思い出に変わるまで
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夢のマイホーム・一戸建ての新居に引越しを完了しました。
もう・・・・
大変ってもんじゃない!!
タメを実家に預けたからまだスムーズに行ったほうだと思うけど タメが居たら・・・ 想像しただけでおそろしい・・・
それ程荷物が多かった。
さとしクンと私。 独身時代お互い一人暮らしの荷物が一つになって タメが産まれて徐々に荷物が増え・・・。 ダンボール箱の山でした!!
引越し業者の若き兄ちゃん四人がかりで手際良く荷物の運び出しをしたけど所要時間、二時間半かかった。
約二年、住み慣れた名古屋市内のマンションは住めば都でいいとこだった。 上の階の奥さんから引っ越し祝いで観葉植物頂いちゃって・・・。 ホント恐縮です!!
さとしクンと二人で入ったマンション。 出る時はタメも含め三人で後にしたかったけど私の体調もあまり良くなくて。 一週間は出血が続くと聞いてて、少量の出血がダラダラ続いてるし、内服してる薬のおかげの子宮の収縮の痛みにも悩まされてた。 安静にとさとしクンは言うけど引越しに安静は無理っす! 自分の体に害が出ないようにしてても疲れも溜まる。
よって、荷物を新居に入れた時点でジ・エンド。 翌日に持ち越しで実家に泊りに行きました。
久しぶりに会ったタメは私たちに顔を見ると駆け足で寄ってきて抱っこをせがむ。 うんうん、いっぱい抱っこしてあげる。 ギューッと抱っこしたかったのは私の方。 タメに会いたくて会いたくて。 夜、龍ちゃんの事を思っては泣けてきて、無償にタメに会いたかった。
離れていた五日間で完全断乳は成功して乳離れしたタメ。 タメ離れできないのはママの方でしたね、実感しました。
2006年10月25日(水) |
元気に産んであげたかった |
手術準備室は手術室のすぐ隣 一年三ヶ月前、タメを産んだ分娩室も隣の部屋だから初めてじゃなかった。 全身麻酔を利きやすくする為の筋肉注射を肩に打ち、看護婦さんが手術室の準備に取り掛かるまで20分程一人で部屋に居た。
新生児室同じフロアにあるのでシーンとした準備室にも遠くから赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。 なかなか泣き止まないとても元気で大きな泣き声で・・・。 「元気に産んであげたかったな・・・」 考えるより先に出た自分の言葉を耳にした途端、涙がボロボロこぼれて止まらなかった。 お腹の痛みもつわりの気配もまだ体に残っているのに、もう赤ちゃんはお腹にいないんだ・・・。 胸が詰まって喉の奥が苦しくなって声を殺して泣いた。
間もなく手術室に誘導され、全身麻酔を吸入 1から10まで数え、二回目に1・・2・・・3位数えたところで体が重く沈む感覚が一気に来て意識が無くなった。 ただ、昨日からタメに断乳をしていた為、パンパンに張ったおっぱいが痛かったのを覚えている。
気がついたのは先生に肩を叩かれ 「もう終わりましたよ、もう心配ないですよ」 と声をかけられた時だった。 途端に下腹部に痛みが走り 「お腹・・・痛い」と搾り出すように言葉を口にした途端吐き気が来た。 朝から一切飲食を禁止され、点滴だけだったので吐くものさえないのに。 麻酔がまだ効いてて体の自由が効かない状態でベッドに寝かされ 「お腹の痛みは子宮が元にもどろうとするから痛むんです。 しばらく眠っていただければ軽くなりますから」 看護婦さんの説明を受け、間もなく薬の作用からか数時間眠った。
ドアのノックで目が覚め、昼食が運ばれてきた。 吐き気はおさまり、下腹部の痛みも随分和らいだ。 パンケーキとサラダとリンゴジュースにバナナムース。 少しずつ口に入れながら麻酔が残るぼんやりした頭で赤ちゃんを想った。
お腹に宿ったと分かった時、嬉しくて嬉しくて。 「龍ちゃん」って名前つけて会える日を楽しみにしてたんだよ。 短い間だったけど家族四人の生活を想像したり、産婦人科選びに情報収集したり、あれこれ想像しては幸せだった。 もし、また私をママに選んでくれるなら今度は大事に大事にお腹の中で守ってあげるから間違えないで私を選んでね。 さとしクンもタメもじいちゃんばあちゃん、みんな待ってるよ。 ごめんね、こんなに早く外に出しちゃって、ごめんね。 ごめんなさい。
流産とは 流産とは、赤ちゃんが母体外で生育不可能な程早期(妊娠22週未満)に出てしまうことを言う。 妊娠と診断された方のうち約15%が流産となり、そのうち11週までの早期流産が13・3%。 早期流産の50〜70%は胎児の染色体異常によるものとされている。 染色体異常の99%は胎児期早期に死亡・流産となる。 その他にも胎児因子、母体因子、男性因子、夫婦間因子によるものがあるとされているが原因不明のことが多い。
避けられない流産だとは言え、7週間だけ私は龍ちゃんのママでした。 今朝の診察で私の前の順番の診察患者さんは見ただけでお腹が大きな妊婦さん。私と同じく腕には点滴が刺されていて、先生から手術の説明を受けていた。 偶然に見てしまった彼女の母子手帳には白紙の死産届けが挟んであった。 きっと彼女は赤ちゃんの胎動も感じていただろう。 大きくなったお腹をさすって赤ちゃんに会える日を待ち望んでいただろう。 流産の程度で言えば私はまだ早期の早期。 赤ちゃんの心臓の動きすら確認できなかった時期。 まだ多少は救われてるかもしれない。 でも、母であった気持ちはみんな平等にあっただろう。
今度私の中に命が宿ったら二人分の命だと思う。 元気に産んであげられなかった子供の命も含めて。
妊娠する事。 妊娠を継続し続ける事。 正常に分娩する事。 私には普通に出来る事だと思っていた。
人間が健康に生まれて来るには沢山の要因が見事にうまく重なり、奇跡と神秘の中で産まれてくるんだ。 命の重さ もっと大切にしなくちゃいけない。
いつまでも悲しんでいてもいけないとは分かっていながらも、せめて 今夜は失ってしまった私たちの赤ちゃんの事を想ってあげたい。 また会える日を願って・・・。
早朝5時 生理ナプキンがすごく濡れている不快感で目が覚めた。 シーツを見たら血で汚れててトイレに行ってらナプキンの許容を超えていた。 用を足してる最中ドロッと血の塊みたいのが落ちる感覚がした。 生理中の血の塊どころじゃない 多分、握りこぶし程。
赤ちゃん・・・?
便器を除いても既に奥の方へ落ちていて見えない。 てかお水が血で赤かった。
心臓がドキドキした。 流産・・・・。
さとしクンを起こし産婦人科に電話。 即入院と言われた。 徒歩で5分もかからない病院へ車で行き、点滴が始まった。 心配そうにタメを抱きながら傍らについてくれてたさとしクン。 今日の診察結果によって二日間は絶対安静になると確定になった時点でタメを実家に預ける事に決めた。
早朝だという事もあり、出勤時間まで余裕があるおかげでさとしクンはタメを実家に預けそのまま出勤。
9時近くまで点滴は続き、エコーで診察が始まった。 結果・・・
既におなかには赤ちゃんは居ない。 胎嚢がつぶれて押し出され、多分今朝出たのがそうだろう。 胎盤やその他の組織がまだ子宮内に残されてるから早急に手術を行う。
ああ・・・やっぱり・・・。 点滴中、既に確信していた。 出血が止まらない時点でほぼ諦めて覚悟もしていたけど お腹の痛みも胸のつかえる感じのつわりもまだあるのに・・。 お腹に手をあててみても突っ張った痛みしか残らなかった。
手術の同意書サインをもらう為に仕事の合間にさとしクンにもう一度病院に来てもらい午前10時半 手術の準備が始まった。
病院へ行ってきた。
診察の間すごく不安だった。
昨日、おとといと新しい家の掃除に行ってた。 たまたま外泊許可の出た母も実家に帰っていて介護もした。
事の重大さに気づいたのは昨日の夕方。 いつもより多い出血があった。 晩ゴハンを食べてる時にお腹に張りや生理痛みたいな鈍痛も感じた。 寝る時には出血は鮮血になっていた。
切迫流産
するかも・・・。
ずっとお腹をさすりタメやさとしクンの手を借りて「がんばってね」って祈り続けた。
今朝には出血の量も増え、先週予約を入れてた診察の時間まで部屋でずっと横になって寝て過ごした。
先生の診断の結果
切迫流産の可能性が非常に高い。 赤ちゃんの袋(胎嚢)は育ってるけど肝心の胎児の姿が確認できない。 ひょっとすると既に死んでしまっているか、成長が止まってる可能性もある。 金曜に引越しを予定しているので水曜に再検査して、結果によって木曜日に流産の手術もするかもしれないので心積もりはしておいて欲しいと言われた。 流産してしまう可能性が非常に高い。 先生から断言されてしまうとさすがにショックだった。
お腹の子供が流れてしまう事は早期であればあるだけ母体の都合では無く、胎児自体の問題で流れてしまうんです。 そう記載された用紙を頂いたけど、この一週間安静にできなかった私の責任もある。 自業自得。 タメの断乳も完全には出来ていなかった。 授乳する事によって流産を引き起こしてしまったかも。 客観的に考えても今の私の体の状態で胎児が持つとは思えない。 絶望的だろう。 アレコレ考えたら涙が止まらなかった。 正式にはまだ7週5日だった。 胎児が育たない。 私の子宮は居心地悪かったのかな。 ごめん、ごめんね。 自分の体力を過信しすぎてお腹の子供をいたわってあげられなかった。
今は懺悔の言葉しか浮かばない。
さとしクン、ごめんね。 子供・・・守ってあげられないかもしれない。
2006年10月19日(木) |
資格を取ろうとしたのに(涙) |
ココ最近信念を持って取り組もうと思ってた事がある。
ホームヘルパー2級を取るぞ!!
福祉関係に勤めてたママ友akiちゃんのアドバイスもあったのも一つの理由。 でも、イチバンのきっかけになったのは 母の介護。 身体が不自由になった母のおむつ交換、体位変更、車椅子への移動。 関わる事全てが初めてだった時、正直、面くらった。 看護婦さんからレクチャー頂き、何度もトライしていく内に慣れてきてコツも掴めた。 人間知識を少し詰めると欲張りになるもので、もっとこうすればいいんじゃないか、こういった時にはどうすればいいのか。 失敗を重ねる度にもどかしさと戦い、専門的な知識も欲しくなる。
母の介護だけに限らず、いずれ子供も大きくなった時、職を求める時期が来る。 年齢が若ければ職も選べるけど、高齢になればなる程選択肢も狭くなる。 中高年になっても働ける職の選択肢のひとつとしても今資格を取るにはいい時期じゃないか。
国家資格でもないし、講座を決まった時間聞き、実務、実習を重ねればいいんだもん。 子供の手間がタメ一人の時に・・・。
週一回の通学で実家近くの市の養成講座を見つけ、タメを弟の嫁に預ける話も済んだ上で講座説明会に行った。
あえなく断念・・・。
理由は・・・妊娠中だという事。
講習、実務は難無く受講可能なんだが、一般企業や病院へ行き実際に働く実習が受けられないんだって。 産んだ後でも実習をする事は可能だけど、講座を受けて8ケ月以内に全てのカリキュラムを終了しなければ修了証書はもらえない。 お腹の子供が生まれるのは8ケ月後・・・・。
もろダメじゃん・・・(涙)
すごく、すごく、すごーくヤル気になってたのに・・・。
切迫流産の危険がある時期だし、おなかの子供を犠牲にしてまでする事じゃないしね。 本当にヤル気になれば出産後、育児が落ち着いたら出来る事。 (それまでヘルパーの講座があればいいが・・・)
がっかりしたけど、総合的に考えても・・・いや、考える間もなく(今回は)諦める事にした。
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