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―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
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2008年11月23日(日)
アハッ! で有名なカテジナさんについて考えてみるテスト。


某方とのやり取りの間の会話なのですが、ちょっと他の方の意見も聞いてみたいので曝してみる。大丈夫です個人情報は死守しますから兄さん!(この時点で既に一部漏れている)(何処がとは言わないが)

カテジナさんの生存は、その死だけでは到底贖えない罪だと富野氏が思ったが故の、謂わば一番厳しく処されているらしいのですが。
確かにガンダムシリーズでほいほい人が死んでしまう点からも、死が絶対の罰と呼べるのかは疑問視しますが、志半ばで散りそしてもうその成長や進退や余暇を覗き見る事の出来ない愛すべきキャラクターを思うと、それが罰だから死んだなんて思いたくは無いし、生きている事の苦しみは世に溢れども、矢張りエンターテインメントとして人に何かを訴えるのであれば、ちょっと定型過ぎんじゃないのそんなに生は賛歌すべきものなのと思っていたとしても、余程強引に捩じ伏せられる程の別案がないのであれば、生のが死よりつらいとは、説いてはいけないんじゃないだろうか、と。
いや、生きて罪を償えっていうタイプの話も大すきなんですけどw

クロノクルはやや未熟であった、と。 共に生きてきた姉であるマリアを取り巻く環境の激動や女王として祭り上げられた事による彼なりの思いが色々あったようなんですが、ウッソ曰くそれは弱さと一括りにされてしまい、純粋さのなせる辛辣と呼ぶべきか、強者が押し付ける弱者への理論と取るべきか。あれそれ何処のキラきゅん?w
青臭い理想論を持っていたり、母の首を持つウッソに同情したりと、非道の多かったザンスカールにあって人情味のクロノクルだからこそカテジナさんを隣に置けもしたのでしょうが、初めの時期はカテジナさんは、マリア主義の賛同者であっても、男性としてクロノクルを愛していたかは個人的には疑問なんですが。確かに一介の小娘に過ぎないカテジナさんが軍に染まってくには過程が必要であり、それは人と人の間の思いもそうなのですが。

ですが、カテジナさんはウッソやシャクティの事が気に入らなかったりチビのくせに笑ったとやたら過敏で、それがウッソとシャクティのような関係性には、自分とクロノクルがなれないからなのかな、とすると、やっぱりクロノクルを愛してはいたのか。
あくまでも個人的見解ですよ重ね重ね。カテジナさんはクロノクルに惹かれてからマリア主義に賛同したと仰る方もいます。というより、間地娘が軍人になる過程としてはそっちのが道理か……?
閑話休題、小さい頃から二人が一緒にいるのは当たり前という前者に比べ、カテジナさんはウッソからの好意や安全やその外沢山のものを捨てなければ、クロノクルの傍にはいられなかった事への怒り、ウッソの、カテジナが惹かれたクロノクルの要素を、弱いと言ってしまう残酷さ。そういうささやかなずれが、縺れて終盤に至るのかな、と。

ずっと、ウッソの事を気に掛けてはいたんじゃないかって。あんな子に戦争をやらせて、とリガミリティアとは相容れず、戦うウッソを流されているんじゃないかと詰りながらも、それは心配の表れともとれるような。
だけれどもあくまで敵として対立するカテジナさんに、憧れていたウッソは徐々に徐々にその思いをすきだった人や嘗ての仲間から敵にシフトさせていく。最終的にそれが完全に移行する事があったと呼んでいいのか分かりませんが、その移ろいを知り、カテジナさんから少しずつ離れていったのをカテジナさんが感じた時、彼女の攻撃性は剥き出しになったんじゃないかと。つまりアハッ! ですねw

クロノクル対ウッソにて、勝者を愛すと言ったのに結局クロノクルを取った彼女は、だから殺せと嘗て己を慕ってくれていた少年に言ったり、その少年をクロノクルへの手向けへとしようとしている。
結局弟や可愛い存在でも、男としてはウッソを見れなかったって、事なんでしょうか。
彼女は、目的を見失う混戦の中で、性格を変えてまで沢山の人間にきらわれてまで傍にいたクロノクルを失って、その元へ行きたいと言っていた。
故に死してその願いを叶えるのは、ラスボスを倒すという形と合わなくても、違うんじゃないかって、そういう話でしょうか。

ラストのカテジナさんに記憶があるのか精神が平常なのかわからない点が多いですが、何も知らず世界に生きているのだとしてもその様を、僅かでも同情したり出来る分だけ、ただ死んでしまうエンドよりは、いいのかな、とも思います。

以上世界の中心でカテジナさん! のコーナーでした。


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