前潟都窪の日記

2005年11月23日(水) 価値判断の基準についての考察7

 正邪、善悪の判断は実定法の範囲内での判断と道徳律の範囲まで踏み込んでする判断との二種類に分けて考える事が出来る。実定法に抵触する行為は通常、邪悪として排除される。そのことに対して違和感を持つ人は少ない。通常的な平均人を前提として法は作られているからである。中には法秩序自体に反対の立場をとっている反体制派の人達もいるのでその人達にとっては実定法が邪悪なりとして排除したものでも、正なりと考える場合もある。逆に実定法が正なり、善なりと判断したことであっても道徳律に照らせば邪悪にうつる場合もある。法と道徳とは概ね大筋においては一致しているが、ときに法と道徳律とが背反することもある。法律は社会現象を後から秩序付けていくという性質を持っているので、今日のように変化の激しい時代にあっては法の価値観と道徳の価値観とが乖離することが多くなってきているともいえる。

無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム



2005年11月22日(火) 価値判断の基準についての考察6

 美醜についても客観的な基準が設け難く且つ定量的な基準が設定困難な世界であり、優れて主観の支配する世界である。美醜を判断する場合に、幾つかの要素に分けて考えることは可能であるが、分析的に判断したとしても定量的ではあり得ず最終的には総合的な主観による判断にまたねばならない。要素としては、形状、色彩、色調、明暗、量感等があり、判断する主体の好みに依存せざるを得ないから多様な価値が併存する世界である。


無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム



2005年11月21日(月) 価値判断の基準についての考察5

 最も判定基準が難しく、客観的な基準の設け難い世界が「真・善・美」の世界である。 先ず真偽については俗にいう嘘か本当かということであるから定量的な判断ではなく黒か白かというふうな定性的な判断になる場合が多い。本物か贋物か真実か虚偽かという判断を迫られるケ−スが多く、判断する主体に豊富な知識と経験がないと判断しにくい場合が多い。天動説と地動説との争いの如く、その社会の科学技術の発達段階の程度によって左右されることもある。


無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム




2005年11月20日(日) 価値判断の基準についての考察4

 次に強弱、大小、多少、遅速という基準を価値判断の基準にしている世界が勝負とスポーツの世界である。

 勝負の世界という表現自体に基準が明示されている。勝つことが唯一絶対の価値でありそれ以外の価値は認められない。勝負を判定する基準として強弱、大小、多少、遅速という定量になじむ基準が用意されている。囲碁、麻雀であれば目数や点数の多少で勝負が決まる。将棋は勝ち負けの形が決まっているので定量的な判断は必要でないが勝負けを客観的に認定することが出来る。スポーツの世界では強弱で判断されるものは概ね格闘技である。柔道剣道、拳闘、レスリングがこれに該当しよう。獲得した獲物や得点の大小、多少で勝負を判定するものは球技に多く、野球、バレー、サッカー、テニスゴルフ等がある。遅速を競うものに徒競争、水泳、自転車競技、スキー、スケート等がある。


無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム



2005年11月19日(土) 価値判断の基準についての考察3

 最初に損得について考えてみよう。

 損得の基準を唯一無二の絶対的な基準としている世界は営利企業の経営の場面である。
 通常会社組織で運営されるが、会社設立の目的自体が利益の追求にあることは自明である。ここでは、損得の量が金額で明確に表示される。損をする企業は存続する価値がない。企業は利益を上げ、得をするように行動しなければならない。得をすること即ち儲けることに徹すると時として手段を選ばない反社会的な行為が現れることがある。そこで第二第三の判断基準が援用されることになる。つまり善悪、正邪、美醜等の基準によることになる。損得の基準はよく考えてみると人間のもっとも基本的な欲望を容認することを前提として成り立っている基準であることがわかる。企業活動によって儲ければ人間の持っている過半の欲望はこれを充足することが出来る。つまり、貨幣経済の世の中では、儲けは金銭で分配され分配された金銭で欲望の対象物を購入することが出来るからである。

無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム



2005年11月18日(金) 価値判断の基準についての考察2

 そこで私は、損得、善悪、快不快、真偽、好嫌、美醜、大小、多少、正邪苦楽、悲喜、合理非合理といった言葉の中に隠されている判断基準というものを考察してみたいと思った。

 ある一つの行為を考えてみたとき彼をしてその行為をとらしめた判断基準と言うものがあるはずである。その行為の選択は損か得か、善か悪か、快か不快か、真か偽か、好ましいか嫌いなことか、美か醜か、大か小か、多いか少ないか、正か邪か、苦か楽か、悲しいことか嬉しいことか合理的か非合理的かといったことを総合的に勘案して決められる筈である。どの基準にウエイトを置いて選択するかによって現れる行為の結果がその行為を選択した人のパーソナリティーを表していると見てよいであろう。

 これらの基準は定量的に示すことの出来るものもあれば定性的にしか表現できないものもある。例えば損得の基準は定量的に把握することができる。金額で表示することも出来るしある単位による数量で表示することが可能である。ところが善悪の基準は数量的な把握が難しい。我々が生活していく上でこれらの基準は我々にどのような関わり方をするのであろうか。これらの基準がどのような場面でどのような形で使われているかを具体的に考察してみれば、これらの基準を体系的に整理することができ、我々の日常生活への関わり方を明らかにすることが出来るかもしれない。


無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム



2005年11月17日(木) 価値判断の基準についての考察1

      価値判断の基準についての一考察     
                                   
 我々が日常生活を営んでいくうえで、我々の行動を支配し、制御しているものは一体、何であろうか。ある秋の夜半に寝つけないままに考えてみた。そのことを多少整理して記録しておきたい。

 我々の行動を支配しているものは、欲望であり、欲望を制御しているのは理性である。昔から言いふるされた諺に「衣食足って礼節を知る」というのがある。人間の基本的な欲望を食欲と衣装欲にあるとみて、この欲望が充足されればおのずから礼節は行われると考える。逆に礼節をいくら守らせようと教えても、空腹の状態では行われないということである。

 欲望には生物的なもの(食欲、性欲、安全にたいする欲求)から社会的なもの(名誉欲や人に認めてもらいたい欲求)を経て自己実現欲求にいたる重層構造をもっているという説を唱えたのはアメリカの哲学者マクレガーであるが、卓見といえよう。

 欲望が重層構造をもっている点に着眼した所は説得力を持っているが、それでは我々の日常生活において、我々が具体的な行動をとるときに個人にとっては個体の生命維持のために必要な行動であっても社会的には許されない行動もある。社会的に許さ  れる行動であるか否かを制御しているのは理性であるが、その理性が判断の基準にしているものは何であろうか。

無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム



2005年11月16日(水) 仮説 小野小町は男であった7

 ところで小町の生みの親である大町が、嬰児小町の男根を切除するにあたっては、小野家の秘伝となっている隋の煬帝からの返書の内容が頭の中にあったのである。即ち隋・唐の朝廷には男根を切除した宮廷奉仕者「宦官」という人種のいることを知っていたのである。

 小野一族の先祖に当たる小野妹子は六0七年に聖徳太子の国書を携えて遣隋使として大陸に渡り、皇帝煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という有名な国書を渡した外交官である。小野妹子は帰国にあたり隋皇帝煬帝より国書を託されたが、妹子は帰国後この国書は帰国途中に百済の国を過ぎるとき、百済人に掠めとられたので提出することが出来ませんと報告した。

 この国書盗難事件については、1)本当に国書を奪われたとする説と 2)国書の内容が日本を東夷として見下したものであったので、妹子が道中破棄して盗難にあったと偽ったとする説がある。
 大町が口伝された小野家に伝わる秘伝の隋の国書には「東夷の国は宦官を貢物の中に加えて朝貢せよ」との一条が入っていたのである。

無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム



2005年11月15日(火) 仮説 小野小町は男であった6

 この他に、小野小町を題材とする謡曲には「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒塔婆小町」等があるが,何れも年老いて落魄した小町が登場してくるのである。これは若い頃美貌と才能に恵まれ、六歌仙にも選ばれ名声をほしいままにした才媛も年老いては醜い姿になり、果てはされこうべになるという人生無常の仏教思想を教えているものであろうか。小町の歌にも、衰えゆく容色を嘆げいた「花の色は移りにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」というのがあるが、これらの謡曲を創作した作者のモチーフになっているのであろう。 そして「通い小町」は小町を恋して九十九回も通い続けた男を拒む小町が題材になっているのである。この拒む小町のイメ−ジは、糸を通す穴のない針を「小町針」と言ってみたり、川柳にも「とは知らず開かずの門へ九十九夜」と詠まれたりして、身体的に女性として欠陥があったのではないかと疑われている小町のイメージなのである。


無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム




2005年11月12日(土) 仮説 小野小町は男であった5

 明日内裏で催される御歌合で、大伴黒主の相手には小野小町と定められたが黒主は到底詠歌では小町にかなわないので一計を策した。小町の私宅に忍び込み、彼女が予め用意した詠歌を口ずさむのを立ち聞きしてこれを万葉集に書き入れ、古歌であり物真似であると讒奏して小町を陥れ奇勝を得ようとするはかりごとである。

 四月半ば、御歌合の会の当日小野小町、大伴黒主、凡河内躬恒、紀貫之、壬生忠岑等の面々が左右に着座して御歌合わせが始められた。紀貫之は帝の命令により小町の歌をよみあげた。
「蒔かなくに何を種とて浮き草の波のうねうね生い茂るらん」
「なかなか良い出来映えの歌だ」と帝はお褒めになった。
「おそれながらこの歌は古歌です」と黒主が抗議した。 
「どの歌集に出ているのですか。作者は誰ですか」と小町はひどい恥辱に黒主に抗議したところ
「万葉集に出ており、作者は読み人知らずです」と黒主がしゃあしゃあと答えた。
「証拠はありますか」と小町が追求すると
「これこの通り」と黒主は懐より草子を取り出して誇らしげに示したので列座の一同は唖然として小町と黒主の顔を交互に見比べたが、小町は悲憤に耐えず敢然と抗議した。
「草子に後から入筆したものと思われますので、清らかな水でその草子を洗ってみて下さるようお願い致します」
「小町の言う通りにしてみよ」と帝の勅許をえて、草子を洗ってみると小町の歌は見るかたもなく消えてしまったので一同目を見張って驚いた。悪だくみが露顕して非常に苦しい立場に立たされた黒主は自害しようと席を立ったが、小町のとりなしで帝が黒主をお赦しになったので小町は面目を施し聖代と和歌の道を讃える舞を舞って御歌合わせの会は終了したのである。


無料で使える自動返信メール

アフリエイトマニュアル無料申し込みフォーム


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加