇に感激し「親とも頼る」と言っている。信長が義昭利用して上洛を意識し始めた時であった。

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2005年09月03日(土) 三村一族と備中兵乱38

 大将に遅れてならじと将兵達も勇み立ち城に怒濤のように攻め寄せた。城兵達も必死に防戦したが、勢い負けして城は忽ちのうちに寄せ手に乗っ取られてしまった。寄せ手は櫓に火を放ち散々に切りまくった。守将の祢矢も薬師寺は必死に防戦し
「この城こそ三村の生命線じゃ。もちこたえろ。援軍が間もなくやってくる。それまで耐えろ」
と絶叫して臆する城兵を叱咤した。

 しかしながら、全軍を一まとめにして怒濤の勢いで攻め込んでくる宇喜多軍に対してさしもの祢矢と薬師寺の守衛軍も力尽きて瓶井山へ退いた。逃げ遅れた兵士は追い詰められて切り殺された。
 明禅寺城で戦闘が行われている頃、刻一刻明禅寺城へ進撃してくる二手の隊列があった一つは右翼先陣の荘元祐であり、他の一つは中央軍の石川久智である。
「あれっ、操山の向こうに煙が上がっているぞ。宇喜多勢が、攻撃しているものとみえる。急げ、急げ」
と荘元祐は馬上から煙のほうを指さして指揮下の軍勢を叱咤した。
 作戦によれば、元祐の右翼軍と石川久智の中央軍と南北相呼応して、明禅寺城を攻撃中の直家軍を挟み撃ちするのが狙いであった。城が落ちてしまってはこの作戦は成り立たない。気ばかり焦るが複雑な地形に妨げられて中々目的地へ到達しない。ようやく瓶井寺村の南を通って操山の麓に到着したとき、運悪く敗走してくる明禅寺城の城兵とぶつかってしまった。味方の兵の敗走を見て怯んだとき、敗走軍の背後から、宇喜多軍の追撃隊が鬨の声をあげながら襲ってきたから混乱は増すばかりで、元祐率いる新手の精鋭部隊はさしたる抵抗もできないままに次々と討ち取られてしまった。
 荘元祐はそれでも馬上から
「ここで敵に後ろを見せては末代の恥辱。返せ、返せ」
と采配をうち振るったが、機先を制せられて意気消沈した味方の頽勢を挽回することはできなかった。

 元祐は家臣の有岡某と二人で五十人ばかりの旗本を従えて踏みとどまり奮戦したが、最後は浮田忠家の軍勢と切り結んで危ないところを辛うじて逃げのびた。大将が逃げたので麾下の兵は総崩れとなった。元祐を際どいところまで追い詰めたのは宇喜多勢の能勢修理という旗本であった。
 中央軍の石川久智は明禅寺城を攻撃中の直家軍の背後を突こうと原尾島村の西まできたとき明禅寺山に火煙があがったのを見た。
「これは」
と思って進軍を中止し、様子を窺っていると斥候が帰ってきて、右翼軍が敗走を始めたことを告げた。
 石川久智は中島加賀という老練な家臣を呼んで尋ねた。
「予め立てた戦略が、こうも狂ってしまっては今更直家の陣へ挑んでも勝利はおぼつかない。ここはむしろ元親の本隊へ合流して改めて直家に合戦を挑んだほうが得策と考えるがどうか」
「ごもっとも。敵の近づかぬ間に旭川の西側に撤退して、備えを固め直家が川を渡って攻めかかってくるところをその途中で迎え撃つことくらいしか、策はありませぬ」と中島は言った。しかし久智の老臣達はこの意見に従わず、軍議を開いた。

 このとき浮田元家・河本対馬・花房助兵衛が三手に分かれて石川久智の陣近く攻め寄せてきた。石川久智は進むことも出来ず原尾島村の中道に備えを設けて防戦したが、中島加賀はじめ多くの将兵が討ち死にし、石川久智は暫く留まって防戦した後、やがて引き揚げた。


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2005年09月02日(金) 三村一族と備中兵乱37

 総大将の三村元親は北軍を受持ち、中島大炊を案内人として八千余人の編成で釣りの渡しを越え、湯迫村から北の山の麓を四御神村に進み、矢津越えして沼に迫り、宇喜多勢の留守を窺い亀山城の乗っ取りを企図していた。本隊の三村元親軍は副将の植木秀長が采配を振るった。
 一方宇喜多直家の備前軍は迎え撃つに僅か五千余騎である。

 直家の頭の中には諜者から聞いた安芸の毛利元就が僅か四千の軍勢で陶晴賢の軍勢二万を厳島の狭隘な地へおびき寄せて殲滅した戦いのことが目まぐるしく駆けめぐっていた。「謀略以外に小勢が多勢に撃ち勝つ手だてはない。どのような手でいくか」
直家は寝床に入って奇策を思い巡らせるのであった。
 出撃の朝を迎えた。一番鶏の声で布団から抜け出した直家の着替えをお福が甲斐甲斐しく手伝った。 
「御武運をお祈り致しております」
と言ってお福は八幡神社で祈願したというお守りをそっと手渡した。
 直家はお守りを受け取りながらお福の腹へさりげなく視線を投じながら言った。
「必ず帰ってくるからそなたは芽生えた嬰児(やや)のためにも体をいとえよ」
「はい」
と答えて見上げるお福の瞳に光るものを認めた直家は、この戦必ず勝ってみせると自分に言い聞かせて本丸の大広間へ入っていった。そこには、武装した兵士が居並んで直家の下知を待っていた。
「敵は多勢、われは無勢じゃ。だが毛利が陶を殲滅した厳島合戦の例もある。勝算は我が胸中にある。皆の者、命は全員直家に預けてわしの下知に従え。勝利は必定じゃ」
と部屋中に響きわたる声で言った。これに応えて 
「オッー」
と全員が一斉に叫んだ。 

 直家は沼の城を出発し五千の軍勢を五隊に分けてそれぞれに部署した。敵は二万の大軍である。本陣は古都宿の山鼻に置き、主力を目黒村のあたりに配置した。古都宿は西大川の釣りの渡しを渡って沼城へ東進してくる備中勢の通路にあたる所であった。直家は先手の兵に下知して明禅寺城を攻撃させて、一戦し休息していたとき物見に出していた斥候が馳せ帰ってきた。
「後詰めの備中勢が三手に分かれて進撃してきました。一手は富山城の南、一手は首村から上伊福を経て中道へ、また一手は山裾を津島村・御野村を経て釣りの渡しにかかる様子です」
 直家は斥候から報告を聞くと事態は切迫していることを感じとり、この際一気に明禅寺城を奪取すれば必ず勝機があると思った。それは多くの戦場往来をした者だけに判る勘のようなものであった。この勘は織田信長が桶狭間で今川義元を討ち破ったときの勘、また毛利元就が厳島で陶隆房の大軍を殲滅したときの勘とあい通じるものであったろう。
「戦う時はこの一瞬じゃ。備前武者の運命はこの一瞬にかかっている。ほかには目をくれず、ただひたすら明禅寺城を奪回するのじゃ手間どっていると敵に先を越されて、捕虜となってしまうぞ。城の奪回こそ勝負の分け目じゃ。死力を尽くして城を落とせ」
と直家は馬上から大音声で叫び続けた。 
「備中勢なにするものぞ。かかれ、かかれ、勝てば恩賞は思いのままぞ」  
 直家はこう叫んで田畑の中を一直線に突っ走り明禅寺城下へ駆けつけた。


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