■ 大学時代の友人と交わされていたメールのやりとりが終わった。あっさりとしたものだった。
■ 大学を卒業してからの5年間、その友人は、時にアルバイトをしたり時に実家でのんびりと過ごしてきた。一般的な見地からすれば、彼女は「若年失業者」と括られて社会への適応性を問われるのだろうが、僕はそういう生き方もいいんじゃないかと思っている。実際、僕も大学を出てから4年くらい定職に就かず、ちょこっと働いたり部屋で漫画を読んでいたり、街でCDを買ったりしていた。失業率が高いという社会的・時代的な背景が僕にそういう生活をさせたのではなく、自ら選んでこういう生活をしてきた。そのような過去を特に後悔していないし、新卒入社した人とは異なる視野を持って現在の仕事に取り組んでいることを利点に思っている。OJTで劣っている面を否めないけれど、それはご愛嬌だ。新卒で会社に入った場合にも遅れて入社した場合にも、それぞれ長所と短所がある。
■ もし自分が大学を出てからの丸5年経って就業経験が一切ないとしたら、6年目の今はどう過ごしているだろうかと考えてみる。しかし「6年目」は結局これまでの5年間の延長にしかならない気がするし、それで十分だと思う。その友人が今のタイミングで「定職に就きたい」と僕にメールで相談してきたのは、5年で作った線の延長から外れたいという意思の表れなのだろう。けれど、これまでの線から別の線へ踏み出すためには、運が必要だと思う。しかも、その運は何らかの行動を前提とするものだ。例えば、宝くじで1億円を当てるにも「1枚300円のくじを買う」という行動が必要だし、たまたま1億円分の宝くじが道に落ちていたとしても、当たりくじだといいなというちょっとした期待や老婆心、そして「拾って交番に届ける」という行動がなければ、1割の1,000万円は貰えない。
■ 今までとは別の線に踏み出すために必要となる「行動」をとった上で「面接で緊張しないためにはどうしたらいいかな」と相談してくるならば、僕の体験を話すことができるし、それを参考にするかどうかは本人次第だ。しかし実際に相談されたのは、彼女が行動に出る前についてだった。「やりたい仕事」と「やれる仕事」のどっちに向かっていったらいいのか、という相談だ。しかし、やりたいこととやれることの比較考量は仕事観に限定されない、人生観の一つだろう。そんな大きなことに口を出すわけにいかない。そんな内容のメールを送ったら、「ありがとうございました」と締め括られた。「やりたいことをやりなよ」と書いてほしかったのかもしれないが、それで失敗したと思われても責任を取れない。相談事には適切なサイズがあることを学習させられた。 // |