前潟都窪の日記

2005年10月22日(土) ベチャの面2

「オッカァのことをオカァサマと呼んどるでぇ」
「先生ゴキゲンヨロシュウというのをわいは聞いたでぇ」
「こねぇだ、雨が降っとったじゃろう。せぇで,うちが傘にのせたぎょうか言うたらな、傘にノッタラ骨が折れるわよと言うんじゃぁ。うちゃぁ、もうおかしゅうて」
 清一は勉強はよく出来る方だったので、各学年とも三学期のうち少なくとも一学期間は級長になった。香織が転校してきたときは、先生のはからいで香織の席は級長の清一の隣に決められた。
 転校してきたばかりなのに香織は、清一達の知らないことをよく知っており、とても太刀打ちできない学力を持っていた。教室では良く勉強ができたが、まだ方言が喋れないので、遊び時間に悪童達から標準語を冷やかされると悲しそうな顔をした。

 香織が転校してきてから10日ほど経った日曜日に、清一達のクラスの主だった者5〜6人が香織の家へ招待され、遊びに行くことになった。清一達が誘い合って、工場の近くにある社宅群の中でもとりわけ立派な構えの香織のうちの玄関で
「御免せぇ」と案内を乞うと香織がでてきて
「ようこそいらっしゃいました。さぁどうぞお入り下さい」と大人びた物腰で招じ入れようとする。声を聞きつけて香織の母も現れ
「まあまあ、皆さんようこそいらっしゃいました。香織の母でございます。香織がいつもお世話になっています。さあどうぞ、どうぞ」とにこにこしながら迎えてくれた。
 清一は何と言っていいか判らず、慌ててピョコンと頭を下げた。清一に続いて健介、剛、京子、栄もピョコリ、ピョコリと頭を下げた。
 通された応接間にはピアノが置いてあり、書棚には世界文学全集や日本文学全集、世界の思想大全集等の本がぎっしり詰まっており、清一には読めない分厚い外国語の本も並んでいる。壁には羊飼いと羊の群れを描いた大きな絵がかかっている。清一はこれとよく似た絵を先生に連れられて大原美術館に行ったとき見たことがあると思った。天井には豪華なシャンデリアが輝いており、床には茶色の絨毯が敷かれ、赤い革張りの安楽椅子が幾つか置いてある。

 健介、剛、京子、栄も落ちつかない様子でもじもじしている。何時もと勝手が違って、部屋の雰囲気に圧倒され、よそ行きの顔をして畏まっている。「さあ皆さん、どんどん召し上がって下さいね。香織は末っ子だし転校してきたばかりなので、お友達もなく寂しがっていますのよ。皆さんに仲良くして戴いて、岡山の言葉も沢山教えて下さいね」と香織の母はケーキを勧めながら、清一達の顔へ笑顔を投げかけた。香織も慣れた手つきで紅茶を配っている。香織の母の視線が剛に移ったとき、剽軽者の剛は慌てて
「岡山弁はすぐ慣れますらぁ。わいら生まれたときから岡山弁で話しょうりますがぁ」というと
「まあ、剛さんは生まれたときから、言葉を話したの。ソリャァ、ボッケェナァ」と香織の母が岡山弁を混じえて言ったので皆どっと笑った。
 香織の母の巧みなリードで清一達は畏まった気持ちもほぐれ、平気で方言が喋れるようになった。秋祭りのこと、ベチャのこと、投げし針のこと、茸狩りのこと、蜻蛉釣りや蝉捕りのこと、凧上げのこと、藺草刈りや田植えの手伝いのことなどこの地方で清一達の日常生活の一部になっている行事や遊びのことを皆かわるがわる得意になって話して聞かせた。香織は特に祭りのベチャに興味を持ったようである。この地方に伝わる桃太郎伝説とベチャの関係を清一は請われるままに、乏しい知識を振り絞って説明した。
 清一の話しに目を輝かせながら聞き入っている香織の姿を清一はとても美しいと思った。
「清一さんは何でもよく知っているのね」と香織が感心したように言ってくれたので、清一は満足した。香織のうちへ遊びにきて良かったと思った。

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2005年10月21日(金) ベチャの面1

    ベチャの面              
                                   
 川の中に生える真菰の芽が枯れた茎の中から、新しい芽をのぞかせる頃になると、清一は田圃から粘土を採ってきて、ベチャの面作りを始める。ベチャというのは岡山県南部で藺草を栽培している地域の氏神様の秋祭りに、村中を闊歩する鬼のことである。
 清一は春の陽射しを浴びながら、濡れ縁に腰を下ろして、天理教の集会場を建設中の工事現場から拾ってきた40センチ角ほどの板切れの上に、粘土を置いて一心不乱にベチャの面型を作っている。竹のへらで目、鼻、口、牙眉を彫り込んでいく。傍らに置いた粘土を千切って団子にし、くっつけてみたり、外してみたりしては、出来るだけ恐ろしい形相のベチャに作らなければならないのだ。

 ベチャの面の良し悪しは、目、鼻、口がうまく作れるかどうかで決まってしまうので、この面型作りは大切な作業なのである。
 この地方では、小学校4〜5年位の年頃になると、男の子達はベチャの面作りに取りかかるのである。秋祭りがくるまで、自分がどのような面を作っているかは、親友にも内緒にしておくのが、子供の世界のしきたりとなっていた。兄のいる者は兄から兄のいない者は父からその作り方を教わり、友人から教わることは決してしなかった。

 粘土で満足のいく形相の面型が出来上がると、これを適当な水分が残るまで、陰干ししてから、石鹸水を面型に塗りつける。次に新聞紙を細かく切って、水に浸し粘土の面型の上に貼り付けていく。新聞紙を二重、三重に貼りつけたところで作業は中断しなければならない。一日置いて、今度は書き潰した習字の半紙を持ってきて、メリケン粉で作った糊を面型に塗りつけ、その上へ半紙を貼り付けていく。半紙を四重、五重に貼り終わったところで糊が乾くのを待って芯になっている粘土を取り除く。
 清一がベチャの面を独りで作ってみようと思いついたのは、清一のクラスへ昨年の暮れに東京から転校してきた香織に,手作りの面を見せて褒めて貰いたいという気持ちが働いたからである。
                                   
 香織の父は、東京に本社を置くS紡績早島工場の工場長として、この町に昨年秋転勤してきた。藺草を栽培したり、畳表を織ったりして生計をたてている者の多い早島町には、織機を修理する鍛冶屋か、せいぜい織機を20台ほども置いて、畳表を織っている従業員10名程度の町工場しかなかったので、一部市場に上場されているS紡績の早島工場のように従業員500人を数える工場の工場長は町の名士として遇された。
 香織は都会育ちの娘らしく、動作はシャキシャキしており、色白の顔は母親に似て美形である。変化に乏しい町の学校の常で、新参者の香織の一挙手一投足は好奇の的となった。とりわけ標準語を喋る香織の言葉は悪童達の好個の材料であった。



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2005年10月20日(木) 縁日の金魚鉢13(完結編)

 13.
                         
 田所刑事が夜店から持ち帰った金魚鉢の水と金魚からは青酸カリが検出された。木山みどりが落とした一万円札にも青酸カリ反応があった。
 青山刑事が尾行した木山みどりの連れの若い男は刑事に尾行されているとも知らず、横浜市内の高級住宅街へ帰って行った。青山刑事が尾行した青年は早坂工業と同業の工事会社の社長の息子で、将来社長になることが約束されている男であることが判った。早坂工業へ商談できたとき木山みどりを見初めて結婚を前提とした交際を始めて入ることも青山刑事の聞き込みによって確認された。田所刑事は捜査の過程で明らかになったことを頭の中で反芻してみた。
1)田代光一が青酸カリの服毒によって殺されたこと。
2)早坂龍一の秘書木山みどりが所持していた一万円札に青酸カリが付着していたこと。
3)田代光一と早坂龍一の間の山本太郎名義口座を媒体とした金銭授受関係。4)早坂が追突事故に遭い300万円を盗まれていながら崩せない早坂のアリバイ。
 反芻しているうちに一筋の論理が紡がれ始めた。
 田所刑事は纏まりかけた推理を裏付けるために、東京駅周辺の金物屋と鍵屋の聞き込みを精力的に続けた。一方青山刑事は木山みどりの12月7日前後の行動を調べることに精力を傾注した。
 捜査会議で田所刑事は自信に満ちて自分の考えを述べた。


「私は田代光一殺しの犯人は早坂工業の社長早坂龍一であると考えます。早坂龍一は自動車追突事故に遭って、300万円の大金を盗まれましたが、盗難の事実をひた隠しに隠しておりました。ところが過日、追突事件の犯人が大阪で捕まり、早坂から300万円盗んだことを自供しました。早坂もこの事実を突きつけられて300万円盗まれた事実は認めました。何故300万円もの大金を盗まれながら盗難届けを出さなかったのか。それは脱税で蓄えられた裏金だったからです。目下税務当局でも300万円の出所について調査に着手しましたのでやがてそのことははっきりするでしょう。
                                  
 一方被害者の田代光一は化粧品のセールスマンとして早坂の自宅にも出入りし、早坂の妻とも面識がありました。これは田代光一の顧客リストに早坂三智子という名前が載っていたことから明らかであります。世間話の過程で夫が自動車追突事故に遭遇したことを聞いた田代光一は、最初大して気にもとめていなかったでしょう。その後、続けて発生した京浜銀行を舞台とする追突乗り逃げ現金強奪事件の報道を目にした田代は、悪知恵の働く男だけに早坂の自動車事故だけが新聞に報道されなかった事実に疑問を持ちました。所轄署に問い合わせましたが、盗難届けが出ていなかったのです。
                                  
 手口が似た事件なのに早坂だけ現金を盗られていない点に着目した田代は何かいわくがありそうだと考えました。ロッキード事件で政治家や右翼の大物の隠し預金が世間の耳目を集めていた時なので、田代が早坂は裏金を盗られたのではないだろうかと見当をつけるのに時間はかからなかったと思います。もし早坂が裏金を盗まれているとすれば、ゆすりの材料になると考えた田代は一計を案じたに違いありません」
 田所刑事は手帳をめくりながら続けた。               
「追突事件の犯人になりすまして、ゆすることを考えたのです。田代が声色を使い電話で試しに早坂にゆすりをかけてみたところ反応があったのです。相手に正体を見破られずに金を受け取る方法として考え出されたのが、山本太郎という架空名義の預金口座を利用した振込とキャッシュカードによる現金の引き出しです。
                                  
 一回10万円のゆすりはゆする側にもゆすられる側にも手頃な金額だったと思われます。ところが田代の側に急にまとまった金が必要になることが発生したのです。商品取引で穴をあけた田代は12月10日の決済日までに百万円ほどの金を用意しなければならなかったからです。そこで田代は早坂を恐喝して金を巻き上げることにしました。
                                  
 一方ゆすられた早坂も、馬鹿のように金だけおとなしく差し出すほどのお人好しではありません。まして、相手は自分の脱税の事実を知っている男です。当然恐喝者を密かに闇へ葬ることを考えたのです」          田所刑事はここで一息つくと湯飲み茶碗をとって冷えた番茶を一気に飲み干してから続けた。
「田代光一殺しの犯人を早坂龍一であると想定した場合、今までネックになっていたのは、12月7日の午後5時から午後8時までの時間帯、つまり田代光一の死亡推定時間帯に早坂が西下する新幹線ひかり号の車中または名古屋駅前の料亭『しゃちほこ』にいたという事実です。このアリバイが崩せないために、早坂が田代を殺す動機を充分持ちながら早坂を犯人と断定することができませんでした」
「それではアリバイが崩せたのですか」駆け出しの服部刑事が目を輝かせながら聞いた。
「そうです。田代光一の死因は青酸カリの服毒による中毒死ですが、死体の傍に青酸カリを服毒するのに使われた容器もコップも残っていないし、青酸カリの入った食べ物の残りも発見されなかったので、田代を騙して青酸カリを飲ませた犯人が証拠を隠すために、きれいに片づけたというふうに我々は考えていました。従って田代が殺されたとき、犯人は田代と同じ場所にいた筈だという前提を暗黙のうちに作り上げて早坂のアリバイにこだわり過ぎていました。
                                  
 私は木山みどりが持っていた一万円札から、青酸カリが検出されたのを知ったとき、目を開かれる思いがしました。私は一つの仮説をたててみたのです。早坂龍一が田代光一からまとまった金額の金をゆすられたのを奇貨として青酸カリを塗布した札束を田代光一へ手渡したとしたらどうでしょう。札束は新券で用意されたに違いありません。札束を受け取った田代は花園マンションの自室へ帰り、青酸カリが塗布されているとも知らず、夢中になって指に唾をつけながら札束を数えているうちに毒が廻ってそのまま絶命したのではないでしょうか」
 一息ついて田所刑事は更に続けた。
「もしこの仮説が正しいとすれば、早坂は12月7日、東京発午後4時の新幹線ひかり号に乗車する直前に田代光一に何らかの方法で青酸カリを塗布した札束を渡したであろうと考えました。そうすると、金の受け渡し場所は東京駅ということになります。ところで金の受け渡しに銀行口座の振込という慎重な方法をとっている田代が早坂に顔を見せるような受け取り方をする筈がありません。
 そこで思いついたのがコインロッカーを使う方法です。コインロッカーの鍵を予め複製しておけば、コインロッカーの番号を指定するだけで、鍵の受け渡しなしにロッカーの中に置かれた札束を受け取ることができる筈です。コインロッカーを金の受け渡し場所に指定したのが、田代であるか早坂であるかは捜査してみなければ判りませんが、田代を毒殺する意図のある早坂にとっても、コインロッカーを利用して人知れず、凶器の札束を田代に渡すことは良い思いつきだった筈です。
 そこで私は東京駅周辺の鍵屋、金物屋の聞き込みをしてみました。すると12月6日の日に田代とおぼしき男がコインロッカーの鍵の複製をしていたことを突き止めたのです。早坂は完全犯罪を狙って名古屋行きのアリバイ工作をしたものと思われます。早坂が新幹線ひかり号の車中若しくは『しゃちほこ』に着いた頃、田代が札束を前にして中毒死するという筋書きだったのです」
「なるほど、見事な推理ですね。だが、田代の部屋から毒を塗った札束が発見されなかった事実をどう説明されるのですか」
「それは、木山みどりが、花園マンションの田代の部屋を訪れ、死体の前に投げ出されている札束を着服し、素知らぬ顔で逃げ出したと考えれば、簡単に説明がつきます。浅草のほうづき市で木山みどりが青酸カリの塗布された一万円札を持っていたことに不審を持った私と青山刑事は田代光一と木山みどりの素行を調べてみました。驚いたことに木山みどりと田代光一とは密かに交渉を持ち肉体関係を結んでいることが浮かび上がってきたのです」
「田代のプレイボーイ振りは既に調査済でしたから、田代が行きつけのモーテルや連れ込み宿を中心に木山みどりと田代光一の写真を持って聞き込みをしたところ、相模原のモーテル『相模』の授業員がこのアベックには見覚えがあると証言したのです」
「田代と木山が密接な関係を持っているとすれば、木山みどりが青酸カリの塗布された一万円札を持っていた事実がうまく説明できます。つまり、商品相場で大穴をあけた田代は早坂から金をゆする一方、木山みどりにも無心をしたものと思われます。田代から言葉巧みに窮状を訴えられた木山は、惚れた女の弱みから金を用意して花園マンションを訪問したのです。部屋の鍵は予め、田代から予備鍵を預かっていたことでしょう。
 合鍵を使って部屋へ入った木山がそこに見たものは、札束を前にして中毒死している田代の死体であり、最初びっくりした木山みどりも目の前の手の届くところに投げ出されている札束をみて、邪心を起こしたのです。田代とは人目をはばかって密会していましたから二人の関係は誰にも知られて居ません。木山は札束を着服して逃げても自分が疑われる心配はないと考えました。預かっていた鍵に石鹸をつけて丁寧に洗ってから、田代のポケットへいれました。木山みどりには一つの計算があったと思います。部屋への出入りは誰にも見られていませんから、合鍵をポケットに入れておけば、捜査陣の目を誤魔化せると考えたことでしょう。我々も田代と木山のつながりは全然知らなかったのですからね。ところが、まさか札に青酸カリが塗ってあろうとは気のつかなかった木山は、浅草のほうづき市で盗んだ一万円札を金魚鉢の中へ落としてしまい、今回の殺人事件の謎を解く手掛かりを我々に提供してしまったのです」
 田所刑事はうまそうに煙草の煙を吐き出しながら説明を終えた。早坂龍一は殺人容疑で、木山みどりは窃盗容疑で逮捕された。凶器に使われた一万円札は、木山みどりの財布の中から二枚見つかった。木山みどりの預金通帳に12月10日付けで90万円預金されていることも確認された。裏付け証拠が次々に集められ、突きつけられて早坂龍一は田代殺しの犯行を認めた。
 窃盗容疑で逮捕された木山みどりは次のような供述をした。      
「私は田代さんと手を切りたいと思っていました。最近、工事会社の社長の息子さんと交際を始め、プロポーズされました。もし田代さんと関係のあったことが判ったら、この話は壊れてしまいます。たまたま、田代が商品相場で大穴をあけて金策に頭を悩ませているのを知りました。私にも金を貸して欲しいと言って来ましたので、かねて用意しておいた青酸カリを紙袋に入れて田代の部屋を訪れました。田代は札束の勘定に夢中になっていました。田代が水を飲みたいと言うので、私は丁度よい機会だと思い、青酸カリを入れた水を田代に渡しますと田代は一気に飲み干し、やがて苦しみだして間もなく死にました。証拠を残さないように後片付けをして、合鍵を田代のポケットへ入れ、札束をハンドバッグに納めて、誰にも見られないように部屋を出ました。まさか札束に毒が塗ってあり、私よりも前に田代に殺意を持っている人がいたとは夢にも思いませんでした。しかもそれが早坂社長であるとは全然知りませんでした」
 田代光一の殺人事件は落着したが、早坂龍一の札束に塗った青酸カリが直接の死因となったのか、それともコップの水に入れた青酸カリが直接の死因になったのかは判定の難しい問題として残された。
 第一の問題は田代が札束を数えるとき、指に唾をつけながら数えたかどうかということ。
 第二の問題は田代が札束をかぞえるとき、指に唾をつけながら数えたとして、指先についた青酸カリが人を殺すだけの力があるかということである。もし致死量に達しないとすれば、早坂は明らかに田代に対して殺意を持ちながら実行行為において不能な犯罪ということになり、木山みとりが田代を直接死に追いやった加害者ということになる。
「早坂という男は、悪運の強い男ですね」と田所刑事は、裁判の結果を予測するように青山刑事に言った。
「国税局が活躍し、彼を裸にするのを期待して待つしかないのかもしれませんね」
 青山刑事は自嘲するように応じた。 


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2005年10月19日(水) 縁日の金魚鉢12

12.
                         
 田代光一殺人事件の容疑者として早坂龍一が捜査線上に浮かびあがりながら決め手がないままに時間が徒過していった。
 捜査陣に焦燥の色が濃くなり始めた頃、事件解決の手掛かりとなるような事件が発生した。
 大阪で追突事故を装った自動車乗り逃げ事件の現行犯で犯人が捕まったのである。阪南銀行のお客が現金を引き出して自動車に乗り、交差点で信号待ちをしている時、後続の車に追突された。追突された車のお客が降りて後部の損傷箇所を調べているうち、犯人に車を乗り逃げされた。この時、たまたまこれを目撃した後続の個人タクシーの運転手が追跡し、車内無線で配車本部へ通報したため、高速道路の入り口で待機していたパトロールカーに捕まったのである。横浜で起きた同種の事件と手口が類似していることから横浜中署に照会があった。
 横浜中署で天川、佐藤に犯人の顔写真を見せたところ、横浜で発生した事件の犯人と同一人であることが確認された。大阪で捕まった犯人は余罪を追求され、簡単に自供した。犯人は早坂の車を盗んだ時、300万円の現金も盗んだと供述した。
 早坂龍一は横浜中署に任意出頭を求められ、大阪で捕まった犯人の顔写真を見せられ、確認を求められたが、早坂が車を盗まれたときの犯人とは似ていないと証言した。
 しかし、犯人が早坂の車を盗んだ時300万円の現金も車の中にあり、松山という名宛人の計算書が一緒に入っていたと自供しているということを聞かされ、早坂も観念したのか、事件当日京浜銀行で300万円の無記名式定期預金を松山の印で満期解約し、これを盗まれたことを渋々認めた。
 田代光一殺人事件捜査本部では、五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座を媒体として、早坂龍一と田代光一の間に金銭の授受があったと断定し、早坂を厳しく追求した。最初は坂元高志、富士川健一、仲河 勉などという名前を使って山本太郎宛に銀行振込をした覚えはないと主張していた早坂も左手で坂元という字を書いてくれと捜査員から求められたとき、がっくりと肩の力を落とした。早坂が左手で書いた坂元高志という署名は、筆跡鑑定したところ、銀行振込依頼書に残されていた筆跡と同一人のものであるという判定であった。更に山本太郎名義で作られていたキャッシュカードの暗証に使われていた四桁の数字は早坂龍一の生年月日と同じであった。早坂は渋々坂元高志、富士川健一、仲河 勉の名義を使って山本太郎宛に銀行振込したことを認めた。
「刑事さん、私も男ですから妻に内緒の浮気の一つや二つはあります。あいにくそのことを田代に嗅ぎつかれて、妻に知らせるぞと脅かされたので小遣いを与えたのですよ。人を殺すなんて大それたことは神に誓ってしておりません。田代光一の死んだ時間には私は名古屋に居たんですよ。名古屋にいる人間がどうして、東京で殺人事件を起こすことができるんですか。これだけは信じてください」
 早坂は取り調べに当たった田所刑事にアリバイを主張した。捜査本部では早坂を重要人物と睨みながら、早坂の主張するアリバイが崩せなかった。裏付け捜査によって早坂の主張通り、12月7日午後4時東京発の新幹線ひかり号で早坂は名古屋へ赴き、名古屋駅前の料亭『しゃちほこ』で得意先を接待していた事実は確認された。
 師走の寒い時期に発生した田代光一殺人事件は早坂龍一に容疑がかけられながらアリバイが崩せず、未解決のままいつしか夏祭りの時期を迎えた。
 久し振りに定時に退勤した田所刑事は近くのアパートに住む青山刑事と家庭サービスのつもりで、子供達を連れて浅草のほうづき市へ出掛けた。子供達は、一年に数えるほどしかない父親との外出に、喜んではしゃぎ廻っている。
「お父さん、金魚掬いしてもいい」
「ああ、いいとも」
 田所刑事は青山刑事と顔を見合せながら微笑んだ。人垣の後ろから覗き込むと子供達は一所懸命に金魚を追っ掛けている。
「お客さん、細かいのはないでしょうか。お釣りがないんですよ」
「困ったわ。これしかないのよ」
 浴衣姿の若い女性が一万円札を出して、金魚屋の親父とやりとりしているのが目に入った。どこかで見た顔だなと田所刑事が考えていると、熱心に金魚を追っていた田所の子供が急に立ち上がった。立ち上がったひょうしに頭が浴衣姿の若い女性の伸ばした右腕にぶっつかった。
「あらっ」
 見ると一万円札が手から離れて、折からの風にあおられてひらひら舞いながら、傍らの金魚鉢の中へ舞い落ちた。人混みを掻き分けながらその女性は金魚鉢へ近づいて一万円札をつまみあげた。              
 その時、異変が起きた。                      
 同時に田所刑事はその女性が早坂工業の総務課の木山みどりであることを思い出した。今まで金魚鉢の中で元気に泳いでいた金魚が二尾、白い腹をみせて浮き上がってきたのである。
「おかしいなぁ。さっきまで元気だったのに」             
 金魚屋の親父は首をかしげながら怪訝な顔をしている。
「お嬢さん、その一万円札を両替してあげましょう」
 田所刑事は五千円札一枚と千円札五枚を取り出して木山みどりに渡した。
「あらっ、刑事さん。今晩は。どうもありがとう」
 木山みどりは千円札を一枚金魚屋の親父に渡すとビニール袋に入れて貰った金魚を受け取り、連れの若い男を促してそそくさと帰っていった。
 田所刑事が青山刑事に耳打ちすると青山刑事はうなづいて、木山みどりと連れの若い男の後ろ姿を見え隠れに追いかけて行った。
「つまらないな。もう帰るの」                    
 子供達の抗議をよそに、田所刑事は金魚屋の親父から先程一万円札の舞い降りた金魚鉢をそっくりそのまま譲り受けると帰路を急いだ。寸暇を家庭サービスに割いている父親の顔から刑事の顔に変わっていた。青山刑事のアパートへ子供を届けてから田所刑事は自宅で青山刑事から電話のはいるのを待っていた。
      

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2005年10月18日(火) 縁日の金魚鉢11

11.
                         
 田所刑事が聞き込んできた情報が捜査会議で検討され、早坂の身辺が洗われることになった。早坂をマークした捜査員達はまず、京浜銀行横浜支店の支店長横山文蔵を訪問した。横山文蔵は捜査員の追求にもかかわらず頑として早坂が追突事故に遭った日、本人は預金の引き出しはしていないと言い張った。
 事件当日の伝票を捜査員達はチェックしてみたが、早坂工業名義、或いは早坂龍一名義での預金の払い出しは事実行われていなかった。しかしながら膨大な枚数の伝票をチェックした捜査員は、無記名定期預金300万円が当日松山という届け出印で満期解約されていることを突き止め横山文蔵を問い詰めた。
「この無記名式定期預金300万円を解約したのが早坂龍一氏ではないのですか」
「断じて早坂さんではありません」
「それでは誰ですか」
「松山さんです」
「名前は」
「聡一です」
「本名は」  
「松山聡一という以外は判りません」
「住所は」
「鶴見区生麦です」
「番地は」
「番地は判りません」
「本名も住所も特定できない人に300万円もの大金を渡すのですか。銀行というところは面白い所ですね」
「刑事さん。無記名式定期預金というのはそういうものです。満期日に証書と届出印を持参したお客さんには、支払いを拒絶する理由がありません。これが中途解約ですと銀行としても住所氏名を確認しなければお金を渡すことは出来ませんがね」
 取り調べにあたった捜査員は無記名式定期預金という制度の壁に阻まれて松山聡一なる人物が早坂ではないかという疑念を持ちながらも確証をつかむことができなかった。
                      
 一方密かに、早坂龍一の顔写真を入手した捜査員は、東都銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店へ赴き、9月15日、10月1日、11月5日に送金係の窓口で執務した行員を集めて貰った。早坂龍一の顔写真を見せてこの男を窓口でみかけなかったかと聞いてみたが、いずれも記憶は曖昧だった。
 他方、早坂龍一の筆跡を入手した捜査員は東邦銀行銀座支店、千代田銀行神田支店、邦国銀行川崎支店で入手した坂元高志、富士川健一、仲河 勉の送金依頼書の筆跡とを鑑定して貰ったところ、似てはいるが必ずしも同一人とは断定できないという報告を受けた。早坂工業で聞き込みを行った捜査員は、総務課の木山みどりから「山本太郎」と名乗る男より,早坂宛に電話がかかってきたことがあるという事実を聞き出してきた。
 集まった資料から早坂龍一を田代光一殺しの容疑者とするにはまだ不十分であったが、田所刑事は早坂龍一に会ってみる必要があると判断した。田所刑事は早坂工業を訪ねて早坂に面会を求めた。来意を告げると田所は応接室へ通された。
「早坂さん、山本太郎という人物をご存じないでしょうか」
「知りません」
「電話で話をしたことはありませんか」
「さあ、記憶がありません。山本太郎という人がどうかしたのですか」
 早坂は怪訝な顔をして田所に聞いた。
「実は毒殺された疑いがあるのです」
「ほう、それでそのことが私とどのような関係があるのですか」
「殺される前に山本太郎があなたに電話をかけているのです」
「この私に」
「そうです。思い出して頂けませんか。捜査の手掛かりにしたいのです。あなたの秘書の木山みどりさんは山本太郎の電話をあなたに取り次いだ覚えがあると言っていますよ」
 早坂は暫く考えていたが、
「そういえば、山本太郎という名前の男から電話がかかってきたことがあります。今思い出しましたよ」
「いつころですか」
「そうですね。あれは昨年の秋だったと思いますが」
「どんな話をなさいました」
「何でも、保険会社の調査員とかで車の事故のことで聞きたいことがあるというようなことだったと思います」
「車の事故と言いますと」
「昨年の秋私の車が追突されて乗り逃げされたことがあるのです。車は翌日乗り捨てられていましたが、後部のバンパーが凹んでいました。この修理を保険でやらせたものですから、そのことについて聞いてきたのです」
「山本太郎にその件で会われましたか」
「いえ、会っていません。山本太郎の顔を見たこともありません」
「それでは山本太郎に銀行振込でお金を送金したことはありませんか」
「ありません」
「昨年の12月7日午後8時にはどこにおられましたか」
「刑事さん、私がその山本太郎を殺したとでもいうんですか。とんでもない話だ」早坂は気色ばんで答えた。
「まあそう怒らないで下さい。刑事というものは職業柄、誰にでもアリバイを確かめるという悪い癖があるんですよ。参考までに聞かせて下さい」
「12月7日というと大詔奉戴日の前日ですね。その日は名古屋にいましたよ」
「そのことを証明してくれる人がいますか」
「勿論いますよ。名古屋の『しゃちほこ』という料亭でお得意さんの接待をしていましたから」
 早坂は待っていましたと言わんばかりの口調で答えた。田代光一の服毒推定時刻は、12月7日の午後5時から午後8時までの間の時間帯である。この時間帯に早坂が名古屋で飲んでいたとすると、田代光一と早坂は接触していないことになり早坂のアリバイは成立する。
「名古屋へ行かれたのは何時ですか」                 
 田所刑事は諦めきれずになおも食い下がった。
「12月7日の午後4時発の新幹線ひかり号に乗車しました」
「それは東京駅からですか」
「そうです」
 東京発午後4時の新幹線ひかり号はダイヤの乱れがなければ午後6時過ぎには名古屋駅に到着している。早坂の主張に偽りのない場合、田代が青酸カリを服毒したと推定される12月7日午後5時から午後8時までの時間帯に早坂は西下する新幹線ひかり号の車中か名古屋の料亭『しゃちほこ』に居たことになる。
「ところで坂元高志、富士川健一、仲河 勉という人物をご存じありませんか」 
「さあ、心当たりありません」
 田所刑事は早坂龍一の表情を注意深く観察していたが、心なしか一瞬、強張ったのを見逃さなかった。田所刑事は早坂龍一が田代光一殺人事件の鍵を握っている有力な人物であるという心証を得たが、アリバイの壁に阻まれて決定的な追求ができなかった。


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2005年10月17日(月) 縁日の金魚鉢10-2

京浜銀行横浜支店からの帰りに車を追突され、乗り逃げされたことがあるでしょう。そのときの犯人と似ていませんか」
「違いますね」
 田所刑事は第一の推理が外れていたことを確認した。田所刑事は、この事件を扱っている横浜中署へ行けば何か手掛かりが得られるかと考え、横浜中署を訪問した。たまたま桑山刑事が在署していて快く応対してくれた。
 田所刑事は事件の概要をかいつまんで説明した上で、五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座に坂元高志、富士川健一、仲河 勉の名前で振込がなされ、キャッシュカードで引き出されていることを説明した。そして山本になりすました田代が乗り逃げ犯人をゆすり、ゆすられた犯人は坂元高志、富士川健一、仲河 勉という偽名を使って金を山本太郎名義の口座へ振り込んだのではないかと考えてみたと付け加えた。
「なるほど、預金の預け入れも払い出しも何故か顔を見られたくない人達がやっているという臭いがしますね」
「どうです。何か乗り逃げ事件に関して、この預金通帳と結びつきそうな資料はありませんか」
「そうだ。田所さん、今思い出したことがありますよ。実は天川、佐藤事件が起きる前にやはり、同一犯人の犯行と思われる追突乗り逃げ事件が別にもう一件発生しているのです。被害者は早坂工業の社長なのですが、金品はとられていないのです」桑山刑事は番茶を田所へ勧め、自分も飲みながら言った。
「ほう、やはり銀行の帰りに起きた事件ですか」田所刑事は目を輝かせた。「そうなんです。京浜銀行の横浜支店からの帰りに起きているのです。車の盗難届けだけは出されたのですが、その他の被害届けが出されていないのです。我々も連続して起きた似たような手口の事件なので、車以外に金銭を盗まれたのではないかと思って、早坂本人と京浜銀行横浜支店の支店長にも聞いてみました」
「それで」
「ところが早坂は車以外には何もとられなかったと断言しましたし、支店長も当日、早坂は融資の打ち合わせにきただけで、金は下ろさなかったと証言しているのです」
「なるほど、変ですね。早坂が金を盗られたことを人に知られては困る事情が何かあったとするとどういうことになりますかね」
「オーナーの事業家ですから裏金かも知れませんね」
「裏金とすれば脱税の金ですね。これは警察には知られたくないでしょう。そのことを田代が嗅ぎつけてゆすりをかけていた。これは、田代が殺される動機にはなりますね」
 田所刑事は目の前の黒雲が一挙に飛び去った気がした。田所刑事は早坂という名前をどこかで聞いたと思ったがどこで聞いた名前であるか思い出せなかった。


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2005年10月16日(日) 縁日の金魚鉢10

10.
                         
 渋谷中央署の田代光一殺人事件の捜査本部では、謎の人物ミスターXの正体を探りだそうと刑事達が懸命の聞き込みを続けていたが、めぼしい手掛かりは得られず、捜査員達に焦りの色が出始めていた。
 田所刑事は、初動捜査において現場の観察に何か見落としがあったのではないかと思い故人の霊前に線香を供えるという口実で、田代の遺骨が引き取られた実家を訪問することにした。

 富士山麓の静かな町に田代の両親は健在だった。
「刑事さん。よく来て下さいました。あの子は女運に恵まれず不幸な子でした」頭髪に白いものが目立つ老母は、目に涙を浮かべながら、田所刑事を仏壇へ導いた。線香を供えて仏前に額づいてから田所刑事は田代の遺品をもう一度見せて貰えないかと頼んだ。
「ええ、いいですとも。是非見て下さい。一日も早く犯人を捕まえて下さいよ、刑事さん。あの子の荷物はそっくりそのままあの子が学生の頃勉強していた部屋に置いてありますから」                    旧家らしく、広い庭の母屋の隣りに離れ座敷があり、花園マンションから運んできた田代光一の遺品が置かれていた。
 田所刑事は、本棚からアルバムを取り出してページをめくってみた。アルバムは学生時代のスナップ写真集4冊と新婚生活時代のものらしい写真集3冊にはいずれも一葉ずつ丁寧に脚注がつけられていた。

 田所刑事がアルバムを見ていて興味を持ったのは、車の写真が沢山貼ってあることだった。田代自身が運転していたり田代の妻が運転していたり夫婦で車の前に立っていたりした。中には、車だけを写真にしているものもあった。そして色々な車種のあることが田所の注意を引いた。田代は車にかなり興味を持っていたことが窺えた。
 書棚には新聞の切り抜き帳が置いてあった。スクラップブックにも車をテーマにした記事の切り抜きが多く貼ってあった。新車の発売ニュース、モデルチェンジの記事、車をテーマとした随筆、日本の車が地球一周ドライブをした記事が目についた。相当車に興味を持っているなと思いながらページを繰っていた田所刑事はあるページで目をとめた。そこには異質の記事が貼ってあったからである。

 京浜銀行横浜支店のお客が銀行帰りに車に追突され、車を乗り逃げされたうえ,現金を強奪されたという記事であった。車をテーマにした記事の中でもこの記事だけが趣味娯楽のカテゴリーに入らない犯罪に関係するものであるところに異質性が認められた。自動車に興味を持っていた男と自動車を利用した犯罪、何か関係がありそうであった。この記事が田代の死とどう結びつくか検討はつかなかったが、捜査の手掛かりにはなりそうに思えた。

 田所刑事はスクラップ記事を何度も読み返しながら、幾つかの推理を試みた。
『もし田代が記事に出ている追突乗り逃げ事件の犯人だとした場合には、被害者の天川啓吉にしろ佐藤浩にしろ、田代を憎いと思うだろう。田代を捕まえたら警察べ突き出すなり、盗られた金を取り返すことを考えるだろう。何らかの方法で田代が犯人であるということを突き止め、田代と金を取り返す交渉をしていて話がもつれ、殺してしまったとしたらどうだろう。しかし,この場合殺してしまうほどの動機にはなりにくい。それでは田代が乗り逃げ事件の犯人を知っていて、犯人をゆすっていたとしたらどうだろうか。このときには、犯人は田代を殺そうと考えても不自然ではないな』

 田代光一の実家からの帰路、田所刑事は天川啓吉を訪ねて質問をした。
「天川さん。この写真の男に見覚えはありませんか」
「さあ、見たことがありませんなあ」天川は写真を何度も見てから言った。    

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2005年10月15日(土) 縁日の金魚鉢 9

 9.
                         
 翌日、昨日と同じ時刻に山本太郎から直通電話がかかってきた。
「社長さん、一寸お金のいることが出来ましてね。10万円ほど貸して戴きたいのですが」
「一体、君は何者だ。縁もゆかりもない者に金を貸す程裕福ではないよ」
「御冗談を。私は山本太郎ですよ。もうお忘れになったのですか。盗られても惜しくないお金を沢山お持ちのくせに」
「一体何の話だ」
「京浜銀行からお帰りの途中、一寸車を拝借したでしょう。あの節はお土産を沢山戴きましてどうもありがとうございました」
「それでは、君は・・・」
「そうです。山本太郎です。どうです、10万円貸して戴けませんか」
「ゆする気か、変な真似をすると警察へ突き出すぞ」
「社長さん、それはないですよ。警察や税務署に知られるとお困りになる事情がおありになるのではないでしょうか」
 言葉使いがいやに丁寧なのが、早坂の神経をいらいらさせる。弱みを握られている人間は、ゆすりたかりには抵抗力がない。まして相手の正体がはっきりしない場合には極度の不安に陥る。早坂は山本太郎が警察や税務署に連絡すると困るだろうと言った言葉にこだわった。相手は盗られた金の秘密について何か知っている。どの程度まで知っているかが判らないだけに不安が嵩じた。
「よし、電話では話が面倒だから会社へ来てくれ。会って話がしたい」
「社長さん、お互いに警察と税務署は怖い身の上です。10万円を今日中に五菱銀行新宿支店の山本太郎名義の普通預金口座3679へ振り込んで置いて下さい」
「もし嫌だと言ったら」
「そのときは、社長さん。あなたの隠し財産が国庫に帰属することになるだけですよ。いいですか、今日中に振り込んでくださいよ」
 電話はそこで切れてしまった。                   

 早坂はふうーっと大きく溜め息をついてから電話番号案内にダイヤルして五菱銀行新宿支店の電話番号を聞いた。山本太郎名義の普通預金口座は五菱銀行新宿支店に開設されていた。送金したいから山本太郎の登録住所を確かめたいと言うと女子行員は何の疑問も持たず、大田区六郷○○番地と教えてくれた。
 受話器を置くと早坂は盗人に追い銭という諺を頭の中で弄びながら、指定された口座へ10万円を振り込むために銀行へでかけた。用心のために取引銀行を使うのはやめ、銀座へ出かけて最初目にとまった銀行で偽名を使って送金手続きをした。色眼鏡をかけマスクをして、変装することを忘れなかった。帰りにその足で大田区六郷○○番地へ行ってみたが、その番地に建物はなく貸し駐車場になっていた。

 早坂は三ケ月間に山本太郎から三回金を巻き上げられた。三回とも10万円であり、金の受け渡し方法も全く同じであった。山本は決して過大な要求はしなかった。10万円という手頃な金額はゆすりが際限なく続くことを暗示していた。
 三ヵ月の間、早坂は新聞記事を注意してみていたが、銀行帰りの車が追突事故に遭い乗り逃げされたという記事も、京浜銀行横浜支店で発生した事件の犯人が捕まったという報道もなされなかった。

 早坂は山本太郎に第一回目の金をゆすり盗られた当座は、何時税務署の調査や査察があるかとびくびくしていたが、電話も問い合わせもないようだし山本に小遣いさえやっておけば、そう心配することもなさそうだと思うようになった。
 山本太郎もいい金蔓を大切にしたいという気持ちがあるのか、早坂の予想に反して密告したり、第三、第四の追突乗り逃げ事件を引き起こしたりする気配はなかった。恐喝者と被害者の間に10万円の金銭の授受を通じて奇妙な信頼関係が成立した。信頼関係というより牽制関係と言った方がより適切であるかもしれない。

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2005年10月14日(金) 縁日の金魚鉢 8−2

京浜銀行横浜支店のお客が早坂の追突事故のあと続けて二件、同じような手口で盗難にあったことが、新聞に大々的に報道されたとき、早坂はまずいことになったなと思ったものである。犯人が味をしめて第三(早坂の事件を入れれば第四の)事件を起こしてくれなければいいがと願っていた。警戒も厳重になるだろうし、もし犯人が捕まれば,取り調べの過程で早坂からも、300万円盗んだことを自白しないとも限らない。そうすると早坂も取り調べを受けることになるだろう。300万円も盗まれながら何故盗難届けを出さなかったか、当然追求されるだろう。追求されると金の出所まで遡って調べられるに違いない。あれだけ新聞を賑わせた事件だから、税務署の耳にも入ることになるだろう。税務署に脱税容疑で徹底的に調べられたら今日まで営々として蓄積してきた財産は根こそぎもっていかれるだろうし、会社が倒産の憂き目をみることになりかねない。

 早坂は被害者でありながら、犯人の行方不明と不逮捕を願うという奇妙な心理状態になっていたのである。
 早坂は直通電話の番号を教えてから、電話が鳴るのを待っていた。ところが電話は一向にかかってこない。当然すぐかかってくる筈の電話がかかってこないので不安になった。
『犯人は何故電話をかけてきたのだろう。車の持ち主が私だということがどうして判ったのだろうか・・・・・・・車の登録番号を調べれば、持ち主は判るな』 早坂は目を瞑って対策を考えながら自問自答を始めた。
『被害者のところへ電話をかけてきたりしたら危険ではないか。それを敢えてしてきたところをみると何か魂胆があるに違いない。相談したいことがあると言っていた。ゆするつもりかな。とすれば、あの金の性質を知っているのだろうか。いや、そんな筈はない。あの日、私が無記名の定期預金を解約したことを知っているのは、横山支店長だけだ。金を盗られたことは、横山支店長にも話していない。横山支店長が警察に取り調べられたとき、心配して知らせに来てくれたが、金はとられていないと念を押しておいた。彼だってサラリーマンだから、自分自身は可愛い筈だ。彼の口から秘密が洩れることはあるまい。新聞に似たような手口の事件が二つも派手に報道されたから私の車の盗難事件を聞いた者が嫌がらせの電話をかけてきたのだろうか。だが、嫌がらせの電話なら、直通電話の番号を教えろという筈がない。最初電話の応対をした木山みどりの盗聴を警戒しているのかもしれない。とすればゆすりかな』

 早坂はその日予定されていたロータリークラブの会合への出席を、頭痛を口実にして取りやめ、得体のしれない電話がかかってくるのを待つことにした。ロータリークラブへ断りの電話を入れるよう命じられた木山みどりが復命にきたのをつかまえて、
「木山君、さっきの山本太郎というのは保険会社の調査員だったよ。この前の事故の状況について詳しく知りたいことがあるから教えてくれということだ。用件を最初から言えばよいのに変な奴だよ。今度山本太郎から電話があったら廻してくれ」と言った。
「かしこまりました」木山みどりは素直に返事をした。その返事からは、山本太郎からの電話に好奇心を持っている様子は窺われなかった。
          

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2005年10月13日(木) 縁日の金魚鉢 8−1

 8.
                         
「社長、山本太郎さんという方を御存じでしょうか」
 早坂がいつものように、事務所へ出勤してくると、総務課の木山みどりがお茶を盆にのせて社長室へ入ってきて聞いた。
「山本太郎ねえ。聞いたことのない名前だな」
「先程、お電話がございましたので」
「用件は」
「それが、社長に直接お話したいことがあるとおっしゃっただけで、用件をおっしゃらないのです」
「商品取引かゴルフの会員券の勧誘だろう。山本太郎という名前に心当たりはないよ」
「そうですか。それでは失礼します」
 木山みどりは丁寧に一礼すると社長室を出て行った。芳しい香水の香りが残された。木山みどりの均整のとれた後ろ姿を見送りながら、早坂はこの娘も最近とみに色気が出てきたな、恋人でもできたのではないかなとふと思った。            
 木山みどりは4年前、女子事務員募集の新聞広告を見て応募してきた。田舎の高校を卒業して、銀行へ半年程勤務したが、残業の多いのを嫌って転職してきたのである。なかなか気のきいたところがあり、どこか男好きのする顔だちが早坂の好みにあったので、総務課に配置し社長秘書も兼務させている。

 早坂は自分宛に掛かってくる電話は、社長室には直接回さないよう社員達に申しつけてある。電話回線は7本入っているが、電話交換手は置いていない。受話器についている押しボタンの操作によって通話する方式をとっている。早坂宛の電話は総務課の木山みどりに回される。木山みどりの電話応対は機転がきくし声に愛嬌があるので、客先の評判もよい。
 木山みどりは、山本太郎と名乗る男から社長宛に電話がかかってきたときその声質が彼女のボーイフレンドとあまりよく似ているので、最初ボーイフレンドが自分にかけてきたのかと思った。勤務先へはお互いに電話をかけない約束をしているので、相手の名前を確認すると山本太郎と名乗った。早坂に直接話したいことがあるという。用件を聞いても早坂に直接話さなければ判らないことだと言った。
 木山みどりが早坂の秘書として知っている早坂の交遊関係の中には山本太郎という名前はなかったので、早坂に確認してから取り次いだほうがよいと判断して社長不在ということにしておいた。

 最近不動産業者、商品取引業者、ゴルフ場の会員券取引業者が、門前払いを喰わされるのを警戒して、社名と用件を言わず自分の姓名だけを名乗ってあたかも社長と旧知の間柄のように装って電話してくるものが多い。木山みどりは,総務課へ配属されて間もない頃、早坂宛に個人名を名乗って馴れ馴れしい言葉でかかってきた電話を早坂の旧知の人と思い込み、社長へ取りついだところ、生命保険の勧誘員だったことが判り、小言を貰った苦い経験を今でも忘れていない。それ以来、得体の知れない相手からの電話は全て社長不在ということにして、相手の連絡先と用件を聞いて置くことにしている。 早坂の部屋には電話帳に登載されていない直通電話と木山みどりを介して廻されてくる電話と二つの受話器が置いてある。

 昼の打ち合わせ会議を終わって、溜まった書類に目を通しているとき、木山みどりがおそるおそる困惑した顔で社長室へ入ってきた。
「社長どうしましょうか。また山本太郎さんから電話がかかっていますが。何でもある事件のことで内密に直接社長と話したいと言っておられるのですが」早坂は面倒臭いと思ったが、ある事件のことでという言葉にひっかかった。
「そうか。出てみよう。廻してくれ」
 木山みどりは山本太郎のしつこい電話から解放されて、軽い足取りで社長室から出て行った。早坂は腰廻りの肉付きが良くなったな、きっと男ができたに違いないと又思った。
「もしもし、早坂社長さんですか」
「早坂ですが」
「やっと電話に出て戴けましたね」ハンカチでも口にあてて喋っているらしく、押し殺した声が耳に飛び込んできた。
「どのような御用件でしょうか」
「いかがですか。車の修理は終わりましたか。折入って御相談したいことがあるのですが」
「一体何のことでしょう」
「社長さん,おとぼけになっては困りますよ。何か大切な物を車の中に置き忘れたでしょう・・・・」
 早坂は一瞬絶句した。やはりあのことだと気がつくと、受話器を握る手に知らず知らず力が入って
「一体君は何者だ」声がうわずっているのに自分でも気がついた。
「どうです、社長さん。直通電話の番号を教えて下さい。また後でかけ直しますから。壁に耳ありですよ」山本太郎は勝ち誇ったような声を出した。相手の要求が判らないだけに不気味であった。直通電話の番号を教えろとか壁に耳ありとか言っているのは秘密は守ってやるということだろう。早坂は電話の相手はあの時の犯人かもしれないと考えた。
「ちょっと待ってくれ」

 早坂は受話器をそのままにして社長室の扉の窓から事務室を覗いてみた。木山みどりが一心に算盤を入れている姿が目に入った。他に受話器をとっている事務員が二人ほどいたが、現場と冗談のやりとりでもしているらしく笑い声をだしながら何か喋っている。早坂は盗聴されていないことを確かめてから、直通電話の番号を教えた。受話器の向こうに黒いサングラスをかけた若い男の姿を想像しながら受話器を置いた。気がつくと受話器が汗で濡れて黒く光っていた。


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