あたりまえに笑って怒っての下書き用スペース
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■ ・TPO、空気を読む力・ゆとり
・自分の弱さ、クセ
・自分の弱点・長所を他者を比較し判断できうる材料をえるような場に身を置く機会の積み重ね、経験値。
■ たとえば、「恋のラブコメ妄想」は「恋のラブコメ」妄想としてありうるものだとしても、それと違う「現実の状態・ありよう」というものが、まずはあって、 ではお互いに(たしかに)存在してしまう「その類の妄想・願望」と「まずはある現実」との偏差をひも解こうとする。
「妄想・願望」の時間は時間として大切なものとして、 その反面の冷静さや淡々とした関係を築こうとするプロセスの時間づくりについて。
■ ・自分の弱点=個性の認識
・時間の経過、ゆとり、ふかん
・内向的なインプットぐせ
・外向への意識、スキルに気が回らない 引っ込み思案・不器用
・「したい、したい」から思考のプロセスをはじめ、自分の力・器の到らなさの認識へ
(そこから、お互いの長所を伸ばそうとする動機づけのほうへ)
・生活スケジュール法
・不要物(サブカル的)へのこだわり・・・時間による意識の変動(整理の方へ)
・意識の凝り〜身体の筋の凝りを伸ばすための意識づけ
■ 「ちゃんとしたオタクになる」「ちゃんとしてないオタクにとどまる」
そのいずれにしろ、大事なのは、その外のことをも考えに入れられる視野のクリアさであり、 その外側のことをこなせるスキル・能力・技能であるのならば、 それができていないという、臆病さ・不器用さ・引っ込み思案ぷりを、まずは認知して踏まえておくべきではと。
■ 学校教育やらプロパガンダやらコマーシャルやらが提示するタテマエ的な価値観
その価値観から、ある種の人はどれだけ距離を適度にとれるか、ある種の人はどれだけ過度にのめり込みがちになるか
2007年01月06日(土) |
(下書き)Snowflakeならこんな新年をどんなふうに歌うだろう |
2007年はラブソングの狂気と獣性と、それと同時に醒めた視点をも感じとろうとする年にしよう。
と、今日は思ったけど、3ヵ月後、半年後、359日後にどう思っているかは分かりませんなあ。
先日、松本亀吉さんのご好意によってmilk teensのCDRを頂きました。 ありがとうございます。
このmilk teensというユニットは、亀吉さんによる宅録実験ヒップホップユニットで、「好きなレコードの可愛いフレーズを記録して」編集製作したトラックの上にボソボソ呟くような亀吉さんのラップ・の・ようなものが乗るという構成。
一聴し私的にはキミドリやオーディオスポーツという日本のヒップホップ史に名を残すユニットが浮かんで消えたものの、ヒップホップというにはブロックパーティー感や4エレメンツやライミングというマナー=重力から完全に解き放たれている。
こんな僕でもときには友人の勧めなどで日本のアングラヒップホップに耳を通し、 「こういうのはカッコイイなあ」と感じることもあるのだが、 だからといって悪そうな香具師らは友達でもなんでもないし、 そういった文化の重力圏-黒いグルーブやらバトル=パーティー感からほぼ完全にぶっちぎれた私的で個的でちょい可愛ローファイソウルゆえにヒップホップじゃねえよと判定されても、ああオレB-BOYじゃなくて良かったという感じで、 これがヒップホップじゃないなら、それはそれで面白いじゃん! いや、このマナー=重力圏から逸脱まみれの私的で個的でレペゼンというには熱苦しくないフックを放つ世界観をも許容し生みだしえたヒップホップはやはり偉大なカルチャーなのだろうかしらん。。
さてこのCDRの感想を綴りたいのですが、 「1986」の叙情と客観と恨み節のトライアングルから義務教育の限界とそこからのオルタナティブな可能性に思いを馳せたり、 「カーネーション」の日常へのまなざし(複数解釈)の可能性の問いかけ(サビのフレーズはパラダイスガラージ豊田道倫氏も引用していた)から、(I LIVE FOR)CARS AND GIRLSならぬ「女の子(どんな娘が可愛いか、など)」と「怒り(陰口)」というテーマやら、「自分は男だとしった、君といてしった。君は女だと分かった、時間がたってわかった」というモチーフが従来の思想史には希薄だとしてもしようがないとしても、それがフォローできないのはそんな程度のものだと踏まえておいたほうがいいような気がしないでもないなどと、感想どころかとりとめのない独白になってしまいがちですが、このあたりのことは後日時間があれば書いてみたり公表したりしなかったりかもであります。
明日は18時半よりSnowflakeの新曲披露ライブがL@N赤坂にておこなわれるということで、ちょっと楽しみで行ければなあと思っています。
明日も仕事なので、夕方の職場を抜け出す機やその後の移動はちょい必死ぎみの行動になりそうですねん。
■ 14:34 性(恋)とは、個(自我)の崩壊であるという。
それはインテリ=ヲタク特有の「ものごと秩序だてて捉えたい願望(嘘パーフェクトな理論)」から反れるベクトルの感情だからだろう。
メジャーの意識を把握する健全な視野がなければ、とんでもないババを掴むことにもなりかえないというが、
それは「絶対に正当な人間が存在しうる」などという幼いイメージなどとは異なる、
日々の暮らしへの浸透力のあるセンスやスキルや基礎力を意識しつつも(標準・中庸・スタンダード)、
そこからズレている自分というオルタネイティブさを考えの立場にすえて、自と他の位置関連から意識のフォルダーの再構成をさぐるということだろうかなと思う。
■ 14:56 「自分は不幸になる途を自ら選んでいる確信犯のほうだから」と語るとある評論家氏が、
「戦後のある時期から‘平凡への強制′という教育方針がうすれてきた」という状況認識を出してたけど、
その問題は「センスやモチベーション(積極性)の弱き者…不器用さや引っ込み思案を抱えた者」が
どう意識のスタンスの幅を編んでゆくかというテーマの背景だろうかと思う。
たとえば、「自分は幸せにはなりたくないのか」「幸せをどう位置づけ捉えるか」という答えを一方に固定することなしに、日々バランスを考えてみるということだったり。
■ 15:02 慣例やマナーを支えるものは無根拠ではないかという価値相対論的考えがあるけど、
その無根拠さがリアリティー(浸透力)を保てるというのは、やはりなんらかのワケはあるのだろうから、
「センスやモチベーションの弱い自分」を我こそはポストモダンとばかりに、判断の基準に据えすぎるのはやはりいただけないかと。
■ 15:17 そうはいっても、モチベーションのスイッチがはいるきっかけとなる経験の重なり具合は、ある程度はまだしも、
やはり全世界の万人に100%共通して強制できる方策(ようは教育ですが)というのが存在しうるかといえば、かなり?で疑問である。
現行の教育的メソッドのベクトルからこぼれる人たち、たとえば世の浸透にかすり難い3流未満のアーティストやカリスマ的な人たちが、世の日常的な暮らしにおいてどこまでは許容できる(つまり自分の中に自分なりのスジというか折り合いをつけようというモチベーションを大なり小なり保てているか)どこからは問題となるか(前述のスジや折り合いという意識が希薄あるいは欠如している)というテーマを気にとめることは、呉智英氏の評論の本の処女作における管理社会(権力偏重)やファシズム・スターリニスム社会(愚情偏重社会)を回避するバランスをさぐるスタンスという命題にもリンクしうるように思う。
草食系キャラ-打たれ弱さ、コンプレックス、内向・自閉・分裂症的、躁鬱・へこみ
センス・スキル-日々の状況需要力・情動表出力(日常的なインプット・アウトプット)の鈍さ、弱さ
なにかに夢中になる感情・経験
理想的人間(原罪)論-世界の(相手の自分自身の)欲や情や愚かさを無いものとしたがり目を逸らしたがる性向に基づく価値観
劣位にあるものは、別の価値観を自律させるほか、先行するものと並ぶ途はないのである それはストックなき人々がマイペースで別のそれなりの豊さへ至る道である 状況ね不条理に制約され、出発点から不平等ながら、それなりの前進は確かに試みうる人間観に基づく道である。
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