9
沢村は報国工業の工事部長として、今回の関東石油横浜工場の定修工事については全責任を委ねられている。松山一朗の死亡事故が発生したからといって今回の定修工事を一日でも遅らせることは出来ない。納期は厳守しなければならない。
沢村は関東石油の定修工事を担当している主だった部下を集めて、安全作業に充分留意するよう訓示をするとともに、松山一朗の事故の処理は沢村が引き受けることを表明した。現場に対しては今回の事故で作業員の士気が低下しないよう空気を入れ、工事は納期内に完工するように特に指示した。
沢村が知り得た情報を持って関東石油に報告に行くと工場長室に工務部長製造部長、総務部長が集まってきた。ここで一番問題となったのは松山一朗の身元が判らないことである。
犬山組に残されている記録にはドヤ街にある簡易旅館福寿荘が現住所になっており、年齢26才氏名松山一朗ということだけが書かれているに過ぎない。同僚の梅林も出身地は大阪方面らしいというだけで、個人的な付き合いは全くなく、一週間程前に犬山組へ連れてこられた松山と一緒に仕事をすることになっただけであるから、何もわからないという。梅林が松山の出身地は大阪方面だとする根拠は、関西弁が会話の中に混じっていたというだけのことである。関東石油の幹部は身元のはっきりしない者が報国工業の指揮下に入って、作業していたことを取り上げて、報国工業と沢村の責任を追求した。沢村はただ平謝りに謝る他に術がなかった。
警察でも松山の身元が判らないことに対しては異常な関心を示した。 調査に来ていた刑事が 「この仏は大きな山を踏んでいるかもしれんな」と洩らしたのを沢村は耳にした。 警察では府中市の三億円強奪事件が未解決なので松山の死亡を三億円事件の犯人と関係ないだろうかという観点からチェックしているようであった。
松山一朗の遺体は身元が確認されないままで、横浜市立大学の付属病院へ移送された。司法解剖するためである。身元の調査は鶴見警察で行うことになった。
身元の確認ができないままに、遺体を何時までも放っておくわけにもいかず、報国工業の手で葬式を営むことになった。司法解剖が終わったら報国工業が責任をもって遺体を預かり、法定限度一杯預かってそれでも且つ身元が判明せず、遺族が現れない時は、火葬にすることで当座の遺体の処理については結論が出された。
元請け会社である報国工業の指揮下で発生した事故なので、遺体の引き取り手がない以上元請け会社の責任において葬儀を営むことが色々な意味で問題が少ないだろうと沢村が判断し、社長の決断を得た結果である。本来であれば犬山組と雇用契約のある松山の公務上での事故死であるから、犬山組の責任において、遺体の処理が行われる性質のものであるが、犬山組には葬儀を営むだけの資力もないし暴力団に繋がりのありそうな気配が察知されたので、関東石油に迷惑がかかることを虞れたからである。いずれ遺族が現れるとしても遺骨を遺族の手に確実に渡すためには、報国工業で供養し保管するのが最善の方法と判断された。
鶴見警察では松山の身元を確認するため、松山の宿泊先である福寿荘へ係員を派遣し経営者に松山についての情報をただしてみたが、一週間程前の4月30日に投宿し、松山一朗26才と称していたということしか判らなかった。松山の宿泊していた部屋に松山の持ち物として残されていた物はスーツケース一つに詰め込まれていた背広一着と下着類5枚、セーター1枚だけであり、あとは洗面器に投げ込まれていたタオル、歯ぶらし、石鹸、安全剃刀があるだけであった。持ち物の中には身元を知る手掛かりとなるものは何一つなかった。背広にも名前の縫い取りはしてなかった。
ただ手掛かりになるかもしれないと思われるものは、スーツケースに入っていた一冊の手帳である。この手帳は神戸銀行製のものであり、手帳の中には前から五ページほどにわたって達筆で最近流行の歌謡曲の歌詞が五曲書き抜かれていた。そして手帳の裏表紙に印刷されているカレンダーには1月17日、5月26日、7月3日、7月22日の日付に○印が付けられていた。
松山は几帳面な性格らしく、スーツケースにはいっていた下着類は綺麗に洗濯してきちんと畳んで入れられていた。布団も丁寧に畳んであり、灰皿の中には吸殻も残っていなかった。
鶴見警察では松山から採取した指紋を警視庁へ送り、犯罪者台帳の指紋と照合することを依頼した。同時に兵庫県警と大阪府警へも指紋を送ると共に松山一朗名で登録されている前科者台帳と戸籍の調査を依頼した。 沢村は鶴見警察へとりありずの挨拶に行ったときに以上のような手を警察が打っていることを聞き出してきた。 松山一朗の遺体は葬儀屋の手によって翌5月8日に常泉寺へ帰ってきた。形ばかりの通夜が遺族の参列しないまま、報国工業が施主となって寂しくとりおこなわれ、明けて5月9日午後3時より告別式と定められた。
司法解剖の結果は、外傷はなく酸素欠乏による窒息死というのが司法医の所見であった。 告別式の時間が迫ってきたが、警察の必死の調査にもかかわらず松山一朗の身元は依然として確認されない。告別式に先立ち葬儀屋が警察へ埋葬許可を貰いにいったが松山一朗の身元が確認されていないのでなかなか許可が下りず沢村はじめ関係者を慌てさせた。 常泉寺では住職が松山一朗の祭壇に向かってお経を上げはじめた。 山本正にはお経の声が一際もの悲しく聞こえた。 広いお堂には30名ばかり、喪服を着た弔問客が神妙な顔をして座っている。その中には関東石油の幹部の顔もあった。
境内にも34〜5人の参会者が整列して写真の飾ってない祭壇に向かって次々に焼香を始めた。一般の葬式と違って女と子供の姿が見えず男ばかりが集まってきている。境内には花環が10本程飾られているが、報国工業、葦原機工、海野組、極東工業の会社名がみえるだけで、あとはそれぞれの会社の従業員一同という名で飾られている。関東石油と犬山組の花環が出ていないのは奇異な感じを参会者に与えた。とりわけ沢村と山本は関東石油の花環がないのを複雑な気持ちで眺めた。 「やっと埋葬許可が貰えました。三時の出棺にはどうにか間に合いました」 警察へ交渉に行っていた葬儀屋が鼻の頭の汗を拭きながら帰ってきた。 関東工業、報国工業、葦原機工からはそれぞれ20名くらいずつ、この松山一朗の葬儀に参列したが、海野組、極東工業からは代表者が焼香にきただけであった。 犬山組からは松山と一緒に仕事をしていた梅林が音頭をとったらしく、作業服姿の職人が2〜3人梅林とともに参列していた。参列者の注目をひいたのは両足に包帯をぐるぐる巻き、車椅子に座って威勢のいい若者達に取り巻かれている50年配の小柄な男である。この男が犬山組の親方犬山勇次である。犬山は読経も終わりに近づき出棺があと10分後に迫った頃、ドヤドヤとやってきてサッサッと引き上げて行った。 その時沢村は受け付け係として弔問客の名刺やら香典の整理をしていた。トラックが常泉寺の境内に乗り入れられたとみるとドヤドヤと作業服姿の若い男達が荷台からとびおりた。 屈強な若者達は車椅子を荷台から取り出すとトラックの横に置き、助手席側の扉を開けた。そこには小柄な男が座っており、若者達に抱き抱えられて車椅子に移された。その男は若者達に守られるようにして受け付けまでくるとやおら懐から香典袋を取り出して机の上に置いた。見ると三千円の札がむきだしで添えられていた。 「ご苦労さまです。どうかご署名を」 沢村がサインペンを差し出すと、犬山はジロリと沢村へ一瞥を送り金釘流の署名をした。 沢村は犬山組が今後どのような動きをするか気になった。犬山勇次は若者達を従えて、車椅子のまま仏前で焼香を済ませると不遜な態度で帰って行った。それは疾風の如く現れ、疾風の如く去っていった。
参会者があっけにとられ、静寂のあとにざわめきが起こったとき、今度は二人連れの若い男がカメラをぶち下げて受け付けへつかつかと歩み寄った。名刺には日本新聞社社会部桑山由雄と印刷されている。 「鶴見署で聞いてきたのですが、引き取り手の無い仏の葬式というのはここですか。一寸取材したいので、葬式の責任者に会わせてくれませんか」と言う。 沢村はまずいことになったなと思った。 日本新聞社は大手の新聞社であり、その社会面の記事は派手に取り扱うことで定評があったからである。関東石油では一ヵ月前にも構内の常駐清掃業者がタンク内の清掃作業中に死亡事故を起こしていたから、関東石油の安全管理体制にメスを入れた記事にされることは十二分に予想された。しかも今回の事故では引き取り手が判らないという俗受けのする記事としては恰好の材料なのである。
沢村としては関東石油の生産第一主義の管理体制に対しては常々改善方を申し入れていたし、今回の松山一朗の事故に関しても、関東石油の作業指示の仕方に過失があると考えていたので、そのこと自体を記事にされることは今後の安全管理体制の改善にとっては結構なことである。 しかし関東石油の管理体制に問題があるとはいえ、今回の事故が報国工業の配下の業者のもとで起こったものであるだけに、困った問題なのである。あまり派手に扱われると報国工業の商売にからんでくるからである。 おそらく関東石油では自社の管理体制に問題のあったことには頬かぶりして報国工業に今回の事故の責任を転嫁してくることは目に見えていた。
沢村が工場長室へ松山一朗の事故が発生した直後、謝りに行ったときにも関東石油の幹部の言動には、そのことを予想させるに充分な兆候がみられたし、今日の葬儀に関東石油から花環が贈られていないという事実が彼の予想を裏付けている。 今回の事故の責任が関東工業にあるということになれば、構内常駐業者の指定を取り消されることさえ予想される。
報国工業に替わって構内常駐業者の指定を受けようと虎視眈々として狙っている同業者は沢山ある。特に東都プラントの動きには注意しなければならなかった。今回の事故は大騒ぎにならずに秘かに処理して貰いたいというのが沢村の偽らざる心境である。 「私が責任者の沢村ですが」 「事故の原因は何だと考えますか」 「まだ調査が終わっていないのでよく判りません」 「関東石油では4月の3日にも同じような事故を起こしていますね。同じような事故が続いているのは、関東石油の安全管理体制に何か根本的な欠陥がありそうに思えますが、あなたはどう考えられますか」 案の定、沢村が予想していた質問を発してきた。 「私共は関東石油さんから御仕事を戴いている立場ですから、関東石油さんの安全管理体制に欠陥があるのかないのか軽々しく意見を申し上げることは差し控えたいと思います。一般論でよければ,私なりの見解は持っております」 「大企業の横暴というやつですか。まぁいいでしょう。その一般論を聞かせて下さい」 「私どもは工事会社ですから、関東石油さんに限らず、他の会社からも仕事を戴いて施工をしますが、安全対策にかける予算が少ないように思います。お客さんの立場に立てば施工上の安全対策費は事故さえ起こらなければ少ない方がいいに決まっています。安全対策費は付加価値を産みだす投資とはいえませんからね」 沢村は煙草を取り出して火をつけながら続けた。 「例えば、私どもでも架台の上にパイプを乗せて配管する場合は非常に多いのですが、高所作業なので足場が必要になります。安全確保の観点から言えば手すりをつけて足場の下には安全ネットを張れば万全でしょう。その上作業員には安全ベルトをつけさせます。ところが工事が終われば、足場は取り払ってしまうのですから、投資効率は非常に悪くなるわけです。できることなら最小限の費用で済ませたいと思うのは人情です」 「足場が不完全だったことが今回の事故の原因だということですか」 「最初にお断りしたように、一般論を言っているのです。次に私どもの業界にはまだ同業者組合がありませんし、新規参入者が多いため、激しい受注競争が行われます。適正な価格で競争するのならいいのですが、中には極端な安い値段を出して業界の価格体系をぶち壊してしまう業者があります。同業者組合がないのでそれを規制することができないのです。仕事を確保するためには対抗上、値を下げざるを得ない場合があります。業者がお互いに足を引っ張りあって自分の首を締めているのが現状です。このように、安値受注競争が行われれば採算をあげていくためには、安全対策費のようなものは最初に槍玉にあげられます」
沢村は煙草の吸殻を灰皿へ捨てて湯飲みに残っている冷えたお茶をすすった。 「人手不足のために、技能工が不足し素人が現場へきて一人前の顔をして作業しているのも、安全上は大きな問題を抱えています。このことは客先の会社についても言えることだと思います。会社の規模がどんどん大きくなり、設備も最新鋭のものにどんどん変わっていきますが、技術者や技能者の質、量ともにこれに追いついていくことができない。それでも採算をあげていくためには、未経験の技術者でも新鋭の設備に配置せざるをえない。特に定修工事のような場合、経験不足の技術者が工事を担当すると無知なるが故の危険な作業指示を業者に与える。これを受ける業者の作業員も未熟連工が多いので危険な作業指示に対しても疑問を抱かず指示された通りの作業をして事故を起こす」 頷きながら沢村の話を聞いていた桑山由雄が更に鋭い質問を浴びせかけてくる。 「関東石油の工事発注額に占める安全対策費は何パーセントぐらいだと思いますか」 「私どもでは判りません」
沢村のところへ新聞記者が取材にきているということを聞きつけたとみえて関東石油の総務課長が血相を変えて本堂から飛んできた。 「今、取り込み中で出棺も間近だから取材は遠慮して貰いたい。沢村さんも駄目じゃぁないか、勝ってに取材に応じたりしては」 関東石油の総務課長は顔半分をひくひくさせながら桑山と沢村に食ってかかった。 「あなたが、関東石油の広報担当者ですか。よいところへ来られた。関東石油では今回の事故に対してどのような責任をとろうと考えていますか。聞けば遺体の引き取り手がないというではありませんか」 桑山は少しも怯む様子をみせない。 「とにかく、今は取り込み中だから帰ってもらえませんか。ノーコメントです」 暫く総務課長と桑山の間で帰れ帰らぬという押し問答が繰り返されたが霊柩車が到着して出棺の時刻となったので、桑山は取材を断念したのか、意外に素直に引き上げて行った。 このようにして前代未聞の葬儀は終わった。 野辺の送りに火葬場まで同行した沢村は梅林にお骨を拾わせて、常泉寺に持ち帰り遺族の現れるまで供養して貰うよう住職に依頼した。慌ただしい一日は終わった。
8
沢村がこの事故のことを聞いて出先から現場へ駆けつけたときには、松山の遺体は医務室に移され顔には白布がかけられていた。松山という名前は沢村も初めて耳にする名前であった。松山の遺族の住所が判らないので、関東石油の担当者と警察官は沢村が駆けつけるのを待っていた。
それまでの調べでは松山について詳しく知っている者は皆無で同僚の梅林が、松山は一週間程前に犬山組へ臨時の作業員として雇われたらしいということを知っているだけであった。本籍、生年月日、現住所、家族などについて何一つ判っているものはなかった。本人が雇われている犬山組の親方は不在で連絡のとりようがないという。
今回の定修工事の元請け会社である報国工業の責任者沢村勝なら知っていることがあるかもしれないということで、沢村の到着が待たれていたのである。 沢村の周辺は俄に慌ただしくなってきた。 沢村が松山一朗の雇用系統を辿ってみると驚いたことに、六次下請けの作業員であることが判明した。 沢村の勤務する報国工業は石油精製装置の配管工事に関しては日本でもこの業界では名の通った創業30年になる老舗である。報国工業は職人上がりの創業者社長の実直な人柄と信用で関東石油から横浜工場の常駐業者に指定され、ここ15年来関東石油会社横浜工場の構内配管補修工事は一手に引き受けるまでになっていた。
今回の関東石油横浜工場の定修工事は報国工業が元請けとなり、五月一日から装置を止めて、五月末日までに操業を再開できるよう、装置の不良箇所の補修、装置の改造等を完了させなければならないのである。しかも、工期は通常よりも短く、ゴールデンウイークを返上して工事を行い、少しでも装置の止まっている期間を短くしたいという施主の強い要請があった。
昭和46年の5月といえば、ニクソンショック、オイルショック以前の時期であり、日本の高度成長は最盛期である。佐藤内閣の指導のもとに、日本の産業界はめざましい躍進をしていた。生活環境、生活様式も激しく変化していた。
産業界はスケールメリットを狙って設備投資を大胆に行い、人手不足の経済と言われ、各産業界とも人手の確保には苦労していた。報国工業でもご他聞に漏れず、人集めには難儀していた。 工事会社の特質として固有の常用労働者は工事監督と見習いだけであり、配管工、電気溶接工は一つの工事毎に職人グループの親方に話をつけて集められる仕組みになっている。 この業界では配管工、電気溶接工ともに、4〜5人乃至10人前後のグループが親方と呼ばれるボスの配下にあって工事毎に請け負い契約を結び、工事完了までその工事現場で就労するのである。工事の規模が大きくなると直接職人を集めることは煩瑣になるので、同業者で自分と同等乃至は少し規模の小さい会社へ工事を分割して発注し、これを受けた会社が職人を集めて仕事を進めていくわけである。 このような仕組みの中では、資金力と信用と技術力と監督力さえあれば、相当大きな工事でもこなしていける。
報国工業が今回受注した関東石油横浜工場の定修工事は、毎年手掛けてきているので、報国工業にとっては別段難しい仕事ではなかったが、人手の確保の面と受注単価の面でかなり厳しいやりくりを余儀なくされていた。出入りの業者を傘下に相当数抱えていたので、分野分野に応じて、配管、電気溶接、機器据え付け、土木、塗装、保温、運搬というふうにそれぞれの専門業者に発注してあとはこれらの業者を組織化し、報国工業の監督のもとに工程に合わせて仕事を進めればよいのである。
だが、問題は出入り業者に職人を集める力が弱くなってきていることであった。時世というものである。人手不足の時代で、腕のよい職人は引っ張りだこであり、彼らは10円でも20円でも賃率の良い仕事へ好んで移動して行く。雇主の迷惑など一顧だにしない。昨日まで来ていた職人が今日は顔をみせないので、親方が自宅を訪ねてみると、別の業者の所で働いているというようなことは珍しくない。
定修工事のように短期間で多数の人間を集めて、一気に片づけてしまわなければならないような工事では、職人の手間代を世間相場の五割増しから倍近くもはずまないと必要な職人の頭数を揃えることができない。腕の良い職人と腕の悪い職人とでは、仕事の能率が極端な場合、二倍も三倍も違ってくる。 報国工業では世間相場よりもかなり高い水準で、業者に発注し、質の良い職人が集められるよう特に配慮していた。沢村が松山一朗の雇用経路を辿ってみると、報国工業が熱交換機のチューブ取り替え工事等機器関係の仕事を一括発注した山中工業は更にその仕事を分割して松野組と葦原機工に発注していた。葦原機工は更に海野組に発注し、海野組は極東工業を通じて犬山組に発注していたのである。松山一朗が就労するまでには、実に六段階の経路を経ていたわけである。しかも、請け負い契約書が整備されていたのは、葦原機工までで、海野組、極東工業、犬山組の段階になると契約書はおろか、作業員の名簿や賃金台帳すら整備されていないピンハネ会社であった。調査の過程で一寸気になったのは、犬山組が東都プラント専門に人夫出しをしているブローカーであるということである。
沢村の懸命な調査で松山一朗の手に渡っていた賃金は、報国工業が山中工業に対して発注したときの基準単価の三分の一程度になっていることが判った。人手不足の時代に短期間に500人近い労働者を集めるためには、いかに老舗で名が通っているとはいえ、報国工業一社だけで、直傭の作業員を動員することは不可能である。そこで請け負いという形式によって必要な人員を集めることになる。
報国工業は工事部長の沢村が統括責任者となって、今回の定修工事を五つの工区に区分して、金山工務店、京浜工業、山中工業、宮守土建、横山管工にそれぞれの専門に応じた発注をしたのである。従って報国工業としては、直接工事を発注した五社の工事責任者に作業指示をすればいくつかの経路を経て末端の作業員に指示が流れる仕組みになっているのである。
通常、金山工務店、京浜工業、山中工務店、宮守土建、横山管工程度の規模の会社であれば、直傭の配管工、溶接工、仕上げ工、鳶工、土木工を30〜40人は抱えており、出入りの親方も14〜15人はいるので、500人程度の作業員を集めるには5〜6社に発注すれば動員可能であった。ところが、今回松山の事故があって判明したように各業者とも人手が十分確保できなかったため、次から次へと下請け契約を重ねて六次下請けにまで及ぶ異常な形になっていた。間へ業者が入るごとに末端の作業員に渡る手間代はピンハネされて安くなっていく。電話一本と机一つだけの人寄せブローカーが雨後の竹の子の如く発生し暗躍することになり、作業員の技能の程度は度外視され、頭数だけが揃えられる。
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7. 常泉寺は国鉄鶴見駅から山手へバス通りに沿って徒歩で7分程のところにある。寺の裏手にはスーパーマーケットの白い四階建ての建物が木立の間に見え隠れしている。
「まだ、埋葬許可は下りないのかね。沢村君」 「今、葬儀屋を鶴見警察へ交渉に生かせているのですが、本籍地照会の調査結果の連絡がまだ入らないそうなので、もう少し待って欲しいということです」 「たとえ、身元が判らなくても、仏様を何時までもこのままにしておくことは出来ないだろう。遺族が現れたときにはお気の毒だが、お骨で引き取って頂くことにしようではないか」と喪服に身を包んだ大柄な50歳前後の男が部下の沢村に結論を下すように言った。鼻の下に蓄えたちょび髭がこの男の言葉に重みを加えた。
社長に言われるまでもなく、沢村勝は先刻からやきもきしながら葬儀屋が帰ってくるのを待っていたのである。 寺の本堂には既に白木を組み合わせた祭壇ができあがり、拾い境内には受け付け用のテントも二張り張られている。気のはやい弔問客はぼつぼつ集まりかけている。弔問客と言っても会社関係の客ばかりで、故人の身内の者とか、親しい友人等は一人もいない。一風変わった葬式になりそうである。故人の写真が祭壇に飾られていないのも故人の死が異様のものであったことを物語っている。
故人の俗名は松山一朗といい、推定年齢は26歳であるが、偽名の可能性が強い。 松山一朗が京浜工業地帯の一角にある関東石油横浜工場の構内で石油精製装置の定修工事に従事していて事故死したのは五月七日のことであった。
松山一朗は当日犬山組の作業員として、ベンゾール製造装置の小型タンク内の配管を取り替えるため、マンホールから中へ入り込み作業中倒れたのである。 労災事故の発生とともに関東石油では所轄の鶴見警察署と鶴見労働基準監督署へ通報し、検死の結果事故死と断定されたが、死因については司法解剖の結果により判断されることになり、遺体は直ちに横浜市立大学の付属病院へ移送された。
事故に最初気づいたのは、松山と一緒に作業していた梅林である。 その日は朝からベンゾール製造装置の修理が予定されており、3日前から装置内のベンゾールは抜き取られていた。抜き取った後,残留ガスを追い出すため、窒素ガスを圧入し完全にベンゾールの残留ガスがなくなった頃を見計らってバルブとマンホールが開放されるのが通常のやり方である。マンホールからタンク内に入る前には空気を吹き込んで窒素ガスも追い出してしまうことになっている。酸素欠乏による事故が起きるのを防ぐためである。 松山と梅林は二人で組を組んでベンゾール製造装置の小型タンクに潜り込みタンク内のボルトを外し部品を交換する作業に従事するよう指示されていた。
石油精製工場内での作業は危険物を取り扱っているので、安全対策上色々な制約がある。作業員の動きは独自の判断が許されず必ず石油会社の担当係員の指示に基づいて工事監督が発する作業指示を受けてから行動するよう義務づけられている。最も注意を要するのは火気使用である。施工上ガス切断、電気溶接は不可欠の作業じあるため、ガス、電気を使うときには細心の注意が要請される。有毒ガスの発生、酸素欠乏状態の作業環境、高所での作業等危険な場所は至るところにある。その日松山と梅林はタンクの中へ入るに先立ち、ガス検知と酸素欠乏状態の有無の検査をして貰って、作業指示オーケーの指示を受けたので、先ず松山がタンクの中へ入った。
タンク内中は人一人がやっと潜り込める程の広さであり、無理な姿勢で作業をするのであまり長い時間入っていることはできない。松山が中へ入って暫くの間、タンクの中からは、スパナでボルトの頭でも叩いているらしくカーン、カーンという金属音が聞こえていた。
梅林はタンクの外で装置についているバルブを取り外す作業に精を出していた。五月の日差しは肉体労働をすると体に汗をにじませた。梅林は時々ヘルメットの顎紐を緩めてヘルメットをあみだにし、汗をぬぐい取った。ボルトが腐って錆びついているので、ボルトの頭にスパナをはめてハンマーで叩くのだが、作業は意外に手間取った。漸くボルトを一本抜いたところで時計を見ると松山がタンクへ入って既に30分は経過している。 「おーい、松山時間だよ。出てこい」とマンホールから中を覗き込んで声をかけたが何の反応もない。 明るい戸外で作業していたのでタンクの中を覗いても、暗くて中が見えない。 「おい、松山どうした。早く出てこい」 大声で梅林が怒鳴ると声がワーンワーンと聞こえるが松山の返事は返ってこない。暫く耳を澄ましてみたが、人の動く気配もない。漸く暗さに目が慣れて上の方を見上げると松山の足が二本垂れ下がっているが動かない。胸騒ぎを覚えた梅林は 「誰か来てくれ。松山の様子がおかしい」 と助けを求めた。 梅林の声に近くで作業していた作業員が4〜5人駆け寄って来た。どの作業員も汗と油にまみれ、黒く汚く汚れていた。たまたま、パトロール中の関東石油の安全担当者大浦英夫も、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた。大浦はガス検知の担当者だったからもしかすると自分の手落ちで有毒ガスが残っているのに気づかずオーケーの報告をしたのではないかと内心ビクビクしていた。ガス中毒による事故でないことを願っていた。 「どうした」 と大浦が声をかけた。 「松山の様子がおかしい。いくら呼んでも返事をしないのだ」 と答えておいて梅林は同僚を救い出そうとマンホールからタンクの中へ潜り込んだ。 「危ないぞ。ガス検をして貰え」 と言って引き止めようと足を引っ張る者もいたが、梅林は意に介さなかった。狭いタンク内は梅林が入るともう他の者は入れない。梅林が小腰を屈めて上を見ると、松山はタンクの中を通っている4インチほどのパイプの上に腰を下ろして頭を前へ垂れ、うつむんたままの姿で動かないでいる。目の前に垂らしている二本の足に手をかけるとぶらぶらしている。中は狭くて松山のいる場所まで登っていくことができない。梅林は急いでタンクの外へ出て 「どうも様子が変だ。死んでいるかもしれない」 と変事を告げたが自分でも声がうわずっているのが判った。 「早く助けろ。外へ引きずり出すんだ。何をボヤボヤしている」 と急を聞いて駆けつけてきた工務課の山本正が顔色を変えて怒鳴った。
山本は梅林と入れ代わりに中へもぐり込むと松山の両足を引っ張って引きずり降ろし、両足をマンホールから外へのぞかせた。外で待機していた作業員達が松山をタンクの外へ引きずりだしてみるとぐったりして死んだように動かない。このような突発的な変事が発生したときには、大勢人は集まってきてガヤガヤ騒ぐが、てきぱきと状況を判断して適切な措置を取れる人は少ない。 「救急車に電話したか」 「早く医者を呼べ」 「医務室の医者はまだ来ないのか」 「酸素ボンベを持ってこい」 と口々に騒いでいる。思い出したように、あたふたと駆けだして行く者もある。皆がてんでに自分の思いつきを実行に移すことになるので混乱を招くことになる。後で判ったことであるが、消防署へはこの事件についての出動要請が五人の人から別々にあったそうである。五人五様に状況を説明するので混乱は増すばかりである。ある者は死んだといい、或る者は死にそうだといい或る者は怪我をしたという。
酸素を吸入させるつもりか酸素ボンベを担いできた者もいる。何を慌てたのか窒素ボンベの空瓶を運んできた粗忽者もいる。 誰もがまず思いつくことは救急車を呼ぶことである。だが自分で手を下してこの場合もっとも有効な応急手当てをすることができない。人口呼吸をしてみようということに思いつくまでにかなりの時間を徒過していた。
山本はベンゾール製造装置の直接の担当者であった。関東石油では若手の工務課員としては人当たりもよく、仕事もよくできるという評判である。下請けの作業員にも仕事は厳しいが自分達の気持ちをよく理解してくれると人望があった。決断も速いが短気で怒りっぽいのが玉に疵だと言われている。 山本は自分の担当するベンゾール製造装置で起こった事故だけに責任を感じて必死で松山を助けたいと思った。 「救急車はまだ来ないのか」 と叫びながら心臓に耳を当ててみると鼓動音が微かに聞こえている。 「まだ生きている。早く医者を」 と山本 「早く上着を脱がせて人口呼吸をしてみろ」 と誰かが叫ぶ声が聞こえた。その声に山本は大事なことを忘れていたぞと臍を噛む思いで松山の作業衣をめくり上げ膝を折って人口呼吸を始めた。 人口呼吸法としては、口を相手の口へあてがい呼気を直接送りこんでやるのが一番効果的だということは、この事件の後山本が医師から得た知識である。 「医者は何している。まだ来ないのか」 「今日は金曜日だから、医務室には看護婦だけしかいない。今博善病院へ医者を迎えに行っているからもうすぐ来るだろう」
ピーポー、ピーポと間の抜けたサイレンを鳴らしながら救急車が到着するのと博善病院から医者が到着するのと殆ど同時であった。 その医者は白衣に身を纏い手慣れた手つきで作業を進めた。松山の右手の脈をとり首をかしげている。心臓に聴診器をあてていたが、やがて目蓋を指先で器用にめくり懐中電灯の光を当てて瞳孔を調べている。 いつしか駆けつけた工務部長、製造部長の顔も群衆の中に認められた。
皆が固唾を飲んで見守る中で駄目だという風に首を振った。医者の一挙手一投足は言葉よりも雄弁である。松山の心臓は完全に止まってしまったようである。 藁にでも縋りたい気持ちで医者の動作を見守っていた山本はがっかりしてその場へ崩れ落ちそうになる気持ちを辛うじて耐えた。心配していたことが遂に起こったというのが実感であった。 救急車は死体を病院へ運ぶこともできず空のままで帰って行った。虚しさだけが残された。 遺体は担架で医務室へ移され、警察の手によって検死を受けることになった。
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6 プラント建設業界には石油精製会社や化成品製造会社等のユーザーを中心にその周辺に専属の下請け企業集団が形成されており、それぞれに他の業者の手出しを許さないテリトリーを持っている。 業界ではこのことを「筋」と呼んでいた。
関東石油についていえば、配管に関する構内常駐指定業者は報国工業であり、関東石油から発注される配管工事は大小を問わず、報国工業へ直接流れるのである。新たに装置を建設する場合には、大手のエンジニアリング会社、建設会社に発注され、報国工業は関東石油から推薦されて、これら大手会社の下請けとして工事に従事するのを常とした。この発注形態を「紐つき」という。
このように関東石油から発注される配管工事は、発注経路の如何を問わず報国工業に最終的に流れることも「筋」という。このような「筋」は各石油精製会社、各化成品製造会社毎に出来上がっており、この筋は業者同志相互に了解されている。判りやすくいえば、縄張りでありテリトリーである。 この筋にも二通りの筋がある。 第一の筋はメーカー(石油精製会社、化成品製造会社等)から構内常駐業者に指定され、メーカーから直接仕事を貰う所謂元請け形態の筋である。 第二の筋は大手の建設会社、エンジニアリング会社との密接な取引関係にある場合の筋である。
通常報国工業程度の規模の会社では、大きなプラントの建設工事を直接受注してこなしていくだけの能力がないので、このような場合には、施工専門会社として大手建設会社の下請けとなり、工事の一部を分担施工する。この場合には大手の建設会社の傘下の一員として建設工事に参加するので、たとえ施工場所が同業者の常駐している会社であっても「念達」をしておけば、問題になることはない。この念達は同業者に挨拶することであり、この度、客先の○○会社の下請けとしてお宅の常駐会社の構内で仕事をする事になったが、これは今回限りのことであって、決してお宅の縄張りを荒すつもりはないということである。 大手の建設会社、エンジニアリング会社はそれぞれに傘下に専門の施工会社を下請け業者としてかかえ、一つの企業グループを形成している。
報国工業クラスの施工専門の工事会社の場合、第一の筋と第二の筋を持っており、この筋を守って営業を行っているのである。この筋を間違えて、他業者の領域へ口出し手出しをすると,異端者として同業者からも嫌われ、客先会社からも嫌われ、信義のない会社として信用を落とすことになる。 河村忠夫の所属する東都プラントが関東石油に食指を動かし出したのは、大日本化工機が、関東石油の横浜工場に灯軽油の製造装置を建設したときである。
関東石油の横浜工場は報国工業のテリトリーであることは業界周知の事実であった。この時の建設工事は、工区が三つのブロックに区分され、日本鉄工、大日本化工機、興国建設の大手会社が元請けとして受注し、それぞれに傘下の下請け工事会社を率いて施工した。 報国工業は日本鉄工の下請けとしてこの工事に従事した。報国工業としてはこの時期、仕事が輻輳しており、能力的に日本鉄工からの受注をこなすだけで手一杯であり、大日本化工機や興国建設からの引き合いには応じきれなかった。
東都プラントは大日本化工機傘下の業者として乗り込んできたのである。工事完了とともに当然のことながら、各業者は引き上げた。東都プラントも引き上げたが、工事施工期間中に関東石油の工務担当者に近づき、構内常駐指定業者にして貰おうと積極的に運動した。担当者をゴルフに連れ出し、ゴルフの帰りには自ら経営するバー「姫」、キャバレー「パッション」へ繰り込み若い担当者の買収に力を注いだ。
定修工事は毎年一回行われる。報国工業にとって関東石油横浜工場のこの定修工事は年間の工事予定の中でも、もっとも大切な工事として扱われている。工事規模の大きさ、動員する作業員数、短期間の工事であること、危険な作業の伴うことなど、一時も油断の許されない工事である。周到な工事計画、余裕をもった作業編成、細心の注意が盛り込まれた安全対策、整然とした管理体制これらが有機的に補完しあって定修工事は施工される。
特に管理監督の立場にある者相互の密接な意思の疎通が最も大切なことである。客先とか業者とかの垣根を越えてコミュニケーションが円滑に行われることが定修工事の成否を決めると言っても過言ではない。
そこで、定修工事が開始されるに先立って、関東石油と報国工業の担当者は一堂に会して、打ち合わせ会を開催するのが常となっていた。酒食をともにしながらお互いにこれから定修工事という共通の目標に向かって進んでいくという意識を共有するための日本的な儀式である。この定修工事事前打ち合わせが終わりに近づくと三々五々気の合った者同志で二次会、三次会へと流れていく。
沢村も客先の若い担当者を十人程引き連れて部下の尾崎に先導させながらゆきつけのスナックバーへ乗り込んだ。カラオケの置いてあるところが人気があった。歌は決してうまい方ではなかったが、新曲をよく知っており求められればどんな曲でも一通りは歌えるということで、沢村は客先の若い人に好かれていた。 「あら、いらっしゃいませ。今日は大勢で」 「ママ、今日は大切なお客さまだからよろしく頼むよ」 席に着くと皆それぞれに好みの曲をリクエストしてマイクを握り自分の声に酔ってくる。 「サーさん、今日はどちらのお客さまですか」 『貴公子』のママが沢村の隣の席へ寄ってきて聞いた。 「関東石油さんだよ」 「関東石油と言えばつい先日東都プラントの河村さんが関東石油の製造の人と『姫』に来てたそうよ。 「名前は」 「栗原さんとか言ってたわ」 「製造の人と何を話したんだろう。商売とは関係なさそうだがね」 『姫』は東都プラントがよく使っているキャバレーである。ここ『貴公子』のママの友人が『姫』に勤めているので沢村は東都プラントの動きを知るためにママを通じて情報の提供を受けている。東都プラントの河村が接待するのだから何か画策しているのであろうか。関東石油製造課の栗原を接待する狙いが判らなかった。工事に対して発注権を持っているわけでもなく、工事の監督権限や検収権を持っているわけでもない。ちょっと理解に苦しむ河村の動きであった。
関東石油の工務担当者と東都プラントの担当者との間は急速に近づいたが構内には報国工業が専属の下請けとしてにらみを効かせており、つけいる隙がなかった。そこへ降って沸いたように発生したのが、松山一朗の労災事故であった。報国工業にとってこの事故は有形無形のダメージを与えることになった。 ことあるごとに関東石油からは、松山一朗の労災事故を例証に持ち出され発注単価を値切る種に使われた。また、東都プラントを競争相手として相見積もりをとると脅かされていた。報国工業では沢村が中心となって防戦に努め東都プラントが関東石油構内へ常駐業者として食い込んでくるのを辛うじて防いでいた。
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5. 富士山へ向かって白球が飛んで行った。 「ナイスショット。部長、素晴らしい当たりでしたね」 背丈の高いいかにもスポーツマンらしい沢村 勝が褒めた。 「部長、部長の球は真っ直ぐ飛んで行く、素直ないい球ですね。この調子だと優勝間違いなしですよ」 今度はずんぐりした体に猪首を乗せ、鋭い目つきの河村忠夫が負けてはならじと厚い唇の間に金歯を覗かせながらおだてた。 「なに、まだハーフ残っているから、下駄を履くまで判らんよ」 部長と呼ばれた初老の男は満更でもなさそうな顔で球の行方うを確かめてから赤いティーを拾った。 「それではオーナーに習ってひとつやりますか」 沢村 勝がブラックシャフトでドライバーショットをしたが、ボールが落下点でキックしてバンカーへ飛び込んだ。 「今日はついてないな。またバンカーへ入ってしまった」
沢村の口調には余裕が窺えた。部長の薬袋浩一とは17ホール終わったところで、一打の差があった。薬袋がアウトを46、インを8ホール終わったところで42というスコアで回ってきたのに対し、沢村のスコアはアウト47、インでは42叩いていた。最終ホールをパーかバーディーで纏めれば薬袋と同点又は一打勝つ勘定である。
沢村は薬袋に決して勝ってはならなかった。かといって河村には負けてはならなかった。河村のスコアはアウト47、イン43で競り合っていた。薬袋には一打差で負け、河村には二打か三打の差で勝ちたかった。もう一人のパートナーは50以上も叩いており計算にいれる必要はなかった。 富士山麓の大富士ゴルフクラブで催された「飛球会」ゴルフコンペには、大日本化工機株式会社傘下の下請け会社の営業マンがそれぞれに思惑を持って参加している。
「飛球会」を主催する工事部長薬袋浩一は飛球会に集う下請け工事会社に対して絶大な影響力を持っている。薬袋の機嫌を損ねたら、まず発注単価で苛められ仕事を廻して貰えなくなる恐れすらあった。
沢村はコンペの事前に画策して薬袋と同じ組に入ることに成功した。1.5ラウンド6〜7時間の間「飛球 会」の天皇薬袋と共に過ごすことは今後の営業活動に大きくプラスになることは間違いなかった。だが、油断できない同業の競争相手がやはり、薬袋の組に入ってきていた河村忠夫である。
沢村 勝は報国工業の工事担当者としては腕効きでゴルフにも相当の自信を持っていた。しかし、沢村は営業目的を考えて大日本化工機の工事部長薬袋浩一に気に入られることに専念するつもりであった。かと言ってあまり見え透いたこともできない。薬袋に一打差位でついていくことが最もうまい方法である。コンペである以上他社の手前もあり、良い成績をあげて一目おかさなければならない。
沢村がバンカーへ入ったボールを追ってくると河村が後ろへついてきている。サンドエッジう取り出してボールに近づき足場を確保してからスイングした。砂を浅くすくってうまいショットであった。 「ナイスアウト」 薬袋とキャディが声をかけた。そのとき河村のクレームがついた。 「沢村さん、いいショットだったけれど、アドレスのときクラブヘッドを砂につけていましたよ。ツウペナルティーではないですか。キャディーさんそうだろう」 「さあ、私はよく見ていませんでしたが、もしクラブヘッドが砂についていたらツウペナですね」 キャディーは河村の剣幕にあたりさわりのない返事をした。 「河村君、そんな固いことを言わなくてもいいじゃぁないか。私もよく注意していなかったからヘッドが砂にあたっていたかどうか判らないけど、素晴らしいショットだったことは間違いない」 薬袋が鷹揚に横から口をはさんだ。 「部長、でもルールはルールですから厳密にやらなければ、飛球会コンペの権威に係わります」 河村の強い口調に沢村は内心ムッとした。明らかにいいがかりをつけてきたのは目に見えている。昨日今日ゴルフを始めたばかりの素人ではないのだから、バンカーの中でアドレスするときにクラブヘッドを砂につけたりする筈がない。然し沢村はここで怒っては相手の策に乗ることになる。じっと我慢すべきだと考えた。 「それは,気がつきませんで大変失礼しました。今後はよく注意します。ツウペナで勘弁して下さい」 沢村は素直に謝ったが河村と視線があったとき火花が散った。 最終ホールでは薬袋はスリーオン、河村はツウオン、河村はバンカーでのペナルティーのためにファイブオンであった。 薬袋は最終ホールをボギーで纏めた。沢村はロングパットを決めてダブルボギーで終わった。
河村の順番がきた。河村はバーディを狙ってしきりに芝目を読んでいる。 午後二時を回ると山間のゴルフ場ではグリーンの上に人の影が細長く伸びている。 「沢村さん、駄目じゃぁないか、ライン上に影を作っては。飛球会のゴルフは田舎ゴルフとは違うんだよ」 河村のオクターブの高い声が飛んできた。また言いがかりである。 「申し訳ない」 沢村は逆らうべきではないと考え、更に後ろへ下がった。 河村のパットは狙いすぎてオーバーし、ホールから1mの距離を残した。 結局4パットで同じくダブルボギーにしてしまった。 「ラインに影を落とされて調子が狂ってしまった」 河村はキャディーにパターを渡しながら聞こえよがしにぶつぶつ言っている。 ワンラウンドの成績は薬袋93、沢村95、河村96であった。沢村は結果的には狙った通りの成績に終わったことに満足した。
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4. 武庫川の川沿いの閑静な所に、緑に囲まれて豪華なマンションが建っている。このマンションの日当たりの良い二階に岡元克彦は住んでいた。
「結構なお住まいですね。今日は、素晴らしいコレクションを拝見出来ると楽しみにして参りました」 名刺交換を終えると桑山は新聞記者らしいはきはきとした口調で切り出した。
「いや、これはどうも。最近東京から引っ越してきましてね。家財は東京へ残したままなので、何のおもてなしも出来ないと思いますが、ゆっくりしていって下さい。幸い書を集めるのが私の道楽でしてね。書だけは持ってきてありますから御覧にいれましょう。美代子、桑山さんにビールでも差し上げなさい」
岡元克彦は最近専務に昇格して、関西支社を統括するため大阪へ転任となったのである。一人娘の美代子が大蔵省へ勤務する原 良彦へ嫁いで間もなく発令された人事であったが、女婿の原も同じくして大阪国税局へ転勤となったので、山王商事で岡元克彦のために用意したこのマンションへ新婚の娘夫婦が同居することになったのである。岡元克彦は要職にあるため、夜は帰りが遅く、原夫婦は新婚生活を邪魔されることもなく、優雅な生活を送っていた。岡元は実の娘と同居できるので、何かと便利でマンションの生活を喜んでいた。
「はじめまして、原の家内でございます。主人からかねがねお噂は聞いておりました。何のおかまいもできませんが、どうぞごゆっくり」美代子はビールを盆に乗せてくると桑山由雄と門川佳子に挨拶をした。
岡元克彦は平沼騏一郎、犬養木堂、勝海舟、佐久間象山等の軸を出してきては、一つずつ来歴をいかにも楽しそうに説明してくれる。
佳子はいずれも名筆家ということで名前だけは聞いて知っていた大家の作品が次から次へと出てくるので、圧倒されてじっとそれらの作品に見入り、岡元の熱っぽい解説にじっと聞きいっていた。初めてみる作品ばかりであった。ふと気がつくと桑山も原夫妻も感心したような顔は装っているが、あまり興味はなさそうなので、もっとゆっくり見せて貰いたいと思ったが、他の人に悪いような気がしてきた。
「どうも貴重な作品を見せて戴きありがとうございました。良い目の保養ができました」とお礼を言った。 「若いのに書に興味を持たれるとは失礼だがなかなか殊勝な心掛けですね。自分でもお書きになるのですか」 と岡元克彦が聞いた。 「ええ、兄の影響で、真似事だけはしております」 「それはますます感心した。うちの美代子なんか、私がいくら勧めても、万年筆とタイプライターの時代に古臭い書なんか時代遅れだと言って馬鹿にしているんですよ」 「まあ、お父様たら。何も皆さんの前で、そんなことを仰らなくても・・」と美代子が抗議した。 「ヨッちゃん。今、お兄さんの影響でと言ったね。お兄さんがいたのかい。知らなかったなあ」
桑山が真剣なまなざしを佳子に向けた。佳子は桑山に見つめられて桑山の視線が眩しかった。桑山には兄の失踪のことは勿論、兄がいることも話していなかった。
兄の失踪のことを話したら桑山が自分の許を離れていきはしないかという虞があった。今なにげなく兄の影響で書道を始めたと洩らしてしまった。迂闊だったと後悔した。何れ判ることとは言え、何も初対面の岡元克彦の前で真相を語る必要もない。佳子はさりげなく言った。
「桑山さんにはお話していませんでしたが、私の兄は兵庫県で硝子会社に勤めているんですよ」と答えて俯いた。 「おいおい、桑山、新聞記者にしては呑気だな。恋人の家族関係もまだ判っていないのかい」と今度は原良彦がからかった。 「そんなんじゃぁないんだ。この人は私の行きつけの寿司屋さんの看板娘でね、書が好きだというので今日連れてきただけなんだ」と桑山が弁解した。 「そうむきにならなくてもいいよ。心臓の強いお前にしては、うぶな所があるんだね。佳子さん、こいつは案外純情な所があるんですよ」と原良彦が佳子の手前、少し桑山をからかいすぎたと思ったのか桑山をたてるような言い方をした。 「ほんとですわ。お似合いのカップルができあがりますわ。ねぇ、お父様」と原 美代子が同意を求めるように父の方を見た。 「あらっ。困りますわ。私」佳子は赤面した。現在の自分の立場が、同席の皆に誤解されていると思った。今まで、桑山のことを結婚の対象として意識したことはなかった。兄の久が失踪して寂しく思っていたところへ現れた桑山は、洋子にとって兄のような存在だった。今日も何気なく兄について展覧会にでもでかけるようなつもりでついてきたのである。ところが、岡元克彦はじめ、原夫妻も桑山と佳子を恋人同志のように理解して応対しているのである。佳子の体中にジーンと熱いものが流れた。それは今まで経験したことのない甘酸っぱい感情の波であった。そして、兄のことが話題に登らなければいいがと祈るような気持ちであった。
ところが一座の者には佳子の態度が乙女の恥じらいとして映り好感を与えた。 「桑山さんも良い人を選ばれた。書は人と為りを表すと言って書をたしなむ人に悪い人はいない。自分が書が好きだからいうわけではないが、書を書くときには無心になれる。邪心を捨てなければ素直な書は書けない。そういう意味で書を書く人に悪人はいない。特に若い女性が書を書くのはいいことだと思います。女性の綺麗な筆跡は見ていても実に気持ちがいい。桑山さんも門川さんからラブレターを貰うのが待ち遠しいことでしょうな。ハッハッハッ」 「そんな・・・・」 「私も美代子には書を習わせようとして、随分やかましく言ったが、この娘はテニスのほうが忙しくて、遂に書の良さを知らずに親元を離れて行ってしまった。良彦君、今からでも遅くはない。家庭に入ったら、テニスばかりしているわけにもいかないだろうから書を習うように勧めてやって下さい」 岡元克彦は若くて美しい同好の士ができたのが,よほど嬉しいとみえて能弁になった。
「そうですね。お義父さんの仰る通りですよ。書をたしなむ女性には奥床しさが感じられます。私の大学時代の寮での後輩に書のうまい男がいましてね、書道研究会に入って展覧会などにも頻繁に出品していましたよ。学部が違っていましたので、あまり親しい間柄ではありませんでしたが、何でも外交官を志望していましてね、語学が達者な男だったと記憶しています。風格のある男でしたよ。あの風格は書で養われたのかもしれませんね。美代子にもせいぜい家事の合間には手習いをさせるようにしますよ。勿論僕も暇をみて習うことにしたいと思います」 原良彦は岳父の手前調子のいいことを言っている。
佳子は原良彦がそう言った時、今彼が話題にとりあげた男というのは兄門川 久ではないかと思った。いや、門川 久に間違いないと思った。胸が高鳴った。兄は原と同年配で、東大の書道研究会に入部していたし、外交官を志望していた一時期があった。しかも学生寮に入寮していた。 だが、佳子はその人は自分の兄ではないかと思うということをどうしても口から出すことが出来なかった。そのことを口に出せば、兄の失踪のことをいきがかり上、説明しないわけにはいかない。兄の失踪のことを桑山に打ち明けるにしては、この場所と時はいかにも相応しくなかった。桑山を恋する女の気持ちが本能的に影の部分を隠させた。
男達は美代子の手料理に舌鼓を打ち、意気投合して杯を酌み交わしながら談笑していたが、佳子の耳にはその会話は意味のある言葉としては響かなかった。佳子は兄の安否と行方のことを案じながら桑山にどのようにして打ち明けるがを考えていた。
岡元克彦と原夫妻が名残惜しそうに引き止めるのを振り切って暇乞いをしマンションを出ると外は薄闇に覆われ、武庫川の堤防の上を行き交う自動車のヘッドライトが二人の影を写し出した。丁度通りかかったタクシーを拾って、西宮駅までと桑山が運転手に命じた。 「ヨッちゃん。何だか浮かない顔をしているね、どうしたの、気分でも悪いのかい」 「いいえ、一寸考え事をしていたのよ」 「何を考えているの」 「桑山さん、怒らないで聞いて頂けるかしら」 佳子が意を決したような口調になったので、桑山も身構えたような気持ちになり、佳子の顔を覗き込んだ。
桑山の頭には岡元家での会話のやりとりが瞬間的に脳裏を駆けめぐった。女の口から言わせてはならない言葉が、出てくるのではないかと不安になった。もし佳子の口から求愛の言葉が出てくるとすれば、このタクシーの中は場所としては相応しくない。運転手が聞き耳をたてている様子が手にとるように判る。やはり桑山の方から求愛したかった。 「ヨッちゃん、ちょっと待ってくれないか。西宮駅についてから音楽でも聞きに行こうよ」 運転手の咳払いが沈黙を破った。
「運転手さん、西宮駅前の音楽喫茶へやってくれないか」 「はい」と言って運転手はまた咳払いをした。 タクシーを乗り捨てると桑山は「白夜」という看板の出ている喫茶店へ入っていこうとした。 「桑山さん、歩きながら私の顔を見ないで聞いて欲しいの」 「待ってくれ、僕から言わせてくれないか」 「いいえ、私の方から言っておきたいことがあるの。桑山さんから嫌われると思うから今まで言いだせなかったの」 佳子の口調に桑山は自分が何か勘違いしていることに気がついた。 「どうしたんだい。さあ、黙って聞いているから言ってごらんなさい」 「さっき岡元さんのお宅で、私に兄があることが話題になったでしょう。そのことなの」
桑山は佳子の語調が乱れたので、何か事情がありそうだと気がついた。佳子の兄に何か人に言えないような事情があるのではないかと思った。見ると佳子の肩が小刻みに震えている。 桑山は色々なことを想定した。兄が前科者の場合、兄が身体障害者の場合兄が妾腹の子の場合、彼女はこれから何を言おうとしているのか。彼女がこれから打ち明けようとしている兄にまつわる秘密を聞いたとき、自分はそれを克服して愛を誓うだけの自信があるか。佳子に対する気持ちは本物の愛と言えるか。それが今試されようとしている。一瞬の間に桑山の胸中をこのような思いが電流のように交錯した。
「実は僕もそのことは初耳だったので、ヨッちゃんに是非聞いてみたいと思っていたところなんだ。お兄さんが兵庫で硝子会社に勤めておられるんだって」 「ええ、そうなの。三年前まではそうだったの」 「三年前までは・・・それでは今は」 「現在は行方不明で生死不明なのよ」 佳子は肩を震わせて泣きじゃくった。言葉に出してしまうと急に気が楽になって何でも話すことができるよしな気持ちになった。 「何だって。行方不明だって」 桑山は自分で想定していた場面よりも事態は単純なので内心ほっとした。「桑山さんには今までこのことを隠していて、申し訳なかったと思っています。兄が行方不明だと判ったら、桑山さんに嫌われると思って、なかなか言いだせなかったわ。でもいつかは打ち明けなければならない時がくるのは判っていたの。でもこんなに早くその時がくるとは思っていなかったわ」
佳子は泣くことによって心のわだかまりが浄化されたのか能弁になった。兄の生い立ちから始めて、兄が大学に進学するについて、父との間に生じた小さないさかい、兄が行方不明になった日の前後の経緯等を佳子は淡々と話した。 「それで、手掛かりは全然掴めないの。行方不明になった動機も推測できないのかね」 「私なりに色々考えてみたわ。でもどうしても判らないの。毎日兄の写真に陰膳を供えている母の姿を見るのが可哀相で堪らないわ。私はもう兄がこの世に生きていないような気がするの。私にはとっても優しくて頼りになる良い兄でしたのに」
佳子がまた涙ぐんだので、桑山はポケットからハンカチを取り出して涙をそっと拭いてやった。 「事情はよく判ったよ。僕も新聞記者だから、僕なりに調べてみよう。お兄さんはきっと健在だよ」 「さっき岡元さんのお宅で原さんが書道研究会に入部して外交官を志望している語学に堪能なお友達のことを話していらっしゃったでしょう。私はあのとききっと、その人が兄だろうと思ったわ。でも、初対面の方にお話すべきことではないので黙っていましたの。世の中って意外に狭いのね」
桑山は佳子の打ち明け話を聞いて、門川 久が生きていることを願った。 今でも佳子に好意を寄せながらも求愛できずにいたのは、佳子が角寿司の一人娘だと信じ込んでいたからである。一人娘でなく兄がいるとなれば、事情は変わってくる。正々堂々と両親に対しても佳子を嫁に欲しいと申し込むことができる。
桑山は三人兄弟の長男で姉は嫁いでいるが、下の妹は高校を卒業して九州で勤めている。両親は健在で父は九州の市役所を定年退職した後、運輸会社に再就職して事務を執っている。祖父から受け継いだ小さな家作に住んでいるが、老後を悠々自適の生活を送る程の資産や蓄えがあるわけではなく、何れは桑山が両親を呼び寄せて、老後の世話をしなければならない立場にあった。
桑山はこの立場をよく自覚していたので佳子に好意を寄せながらも煮え切らない態度をとっていたのである。角寿司の久枝から佳子にいい人があったらお婿さんを世話して下さいと謎をかけられたときも、態度をあいまいにして誤魔化してきたのである。
新聞記者という職業は自ら望んで選んだ仕事である。そして仕事に生き甲斐を感じていた。いくら佳子に好意を寄せていても、佳子が角寿司の一人娘であれば、嫁にくれとは言いだせなかった。そして望まれても、新聞記者を廃業して角寿司へ入り婿になることは最初からできない相談であった。そこに桑山のジレンマがあった。だが、今佳子から打ち明けられて、兄がいることが判った。たとえ行方不明であっても死んでしまったという証拠はない。佳子の兄を捜し出せば胸を張って、佳子に求愛することができる。桑山は一条の光を暗闇の中に発見した思いであった。
桑山は門川 久に生きていて欲しいと願った。いや生きていて貰わなければ困るのである。いまでは佳子に寄せる愛情が、丁度雪達磨がどんどん大きくなるように、次第次第に大きくなり、加速度がついて自分の手では制御できない程になっていた。それと比例して佳子の兄は自分の手で捜し出してやるぞという執念のようなものが自分の体内に膨らんでいくのを感じていた。
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3. 今日も朝からしとしと雨が降り、空はどんよりと曇っている。門川佳子は硯で墨を擦りながら床の間に飾ってある条幅に目を投じた。 杜甫の詩『春望』が草書で流れるような線によって書かれている。落款には門川孤舟と記されている。この軸は孤舟と号した兄が東大在学中、ある新聞社の書道展で特選をとった記念の軸である。 兄、久が失踪してから何年になるのだろうか。久の失踪が判ったのは、東大を卒業して昭和40年に極東硝子へ就職し、3年ほど経ったときの、丁度今日のようにしとしと雨の降っている日だったと思う。兄の会社の人事課から電話がかかってきたのである。 「もしもし、こちら極東硝子の人事課でございます。門川 久さんのお宅でしょうか」 「はい。門川でございます。いつも兄がお世話になっております」 「久君はおられますか」 「いえ、兄は会社へ出勤している筈ですが」 「えっ。久君は休暇をとってお宅へ帰っておられる筈でしたが・・・どちらかへおでかけでしょうか」 「何ですって。兄は最近こちらへは帰ってきておりませんが。何か」 「おかしいなあ。仕事に疲れたから両親の許へ7日ほど休養に帰ってくると言われて、10日ほど前に帰郷した筈ですが・・・7日過ぎてもなんの連絡もないのでどうしているかと思って電話したのですが、そうですか。そちらへは顔を見せませんでしたか」 それから大騒ぎとなった。兄は正月に帰ってきて以来,今日まで帰郷していなかったのだ。 佳子も両親も元気に会社勤めをしていると思っていたのに、突然、会社からおかしな電話がかかってきたのである。 父が急いで兄の任地へ飛び、極東硝子を訪問した。上司や同僚に会っていろいろ聞いてみたが、仕事に疲れたので暫く両親のもとで静養してくると言って、7日間の休暇届けを出して帰郷したということしか判らなかった。久の住んでいる高砂市の独身寮に行って荷物を調べても衣服類はきちんと選択して押し入れの中に仕舞ってあり、書類も本棚に綺麗に並べられている。 部屋の中では書き置きらしきものも発見されなかった。同室の同僚に尋ねてみてもスーツケース一つをぶら下げて実家へ7日ほど帰ってくるよと言い残して出掛けたのでてっきり帰郷しているものと思っていたということである。 直接の上司である労務係長の話では、最近急激に工場が膨脹し、充員、定着対策、複利厚生施設の建設、労働組合対策、集団転勤の受け入れ等と難しい問題を抱え、毎日遅くまで仕事をし、疲れていたのは事実である。しかしそのことが、原因で失踪してしまうということはあり得ないということであった。 門川家でも心当たりへは全て連絡し、会社でも久が立ち寄りそうな所へは残らず連絡をとったが、消息は不明であった。 警察へ捜索願を出したが、久の行方は杳として判らなかった。失踪の動機も判らず、久からは会社へも実家へも何の音沙汰もないまま、いつしか3年が過ぎていた。佳子は兄が失踪したときはまだ、短大へ入学したばかりであった。優しかった兄が動機の判らないまま行方不明になったことにショックを受けた。 父や母の嘆きもまた大きかった。あの事件以来、父や母はひどく老い込んだように見える。母は毎朝、背広姿の兄の写真に陰膳を供えることを欠かさない。めっきり白髪の増した母が口の中でぶつぶつお経のようなものを唱えながら、陰膳を供えている姿は痛々しくて、佳子は見るに忍びない思いをしている。 佳子の実家は父、作造が包丁一本で築き上げた寿司屋である。働き者の父は九州の片田舎から単身大阪へでてきてあちこちの料理屋へ勤め、腕を磨いた。難波で修業しているとき、大きな寿司屋で女中勤めをしていた母を見初めて世帯を持ったと聞いている。生来働き者の父と母はせっせき働いて小金を蓄え、繁華街で店を持つことが人生の目標だったそうである。 出征中は父は内地勤務で通信兵として葉山の通信学校へ勤務したらしい。母は兄と生まれて間のない佳子を九州の父の実家へ連れて行き漁師の手伝いをしながら二人の兄妹を育てたということである。 戦後復員すると、父は大阪と九州を担ぎ屋として往復し、水団やら蒸かし芋を売って元手を作り、大阪の現在の土地を購入しバラック建ての一膳飯屋からスタートして、今の店に作り上げたのである。今では板前10人を置く寿司屋を本業としながら、レストラン、喫茶店、ビジネスホテルの経営やらで相当の所得を得ている。 佳子は父や母には言えないが、ひょっとすると兄の失踪の原因は両親の家業にあったのではないだろうかと内心秘かに思っている。そう思わせる出来事が過去に幾つかあったのである。 両親に似て頭の良かった久は、中学、高校とも首席で通し語学には特に才能のあるところを示した。父が家業を継がせようとするのを嫌って、東大へ進学し家庭教師のアルバイトをしながら大学を卒業したのである。大学に進学するについては、寿司屋の伜に学問は不要だとする父と、寿司屋のような水商売は嫌いだという兄が口論し、担任の先生のとりなしに折れた父が、自分の力で進学し、就学するなら認めようという事件があった。 また語学に堪能で政治に興味を持っていた兄が大学へ進学してからは、外交官になるのだと言って、一生懸命勉強していた一時期があった。ある晩コンパでひどく酔って帰り, 「うちが水商売では、毛並み第一の外交官にはなれないよ」とコップに水を持っていった佳子にポツリと寂しそうに言ったことがあった。 最近では正月に帰省したとき、母が沢山用意した見合い写真を見せると写真を一瞥しただけで、 「寿司屋風情には良家の子女は寄りつかないよ」と言って母に写真をつき返した。これを傍らで聞いていた父が激昂し、 「その言いぐさは何だ。寿司屋風情とはなんだ。親の職業を愚弄するような言い方は許せん。寿司屋だって立派な生業だ。人様に迷惑をかけるわけじゃあなし。もう一度言ってみろ・・・これだから、なまじ端学問をした奴は始末に終えん」 「済みません。私の言い過ぎでした」 流石に気が咎めたのか兄が素直に謝ったのでその場は納まったが、父と母は兄の言葉を非常に気にしているようであった。 その晩、兄と二人だけになったとき、佳子に述懐した兄の言葉はいまだ鮮明に頭に焼き付けられている。 「佳子。親父やお袋が気を悪くするから内緒の話だが、良家の子女との縁談が会社で幾つかあったけれど、一つも実らなかったよ。見合いになるまでに話が立ち消えになってしまうのさ。よく調べてみると、どうも実家が水商売をやっているということが判ると先方で敬遠してしまうらしいのだ。佳子もよく知っているように、俺は実力主義,人物主義ということで、今まで通してきたが、こと縁談となるとそうもいかないところがあるもんなんだ。ケネディ家でも大統領を出すのに三代かかっているようなものさ。俺は今でも恋愛結婚よりも見合い結婚の方が合理的だという持論なんだけど、これは一般論にしか過ぎず、俺の場合には当てはまらないようだ」 誇り高くて気が強く、自分の思ったことは大体押し通してきており、挫折ということを知らない兄の言葉としては弱気だなと思いながら聞いたのであった。 しかし、見栄坊な所のあった兄にしてみれば案外、結婚問題に関連して実家の家業が、普通の人が考える以上に、大きな悩みであったのかもしれないと、強いて兄の失踪の動機づけを考えてみるのであった。 「佳子、何をしているの。下へ降りていらっしゃい。桑山さんが遊びに見えていますよ」 階下から呼ぶ母の声に佳子は我にかえった。今度の展覧会に出品するため条幅を10枚ほど書いたところであった。 「はーい。只今」 佳子が急いで片づけて階下へ降りて行くと、新聞記者の桑山が、応接室のソファーに腰を下ろして美味そうにお茶を飲んでいる。 「やぁ、ヨッちゃん。頑張っているそうだな」 桑山はにこにこしながら右手を上げた。 「珍しいこともあるんですね。桑山さんが、明るいうちにいらっしゃるなんて」 「何を寝惚けているんだい。ヨッちゃんに素晴らしいプレゼントを持ってきてあげたんだよ」 「まあ、嬉しい。どこにあるの」 佳子が桑山の身の回りを見渡してもそれらしいものはない。 「そんなにキョロキョロしても、ここにはないよ。さあ、出掛ける支度をはじめた。始めた」 「何処へ行くんですの」 「それは内緒。行ってみてのお楽しみ」 「まぁ。桑山さんたら、人をじらしておいて。教えて下さいな」 「ヨッちゃんが怒るの図か。悪くないな。ハッハッハッ・・」 「佳子、桑山さんがね、三王商事の岡元常務さんのお宅へ連れて行って下さるそうよ」 と母親が側から口をはさんだ。 「あの岡元克彦ですか。書の蒐集家の?」 「そうだよ。前々から一度自慢の書を見せて欲しいと頼んでおいたのだが、とても忙しい人でね。なかなか時間を割いて貰えなかったんだが、今朝急に電話があって、午後3時に見せてやると言うんだ」 「まあ、嬉しい。流石新聞記者は顔が効くのね」 「まあね」 「桑山さん何でもっと早く知らせて下さらなかったの。3時とすればあと2時間しかないわ。美容院へも行けないじゃぁないの。新聞記者のくせに気が効かないわね」 「おいおい、ヨッちゃん、変な言いがかりはよして呉れよ。夜討ち朝駆けが新聞記者の本性だよ。東に事件があればすっ飛び、西に騒動があれば馳せ参じる」 「判ったわよ。また始まった。時間がないので支度をしてくるわ」 佳子は満面気色を帯びて浮き立つような足取りで二階へ駆け上がって行った。
桑山由雄が東京本社から大阪支社へ転勤になったのは一年ほど前である。 桑山は寿司が好きなので、夜食には寿司屋へ立ち寄ることが多い。あちこちの寿司屋を食べ歩いて見て、何故か角寿司へ足繁く通うようになった。 新聞記者という職業柄夜遅く食事をとりながら一杯飲むことが多い。桑山が角寿司へ通うようになったのは佳子のせいだと思っている。佳子が店にでることは滅多にないが、桑山が初めて角寿司に入った時、いつもは帳場に座っている佳子の母親が風邪で寝込んでいたため、佳子が臨時に帳場へ座っていたのである。その日桑山はうっかりして財布を忘れているのに気が付かず勘定の段になって慌てた。ポケットにあちこち手を突っ込んでいる桑山の姿を見てすかさず佳子が言った。 「お客さん勘定はこの次で結構ですよ」 「だって、君初めてこの店へ来たのだよ。そうだ。明日必ず届けるから、この時計を預かってくれないか」 「いえ、結構ですわ。お客さんは良い人ですから、明日きっとまたいらっしゃるわ」 こんなやりとりがあって桑山は角寿司の常連になったのである。 「桑山さん、あの娘も年頃ですからどなたかいい人をお世話して下さいよ」 佳子が二階へ支度に行っている間、母親はお茶を勧めながら謎をかけた。「私でよかったら、いつでもどうぞ。でもヨッちゃんには新聞記者の女房は勤まらないでしょう。それに、この店だってあることだし。まあ心がけておきましょう」
桑山は本気とも冗談ともとれるような言い方をした。門川久枝は夫の作造とも相談して、息子の失踪のことは店の者達にも禁句にしていた。桑山は佳子を角寿司の一人娘だと思っているような言い方をしている。久枝は桑山と佳子の間がかなり接近してきているので、いつ兄久の失踪のことを桑山に切り出すか悩んでいた。
「どうもお待たせしました。桑山さんたら、急なお話なんですもの。私あわてちゃったわ。もっと前もって知らせて下さればもっとお洒落ができましたのに」 佳子が大急ぎで身繕いしたらしく、ハンドバッグの中を覗き込むようにしながら階段を降りてきた。 「白状すると、実は昨日大学時代の同窓会があってね。大蔵省へ勤めている友人が岡元克彦の娘と結婚していることが判ったのさ。それでよっちゃんのことを思い出して、親父に会わせろと頼んでみたわけさ。すると奴も気の早い男だから早速話をつけて今朝電話をかけてよこしたという次第なのだよ。ハッハッハッ」 「それでは新聞記者の顔ということではなかったのね」 「そういうことになるね。でも、日本の名筆コレクションが拝めるんだからいいじゃあないか」 「ありがとう。素敵なプレゼントだわ。早く行きましょうよ」 佳子は桑山をせかせて出掛けて行った 二人の後ろ姿を見送りながら久枝は、失踪した久が桑山に姿を変えて帰宅し妹を連れてでかけたのではないかという錯覚に陥るのであった。桑山と佳子との周囲には、そのような肉親の間にだけ漂う親しい暖かな雰囲気があった。
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2. 門川 久はここ一ヵ月ほど散髪していないのに気がついた。何ものにも束縛されない気儘な一週間を過ごす前に、まずこざっぱりした気持ちにならなければならないと思った。タクシーを駅前で乗り捨てると「いらっしゃいませ」という元気な声に迎えられ、理容院の客となった。
駅前の理容院にしては、お客もたてこんでおらず、三つほど空いていた椅子の一つに座ると目を閉じた。これから何をしようという当てがあるわけでもなかったが、自分で自由にできる時間が七日間もあると思うと気持ちが豊かになった。散髪をしてもらいながら一週間をどうやって過ごそうかと考えていた。両親の許へ帰ってのんびり過ごすのもよかろう。或いは行きあたりばったりに行く先を定めずに足の赴くまま、気の向くままの旅に出るのも悪くないなと考え巡らせていた。
と、突然隣で外人の声が聞こえた。 「ウオッシュアンドカット、プリーズ」 何げなく声のする方を向くと空いた椅子を前にして髭もじゃの背の高い赤毛の若い外人が、手真似で理容師に散髪方法の注文をつけている。相手をしている理容師はこれも手真似で一生懸命応答しているが、どうも意思が通じないらしく首をかしげて困った顔をしている。
久が横から英語で外人に問いかけてやるとその外人は喜びを顔面に表し、頭髪を鋏で刈って頭を洗って貰いたいと思っているのだが、そのことをこの人に説明してくれという。髭は剃らなくてよいと伝えてくれと言っている。久がその旨通訳してやると、今まで困った顔をしていた理容師は大きくうなづいて俄に元気づいた。 「シャンプーネ、ヘヤーカットネ、オーケーネ」
その理容師は自分も片言の英語なら喋れるぞということを誇示するように知っている単語を並べ立てた。 「サンキュー」と外人は人なつっこそうな笑顔を久の方へ向けて、両手を大きく開き肩をすぼめて見せた。
「お客さん、随分英語が達者なんですね。商社へお勤めですか」と久の顔を剃っていた理容師が話かけてきた。 「いや、大したことはないよ。学生の頃、外交官を志したことがあってね、多少英会話の勉強をしたことがあるだけさ」 「それにしても大したものですよ。私なんかチンプンカンプンで、何を言っているのかさっぱり判りませんでしたよ。お蔭で助かりました。あれだけ英語が喋れれば一人で外国へ行っても不自由しないでしょうね」 「それが残念ながら、外国へは台湾にしか行ったことがないんでね。でも英語なんてものは、心臓で喋るようなものだと思うよ。外人をみかけると誰彼となく話しかけてみると結構通じるものだよ。ジェスチュアーを交えながら単語を並べるだけで意思は通じると思うよ」
「そうなんですってね。私の友人で鉄工関係の仕事をしている人が横浜にいるんですがね、東南アジアへ工場の建設のために、若い職人を連れてよく出張しているんですよ。その友人が外国語は心臓で喋るものだということを言っていましたよ。何でもその友人は中学を出るとすぐ鍛冶屋の職人になって日本国内のあちらこちらの工場建設をやって歩いたらしいんですが、外国へ行ってみたいと思っていたそうです。ある日、タイで工場建設の仕事があるから行ってみないかと仲間から誘われたので二つ返事で行くことにしたそうです。まだ外国へ行くのは珍しい時代だったので、親兄弟は英語も喋れないのに外国へ行くのはやめろと反対したそうです。ところが、その友人は手真似足真似でも意思は通じる筈だと頑張り通して、タイへ二年も行って来たそうです。確かに最初は不便を感じたそうですが、心臓強く体当たりでやっているうちに英語とタイ語が喋れるようになったということですよ。今ではそのことが箔になって、まだ30歳そこそこだというのに職人を30人も使って請け負い工事をやっているそうです。請け負い工事というのは儲かるそうですね。その友人は最近、いい所に土地を買って立派な家を建てたらしいですよ。車なんかでも凄い外車に乗っていますよ」 理容師は話好きらしく、我がことのように得々と喋っている。
「へぇー、建設関係の仕事というのはそんなに儲かるのかねぇ。私なんか一生働いたって、自分の家なんか建てられないかもしれない」 「今は建設関係はいいらしいですね。その友人の話だと電気熔接工とか配管工、鳶工などの職人は一日の日当が五千円もするんだそうです。私なんかももう少し若ければ、理容師なんか止めて熔接でも覚えて商売替えしたいですよ」 「へぇー、技能工の賃金は高騰したとは聞いていたけれど一日五千円もとるのかねぇー」 久は頭の中で自分の給料を日当に換算してみるとその半分にも満たない。 「だから、最近ではメーカーの工員なんかで会社勤めを辞めて職人になる人が増えてきたんですってね」 「なるほどねぇ、そんなに日当が高いのなら、流れ作業なんかに従事しているより、余程面白いから、若い人達は転職するだろうね」 「また職人の世界というのが面白いんですね。腕のいい職人はあっちの親方こっちの親方というふうに渡り歩いて腕を磨いていくんですね。そして独り立ちすると若い衆の何人かを使って請け負い工事をやって儲けるんだそうです。その友人なんか、外国へ行ってきて英語も喋れるというんで、あちこちの大手のプラントメーカーから引っ張りだこだそうですよ。確か又近いうちにイランへ行くとか言っていましたよ」 「ふうん、建設労働者の世界を研究してみる必要があるなあ」 「すると、お客さんは人事関係のお方ですか」 「そうなんだよ。硝子会社の人事をやっているんだけど、人が集まらなくて困っているよ。最近では手と足さえついていれば、どんな人間でも採用したいくらいの気持ちだよ」
久は散髪をして貰いながら、理容師の話を聞いているうちに職業意識が頭をもたげてきて、建設労働者の労働市場のことを調べてみなければならないなと思った。何にも束縛されないで気儘な一週間を過ごしてみたいと考えていたのに、何時の間にか自分の仕事と結びつけて話を聞いていた。 「お客さんの会社なら日本でも超一流の会社だから希望者はいくらでもいるでしょう」 「ところが、そうでないから苦労しているんだよ。何か人がうまく集められる方法はないものかねぇ」 「そうですね。今はどこも人手不足で困っていますからね。でもこれも又、その友人の話ですがね、石油会社や化学会社では年に一回は、定期修理工事というのをやるんだそうですが、どこで集めてくるのか、短期間に随分多くの人足を集めるそうですよ。何でも一ヵ月の間に、工場の装置を止めてしまって、点検修理する大変な仕事だそうですが、一ヵ月の間に、500人近い人間を集めるそうですよ」 「そんな芸当みたいな事が現実の問題としてできるのかなあ。夢みたいな話だよ」
久は自分がこれから採用しなければならない人間の数を思い出しながら言った。 「どんな方法で集めるのかはよく知りませんが、その友人のの話だと結構集めているらしいんですよ。いよいよ、集まらない時には、簡易宿泊所の近くの風来坊を連れてくることもあるそうですね」 その理容師の話に久は目を開かれる思いであった。建設業と製造業とでは業種業態に相違があるとしても僅か一ヵ月の間に500人からの人間を集めるという話は驚異であった。話半分に聞いたとしても、建設関係の業者の動員力は研究してみる価値があると思った。職人という言葉がしきりに使われているので、職人の労働市場も調べておく必要があると思った。
どうせ気儘な一週間を送る予定で貰った休暇なので、建設業の職人の世界へ飛び込んで、一ヵ月で500人集める仕組みを、調べてみようと思いついた。それには,自分で作業員になりすまして、建設現場へ入り込むことが一番手っとり早い方法だろう。
久は簡易宿泊所へ投宿して様子を窺うことにした。久は横浜にやってくると寿町の簡易宿泊街で福寿荘という看板を出している宿に旅装を解いた。立ち並んでいる簡易宿泊所の中でも小奇麗な感じがしたので福寿荘を選んだ。かねて港湾労働者や建設労働者は簡易宿泊所に起居しているものが多いということを聞いていたので、とにかく泊まってみようと思い立ったのである。 宿帳に松山一朗と記入して宿の主人に何か良い仕事があったら世話して欲しいと頼んでおいた。宿の主人は久の身なりを見ながら、意味ありげに頷いて久の頼みを聞いて部屋から出て行った。久のことを何かいわくのある人間だというふうに感じたらしい。やがて宿の主人は、屈強な体格で目つきの鋭い一人の男を連れてきて言った。
「松山さん、この人が犬山組の番頭さんで菊池というお方です。今関東石油の定期修理工事で人を探しておられるそうだ。よく話を聞いてご覧なさい」 久は一週間だけ仕事をしたいと言うと、菊池はそれでは明日、マイクロバスで迎えにくるから、作業服に着替えて、朝7時に宿の前へ出て待っていろと指示して帰っていった。日当は毎日仕事が終わって帰る時に千五百円を払ってやるということであった。 久には求人がこんなに簡単な手続きでてきることは驚きであった。
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無縁仏の来歴 1. 播磨平野の風物詩は塩田である。イオン交換膜を利用した製塩工場で塩が造られるようになってからは、あの広大な塩田にも所々住宅や工場が立ち並び始めていた。それでも未だ姫路近郊にある極東硝子高砂工場のだだ広い敷地の隣には、川を隔てて流下式塩田が涯てし無く拡がり、長閑な景色を作りだしていた。
塩田ののどかさとは対照的に、ここ極東硝子高砂工場の構内はショベルカーが蟷螂のようにショベルを持ち上げ、ダンプカーが慌ただしく出入りしている。整地の終わった一角には、クレーン車が鉄骨や機器を吊り上げており、ヘルメットをかぶった作業員達がせわしなく立ち働いている。クレーン車の隣には建て方の終わったスレート葺きの硝子工場の建物が威容を誇っている。
新鋭の硝子工場の建設現場から1・ほど手前の一角には古ぼけた耐火煉瓦工場がほこりにまみれて新工場を羨むかのようにみすぼらしく立ち並んでいる。
「今日は応募者は一人もありませんでした。明日は10時から梅田の阪神デパートの選考場へ行ってきます。あまりあてにしないで下さい」と部下の白石がハンカチで額の汗をぬぐいながら報告した。夏だというのに、煉瓦工場の粉塵が舞い込むので窓を開けることが出来ない。扇風機は徒に生暖かい澱んだ空気を掻き混ぜているだけである。
門川 久の執務している事務所は、事務所というにはあまりにもみじめな建物で木造の倉庫を改造した、台風が来る度に屋根が飛ばされやしないかと心配になるほどの代物である。
「そうか、今月はまだ10人しか採用出来なかったわけだね。九州の方は確率がいいようだね。矢吹君からは、昨日博多で3人応募者があったという連絡があったよ。こうなったら手と足さえ付いていればよしとしなければならないね」 門川 久は自嘲するように言った。
門川 久は大学を卒業すると極東硝子へ入社した。最初の任地は横浜の硝子工場であった。労務課に配属になり、一年半ほど労務管理の基本的な業務を実地に体験した。その後、定期人事異動で本社に転勤となり二年間人事企画の仕事に従事した。彼が本社で人事企画の仕事に従事している頃、日本は高度成長の波に乗っており、彼の会社も設備投資を積極的に行い、耐火煉瓦の単一工場であった高砂工場の構内の空閑地にカラーテレビのブラウン管用硝子バルブの製造工場を建設することになった。
カラーテレビは造れば造る程売れ、ブラウン管用バルブの増産を電気メーカーから求められ、シェアーの拡大を図って、次々に新鋭の設備を作る競争をしているかの如き観を呈していた。工場が稼働する一年前に門川 久はこの地へ転勤を命ぜられ、着任と同時に新しい工場の充員のために、西へ東へと走り回った。とにかく一人でも多くの若い従業員を採用することが使命であった。人事管理の高邁な理論も理想もそこでは通用しなかった。
人、人、人、集めることこそが会社における正義であった。しかも、極東硝子の作業は三交代勤務であり、高熱環境下作業である。作業環境はすこぶる悪い。今日3人採用したと思ったら次の日には5人辞めていた。いくら採用しても人数は増えなかった。若い労働者は少しでも賃金の高い会社へ移動していく。就職支度金欲しさに応募してくるずるい者もいた。
組合は新工場の稼働を目前に控えて、人数が増えるどころか逆に少なくなる現状に対して、定員制を盾にして激しく会社の無策振りを攻撃してきた。
「現有設備の定員さえ、満足に確保できていないのに、新設工場の人手は確保出来るのか」 「定着対策をもっと充実させなければ、いくら人を採っても、辞めていく人間が多くて会社の充員活動は徒労に終わるのではないか」などと言うのである。
一方、新工場臨時建設部の担当者は、半年後の稼働を目前に控えて、新規労働者の訓練をしたいから早く人を入れてくれと催促してきている。
久は労務課の充員担当者として針の筵に座らされているような気持ちでこれらの言葉を毎日聞いていた。そのうえ、基幹要員を九州の工場から受け入れるための集団転勤の仕事も忙しさに拍車をかけた。受け入れ施設を整えるために鉄筋アパートも5棟建設中であり、建設業者との打ち合わせが毎日行われる。
地域の住民からは、日照権についての苦情もくる。やっと地域住民との応接を終わって、帰社すると会社を辞めたいから話を聞いてくれと言って、若い従業員が久の帰りを待っている。労務課の若手の係員はそれぞれに、九州,四国、山陰へと人の募集に散っているから、いきおい、久が一人一人と応対して、ダメと判りながらも説得しなければならない。欠員の補充さえ十分出来ない状況だから、無理な人員編成をして現場で怪我人が出る。怪我人が出れば、監督署へ届けたり家族との応対で余計な仕事が増えてくる。定着対策の一環として行っている若年層従業員のクラブ活動、懇親会という名目の宴会にも付き合わなければならないので、体が幾つあっても足りないと思えるのである。労務課員は課長、係長から係員の女子に至るまで過労気味であった。製造サイドは製造サイドで、新工場の建設と既存設備のフル操業のため忙しく立ち働いており,工場全体が一種の狂乱状態に陥っていた。
このような忙しい毎日の生活が続き、毎晩遅く疲れて独身寮に帰ってくると、久は自分は何のために働いているのかと自問してみるのであった。
新しい工場が稼働を開始すれば、今ほど雑用は多くはないであろうが、人の採用の仕事はもっと、増えてくるだろう。一体あと半年の間に新工場を動かせるだけの人員が確保できるであろうか。常に久の頭から離れることのない悩みであった。
新工場の編成人員は、500人でそのうち基幹要員として、九州から150人の集団転勤を受け入れることになっている。残りの350人のうち、150人は来年3月に高校を卒業してくる新入社員である。戦力として使えるまでには入社後、少なくとも半年はかかる。不足する200人は中途採用で充足しなければならないが、まだ、50人ほどしか採用できていない。あと150人集めることは不可能に近い。脱落する者を考えれば、300人は採用しなければ安心できない。6ケ月間に300人採用するとなれば、毎月50人宛である。ところが現実に、毎日採用面接を三箇所で行っているが、応募者の数自体が一日平均二人で、一ヵ月に採用できた人間は20人ほどである。とても無理な相談のように思われる。
久は何回か現在の労働情勢、雇用情勢についてレポートを書き、現在の生産計画、新工場の建設計画自体に充員の面で無理があるから計画の変更乃至は、世間相場を無視した大胆な労働条件の改訂、少なくとも賃金水準の全面的な改訂が必要である旨の報告を行った。しかし、新工場の計画通りの稼働は至上命令であり、労働条件の改訂は全社的な問題に波及するから出来ないというつれない回答を貰っただけであった。そして与えられた条件のもとで与えられた目的を達成するのは、社員の務めであり、腕の見せどころであるという冷たい補足がつけられていた。
久は、その年の自己申告用紙に再び現在の雇用情勢下では、現在の条件のままで、予定されている新設工場の予定通りの操業開始は雇用面で困難であるから、既設の工場から、集団転勤者の人数を増やすか、或いは操業開始時期を半年遅らせるか検討して欲しい旨を書いて提出した。
自己申告書は課長を経て本社の人事部長にに提出される建前となっているが、久の自己申告を読んだ課長は久を呼んで言った。 「門川君、君の気持ちはよく判るし、私自身、君の意見に賛成したい。だがね、サラリーマンというのは我慢が大切なのだ。君の自己申告を本社へそのまま提出したら、君の無能力振りを公表する結果となるよ。君が無能だとは僕は思っていないが、結果としてそういう評価になってしまうのだよ。考え直してみてはどうだ」
「課長、お言葉ですが今のままの状態が続いたら、この工場の管理部門の人は皆潰れてしまいますよ。まるで気違い沙汰じゃぁないですか。明けても暮れても、人、人、人。人を採用するためには、学校の先生に女まであてがってまるで女郎屋のやりて婆さんじゃありませんか。そのうえ、組合のダラ幹共と取引をして、攻撃の矛先を変えさせようとしたり、全く吐き気のする状況ですよ。そう思いませんか。こんなことになるのも、要は現在の工場新設計画に無理があるんですよ」久は堤防が切れたように喋りだした。
「君は若いな。もっとよく考えろよ。君は独身で家族がいないから無鉄砲なことが言えるけれども、この世の中は喰うか喰われるかなんだ。我慢してとにかく頑張るしかないんだよ。結果として人が集まらなくて、工場が動かなかったとしても、稟議経営のもとでは責任は分散されてしまうんだ。君がよしんば正義漢ぶって正論を唱えると、御政道を批判したことになって君の立場もなくなるし、第一、上司である私の立場が困るじゃぁないか。サラリーマンとはそのような宿命を持っているんだよ」
「課長、私はもう疲れたんですよ。皆も疲れているでしょう。言うだけのことを言っておかないとあいつは駄目な奴だったと言われるだけで終わりになってしまうでしょう」と久は反駁した。
「それは、言っちゃぁ悪いが、君の自惚れというものだよ。ごまめの歯ぎしりとしか聞いては貰えないよ。ここは忍の一字さ」と悟りきった顔で課長は言った。
「でも課長、今の工場の状態はまるで、気違い沙汰じゃあないですか。労務課員は人集めで皆疲れている。製造は増産に次ぐ増産の指令に追いかけ廻されている。臨時建設部は工期の短縮で疲れている。誰かが言わなければ工場全体がのびちゃいますよ。製造の作業員は定員割れのところへ増産を割り当てられ残業の連続ですよ。今に不満が爆発して大変なことになりますよ」 久はいい加減うんざりした顔になってきた課長になおも食い下がった。 「とにかく、工場新設計画の延期は絶対に出来ないことなんだから、黙っていたまえ。疲れたのなら一週間休暇をとりなさい。人間忙しい時ほど休養が必要なのかもしれないからね。もう一度だけ言っておくが、君の自己申告書は書き直したほうがいいよ」 課長はそう言い残すと席を立った。
久は釈然としないけれども自己申告書を書き直して提出することにした。 久は自己申告書を課長に指摘された通り書き直しながら、何というつまらない制度を会社は作ったのだろうかと思った。そもそも、久が本社で労務管理の勉強をしていたとき、得た知識から言えば自己申告は自分が会社に対して言いたいこと、聞いて貰いたいことを素直に書くところにその本来の趣旨があった筈だ。久は本来の制度の趣旨に則って言いたいことを書いたのだ。ところが課長は書き直しを命じた。建前と本音の乖離。日本的発想の形式がここにあった。本音は決して正面切って打ち明けてはならないのである。正論として吐くのはあくまで、建前の議論でなくてはならない。本音は胸の奥底に秘かにしまっておいて心ある人に察してもらうしかないのである。何という非合理な表現の形式であろうか。本音を察して貰える人があればよいがもし上司に鈍感な人がいて本音を察して貰えず、建前の議論をま正直に受け取られたとしたら何という滑稽な悲劇がそこに起こることであろうか。
久は自己申告用紙に次のように書いて提出することにした。 『現在当工場は建設の槌音も高く、新鋭工場の早期稼働に向かって、臨時建設部、製造部、労務部ががっちりスクラムを組んで多忙を極めている。現在の雇用情勢下にあっては、短期間に500人の編成人員を充員することは至難のことであるが、当工場の使命の重大さを考えるとき、泣き言を言っている場合ではない。何としても工場が稼働を開始するまでには、目標の500人を揃えるべく、求人活動を精力的に展開している。当工場における労務部の使命は充員を一日も早く完了することであると認識している。』
久は白々しい気持ちで、以上のように書き終えると我ながら抽象的で中身のない文章だなと思うのである。久は書きおえた自己申告書を封筒に入れて課長に提出すると、一週間ほど休暇を戴きたい旨申し出て休養することにした。
人、人、人に明け暮れて過労気味だったので、一週間の自由な時間は限りなく貴重な時間だと思った。
仕事を離れてホットした時、頭の中へヒョコッと浮かんだ想念がある。この想念は夏の空に突然わきでた入道雲のようにむらむらと大きく勢いを得て久の頭の中一杯に拡がった。煩わしい人間関係から抜け出して、責任も何ももない気儘な生活をしてみたいという願望にも似た想念である。
これから一週間という自由な時間を気儘に過ごしてみようと思い立った。 久は独身寮の管理人に一週間程休暇を貰ったので実家へ帰ってくると言い残して鞄一つを持って寮を後にした。
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2005年09月12日(月) |
三村一族と備中兵乱47(完結編) |
十四、甫一検校 検校にまでなった甫一という座頭の琵琶法師と中村吉右衛門という乱舞の芸者は、元親が松山城に籠城していると聞いて遠国から尋ねてきて難儀しながら松山城へ忍び込み日頃の恩に感謝した後、馬酔木門より帰ろうとしたところを悪党どもに見つかり殺されてしまった。と備中兵乱記には特記している。 十五、勝法師丸 三村元親の嫡男勝法師丸と石川久式の嫡男を備前国の住人伊賀左衛門久隆が生け捕りにして本陣に移した。久式の子は備中国の宝福寺へ送られた。勝法師丸は生年八才であったが、容貌はなはだ優れ、書は他に並ぶものがないほど上手であった。四季折々に詩歌の会を催して心を慰め、栄華の日々を送っていたが今は敵方の陣屋に捕らわれの身となっていた。 昔、御醍醐天皇の八才の皇子が天皇と別れるのを悲しみ、 「つくつくと思ひ暮らして入相の鐘を聞くにも君ぞ恋しき」と詠まれた歌を思い出し、過ぎた昔の哀れな話を今こそ身にしみて感じていた。 久隆が本陣に送った時、惣金の扇に古歌を書いて勝法師丸へ与えたところ、扇を開いて「夢の世に幻の身の生まれ来て露に宿かる霄の稲妻」 とあるのを見て 「さては、本陣に行ったなら殺されるに違いない。今脇差しを持っていれば自害するのに」 と後悔するのを見て、人々は感涙を催し 「助けておいて出家でもさせるか」 と相談していた。 その時、また勝法師丸が、自分の見張りをしている侍に 「私が久隆に捕らえられて送られて来た時、途中で元の家人共に出会った。彼らは馬に乗ったままであり、君臣の礼儀を失っていると私は彼らに申した。背かれるほどの主人ではあるが、これほどの恥辱はない。おのおの方も前後におられるのに馬に乗ったままで行き過ぎるのは無礼であろう。どう思うか」 と話すのを聞いた人は皆舌を巻いて驚いた。 そこで、隆景にこのことを告げたところ、 隆景はそれを聞いて 「それほどの口才があるはずがない」 と思い、別人に尋ねたところ、本当のことであると語った。 「さては、助けておくと弓矢の種になる。事が難しくなるぞ」 と言って殺してしまった。 一家滅亡の時であり、実に哀れな話であった。 高梁市の頼久寺には備中の虎三村家親、備中兵乱の主人公三村元親の墓とともに勝法師丸の墓が並んで建っており、三村家三代が今は静かに眠っている。 完
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