あたりまえに笑って怒っての下書き用スペース
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2006年12月11日(月) |
読書メモ・アイデアメモ |
頭文化が過剰なヲタク
宮崎(89下巻) 古泉さん発言@AX ちょっとずつそのことに慣れるようにする。 ちょっとずつ練習をする。
自分固め
共有されてるニーズの交通整理役
あれもこれも良いことづくめの状況なんてないのでは? メリットデメリット
世界は下らないクソのようなものであり、かつそれと同時に世界はきらめきに出会えうるものでもある。
ときにはその極の一端が、ときにはその対極端の感性が浮かんで現われる自分の内にある精神の回路のしくみ。
二村ヒトシ氏の恋愛指南本は、「自分で自分の欲求や欲望のかたちをつかむ(どういう形でどういう種類のことをしたいのか)」を論旨の出発点におき、 それはおのずと関わりにおける相手のありようと自分の力量・容量をみつめる営みへとなるけども、 そのプロセスの一端としてのキャバクラやフーゾクの接しかたの位置付けを試みている。
ここで乱暴な飛躍をすると、いー年こいたオトナがアイドルにハマってうんぬんみたいな発言は正当だけど、 いー年こいたヲタクが、ヲタク市場のターゲットになる構図が成立している世界って、 その世界なりの教養(=ある程度の層に共有されている価値認識)しかない世界なのではと問い掛けたものの、 そんな器のヲタク状況になんざ興味はありません! というのはこれまたふつうのことなんだろうから、 その状況を照らし出すのはヲタク自身の仕事なのだろう。
なんか凄いのっぺりしてて、質感がどれも一緒なのは人間としてセクシーじゃないというか もうちょっとスケベな気持ち、人間であって欲しいというか、 人間に触るっていうのは、緊張するでしょう。そういうもんを音楽にも感じたいけど というようなことを言っていたのは豊田道倫だけど、 それは岸野さんいうとこの想定してないノイズ的な出会いに目がいったときの直観や判断力だったり、 ライブにおいて、お客さんの盛り上がりや音楽的なだけではない日常的な発見が欠けていたパズルのようにハマったりするために作っておく 少しだけの余白というウッドマンの意見や、 橋本治いうところの「自分の部屋に薔薇の花を持ってきてくれる人間の存在」だったりするのでしょう。
精神的にマジヲタめいてるというのは、自分の感情や理性めいたもの(要は自意識)に過剰ぎみにおぼれているという状態で、 それを癒すのは感情や自意識の過剰ぎみな存在を認めた上で双方のマッチングを目指す路線だろうけど、 岸野さんならバイトで海外のビッグスターにインタビュアーとしてバンバンあってごく日常的な話題ばかりしていた経験を踏まえて 「もっと毎日でも会って慣れたほうがいいって気がするね」と発言し、 ならば「会いにいけるアイドル」以上に距離の近いアイドルでしょっ(ビシィ ということで、 ロビータイム命なDDガッツキ厨なスタンスも自覚的に回数を重ねて、つき詰めてゆけば、 産業としてのアイドルシーンをフラットに照射しうる、というのは自己正当化の言い訳であり、 ひいてみれば葱を背負った鴨を目指すようなものではある。
でも、やるんだよ!(爆)
ソーシャルネットワーキングって、繋がるための皆との同席性の感覚であり、ひらたくいえば「馴れ合い」なのだろうかと、 捻れ気味の感性のフィルターを通せばソフトファシズムだ!と鼻息も荒くもなるが、 ならば佐藤伸治ばりに「みんなが夢中になって暮らしていれば、別になんでもいいのさ」とアナーキーなスタンスの一つでもとろうかというとこだけど、 楽しい居心地の良さが恋しく無いと切り捨てるのはムリが生ずるし、 なんだかんだも詰めれば結局は、良いかたちでいちゃいちゃしたいですよ、とあまりに子どもっぽすぎる意見であると承知しつつ そこに着地するけど、 個人主義なんてものが実在してるか知らないけど、それが実在しうるのは紆余曲折の生じうる平坦でありえない凸凹な状況での、 自分を持ってるどうでもよき趣味嗜好という気持ちの支柱がある景色のスケッチ作業であり、 どうでもいいからなんでもいいからはごくありきたりな価値相対論におさまる予感もよぎりつつも、 これだけは我慢できないなにかの確認の機会とそんな自分も興味を向けられる場面の更新と、 どうでもなんでもよきに追いやられうる各々の違いという大原点の確認の、 せざるをえないリロード作業なのかもですねん。
ブログ(ネット日記の演出機能) 金さえもらえればいくらでもいいことかけるって
暗いロック叫び(橋本治の89の文庫の下巻39ページ目)
常盤グラビア
湯浅ロック
分裂症的メタ内省
モチベーション不足 芯がぐらついてる 逃避欲
これは大いにワガママだと思っているが、気のあうかたちでのバカ話やしょうもない話とかができればと思っている。
■
二村ヒトシ氏の恋愛指南本の記述の核は、自分の中のイタさをふて腐れるでなく、傲慢かつ露悪的に開き直るでもなしに、それを肯定し的確な距離感で接っせられれば、現実の他人に接するときに、必要以上に臆病になったりエラソーになったりせずにすむという部分かもしれない。 114ページ
自分の内のもの欲しげな欲望目線もまたしかり。 そんな自分はバカなんだなあー、とふまえてそれを否定することなしに ときに表に出す試行錯誤を重ね、コミュニケーションの距離感を図るしかないだとうと。
その一方で一人合点のカラ回りの自爆、になるパターンはどんなものなのかとも考えつつ。
(黙って気味悪げなオトコより、なにを考えているのか分かりやすい男のほうが それは好感触であろうと)
■
極限状態・ネガティブさ(怠惰など)・中庸etcの精神的な位置づけ
中庸…暴論エンターテイメント的な極端な世界認識とは異なる
持ち場・場所 逃げ場
男は実用性
駄盤…ものごとの視点や味わい方の勉強?限度あり?
限界
感情(異議申し立て的な世界への反感など)に溺れる ↑ ↓ 外向きのモチベーション
「現状」からの出発 活字狂想曲的な構図 こだわり 振り切れない 揺らぎ
半端もの 世間知らず 未成熟 経験量足らず
こりをほぐす
片寄りぐあい(自分の)
それぞれの(相手)(自分)の短所(限界) ムカつきモヤモヤポイント(カチーンとついきてしまう)
自分の中のそういったネガティブな「感情」さえも、きちんとベターな形での固 めてゆく作業も時に必要。 そういったものが欠けてると、自分の内はフラフラぐらつきベターではないだろうかなと。
リエディット リチェック 文化 カルチャー 再チェック 再構成
迷惑・異なる立場 それぞれの不幸(軋轢 ジレンマ ハンディー・差 限界)
良いか悪いかはさておき(あるいは良くも悪くも
現実順応のため、ある種の極端な感じかたをボケさせる面もあり
サイケ・ファンタジー・ロックンロール←→中庸(世界認識観)
自分はどこまで妥協できるか(幅を広げられるか) あるいはどこから妥協できないかという自分のカタチの認識作業
■
ついなにか、ものを考えてしまう自分がいるのならば、 それを自分のために考えるという方向に向けたいもので。
「自分」と「その周囲」という環境の存在について。
ストレス・ジレンマ・プレッシャー… そして自分自身のスペック。
そういったものをベースに考えてみる思考方が気になっている。
■
カリキュラム・ノルマという外側によって設定されたハードルの存在。
あるいは、なんとなしに多数派の雰囲気で回るような世間であったり。
■ その齟齬からの焦りゆえのネガティブな思念 (自己へ否定的になりがちな自動的な思考(自動思考)のパターン(形)の分析と、その浮かびがちな思念をそれと気づくことで多少ゆとりが生じうるとの「人格改造マニュアル」(鶴見済)の記述
自分自身のモチベーションの認識=形づけがあいまいにもなりがち
経験
かつて自分が知人から受けたアドバイス 「広がり過ぎた思考を収束させる核は、経験によって養っていけると思いますので、若いうちはどんどん興味を広げてみて下さい。」
■ それらと自分のスペックの齟齬が生ずるケースも多々あろう。
読書、一人身のサブカル趣味による時間の消費
自己陶酔あるいは自閉的な 擬似恋愛やある種カルトな信仰めいた思念 自己完結型
橋本治「ナインテーズ」での女性がお酒を飲むことの意義づけ 「成長のためには時間は必要なので、お酒でも飲んでちょっと忘れて、 それをのんびりやりすごす方法」
■ 思念を言葉として文字として表現したのが文章だけど、 それはしばし、主観を情緒的に強調し、受け手の感傷をゆすり煽る形態で現われているのだと思う。
センチメンタリスムの強調も芸としてはアリとしても、 「芸としての高さ」と「実行性の普遍性」は必ずしもイコールじゃないと肝に銘じたいものだと思う。
趣味の輪での話題性と高さが、趣味の輪の外ではとるにたるものなんかじゃなかったと言われそうだけど。
趣味の輪の外の感性や実務へ費やされるべきでもあろう時間を気に留めつつ過ごせれば、と思う。
新鮮さ
(不器用すぎて自分の中だけの時間をためこみがちな貴方が、自分の外での恥をかくことの経験を過去形として見なおしたり、自分に欠けがちな皆と話せてわいわいいって楽しんでる様子を「新鮮だな」と見れるなら、今の自分の身の丈の器とその先の行動パターンがわずかであれ見えてくるのでは。 橋本治「青空人生相談所」)
■ 呉智英氏の「イジメ自殺」についての文章。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/29130/
人間のあいだの軋轢から生ずる感情を、過度なタテマエごとで縛りつけ自己をネガティブに位置ずける思念を防ぎ、 感情を怒りや知恵やコミュニケーションやレトリックへとまっとうに転換する、 自己のエモーションと環境のより的確な認識への意思の復権ではと僕は感じた。
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