書くことをやめてしまったひとの日記をぼーっと読んでおりました。 この方は書けないことにぐるぐるする時期をとっくに過ぎていて、読むのが楽しいなあ書いてたときは楽しかったなあでももう今は書けないな、の「書けないな」が残念だなではなくちゃんと昇華された満足感みたいなので寂しい気持ちにはならないかったのだけど。
書かなくても大丈夫という時期がある気持ちはわたしも解ります。わたしも書かなかった時期は何年かあった。年に何度かはぽつりぽつりと細切れに書いていたけど、サイト持つまでは年間通しても1本に満たないくらいしか書いてなかったと思うあの時期は(サイト持ってからも半年に1本とかだったけど、でも短編なら最後まで書ききることはしてたからなー)。
でも結局書くのに戻ってきました。いや今は同人なのでわたし的「書く」とは少し違うっていうか、創作を書かないとわたしはいまいち書いた気にならんのだけども…いや書いた気っていうのとは違うけどんー……なんかこうじわっと湧き出てきたもののしっぽをとっつかまえてずるずる引き出す感というかが、二次では得られないんで。ひとの作った土壌の上でわーいと遊ばせてもらってる感覚。キャラクターを作るのは楽しいけど、それが中心だからな〜。 わたし的に、キャラクターを書くことと人間を考えることと話を書くことは別かもしれない。 キャラクターは人間ぽいものをある意味削ぎ落とし尽くして付加価値を付け足して「心地よい(醜悪であってもそれが「いい」と思える)」存在に仕立てるものだからな。小説での「人間」も削ぎ落としと付け足しはもちろん入るけど、その量が少ないというか…うーんうまく言えないが。萌えるか萌えないか、で言ってもいいけど人間にも萌えるしな〜でもやっぱなにか別のものの気がする。
閑話休題。
で、わたしは多分、書いてなかったときももう書けないなあ満足、といって止めたのではなく、ずるずると書かない期間が延びていって書いていなかっただけで気持ちのうちでは「止めた」という期間はまるでなかったのかなと思います。 なのでこの方の気持ちは解るようでいて解らない。きっとこのひともそのうち書くことに戻ってくる、戻らなくてもいざ筆を執れば書けるような状態に戻るとどっかで信じてる。ものを書く人間は一生その素地は維持するものだと思い込んでいる節がある。 書くことに満足しきる、もう出すものはないなという爽快感というのは、まだまだ解りそうにもなく、一生解らないといいとどこかで思っている。書きたいものがないときは休むとしても、ずっと書いていたいと思ってる。
で、この日記は二次作家さんの日記だったんですけど、なんかこのひとの感覚は創作畑のひとのものだなと思いました。凄く創作やってるひとの日記を読んだ気持ちになった。珍しいことです。だからきっとこのひとの文章がわたしはとても好きだったんだろうなあ。お話やキャラクターの解釈ではなく、とにかく文章そのものが好きだった。そういう方は二次でも二、三いらっしゃいますが、ほんと少なくて、そんでもってその全員がもはや行方がしれません……サイト閉鎖状態…ふ、ふふ(遠い目)
その、書くことに満足してしまった方の文章が、読みたいけれどどうしてももう一度読みたい! てならないのは、彼女の黄昏から終わりに掛けてをそっと追い掛けていたせいなのかなあ、と今更ながらにちょっと思いましたという話。
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