Food for Thought
DiaryINDEXpastwill


2007年01月07日(日) 低信頼社会

今後、現実の格差拡大以上に人々が格差感を強く持つという予測がある。この格差「感」社会は、別のなにか―「不信社会」のあらわれではないか。フランシス・フクヤマは1990年代半ばに、日本をアメリカ、ドイツと並んでの高信頼社会とし、フランス、イタリア、中国を低信頼社会とした。しかし、そのとき既に日本の高信頼社会の崩壊が始まっていた…とは、今日の日経の「今を読み解く」欄「格差社会が映す制度不信」。


新聞で、例えば子供用防犯ブザーやGPS付き携帯などの紹介記事などの書き出しはたいてい、「子どもを狙う犯罪が相次ぐ中…」である。
本当に多発しているのか?あるとき疑問に思い、ニュースを検索してみたら、畠山鈴香容疑者による秋田男児殺害ともう一件くらいしか出てこなかった。全然「相次いで」はいないのである。しかも秋田の事件は顔見知りの近所の人が犯人ということで、かなり特殊な例である。


子どもの学校でも親が順番でパトロールを実施している。もう、世の中不審者・変態がうようよしているのは疑いもない事実という前提になっている。学校から「不審者が出ました」という手紙をもらうこともあるが、大体は露出者のこと。そんなものは昔からいたし、小児性愛者・誘拐犯とは別カテゴリーだと思う。「不審者」でひとくくりにしてしまうとかえって現実が見えにくくなってしまうばかりか、余計な不安を煽り立ててしまう心配がある。

「子どもたちを守ろう!」ということには誰も反対しにくく、エスカレートしがちである。でも安全のために持たせた携帯で子ども自らトラブルに巻き込まれる確率の方が、誘拐される確率よりずっと高いと思う。

そんな折,『犯罪不安社会―誰もが「不審者」?』という本を見つけた。まだ読んでいないが、こういう視点や疑問はとても大切だと思う。


追加

子どもの防犯に関する特別世論調査
(2006年夏、内閣府政府広報課3,000人対象)

「身近にいる子どもが犯罪に巻き込まれる不安を感じることがあるか」 ある 74.1%

「防犯のために効果的と思う地域や家庭の取り組み」 防犯パトロールなど地域住民が行う防犯活動を盛んにすること 51.5% で最多。


2006年12月09日(土) ネット不信

ビジネス書の多読を勧める本を読んだ。今までいろんな本を買って、読み終わった瞬間は書かれている内容をぜひ活用しようと思うのだが、しばらくするとすっかり忘れてしまっていて、結局生かされない…を繰り返していたので、「読後のフォローが最重要」というこの本が参考になるかと。
とにかくメモを作り、繰り返しそれを読み、身につける、を習慣化することだそうである。これは参考になった。
ところで、この本の中でビジネス書の書評のメルマガをいくつかあげているので購読してみた。すると、そのうち二つのメルマガが、まさにこの本の書評を取り上げていた。単なる偶然かもしれないが、もしかしてみんなグルになって宣伝しいるのか?と不信感を持ってしまった。

よくあるアフィリエイトのブログも、自分で買っても使ってもいないものをいかにも知っているように紹介しているのを見ると、なんだかなあ、と不信感を持ってしまう。


商売ではないふりをして実はそう、っていうのは個人的にはフェアではないと思う。

信用はお金では買えないからねえ。

昔バリ島に行ったとき、とにかくどいつもこいつもぼろうとしているようで気が休まらず、非常にストレスフルだったのを思い出した。猜疑心を持たなければならない世の中はいやだなあ。


2006年10月12日(木) 手書きの効用

今では、アメリカの低学年で筆記体の学習にかける時間が1日10分以下になり、筆記体がかけない生徒が増えているとか。例えば、2006年にSATという、大学に入るための共通テストを受けた150万人のうち、筆記体で解答したのは15%、残りはブロック体で解答。
高校生になるとラップトップでノートをとり、宿題もパソコンでやる。
実際、大人になると筆記体が必要なのはサインするときだけだったりする。

手書きが苦手な子は、書く文章も短めで単純、という調査結果がある。
小さい頃から手書きがきちんとできると、自分の考えをより上手く表現できるようになる、ということを示す研究もいくつか出ているそう。

ヴァンダービルト大学のスティーブ・グレアム博士の研究では、1年生で1分間に10から12文字しか書けない子どもたちで実験。週に3回、15分間の手書きのレッスンを受けさせた。9週間後、書くスピードは倍になり、より複雑な考えを表現するようになった。文章構成のスキルも同時に向上したという。


うちの親世代くらいだと、学歴に関係なくみんなきちんとした文章や手紙が書ける。でも自分の同世代ではそういう習慣(?)はすたれてしまったようで、「ちょっとこれは…」と思う文を時々見かける。内容がどうこういう以前に、日本語の文としてちゃんとしていなかったりする。特に、人に何かをして欲しいという目的の文で「結局どういうことなの???」と不明瞭なものは、非常に困る。子どもが保育園に通っていた頃はよく署名集めの手紙がまわってきたのだが、あるときあまりに文章がひどい請願書がきた。内容自体には同意してもいいと思ったのだが、このめちゃくちゃな文に同意したと思われるのは不本意で、協力しなかったことがあったなあ。

適確に表現する技術、というのをぜひ国語でやってほしい。


2006年08月11日(金) 写真今昔

「日本写真保存センター(仮称)」を設立、日本の近現代をとらえた写真の保存活動に力を入れる構想を自民党の森山真弓衆院議員(78)が進めているらしい。ちなみに本人も無類の写真好で、いつもコンパクトカメラを持ち歩き、毎年個展を開いているとか。

 “カメラ付き携帯電話の普及などで写真文化のすそ野は広がっているが、「デジタルカメラの写真は加工もしやすいし、失敗したら消せばいいという気楽さがあるが、逆に昔の写真にあった『今撮らなきゃ』という緊張感が足りない」とみる。”(8月10日日経夕刊 「記者手帳」)

やっぱり、デジタルはありがたみが薄い。大勢が手にするようになると内容のクオリティは下がる。
株を分割したら株価が下がるようなものか(?)。


2006年06月17日(土) ありがたみが減る

日経夕刊の「プロムナード」欄に写真家の丸田祥三氏が執筆しているエッセイがなかなかいい味で気に入っている。廃墟とか懐かしい町並みなどの写真を撮っているからか、古い物に対する温かいまなざしが感じられる。

「フィルムカメラの思い出」という文章では、頑固な写真館の親爺が中学生の丸山氏に、「カメラが手軽になり、子どもでも気軽に扱えるようになったが、写真の価値は軽くしてしまってはいけないよ。数は撮らずに、一枚一枚じっくりと、心をこめて撮りなさい」と諭されるエピソードが出てくる。

これは一眼レフカメラの話だったが、そういえばデジカメを使うようになってからは前ほど写真を「大事に」しなくなったかもしれない。なんせフィルムがもったいないということがないから。

海外のオーディオ雑誌のコラムに似たようなことが書いてあった。デジタルオーディオプレーヤーなどに1万曲とか、とにかくたくさん入れて持ち歩けるようになった。すると、1曲1曲の扱いが軽くなってしまう。音質にもあまりこだわらない。レコードの頃のほうが、音楽を大事にしていたと。

便利になると、どうやらありがたみが減るようだ。


駿馬 |MAIL

My追加